第十八話 二五三年 密談
「いや、待たせて済まない李豊殿。とにかく最近は忙しくてな」
司馬師は自室に李豊を呼んでいた。
そこには石苞もいたが、それ以外には特に側近などもいない。
「石苞は知っているな? 将来有望な武将で、我が父が見出した者だが田舎者でな。見識豊かな李豊殿に色々と教えてもらおうと思っているらしい。殊勝な事だ」
司馬師に紹介されて、石苞は李豊に頭を下げる。
少なくともこの場には物々しさは無いものの、李豊は生きた心地がしなかった。
最近では司馬一族の権勢は天を突く勢いで、魏はほとんど司馬一族に掌握されていると言う状況だった。
この状況を打破する為に李豊は夏侯玄や現在の皇后の父である張緝らと共に、司馬一族を廃し、かつての権勢を取り戻そうと画策していたところだったのである。
しかし、その旗頭となるべき皇帝曹芳はまったく興味を示さず、相変わらず口にするのもはばかられる様な楽しみに耽っている。
正直なところで言うのでならば、曹芳では今後の魏を支える皇帝にはなり得ないと李豊も思っている。
それに関しては夏侯玄も同様なのだが、優先順位として司馬一族を排除する事を優先したのだった。
今では軍権を司馬一族が掌握しているので、司馬一族の息のかからない戦力を持たない李豊達としては、司馬一族を排除すると一言で言っても極めて困難である。
それをいかにするかと相談していたところで、李豊は司馬師に呼び出されたのだった。
「李豊殿? 何やら顔色が悪いが、体調を崩しておいでか?」
「いや、そんな事は」
と、言葉を濁す。
司馬師と李豊は政敵同士である事は、お互いに知っている。
だが、勢力に差がありすぎると言う事もあって、司馬師は常に李豊や夏侯玄は魏の重職を担う能力を持つ者、なんとか和解したいものだ、と。
もちろん口先だけだと李豊も夏侯玄も思っているのだが、司馬師にはそう言う懐の深さがある事も、また事実である。
思えば司馬懿にも、そう言うところがあった。
政敵であった曹爽陣営の武将を閑職へ追いやる事もなく、必要とあればしがらみなどまったく気にせず用いる人物だった。
それだけに懐に入る事は出来ても、排除すると言うのは極めて困難なのである。
「李豊殿を呼んだのは他でもない。是非とも李豊殿にも今後の魏についての考えを聞いていただきたいと思ってな」
「私の如き凡夫に何が出来ましょうか」
「謙遜されるな。当代の智者である李豊殿が凡夫であれば、俺も含め魏の男のほとんどが取るに足りない凡骨ではないか」
司馬師は笑いながら言う。
「何を言われますか。司馬師様は魏国の大将軍。その才覚たるや、魏に並ぶ者無く……」
「あー、そう言う世辞は良い。とにかく最近は失策続きだからな。我が身の才の無さを嘆き、石苞に愚痴っていたところだ。せめて我が父の十分の一でも受け継いでいれば、こんな無様な事にはなっていなかっただろうに」
司馬師は苦笑いして首を振る。
先年の東興の戦いでは呉軍に敗れたが、今年に入ってから呉軍が攻め込んできた時には合肥新城にて呉軍を撃退している。
それを司馬師は先の戦いでの失策は自分の失策であり、合肥での手柄は守将であった毌丘倹らと叔父の司馬孚のもので、自分のものではないと言う。
それは確かにそうかもしれないが、この時代では他人の手柄であっても自分のモノとする権力者は圧倒的に多い。
司馬師もそれを気付かせない様に、無欲を装っているだけではないかと李豊は警戒していた。
「それだけでなく、此度は弟を雍州に援軍を出したものの、蜀軍を撃退する事には成功したらしいが、徐質と郭淮、さらには協力を取り付けた羌族の主、迷当大王まで失ったと言う。それだけでなく、貴重な蜀の情報を流していた郭循までも失った。これ以上は無い痛手だ」
「しかし郭循殿は敵の大将軍を討ったとか。それは比類なき大手柄ではありませんか」
「それも郭循個人の大手柄。俺の手柄ではない」
司馬師の表情はまだ冴えない。
無理もない。
確かに大将軍である費禕を暗殺する事に成功したのは極めて大きいが、蜀の大将軍の近くにまで行けた為に詳細な情報を手に入れていた郭循を失ったのは、同じくらいに大きな損失である。
何しろ代役が効かない。
何をどう間違っても、夏侯覇が今後魏に戻ってくる事が無いので、蜀に残っている夏侯覇が郭循の代わりに情報を流してくれると言う事などあるはずもない。
今後はこれまでの様な詳細な情報を入手出来なくなったのは、確かに死活問題になってくる。
後任の大将軍に凡庸な人物が任じられれば良いのだが、それは有り得ないだろう。
「まず間違いなく後任の大将軍は姜維であろう。かろうじて撃退する事は出来ていると言っても、それは全て明確な勝利とは言えない、薄氷の如きものだった。しかも蜀軍の大軍ではなく、自身の管轄の州軍と羌族の援軍と言う混成軍で苦しめてきた者が、ついに蜀軍を率いてやって来る事になる。それが大事であるのは、李豊殿にも分かるであろう?」
「かの地には知勇兼備の陳泰将軍が守っておいでです。名将と呼ぶに相応しい実力をもっておられるので、安泰と申せましょう」
「そう簡単には行くまい。まずは郭淮の損失を埋める必要があるのだが、誰か適任と思われる者はおらぬか?」
司馬師の言葉に、李豊は眉を寄せる。
李豊が推挙する場合、それは旧曹爽派の武将と言う事になり司馬師には扱いづらいのではないか。
それとも、こちらに推挙させて勢力を吸収しようとしているのか、あるいは何らかの罪を被せて、その罪をこちらに連座させようとしているのか。
「そちらの石苞殿はいかがですか? 長らく毌丘倹将軍の副将を勤められていた実績のある御方。陳泰将軍の副将も十分に能う事でしょう」
「コレか。コレには中央の仕事を想定しているので、雍州には送る事は出来ない」
李豊としては良い案だと思ったのだが、司馬師は首を振る。
石苞はかなりの司馬派の武将であるので、取り立てると言うにも悪くなかったはずで、しかも失敗したところで旧曹爽派の面々は痛くも痒くもなかったのだが、司馬師にはすでに石苞の使い道を考えていたらしい。
「そう言えば、王経がいたな。今は何をしている?」
王経と言うのは、かつて曹爽が自陣営に引き込もうと贈り物をしたのだが、王経は曹爽と距離を取る為に贈り物を突き返してきただけでなく官職を辞して故郷に帰っていったと言う、かなり特異な経歴の持ち主である。
今は復職こそ果たしているものの、その特異な経歴と浮き沈みの激しい気性から大任は与えられていない。
一応今の王経は旧曹爽派でも司馬派でも無いと言える人材なので、失策を犯しても特に大きな痛手にはならない人物でもある。
「今は末席にて職務に励んでいるでしょう」
「ふむ。確かに扱いにくいところはあるが、若くして江夏太守に任じられた能力を持つ男。飼い殺すには惜しい。その能力を見極める為にも雍州に送ってみるとしよう」
「陳泰将軍はまだ若く、大将軍でそこまで扱いづらいと言うのであれば、さすがに手に余るのでは?」
これまで発言を控えていた石苞が、司馬師に尋ねる。
「いや、玄白はあれで人の扱いに長けている。郭淮からの教えもあるだろうが、優れた両親からも十分に資質を受け継いでいる様だ」
「閣下、士載はいかがです? 以前士載は南安の太守であり、陳泰将軍とも面識があります。姜維との戦の経験もあり、適任かと思われますが」
石苞は司馬師に提案する。
「士載には元凱と共に出来る事なら内政に専念してもらいたいと思っていたのだが、確かにあの軍才は眠らせるには惜しい。とはいえ、以前士載から提案のあった異民族対策の責任者として働いてもらう予定だから、今は雍州には置けんな」
「さようですか」
「だが、魏の事を考えると、もっとも優先して決めなければならないのは、郭淮の後任ではない」
司馬師はそう言うと、李豊の方を見る。
「なあ、李豊殿もそう思うだろう?」
「今は呉より蜀に警戒すべき時。それで考えるのであれば、雍州の後任人事より優先されるべき事案があるとも思えませんが」
「いや、最優先で決めねばならぬ事がある」
司馬師の目は、李豊を射抜いていた。
その時、李豊は完全に理解した。
自分は殺されるのだ、と。
「皇帝、曹芳の後任だ。あの愚帝を奉じていては、魏は内側より滅ぶ。皇帝に近しい李豊殿であれば、俺などよりよほど理解しているはずだが?」
「ば、馬鹿な! 皇帝を廃する相談など、家臣としてあるまじき事! 司馬師大将軍は謀反を起こすつもりか!」
「国を思えばこそ。むしろ、それは俺ではなく李豊殿や夏侯玄殿が命をかけて諫言するところ。それこそが国の忠臣とも言うべき行いではないか」
李豊は目の前が真っ白になるのを感じていた。
司馬師は全て知っていたのだ。
「俺は曹據殿こそ適任と思っていたのだが、郭皇后に強く反対されてな。李豊殿は誰が魏の為の皇帝に相応しいと思う?」
「な、何をたわけた事を! 司馬師、魏を私物化するのも大概にせよ!」
「私物化しているのは、お前らだ!」
怒りを顕にする李豊に対し、司馬師は怒号で返す。
「曹芳陛下は幼くして皇帝になられた御方。その時に名君へと教育して来なかったのは誰か! まして、今でも口にするのもはばかられる様な事に耽っていると言うのに、それを咎める事をせぬばかりか自らの権力の為にわがままを許す! それのどこが忠臣の姿か! 恥を知れ!」
司馬師に一喝されて、李豊は言葉を失う。
「俺はな、李豊殿。本気で貴公の能力を買っていたのだ。弟は夏侯玄を押していたが、俺はお前をこそと思っていたのだ、李豊よ」
司馬師は大きく溜息をつく。
「お前達の企み、この俺が気付いていないとでも思ったのか? だが、俺はそれが露見したと分かった後、私心を捨てて国の為に尽くしてくれると思っていた。それだけの能力があると信じてな。残念ながら、俺の見る目が無かったらしい」
「……おのれ、逆臣司馬師! 天下を我が物にするつもりか!」
「先ほども言っただろう? それはお前達の如き小人の企みである。貴様らは国の忠臣にあらず、十常侍、董卓らと同じ国を腐らす寄生虫である。駆除せぬ事には健康を害するからな。仲容、構わんから切って捨てろ」
「御意」
石苞は剣を抜く。
「一つだけ、俺の言葉を訂正し、お前が正しかった事を伝えておこう」
司馬師は李豊を見る。
「お前は凡夫だ。正真正銘の、な」
それが李豊が耳にした最期の言葉だった。
「して、仲容は次の皇帝には誰が良いと思っているのだ?」
切り捨てた李豊に興味を無くした司馬師は、石苞に尋ねる。
「おそらく郭皇后が推したでしょうが、やはり曹髦様が抜きん出ておられます。この方を除いては、他に候補などおられないでしょう」
血のついた剣を拭いながら、石苞は答える。
「やはりそうか。士季(鍾会の字)も同じ事を言っていた。お前の言うように郭皇后もな。そうしよう」
司馬師はそう応えて、切り捨てられた李豊を見下ろす。
「その前に大掃除だな。この凡夫だけではなく、曹芳を甘やかし自らの権勢を守ろうとした同様の寄生虫も駆除せねばならん」
この物語は……。
言うまでもなくフィクションなのですが、今回の様な密談は正史にも演義にもありません。
と言うより、李豊達のクーデター計画は計画していた部屋から出たとたんにバレて、バッサリ行かれてます。
司馬師が李豊の事を買っていたと言う事も、別に正史などには記されてません。
夏侯玄の事はかなり高く評価していたみたいですが。
今回名前の出た曹據ですが、この人は曹操の子供です。
血筋の代で言えば曹芳の次どころか、曹丕と一緒なので、ぶっちゃけ何歳なの? と言う候補でしたが、曹叡の郭皇后から強く反対されたみたいです。
曹髦が曹丕の孫なので、曹據は司馬師の同年代、あるいは年上だったのではないかと思われます。
そんな人を皇帝に置こうとしたと言う事は、司馬師は案外本気で魏を立て直そうとしていたのかも知れない、などと考えました。




