第十四話 二五三年 策の成果
徐質の部隊が蜀軍の物資を奪ったと報告を受け、司馬昭は本陣への帰還を許可した。
知恵者である司馬昭であったとしても、全てを掌握している訳ではない。
すでに徐質の軍が全滅しているなど知りようがなく、こちらの必勝の策の結果を伝えに来たと思っていた。
それが蜀の兵であれば司馬昭本隊の兵士達もそう簡単に受け入れたりしなかっただろうが、徐質の兵に偽装しているのは生粋の魏人である夏侯覇とその部下達である。
先頭を行く夏侯覇の部下達が蜀軍から奪ったとした物資と、徐質兵に扮した蜀の兵士達が司馬昭の本陣深くまで入った時、行動に移った。
司馬昭の直轄部隊は精鋭揃いだが、さすがに魏軍全体がその水準と言う訳ではない事は、蜀軍の誰よりも夏侯覇がよく知っている。
ましてこの本隊の兵が、徐質の兵全てを記憶していると言う事など有り得ない。
夏侯覇は本陣を急襲したのだが、それはこの一撃で壊滅させる事が目的では無かった。
出来る事ならここで司馬昭を討ち取る事が出来ればそれが最上なのだが、司馬昭の直轄部隊を相手にするには、この蜀軍との混成部隊二千程度ではいかに猛将の夏侯覇といえども厳しいのは分かる。
ここでの役割は混乱を起こす事。
理想で言うのなら司馬昭を討つ事だが、それだけではない。
魏の援軍であるこの軍は大軍である。
単純に数の勝負を挑んだ場合、蜀に勝ち目はないのだが大軍には大軍の弱点がある。
一つには補給物資の確保。
夏侯覇の目的の一つはそこだったのだが、残念ながら補給物資はこの本隊ではなく、さらに後方に補給基地を置き、それを鄧艾の一軍が守っていると言う事だったので断念せざるを得ない。
それが上手く行けば太祖曹操の起こした官渡の奇跡の再現だったのだが、魏では誰でも知っている伝説であり、当然司馬昭も知っているのでそれは警戒されて然るべきだったのも分かる。
夏侯覇は次の狙いに切り替える。
大軍であるが故に抱える弱点は、全体の制御が極めて難しいと言う事にある。
集団が大きくなればなるほどその全軍の指揮や意思統一は困難になり、それを一軍として機能させるには高度で濃密な訓練を必要とする。
それであっても、一度崩れ始めた軍はどれほど優秀な武将であったとしてもそう簡単に止める事は出来ない。
これも魏では知らない者はいない、赤壁の大敗である。
もちろんそれを体験した様な人物は残っていないので伝聞でのみ伝えられているのだが、天下でも五指に入る名将の中の名将である曹操をして崩れる魏軍を止める事が出来ずに大敗した。
司馬昭の能力が高い事は知っているが、それでも曹操を上回る事など有り得ない。
つまり、大軍が崩れるきっかけさえ作ってやれば、司馬昭がそれを止める事など出来ないだろうと言うのが狙いである。
官渡であれ赤壁であれ、さらに魏の戦では無かったとはいえ蜀の劉備が大敗した夷陵であれ、大軍をもっとも効果的に崩す事の出来る武器。
火。
人に限らず生物にとって根源的な恐怖を引き起こし、またその勢いにまかれれば生きる事を許さない猛威。
夏侯覇が司馬昭討伐にこだわらなかったのも、この武器があったからである。
徐質の兵を装っているので、その兵数は二千程度。
それに対して司馬昭の本隊は数万の大軍なのだから、まともに戦っても勝ち目は無い事は夏侯覇も最初から分かっていた。
用心深い司馬昭の本陣に火を着ける事も、本来であれば不可能な事だった。
しかし、可燃物を持ち込めるのであれば、不可能を可能にするどころか容易にすら出来る。
そんな有り得ないモノを持ち込ませたのが、姜維の策だった。
司馬昭は蜀軍の補給基地を狙う為に遅滞戦を挑んでいたが、その策を姜維は看破してあえて魏軍に鉄籠山に補給基地がある事を自然な形で知らせる。
大軍の弱点が補給物資である事は、何も魏や蜀で変わる事ではなく大軍共通の弱点であり、道理を好む司馬昭であればそれを狙ってくる。
そこで姜維は見つかる様に隠しながら、補給部隊を魏軍に見せていた。
通常であれば夜戦は光源の乏しさや同士討ちの危険から避けるものであるが、輸送されている部隊を狙うのであれば、成功させる条件は厳しいもののその見返りは極めて大きく、兵法を知る相手であれば逆に夜襲は成功させる事が出来る。
と、司馬昭に思わせた。
操られているとは思っていない司馬昭は猛将徐質に物資を奪う様に命じたのだが、それが失敗したと言う報告を魏軍は受けていない。
夏侯覇は徐質の兵を装う事で自らの兵を敵本陣に入り込ませるだけでなく、蜀から奪ってきた物資であるとして可燃物まで持ち込む事が出来たのだ。
あとは簡単である。
ある程度まで本陣の中を進んだところで木牛や流馬、車両などを走らせてそれらに火を着ける。
突然の出火に何が起きたか把握する兵など、そう多くない。
「反乱だ!」
「徐質の兵が寝返ったぞ!」
「裏切り者だ!」
「敵襲! 敵は兵に化けているぞ! 殺せ!」
火を合図に、夏侯覇と兵達は一斉に騒ぎ始める。
火の始末だけでも後手に回っていると言うのに、一斉に持ち込まれた誤情報にまで対応する事は至難である。
しかも夏侯覇は火の始末を優先しようとする兵や部隊を狙って攻撃し、火の勢いを強めながら裏切り者だ敵襲だ、と騒ぎ立てる。
可燃物満載の車両や木牛、流馬には竹も混ぜているので至る所で炸裂音も響き、混乱に拍車をかけていた。
その混乱が司馬昭の耳に入るまで時間はかからなかったが、それでも事態が司馬昭の手から離れるのはさらに早かった。
「何事か!」
大騒ぎになっている本陣の状態に、司馬昭は確認する。
「敵襲との事、失火もあって混乱しているようです!」
司馬昭付きの参謀である王韜が答えた。
「ならば、焦る必要などない。この様な奇策を用いると言う事は敵兵は少数であると言っている様なものだ。各隊に消火と敵襲に備えさせよ。それぞれの隊で消火と迎撃の班に分かれて行動すれば、少数の敵に焦る事などない」
さすがに司馬昭は冷静沈着に指示するのだが、それが現場に届く前に蜀軍の次の手が発動した。
正面から入ってきた夏侯覇が火を着けたのが合図であり、いわば成功の狼煙であった。
火が周り混乱が大きくなった頃には司馬昭も動き始める事は、姜維も十分に理解していた。
すぐに別動隊として夏侯覇と行動していた張翼が別の方向から、廖化と姜維が山を回って本陣後方から攻撃してきたのである。
本陣で広がっていく炎の対処もままならない中で、さらに四方から敵襲とあっては、いかに司馬昭と言っても混乱する本隊を指揮する事は出来ない。
「ここはひとまず直轄部隊のみを率いて鉄籠山を目指しては?」
参謀の王韜が提案する。
「鉄籠山?」
「蜀軍が補給基地にするほどの場所。守るに適した地でありましょう。今の蜀軍はこの奇襲に全力を注いでいるはず。であれば、敵の守備隊は少なく精鋭である閣下の直属であれば難なく奪い取れましょう。それから改めて体勢を立て直すのです」
「……うむ。そうしよう」
司馬昭は直轄部隊のみを率いて本陣を捨てて鉄籠山に向かう。
王韜の予想と違って鉄籠山方面に守備隊はいなかったが、逃げる司馬昭を追って蜀軍が追撃してきた。
補足されそうになったまさにその時、騒ぎを聞きつけた胡奮の部隊が救援に現れた。
「閣下! 胡奮、勝手ながら持ち場を離れて参りました。何事ですか?」
「胡奮、よく来てくれた。現状を把握する為にも、殿軍にて援護を頼む」
「御意」
司馬師に言われ、胡奮は自身の兵を率いて追撃してくる蜀軍の足を止める。
「蜀軍の者共! この胡奮が相手だ!」
大柄な体型の胡奮が、その体型通りによく通る声で吠える。
それを見て、蜀軍は足を止める。
それは姜維が止めたのである。
「姜維将軍、今をおいてその好機は無いのでは?」
夏侯覇が追撃を志願するが、姜維は首を振る。
「あの軍は士気も高く、はっきりした目的意識もある。しかも司馬昭の直轄と言う事はあの徐質と同等と見るべきだろう。ここは司馬昭と合流してもらった方が良い」
「合流? 鉄籠山は守りやすい地形で、あの数で本気で守られたらこちらも苦戦を強いられる事になる」
夏侯覇は強く姜維に提案するが、姜維は笑って頷く。
「それこそ私の狙うところ。あの軍が精強であり、徹底して守るつもりであれば彼らは自分たちの柩を強固に固める事になります」
「……恐ろしい方だな、貴方は」
夏侯覇は苦笑いする。
「それであれば、後方の補給部隊との連携は徹底的に断つべきだ」
「その通り。その為にも魏軍の本陣は完全に焼き払ってしまう様に廖化に伝えましょう」
念の為、形だけとはいえ張翼に胡奮の軍に矢を射掛けさせ、姜維は廖化に伝令を出すと夏侯覇と共に蜀の本陣に戻る。
そこには徐質との戦いで多大な被害を出した為に、残存兵力で留守居役を行っていた張嶷がいた。
「張嶷将軍、こちらに魏軍は来なかったですか?」
「こちらには来ていません」
と張嶷は答えるが、この数ではもし胡奮に攻められた場合には守りきる事は姜維や夏侯覇でも厳しいだろう。
「本陣の危機を聞きつけて、陣を捨ててでも援軍に向かったのだろうな。先の徐質にしろ、この胡奮にしろ、司馬一族はクソでもその旗下には勿体無いくらいの人材が揃っていやがる」
夏侯覇の言葉は、姜維もまったく同感だった。
司馬一族に関してはあずかり知らぬところはあるものの、この戦での徐質と胡奮はもちろん、雍州方面軍の郭淮や陳泰など、誰をとっても一級の武将であり蜀の武将達より質が良いと言わざるを得ない。
せめて夏侯覇がこちらについてくれた事だけは有難いとさえ思える。
それでも次の人材も育成しているはずと言う事を考えると、魏の攻略に時間をかけていたところで先細りになるのは蜀の方が早い事を姜維は懸念していた。
あの諸葛亮が結果を急いで北伐を繰り返したのも、あの天才にはその未来が見えていたせいである。
事実、現皇帝である劉禅には度々言って聞かせていたし、出師の表でもそれは記していた。
にも関わらず、蜀には魏と戦う事に否定的な意見が蔓延している。
魏を倒し、蜀漢による漢王室の再興。
その為にも、ここで司馬昭を討つ。
「胡奮が司馬昭を救援に向かったのは、やはり止めるべきでしたか?」
張嶷が不安そうに尋ねるが、姜維は笑いながら首を振る。
「いえ、それでは張嶷将軍の部隊にさらなる被害を出していたでしょう。それではこの本陣を失う事になりましたから、将軍が胡奮をやり過ごしてでも本陣を守ったのは正しい判断です」
「ですが、胡奮の兵は五千ほどはいます。アレで鉄籠山に篭られては厄介になりませんか?」
「五千ですか。私の想定より遥かに多いですね」
「まともに戦えば地の利がある分、向こうが有利ですな」
「その通り」
夏侯覇の言葉に姜維は頷く。
それを聞いて張嶷は不安そうな表情になったが、姜維と夏侯覇は笑顔である。
「私の想定より兵は多いですが、それ故に向こうの死期は早まったと言えるでしょう。廖化と張翼が戻り次第、次の段階に移ります。これが詰みの一手。司馬昭を討つだけでなく南安も、その後には雍州方面軍も叩き、この一体を蜀の領地とします」
ちょこちょこと出てくる張翼
正史では非常に厳格な武将で、趙雲の元で実戦経験を積んでいたり、姜維と仲が悪かったりします。
演義では元劉璋配下で、本当にちょこちょこと名前が出てくるだけの人です。
この物語では現在のところ後者ですが、決して能力が低い訳ではありません。
まぁ正史で暴走する姜維と本気で諌めて仲が悪くなりましたが、それでもなんだかんだ言いながらいつも姜維と一緒に戦場に出ている辺り、お互いに能力は認め合っていたと思われます。
そんな立派な武将なのに、演義ではモブ扱い。
多分、神がかった諸葛亮の後継者である姜維を引き立てる為でしょうが、この物語もベースは演義ですので今後の活躍は約束出来ません。




