第七話 二五二年 撤退戦
魏の前線の混乱は、まだ収まる気配を見せない。
胡遵の陣は、甚大な被害を出したものの混乱は収集しつつある。
問題は諸葛誕の陣だった。
密偵役を担った呂拠の手腕によって、いかに名将である諸葛誕であったとしても誤報からくる混乱は避けられなかった。
だが、諸葛誕が混乱を収集する前に、彼も予想しなかった大きな問題が発生した。
後方待機していた文欽が、諸葛誕の陣に突撃して来たのである。
あくまでも呉の者達を討つと言う名目であったのだが、それは同士討ちを拡大させるだけだった。
こうなってしまうと、だれが敵かも分からない状況となり、それを止める手立てがなくなってしまったのである。
「文欽! 何のつもりだ!」
諸葛誕が文欽を問い詰める。
「ああ? てめえの不手際だろうが! 敵を討つ邪魔をするな!」
「誰が敵か! 今戦っているのは魏の者同士ではないか! 兵を退けよ! お前は呼んでおらん!」
「そんなんだから後手に回るんだろうが! 構わねえ、手向かう奴は切り捨てろ!」
「待て! これ以上勝手をするのであれば、貴様を謀反の罪人とみなすぞ!」
「ああん? 罪人だと? 上等だ、コラ。てめえの無能を人のせいにしてるんじゃねえ」
「父上、ここは退くべきです」
諸葛誕と文欽では話にならないので、文鴦が間に入る。
この場で諸葛誕とやり合っても何ら益は無い事を、文鴦は気付いていたので父を止める。
このままでは諸葛誕が言う様に、こちらが謀反人になってしまう。
「出しゃばるな、鴦!」
「違います、父上。もっと危険な場所があるのです!」
文鴦が文欽を止める。
「最前線で混乱を招くと言うのはすなわち陽動。真の狙いはここではないと言う事です」
文鴦の言葉に、文欽も諸葛誕も耳を傾ける。
「文鴦と申したな。これが陽動であるとすれば、何を狙っての事だ?」
諸葛誕が文鴦に尋ねる。
「もし俺だったら、ここで混乱を起こした後、他の軍勢と合流して本隊を狙います。今なら前線の兵は混乱しているので、本隊が孤立した状態。少数の軍勢であったとしても、奇襲によって十分な戦果を挙げられます」
「見事。もし僕でもそうするだろう」
諸葛誕はそう言うと頷く。
「文鴦と言ったな。どうだ? 僕の配下に」
諸葛誕は髪を『ふぁさぁ』と払う。
「加わらないか? 君はこんな阿呆の元にいるべき武将ではないよ」
「ご冗談を」
文鴦はそう言って断りを入れる。
「我ら後方待機の部隊であれば、ここは前線の混乱の収集より、今は本隊の守りに付くべきです」
「本隊か。……司馬一族を守ると言うのは気に食わんが、負けるわけにはいかんからな」
「待て、文欽。貴様、混乱を招いた事に対する謝罪くらいするのが筋ではないか」
「その旨、この戦が終わりましたら改めて」
また揉め始める前に、文鴦が遮る。
文鴦の機転によって文欽を遠ざけてから、諸葛誕は瞬く間に前線の混乱を収める。
呉軍の兵は適度に混乱を招いた後はこの陣を離れていたらしく、魏軍は勝手に同士討ちをしていただけであった。
それは甚大な被害を出した胡遵の価千金の情報であり、石苞によって無事に脱出した後に諸葛誕に直接届けられたものだった。
油断から大き過ぎる被害を出してしまったものの、胡遵も一級の武将である。
その情報を諸葛誕に伝えた時には、呉軍の狙いも看破していた。
この頃には胡遵や諸葛誕だけでなく、後方の本隊にいる司馬師や鄧艾も分かっていた。
魏軍がここまで強行軍でも軍を進めてきたのは、主戦場になるであろう場所の中で、この地に陣を敷くのが目的だった。
先にこの地に陣を敷く事ができれば、東興郡の城を封じ込めると同時に、呉軍本隊はそれを救援する為に魏軍の目の前で渡河する必要がある。
その圧倒的優位の地を、魏軍は先に抑える事が出来た事がこの油断につながったと言える。
それに対しての、呉の奇襲だった。
この奇襲は、魏に打撃を与える事が本来の目的では無かった。
魏軍が混乱し、前線で一時的にでも機能を停止させる事が目的であり、魏軍がようやく混乱を収めたその時には呉軍は渡河を済ませ、改めて陣を敷く事に成功していたのである。
それが分かった後、司馬師の決断は早かった。
全軍に撤退の命令を下したのである。
もちろん魏にはまだ戦うだけの余力はあったのだが、機先を制され勢いを止められた事を、司馬師は重く受け止めた結果の命令だった。
が、撤退を始めた時、魏軍の武将達は呉の総大将である諸葛恪の真の狙いを知り、驚愕する事になった。
「侮っていたな。諸葛恪、これほど切れる者だったとは」
司馬師ですら苦々しく言うほど、呉軍の奇襲は見事なものだった。
本隊を渡河させると言うのが本来の目的だった、と魏軍に思わせるところまで呉軍の策であった。
司馬師がすぐに撤退を命じたのが呉軍にも予想外だったかもしれないが、諸葛恪はすでにそこに手を打っていた。
奇襲部隊と共に来ていた呉軍の武将の一人である朱異だが、彼は魏軍に混乱をもたらす為の動きをせず、自身の小隊のみを率いて別働隊として動いていたのである。
そして、鄧艾が敢えて追わなかった丁奉も、魏の前線に混乱を招いていた部隊と合流するのではなく、この別働隊と合流していたと言う事も分かった。
本来この別働隊は、最後の最後に現れる部隊だったのだろうが、司馬師の即断によってその正体は早めに知れる事となった。
朱異達別働隊の、そして呉軍奇襲部隊の本当の目的、それは魏軍の退路を断つ事だったである。
魏軍がここまで進んできた道にも、大きな川があった。
そこに浮き橋をかけて進軍していたのだが、朱異によってその浮き橋を破壊され、退路を絶たれた状態に陥っていた。
結果論で言うのであれば、これは防げたかも知れない。
鄧艾達が予備戦力として当初の配置のまま後方に待機していれば、朱異の小隊では浮き橋の破壊は不可能だったはずなのだ。
が、それを今更言っても仕方が無い。
「伝令を出す。諸葛誕に呉軍本隊に備えよと伝えろ。諸葛誕の後方に文欽がいたはずだが、文欽の部隊には別働隊の毌丘倹の元に合流し速やかに撤退を伝えろ。その際、合肥新城に入りそこを守る張特と共に城を守る様に。別の者に王昶にも撤退を伝えよ。俺達本隊であの小隊を打ち破り、浮き橋を戻して退路を改めて作る。急げ!」
司馬師の命令はすぐさま各部隊に届けられたのだが、呉軍の諸葛恪の動きは早かった。
自身が率いる呉軍本隊は一気に前進して諸葛誕の部隊とぶつかると、本隊から増援した留賛と呂拠の部隊に諸葛誕をやり過ごして司馬師の本隊を狙わせる。
さらに東興の城からも兵を出し、諸葛誕の側面から攻撃を仕掛けさせた。
数の上ではまだ魏軍と呉軍の間に差はそれほど無かったのだが、仕掛けた策がことごとく機能している呉軍と、対応が後手に回り士気の落ちた魏軍では勝負にならなかった。
最前線では諸葛誕と胡遵と石苞が、本隊の指揮を司馬師が、さらに別働隊として現れた呂拠に対して鄧艾がそれぞれ奮戦したが、司馬昭が退路を確保した時には魏軍はほぼ総崩れとなっていた。
朱異と丁奉は、司馬昭が新たに作った退路を無理に断とうとはしない。
総崩れ状態となって退却する魏軍とは言え、それでも奇襲の小隊である朱異達と比べるとその数はとても太刀打ち出来る数では無い。
朱異と丁奉は、無理に本隊を止める様な蛮勇は振るわず、退却の際に足の遅くなる兵糧や武具などの物資を狙った。
それを守る為に鄧艾らは勇戦したが、司馬師からの撤退命令によってそれらの破棄が認められると、それらを捨てて逃げる事にする。
この戦は、魏軍の敗北に終わった。
失った兵馬や奪われた物資は多大であり、韓綜や桓嘉ら数名の武将も失うと言う、まさに惨敗であった。
そんな司馬師達を待っていたのは、皇帝曹芳とそこに取り入った李豊や夏侯玄の蔑んだ目だった。
「大した戦果でしたな」
李豊がそう言って出迎えると、司馬師は肩を竦める。
「全くだ。呉軍の強さ、机上のみではなく肌で実感した。武帝以来、魏は呉に戦で勝った事が無いのも頷けると言うものだ」
司馬師はそう言うと兵に解散を告げ、武将達にも後日招集するまでの休養を与えた。
「休養とは悠長な事を。事の重大さが分かっていないのですかな?」
「お待ち下さい。此度の戦、大将軍の英断が無ければさらに被害は拡大し、全滅もありえました。責があるとすれば、それは前線に出ていた我らにあります」
司馬師を責める李豊や夏侯玄を見かねて、旧知の仲である諸葛誕が間に入る。
「庇い立ては無用だ、公休。夏侯玄の言う通り、事の重大さは十分に理解している。此度の戦の為に陛下から大将軍の座を頂いたが、俺はその責務を果たせなかった」
司馬師は堂々と李豊や夏侯玄と向かい合う。
「良いか、皆の者! 此度の敗戦、全ての責はこの司馬師にある! 俺が皆の意見を聞かずこの戦に踏み切った事、それこそが敗戦の最大の要因である! この敗戦の責を戦った将達に科す事、この司馬師が許さぬ! 命をかけて戦った者、命を落とした者の名誉を汚す者は、この魏におるまいな!」
敗軍の将を自認しているとは思えないほど、司馬師は堂々と宣言する。
この言葉に、前線で混乱を招いた胡遵や諸葛誕は救われる思いだった。
もし敗戦の責任を問われる事になれば、まず最初に名前を挙げられるのが胡遵や諸葛誕だったはずなのだ。
わざわざ石苞が敵の奇襲があるかもしれないと報告に来たにも関わらず、その事への警戒を怠った結果、混乱を招いてしまった。
場合によっては死罪にも値する失態である。
が、司馬師はそれらの責を一身に受け、他の武将の罪は一切問わないと宣言したのだ。
「全ての責はとおっしゃいますが……」
「無論、俺は大将軍を辞する」
李豊はまだ食い下がろうとするが、司馬師が先に言う。
「おそらく呉の諸葛恪は、この余勢を借りて攻め込んでくるだろう。後の対策は、後任の大将軍として李豊、お前を推挙しておこう。見事、呉の諸葛恪を撃退するに違いないからな」
「お、お待ち下さい! 大将軍と言う地位は、それほど簡単に動かせるものではありません」
李豊は慌てて司馬師に言う。
「それに、大将軍として責任を取ると言うのであれば、ここで投げるのではなく、呉に勝利する事こそが責任の取り方ではありませんか?」
慌てる李豊に、夏侯玄が助太刀する様に続く。
「ふむ。それが大将軍としての道であると俺も思っていたのだが、それを認めると言う事だな?」
本来李豊や夏侯玄は司馬師を追い落とす為にここへ来たはずだったのだが、逆に司馬師の立場を強化する結果となった。
「ですが、次もまた敗れる様な事になれば、それは大将軍としての資質に欠けると判断するが、それは覚悟の上でしょうな?」
苦し紛れとは言え、夏侯玄は司馬師に反撃する意味も込めてそう尋ねる。
「無論。諸葛亮ならばともかく、諸葛恪如きに何度もしてやられる様では大将軍など務まらない事は俺が一番よく分かっている。だが、それよりもまずは諸将に休養を取らせる。先にも言った通り、近々呉は攻めてくるだろう。その時の為にも戦える準備をしておかなくてはな」
司馬師はそう言うと、それ以上李豊らの相手をせずに進んでいく。
残念ながら李豊らもこれ以上司馬師の足止めをする材料も無く、自ら司馬師を大将軍と認める様な事を言ってしまったのだから、止めようもない。
後日、今回の戦の論功が行われた。
敗戦であるのだから誰も賞される事は無いはずだったのだが、ただ一人、石苞だけは恩賞を与えられた。
彼は呉軍の奇襲を看破し、また混乱する前線の回復に勤め、敵将から胡遵を守り、魏全軍が撤退するまで殿軍として呉軍と戦い続けた事を表彰され、長らく毌丘倹の副将だったのだが、ついに同格の将軍となったのである。
「ついては、しばらく都に留まり、新たに石苞軍を編成する事になる」
その報告を受けた石苞は、複雑な表情をしていた。
「敗れた戦で昇格と言われてもな」
「……仲容さん、生きてたんですね」
「あ? 元凱、どう言う事だ?」
首を傾げる杜預に、石苞は凄む。
「いえね、歌う大男に切られたとか、ちょっとどう言う事か分かりにくい情報が入ってきたもので」
「……まぁ、歌う大男と戦った事は事実だが、この通り切られてないぞ」
「その事実を知らしめる為にも、受けておきましょうか」
鄧艾は苦笑いしながら言う。
「前線である合肥新城に残った毌丘倹将軍も喜んでくれますよ」
そう言う鄧艾らの説得もあって、石苞はそれを受け将軍としての位を上げる事となった。
もちろん、司馬師の真意を知らぬままに。
史実とは若干違います。
この物語では毌丘倹や文欽は撤退先に合肥新城に向かった事になっていますが、史実では一旦都に引き上げてます。
また、李豊や夏侯玄が司馬師をつるし上げていたかは定かではありません。
けど、この人達ならやってそう。
ちなみに司馬師がこの敗戦の責任は自分にあると言って他の武将を庇った事は、史実にもあります。
司馬一族はめっちゃ悪い人の印象が強いのですが、司馬懿にしても司馬師にしても、敵に容赦が無かっただけで、かなり人望があった人です。
前回名前だけ出てきた朱異は、史実でも魏軍の退路を断つ為に浮き橋の破壊工作を行ってます。
今回の出番は超地味でしたが、この先再登場の機会はあります。
多分、また超地味になりそうですけど。




