第二話 二五二年 内務
今の時点での司馬師は撫軍大将軍と言う役職で、司馬懿の後継者だからと言って太傅に据えられている訳ではない。
また、撫軍大将軍と言うのも大将軍を補佐する役職の一つであり、以前の司馬懿ほどの権力がある訳ではない。
と言うのが建前なのだが、実質的に司馬師が魏の全権を掌握していると言っても過言ではない状況だった。
その絶大な権力に付随する様に、司馬師の執務室には実に種々雑多な案件が持ち込まれ、とても軍事のみに集中出来る状態ではなかった。
元が農政官の鄧艾が呼ばれたのも、こう言う内勤の出来る者が欲しかったのだろう。
もし軍事力を強化すると言うのであれば、鄧艾ではなく郭淮や陳泰の方を呼んでいたはずだった。
また、副将の杜預も自称文官と言うだけあって、内勤こそ腕の見せどころと言わんばかりである。
内勤の様な数字に関わる仕事をしていると、今の魏はやはり出費が目立つ。
明帝の時代では、主に大規模な土木工事による出費が痛手だった。
これには明帝の先祖を思う気持ちがあった為、司馬懿もそれを認めていたらしい。
しかし、少帝曹芳の代になってからの出費は異なってくる。
まず戦費が嵩んでいる。
曹爽による蜀遠征の失敗を始め、雍州での異民族反乱からの姜維の侵攻、曹爽の反乱、未遂とは言え王凌の乱。
鄧艾達のいた雍州にまでは話が伝わらず、またその時にはそれどころではなかったと言う事もあるのだが、二五0年には呉に侵攻しようとして失敗したと言う記述もあった。
それらを賄うための税収なのだが、異民族の襲撃などもあり、中央の想定より少なくなっている事も問題だった。
「こう言う事もあって、司馬師様は解決させようとしている訳ですか」
杜預は書簡を見ながら言う。
「何か良い手はありますか?」
「そうですね、古典的ではありますが、ここは武帝に倣うのが一番だと思いますよ」
鄧艾は様々な書簡に目を配りながら、杜預の質問に答える。
そして、やはり無視できない出費として出てきたのが、曹芳の浪費癖とも言うべきあからさまな無駄遣いである。
明帝時代の出費は、多額ではあったが用途がはっきりしたものであり、それだけに批判もあった。
それと比べると曹芳の出費額自体は、先帝と比べるとまだ少額であると言えるかもしれない。
だが、それが何に使われているのか分からない出費である事は、むしろ大きな問題に発展しかねない危険があった。
それに不可解なのは、後宮の人件費である。
働いている者達の数だけで言えば微増程度のはずなのだが、かかる人件費は大幅増で、この二、三年は特に顕著だった。
「良くないな、コレは」
鄧艾は書簡の数字を見比べながら、呟く。
良くない噂と言うモノは人が好む話題の一つであり、伝わる広さと速さは別格である。
事実、後宮と言う一般的には知られざる場所の事でありながら、そこに近いとは言えなかった鄧艾ですらそんな噂を耳にするくらいだ。
それでもただの噂だと強弁する事は出来た。
それが事実でなければ。
「将軍、何か?」
「でも、これは私達がどうにかすると言うより、もっと上の方で解決してもらう事にしないと」
「……マズイ事ですか?」
「マズイ事ですね。コレは司馬師様に投げても怒られないでしょう」
皇帝が関わる様な事を、一介の将軍がどうにか出来ると言う事は無い。
報告ついでにその事を司馬師に伝えるくらいしか、鄧艾に出来る事は無かった。
「おーい、やってるかー」
今、鄧艾と杜預が執務室でほぼ監禁状態に近い状況を作った張本人である司馬師が、呑気な声を掛けて執務室に入ってくる。
「正月はゆっくり休めただろう? その分頑張ってやってるだろうなぁ?」
「やってます。ほぼやらされている感じで、やってます」
「結構、結構」
杜預は恨みがましい様に言うが、司馬師はびくともしない。
この辺りは、まだまだ格が違うと言うべきだろう。
「でも、この部屋は男臭いな」
「そりゃそうでしょう。俺と将軍しかいないし」
「そこで、だ! 仕事の効率を上げる為にも、女っ気を差し入れに来たぞ! さすが、俺! お前ら、感謝しろよ」
と言って司馬師が連れてきたのは、媛だった。
「何だ、奥方様か」
杜預はそう言ったが、それに対して媛は少し疲れた様にため息を付いただけだった。
「あれ? 奥方様、らしくないですね」
「もう一人の奥方様がね」
「元凱様ぁ、お勤めご苦労さまですぅ。お兄様がぁ、元凱様を助けてやってくれってぇ。だからぁ、お手伝いに来ましたぁ」
見慣れない長身の女性が、本当に楽しそうに媛の後ろから現れた。
言葉の内容から杜預の妻で、今は亡き司馬懿の末娘、司馬師の妹である司馬氏であろうと事は分かる。
が、ちょっと予想していた人物とは違った。
「元凱様のお役に立てるならぁ、私頑張って応援しますぅ」
「おお、有難う。ヤル気出たよ」
杜預は本気で喜んでいるが、媛は深いため息をついた。
「……会わなくても良かったかも」
「……みたいですね」
見るからに媛が苦手そうなので、鄧艾は敢えてそこには触れない様にする。
「おーし、じゃ、あとはよろしくー」
「あ、司馬師様、お待ち下さい」
司馬師は妻二人を連れてきただけで去っていこうとするので、鄧艾は慌てて呼び止める。
「何だ? 息子はダメだぞ? さすがに仕事の邪魔になるだろうからな」
「いえ、そうではなく宿題の方に進展がありましたので少し報告を」
「ほう、早いな。聞こうか。女共と元凱は外すか?」
「いえ、さほど問題のある事ではありませんので」
鄧艾がそう言うと、司馬師は執務室に入ってきて、適当なところに座る。
実質的には大将軍であるのだが、こう言う気を使わないところは司馬師と言う人物なのだろう。
「で、宿題はどれの報告だ?」
「異民族の被害についてです」
「ほほう、割と難題だと思うが。今の大きな問題は并州の右賢王を称する劉豹が率いる匈奴の一族。だが、討伐となった場合には先の公孫淵と同等の出費となるぞ?」
司馬師はそう念押しするが、鄧艾は首を振る。
「以前も言った通り、討伐は最良とは思えません。匈奴だけでなく烏桓族や羌族、さらに言えば蜀は南蛮、呉は越族と魏に限らずそれぞれに異民族を抱えています」
「その通りだな、続けろ」
鄧艾の言葉に司馬師は大きく頷く。
鄧艾が司馬師に説明した様に、一口に異民族と言ってもその種類は雑多である。
また、広い国土がある魏がその種類は多いものの、蜀にしても呉にしてもそれぞれ異民族には悩まされてきた。
魏がそうであった様に、呉も異民族である越族に対して討伐と弾圧を繰り返してきた。
その結果、呉と越族との関係は悪化の一途をたどり、その緊張状態の為に呉では優秀な人材ほど越族対策の方に回される事となった。
呉の大都督は、魏や蜀に対抗するのと同等以上の戦力を越に対して備えねばならず、それに伴う戦力不足から防戦を強いられる事が多かった。
一方の蜀は、天才軍師諸葛亮が弾圧の愚かさを早くから悟り、しかも制圧の難しさも漢の再興と言う最優先の目標を大きく遅らせる事になると言う理由から、お互いに不干渉と言う取り決めの同盟を結び、当面の脅威を抑える事に成功している。
これは得るものは無いが、失うものを無いと言う互いの妥協点としての対策と言えた。
その諸葛亮より圧倒的に早く異民族問題に注目し、解決に向けて着手していたのが武帝曹操である。
官渡の戦いにて袁紹を下した後、武帝はそこでよしとせずに一気に烏桓を平定するに至った。
武帝は烏桓族を異民族ではなく、同じ漢民族として迎えて平定する事を考えていた。
それこそ根本的解決だったのだが、それは完全には上手くいかなかった。
武帝のあまりにも革新的な考えに家臣団の足並みが揃わなかった事や、当時の漢の不安定さから武帝がその問題にのみ注力する事が出来なかった事などか重なり、公孫康にその近辺を収めさせると言う、蜀の諸葛亮と同様の手を打つに留まった。
もっとも、公孫康はともかくその息子である公孫淵が欲にかられて反乱をおこすきっかけとなった訳で、結果だけで言うのであれば失敗だったとも言えるかもしれない。
だが、それはあくまでも公孫淵に問題があったと言う見方も出来る。
事実、魏の極めて優秀な騎兵は武帝に協力的だった烏桓族によってその礎を築き、今尚騎兵の強さを支えている。
全体としては無理でも、一部では魏と異民族は友好関係を築けているのは間違いない。
鄧艾が目をつけたのはそこだった。
最終的には異民族と言う言葉そのものを無くそうとした武帝だったが、誰しもが認める異才の持ち主であった武帝と同じ事をしようとしても失敗するだけである。
「そこで、次の、あるいはその次の若い単于(異民族の首領)候補を魏で教育し、武力こそ最上の価値であるとする考えを再教育するところから始めるのが良いかと思われます。匈奴も劉豹の元に一枚岩と言う訳ではなく、反乱を起こされているとも聞きます。その反乱勢力を魏に迎え入れ劉豹の弱体化を図ると共に、魏は異民族の受け入れを勧めていると見せる事こそ、武帝の目指したところへ続く道ではないでしょうか」
鄧艾の献策は、言うなれば人質である。
魏に従うというのであれば人質を出せ、と言えばおそらく異民族の首領である単于達は人質を出すだろう。
が、それではただ保身を約束するだけに過ぎない。
それぞれの部族の為に、魏で学ぶべきところは学び、部族の為に知識を持ち帰る。
その為の教育を施すので、そこに興味があるのであれば魏では異民族でも受け入れるとすれば、ただ人質に出せと言うより集めやすくなると言う詐術とも取れるやり方ではある。
が、実際に魏で学び知識を得れば、ただ武力だけで魏と言う大国と戦う愚かしさにも気付く事だろう。
もし魏が弱体した時には異民族に反乱の力を与える事にもなるが、だからこそ魏の中枢はその考えを起こさせない為にも、強く豊かな魏である事を考え続けなければならない。
そう言う意味では、一挙両得とも言える策である。
「素晴らしいですわ!」
と、司馬師ではなく司馬氏の方が喜びの声を上げる。
「それでしたら、御姐様の様な、貧しくも賢い異民族の方々がたくさん来られるのですね! まぁ、なんて素敵な事でしょう!」
「……いや、私、御姐様違うし、貧しくないし異民族でもないんだけど」
媛は疲れた口調で呟いたが、舞い上がっている司馬氏には聞こえていないみたいだった。
「奥方様、異民族だったんですか?」
「違うわよ。生まれも育ちも荊州よ。ついでに言えば、ちゃんとした役人の娘だったから、そんなに貧乏でも無かったわよ」
とは言うものの、さすがに司馬一族とは比べ物にならないのはやむを得ない。
「……いいな、それ。さっそく手配しよう」
司馬師も大きく頷く。
「なるほどなるほど、確かにそんな手は有りだな。正直、どう討伐してやろうかとばかり考えていた」
「司馬師様、ちょっと」
執務室から出ていこうとする司馬師を、鄧艾は呼び止める。
「何だ? さっそく褒美の請求か? 気の早いヤツだ。ちょっとこっちに来い。士載を借りていくぞ」
「はぁい」
と、何故か司馬氏が返事をする。
次の話は人に聞かれたくない話である事を司馬師は察してくれたので、鄧艾は少し気が楽になった。
もっとも、話の内容はとても気が楽になる様な内容ではなかったのだが。
「士載、何か秘密の話だろう?」
「お察し下さって、非常に助かります」
「いや、お前であればあの資料からソコの危険を気付かぬはずはないと思っていた」
「……曹芳陛下について、不信な点がございます」
「ああ、詳しい話を聞こう」
そこには先ほどまでの気さくな司馬師ではなく、冷徹な戦略家としての司馬懿の後継者がいた。
鄧艾の異民族対策
晩年の活躍から武将のイメージの強い鄧艾ですが、武将として戦場に出て武勲を立て始めるのは割と後の方で、こう言う地味な内勤が多かったみたいです。
が、それでも実績を積み重ねていた辺りは非凡と言うしかなく、司馬懿亡き後の異民族対策は鄧艾が立案し、司馬師がほぼ全面的に受け入れて実行していたみたいです。
本編でもありましたが、この異民族問題は三国志でも裏面にあたる大きな問題で、五虎将軍にも数えられる抜群の知名度を持ちながら、馬超が意外と三国志演義で活躍していない理由でもあります。
また、中原の取り合いが三国志のメインの戦場ですが、呉はその時越族(ベトナムと言われています)とバチバチにやりあってますので、魏と蜀の戦に戦力を出せなかったみたいです。
こうして見ると、いきなり異民族問題に着手した曹操の先見や行動力は異常と言うしかないでしょう。
始皇帝ですらそこに手をつけられなかったので万里の長城を築いたほどですから。




