第十五話 二五三年 打つべき手は
鄧艾もすぐに本陣の異変には気付いたのだが、即断即決の鄧艾らしくなくここでは動く事が出来なかった。
本人の保身の為ではなく、明確な理由が幾つかあった。
一つには本陣の異変を知らせる兵が続々と流れ込んできた事。
とにかく情報が錯綜し、正確な状況を知る事が出来なかった。
徐質が裏切ったと言う報告が多かったが、実際に寝返ったと言う徐質を本陣で見た者はいなかったのが、鄧艾は気に入らなかった。
もう一つは山から回ってきた蜀軍の動きである。
もし鄧艾が司馬昭救援の為にこの拠点を離れた場合、蜀の一軍がこちらに来て物資を焼き払う事だろう。
そうなると司馬昭を救援出来たとしても、撤退するしかない。
それもあって、鄧艾は物資の守備を優先したのである。
それは先の呉との戦いの失態が鄧艾の中に残っていたからでもあったが、戦術的には間違った判断ではなかった。
朝になって本陣からの生存者はさらに流れ込んできて、鄧艾は改めて足止めされる事になり、まともに動ける様になるには予想より遥かに時間を要した。
それが一段落ついた時、鄧艾は自分の失策に気付いた。
「しまったな」
「どうしました?」
ほぼ不眠不休だった鄧艾が苦しげに呟いたのを、副将の杜預は聞き逃さなかった。
「蜀の姜維にしてやられた。下手すると雍州はまるごと姜維に奪われるかもしれない」
「どう言う事です? まだ司馬昭閣下が討たれたとは伝わっていません。おそらく鉄籠山に篭っているはず。胡奮将軍もついているみたいですから、そう簡単には敗れないでしょう?」
「それが問題なのです。おそらく司馬昭将軍も胡奮将軍も気付いているはずですが、将軍達に打てる手はありません。私達で何とかしないと」
「どう言う事です? 俺にはさっぱり」
「蜀の夜襲で本陣は壊滅、胡奮将軍が合流する事で司馬昭将軍は窮地を脱し、今は鉄籠山に篭って蜀軍に備えていると言う事ですが、蜀軍は敢えて守りに適する鉄籠山を空けて篭らせたのです。夜襲に対して大急ぎで救援に向かった胡奮将軍が、十分な物資を持って移動していたとは思えません。司馬昭将軍にしてもそれは同じ。かろうじて軍としての数は揃っているので蜀軍に一気に制圧される事はありませんが、蜀軍は最初から兵糧攻めが狙いなのですから、それなりの数で守る事など何ら問題にはならないのですよ」
もう一つ問題となるのが、兵の士気である。
何しろ優位に守る事の出来る場所である事は、指揮官でなくても容易に想像出来るし兵力もある。
無理に攻めなくても鄧艾の補給物資さえ届けば、十分に守る事が出来ると考えてしまう。
その考えが極めて危険なのだ。
一度その考えにとりつかれてしまうと、胡奮や司馬昭が攻撃を命じても兵が動こうとしない恐れがある。
おそらくは一戦が限界であり、姜維はそれを退けるだけで司馬昭と胡奮の軍を干上がらせる事が出来るのだ。
鄧艾が司馬昭達と呼応して挟撃すれば、おそらくは司馬昭の窮地を救う事は出来る。
そして蜀軍は別動隊の一隊で魏軍の物資に火をつけて、結局魏軍は撤退。
その後包囲された南安も蜀に降り、蜀から大軍が改めて魏に攻め込んでくる事になる。
その絵は見えているのだが、鄧艾にはそれを止める手立てが無い。
と、諦める訳にはいかない。
何としてもここから逆転の手を打たなければこの一帯は蜀に奪われ、いかに郭淮や陳泰と言えども苦戦は免れない。
「将軍?」
杜預が尋ねるのを、鄧艾は手で制する。
今にして思えばだが、最初から不可解な事があった。
あの郭淮や陳泰が蜀軍の動向には目を光らせていたはずなのに、援軍の要請があった時には南安を包囲されたからと言う事だった。
蜀軍の大軍が攻めてきたから、ではない。
郭淮は長らく最前線にいた名将であり、陳泰も文武に優れた智将と猛将を兼ねた極めて稀有な人物である。
その名将達が見ていたと言うのに、蜀軍が大軍で南安を包囲するまで気付かなかった。
そんな事があるのだろうか。
まるで何も無いところから、突然兵が湧いてきたかの様な不可解さである。
もちろん大軍が突然湧いて出てくるはずもないので、何かからくりがある。
「……そう言えば、郭淮将軍には何か妙な噂がありますよね」
杜預がまったく関係ない事を言い始める。
「噂?」
「ええ。何やら急に私腹を肥やし始めたとか」
「らしくないですね。郭淮将軍に限って、そう言う事はないと思いますが」
「でも、金銀財宝の類を集め始めているとか。ま、それで雍州が貧しくなっていると言う事はなく、あくまでも私財で集めているそうですよ」
「まったく郭淮将軍らしくもない。何か考えが……」
実戦で鍛え上げられてきた郭淮は、極めて合理的な行動が多く、司馬懿の影響もあってか生活はその身分に相応しくないくらいに質素である。
それが豪邸を建てるや贅沢をしていると言う噂より先に、金銀財宝を集めていると言うのが入ってきたのは、そんな質素な生活のまま物品のみを集め始めたのだろう。
かといって鄧艾の知る郭淮に、そこまで収集癖があった様には見えない。
「南安を包囲しているのは、蜀軍ではないのかもしれない」
「はい?」
鄧艾の呟きを、杜預は聞き逃さなかった。
「それじゃどこの軍ですか?」
「蜀軍であれば、郭淮将軍、陳泰将軍が気付かないはずがないんです。それが蜀軍ではなく西涼軍であれば? いかに両将軍でも目を向けていないところを見る事は出来ない。ですが、おそらく郭淮将軍はその可能性は感じていたはず。その為の金品なのでは?」
「まったく話が見えませんけど」
「とにかく、雍州方面軍と接触しなければこの戦は終わりです。ですが、私はここを離れる訳には」
「それなら俺が行きます。郭淮将軍は病らしいですから、陳泰さんに何を伝えれば良いんですか?」
蜀軍のいる中を突っ切っていく必要があるので、極めて危険な役割ではあるのだが、人並み外れた健脚瞬足の杜預が単身であれば、いかに蜀軍と言えど見つけられないだろう。
まして杜預も鄧艾と共に雍州で過ごしていた事もあり、方面軍の拠点についても詳しく知っている。
これ以上は無い人選だろう。
「極めて危険ですよ?」
「ここで司馬昭将軍に何かあったら、敗戦の責任を問われて結局死罪ですよ。それは義理とはいえ弟である俺でも変わりはありません。むしろ司馬師様は、その厳しさを周りに見せなければならないでしょうから、命懸けなのは一緒ですよ」
「では、陳泰将軍に伝えて下さい。南安を包囲しているのは蜀軍ではないと思われます。郭淮将軍と相談して、打開策を練って下さいと」
「了解。では、さっそく行ってきます」
杜預は不必要な鎧を脱ぎ捨て、最低限の手荷物だけを持って陣から出る。
自身も相当な武勇を誇る杜預ではあるが、だからと言って単身で蜀軍の軍を突っ切って雍州方面軍と合流しようなどとは思っていない。
後漢末期の豪傑であればそうしたかもしれないし、事実として魏の関所を五ヶ所も破って言った豪将もいたくらいだが、さすがにそれを真似ようと言うほど自惚れてもいないし、そもそも最初から真似ようとも思わない。
仮に手元に偃月青竜刀があり、名馬赤兎があったとしても、最初から馬に乗る事の出来ない杜預では真似ようがないのである。
杜預自身が望んだ事ではなかったが、鄧艾の妻で魏でも有数の行動力を持つ媛とも行動を共にしていた事もあり、山歩きにも慣れている事も幸いだった。
杜預は馬にも劣らぬ速度の健脚を持って蜀軍との接触地帯を走り抜け、その日の内に雍州方面軍の拠点に到着した。
「元凱? 何事だ?」
まったく予期していなかった来客に、陳泰は驚いて出迎える。
「鄧艾将軍より伝令です。今、魏の司馬昭将軍が鉄籠山にて窮地に陥っています。その窮地を救わんが為、雍州方面軍の力をお貸し願いたい」
「士載殿がその様な事を? 伝令はそれで間違いないか?」
「違いました!」
杜預は驚く程はっきりと答える。
「陳泰将軍に、南安を囲むのは蜀の兵ではないと思われる故、郭淮将軍と相談の後、打開策を練って欲しいとの事」
「南安を囲むのが、蜀軍ではないだと?」
「やはりそうであったか」
陳泰の元へやってきたのは、病床にあった郭淮だった。
見るからに顔色も悪く、明らかに本調子ではない事が分かる。
「将軍、起き上がって大丈夫なのですか?」
「子尚殿が窮地にあると言うのに、寝てはいられないだろう」
慌てる陳泰を、郭淮は軽く手で制する。
杜預も急いで肩を貸そうとするが、それも遮られる。
「病が伝染ってはいかんからな。少し離れているが、ここからで良いかな?」
郭淮は陳泰や杜預から少し離れたところから言う。
「士載殿は、南安にいるのが蜀軍ではないと言っていたのだな?」
「はい。俺にはよく分からないのですが」
「出し抜かれたと言う事か」
郭淮は何度も頷く。
「郭淮将軍には何か心当たりが?」
「蜀軍で無いとすれば、それは西涼の羌族しか無い。しかも南安を包囲するほどの大軍となれば、それは治無戴などではなく首領である迷当大王が出てきたと言う事だろう。私一人の勘でしかなかったので自信がなかったのだが、あの切れ者である士載殿も同意見であると言うのであれば、確信を持てる」
「将軍には何か良策がおありですか?」
「羌族の中で治無戴は優れた知略と革新的な考えを持ち、まこと油断ならぬ者。なれどそれ故に羌族の中では不信を抱かれている。それに対し首領である迷当大王は物欲に弱く、短慮な腕力自慢。この雍州方面軍を子尚殿の救援に向かったところで、その背後を治無戴から討たれ、救援の場所まで行く頃には正面に姜維、背後に治無戴ともはや救援どころでは無くなっているだろう。ここは、子尚殿を救う為にも羌族の方を対処する方が早い」
「それはそうかもしれませんが、だからと言って……」
杜預は言いかけて、ふと気付いて言葉を区切る。
それは陳泰も気が付いた事だった。
「郭淮将軍は、いつかこう言う時が来る事が分かっていたのですね。それ故に金品を集めていたと言う訳ですか」
「いつか役に立つと思っていた程度。もし使い道がなければ子供達に遺産として残してやれたと思っていたのだが」
苦笑いしながら郭淮は言うが、それが口ばかりで実際にはそんな事をしなかっただろうとは陳泰も杜預も分かっている。
郭淮であれば、このまま病に倒れたとしても集めた金品はいつか使う時が来ると言って、この雍州方面軍に遺しただろう。
「あとはいかにして迷当大王に近付くかだが……」
「それであれば、俺に一つ策があります。郭淮将軍には少々不都合があるかも知れませんが」
「なんの。この病床の身で役に立つのであれば、存分に利用するが良い。この雍州方面軍の総大将は陳泰、貴将なのだからな」
郭淮の言葉に、陳泰は大きく頷く。
「すぐにでも羌族から南安を解放し、司馬昭閣下の窮地を救ってみせましょう」
正史に無い戦いなので
郭淮は正史では普通に病死しています。
なので、この戦いには参加していません。
と言うよりこの戦い自体が正史とはちょっと違う戦いですので、郭淮の出番は無い戦なのです。
が、演義では活躍する事になる戦です。
どう活躍するかは次回となりますが、けっこういい歳になっていたらしく、演義では老将扱いに近いです。
同年代の夏侯覇はさほど老将扱いされてないのに。
で、演義でもここで鄧艾や杜預が活躍したと言う事はありません。
そこは完全に創作です。
そもそも杜預は多分、この時にはここにはいないと思います。
鄧艾の副将と言うのは私の勝手な創作ですので、多分この時の杜預は都にいたのではないかと思われます。
司馬一族の娘婿ですし。




