第十七話 二四四年 曹爽、蜀を攻める
鄧艾の不安は的中した。
曹爽の蜀侵攻は、十分な成果を得られなかったのである。
実は出兵の前から色々と問題はあった。
この出征を、司馬懿がかなり強く反対したらしい。
張氏からの手紙で反対している事は鄧艾達も知っていたが、実際にはそれほど甘い話ではなく、口論一歩手前くらいの強い口調で反対していたと言う。
それでも曹爽は李勝や腹心である楊偉といった、信頼出来る面々からの意見もあって出征を決めた。
その動員数は十万。
この数は、この当時にはかなりの大軍である。
しかも、攻撃目標である漢中は大将軍の病によって兵を引いた直後と言う事もあって、その守備兵は三万程度であった。
漢中は戦略拠点としてはさほど重要とは言えないものの、かつて劉備が『漢中王』を名乗るのに使ったほど精神的には極めて重要な拠点である。
曹爽は蜀の制圧する事が目的の出征であると宣言していたのだが、最悪この漢中さえ手中に収める事が出来ればそれで良しとする腹積もりもあったらしい。
その為の大軍であり、その圧倒的兵力差があれば蜀軍を押しつぶせると判断した。
そこには油断と驕り、そして曹爽の経験不足と言う致命的な問題があり、敵将である王平はそこを見逃さなかった。
実は蜀でも撤退案は出ていたらしい。
守備兵が引いていたと言っても、後方の涪城に引いていただけで敗れていなくなったわけではない。
あえて少数で大軍にあたって消耗するより、ここは引いて涪城の軍と合流してから戦いを挑むべきだと言う声もあったと言う。
それはそれで間違ってはいない意見にも聞こえるのだが、王平はそれを良しとしなかった。
最前線を守る為の城である漢中の城、関城を明け渡す事の危険性を十分理解している王平は、すぐに涪城に魏軍の侵攻の報と援軍を要請すると迎撃に当たった。
漢中が戦略拠点に向かない事の一つに、大軍を動かしづらい地形である事が挙げられるが、それは逆に言えば守りには適しているとも取れる。
実際に魏から漢中を攻めようとした場合、大軍を動かせる道は非常に限られてくる。
王平は魏軍の進軍経路となる場所を割り出し、すぐにそこの守りを固めた。
また、関城の東の要所には歴戦の老将である鄧芝を、南の要所には馬忠を配し、魏の進行形路を完全に封鎖したのである。
その結果、魏は大軍を擁しながら立ち往生を余儀なくされてしまった。
こうなっては大軍も意味を成さず、逆にその維持が困難になり、大軍である事が問題になるのだった。
曹爽は急ぎ物資の補給を指示し、その為に羌族などの異民族も動員したのだが、険しい道程は蜀軍が完全に制圧している為に犠牲者を出し、補給はままならなくなった。
この時点で司馬昭は、夏侯玄に撤退を進言していたらしい。
また、腹心の一人である楊偉も曹爽に撤退を進言していたのだが、それは入れられなかった。
曹爽をはじめとする主戦派は、魏軍は大軍であり蜀軍は少数である事は変わらない。それゆえ、決戦に挑めれば勝てると言う事を主張していた。
魏が今戦えば勝てると言う心の支えがある様に、蜀にも今戦っては勝ち目がないと言う事実は、この時には確かにあった。
それは守将である王平も分かっていた事だ。
だからこそ王平は、主力は固く守って戦わず、自ら別働隊を率いて険しい地形を使って、小勢で魏軍を攻撃してきた。
王平のこの攻撃は、魏軍に対して攻め滅ぼすと言った目的の攻撃ではなく、あくまでも大軍である魏軍の足止めが目的であり、もう一つは魏軍の補給をさらに圧迫する為だった。
王平は、戦わない事に徹したのである。
魏の大軍がどれほど焦れたところで、目の前に広がる戦場は険しい山道で大軍を活かすだけの広場は無く、その狭い道も先に蜀軍に守りを固められて進むに進めず、大軍故に物資の消費は激しいのだが、その物資の補給も蜀軍の伏兵によって近づくことが出来ない。
魏の大軍は完全に立ち往生となり、しかも改善の見通しも立たない状況である。
それが分かっていた司馬昭達は早期に撤退を進言したのだが、曹爽を始めとする主戦論派は戦う事に固執して退こうとしない。
かと言って、前に進む事も出来ない。
ただ戦意だけが空回っているのを、蜀軍に見透かされていると言う事に曹爽は気付いていなかった。
あるいは、気付いていない振りをしていたのかもしれない。
曹爽は、どうしても武勲が欲しかった。
司馬懿の戦績は、今や魏で知らぬ者はいない。
諸葛亮を相手にしていた時には連戦連敗の印象が強かったが、その割には国土を大幅に失ったと言う事も無く、蜀は勝利の満足感以外はさほど獲られたモノは無かった。
その諸葛亮との戦いが終わった後は、公孫淵の乱、呉軍の多方面侵攻と言う二つの大きな戦いに後手の対応だったにも関わらず、ほぼ完勝と言ってもいいほどの勝利を上げている。
大将軍となったからには、それ相応の武勲が求められている事は曹爽も分かっていた。
だからこその、漢中奪取である。
今なら蜀軍の守備兵は三万足らずであり、魏軍は十万。
決戦さえ挑めれば、まず勝利する事の出来る戦力差である。
だが、その為の具体策が出てこない。
こうして無為の時を過ごす魏軍にとって、凶報が重なってやって来た。
元々窮乏していた兵糧が尽きた事と、蜀軍の援軍の到着である。
蜀軍の援軍を率いて来たのは、病床の蒋琬から大将軍の位を引き継いだ費禕が自ら出陣してきた。
それによって蜀軍は魏軍と対等の兵力になったのだが、費禕は決戦を挑む様な事はせず、さらに守りを固めて徹底して長期戦の構えに入った。
新任の大将軍でありながら、費禕には諸葛亮の遠征に参軍として参加していた経験もあってか曹爽の様に勝負を急ぐ様な事をしないのは、魏にとって致命的だった。
それでも撤退しようとしない曹爽だったが、撤退さぜるを得ない決定的な事件が五月に入ってから起きる。
郭循の離反である。
具体的に何が起きたのかは分からないが、この蜀征が始まってから詳細な書状が届いていたのは、親曹派と親司馬派の橋渡し役でもある郭循からだったのだが、ある時からそれが司馬昭の名に代わり、その直後郭循離反の報が伝わってきた。
他の誰かなら問題ない、と言う訳でもないのだが、郭循は魏にとってもっとも危険な、蜀にとってはもっとも有益な離反者である。
それは郭循の能力だけの問題ではない。
能力だけを見ても郭循はかなり有能な人物なのだが、真の価値はその情報にある。
何しろ郭循は今の魏には貴重な中立派の武将であり、親曹派と親司馬派の橋渡し役だった。
それはつまり双方の情報に精通していると言う事であり、郭循は魏の中核となる人物の情報をほぼ手中にしていると言ってもいい人物なのである。
その人物が、ただでさえ魏の人物に詳しいと言うだけでなく、今の蜀征に参加している武将達の情報までも持って蜀に寝返ったとあっては、決戦に挑むどころの話ではない。
その事態を深刻に受け止めた曹爽は、ついに撤退を決意した。
が、そこからが激戦の始まりだった。
これまで徹底して守りを固めていた蜀軍が、魏軍の撤退を察知した途端に猛攻撃を仕掛けてきたのである。
それも、主街道からだけではなく、いつの間にか増員していた王平の伏兵部隊までも次々と攻撃に参加して来た。
ただでさえ士気の低下著しい魏軍だったが、主街道からは蜀の大軍が容赦無く攻めかかり、退路も王平の部隊によって遮られ、大軍でありながら魏軍はまともに戦う事も出来ず蜀軍に蹂躙されたのである。
魏軍は全滅の危機にさらされたが、その窮地を救ったのは郭淮だった。
本来であればこの大軍の先鋒を務めているはずの武将でありながら、郭淮は長らく司馬懿と共に諸葛亮との戦いに従事していたと言う事で親司馬派とみなされていた事もあり、後方支援として配置されていた。
それが幸いしたと言える。
郭淮は次々と討たれていく補給部隊を受け入れ、再編して何とか前線に物資を運ぼうと苦心していたが、それもあって蜀の包囲網の外に配置していたのである。
増員されたとは言え、退路を遮断する王平の兵力はそこまで多くないと見た郭淮は包囲網を敷く王平の部隊を寸断し、魏軍の退路を確保すると、自らは蜀軍の主力部隊と当たって殿軍を買って出た。
曹爽は郭淮を親司馬派と決めつけていたが、郭淮の妻は王凌の親子ほども歳の離れた妹であり、彼もまた親曹派や親司馬派などと言う派閥争いは無益と考えている人物だった。
蜀軍の新任大将軍である費禕の追撃は文官の出とは思えないほど苛烈かつ執拗で、魏軍は大損害を被った。
殿軍の郭淮も危うく命を落としかけるほどの激戦だったが、かろうじて退却に成功し、全滅を防ぐ事が出来た。
だが、曹爽、夏侯玄、李勝、司馬昭、郭淮らは逃げ延びる事が出来たものの、曹爽の腹心であった楊偉ら、数多くの武将達を失う結果になった。
結果としてこの戦は大失敗であり、魏が得たものは損害だけで蜀軍に名をなさしめるだけの戦だった。
そこまでの窮状を知りながら、鄧艾が南安太守に援軍の案を出さなかったのには理由がある。
一つには要請が来ていなかった事。
この南安では鄧艾には一応の兵権も与えられていたので、太守に断りを入れてならば兵を動かす事は出来た。
だが、切れ者の司馬昭や夏侯玄には何らかの戦略があり、それを鄧艾が勝手に兵を動かして台無しにする恐れが、無い訳では無かった。
もっとも、蜀軍が攻勢に転じてからはその余裕が無かったと言う見方もある。
だが、それより大きな問題があった。
涼州に控えて動かなかった、姜維の存在である。
南安にあっても、かつて『天水の麒麟児』として名を馳せた姜維伯約の名は知れ渡っていた。
元々この近辺は四つの豪族の力が強く、その中の一つが姜氏だった。
その才能に惚れ込んだ諸葛亮は離間の計を用いて姜維を蜀に降らせ、北伐最大の成果であると言ったと伝えられている。
また司馬懿をして、大きな損失であると言わしめた天才児。
その姜維がこの時に動こうとしない事が、鄧艾には気がかりだった。
姜維は南安が兵を出すのを待っているのではないか。
この地の兵が薄くなるのを待ち、出たところで涼州の兵を持って一気に制圧。ただでさえ敗戦して撤退中の魏軍の士気は低く、ここで南安を奪われては攻勢をかける蜀軍に対する対抗手段は無く、おそらく長安辺りまで退く事になる。
費禕や王平と連携を取っているとは思えないが、鄧艾が思いついた戦略である。
諸葛亮と司馬懿と言う当代の二大軍師からその才能を評価された姜維であれば、その絵を描いて実行するのではないか。
その場合、費禕や王平、長らく趙雲の副将であった鄧芝などはその動きに呼応する事は十分過ぎるほどに考えられる。
撤退する魏軍には薄情に思われるだろうが、ここでは動かない事が最大の援護になる。
鄧艾はそう考え、太守にもそう進言していた。
それでもただ兵を動かさなかったと言うだけでなく、鄧艾は西側に向けて毎日旗の数や色を変えて並べる様に指示していた。
蜀軍にも分かる様に、南安では西側への警戒を怠っていないと言う事を分からせる為である。
思えば、この時が鄧艾にとって、そして魏にとって最大の強敵となる姜維を知った時でもあった。
実は、その鄧艾の予測は見事的中していた。
姜維も王平達からの書状で戦線の状態を知り、涼州を空にして援軍を出すのではなく、敵に援軍を出させてその背後を襲い、敗軍の群れを増やすつもりでその時を待っていたのだが、南安からは結局兵は出なかった。
「随分と腰抜けの太守ですな。もしくは、よほど細心なのか」
姜維と同じく涼州に滞在していた廖化は、最後まで動かなかった魏軍に対して皮肉を込めて言う。
「……そうかも知れない」
だが、姜維の表情は険しい。
「何か気がかりが?」
「南安の太守はさほど大した事の無い者だと言う事は知っている。あの者であれば、この機であっても兵を出さない事は考えられた事ではあるのだが」
姜維は南安の方を指差す。
「物見の知らせでは、今日は赤い旗が立っていたそうだ。昨日は青い旗。その数も三本から五本に変わっていたらしい」
「それが何か?」
「まるで我々に見せつける様ではないか。こちらの動きに気付いているぞ、とでも言っている様に見える」
「気のせいでは?」
「……そうかも知れない。南安に何か動きは?」
姜維は廖化に尋ねる。
「確か、新しく農政官が来たとか。その農政官がやり手らしく、南安の治安が良くなったとか、収穫量が増えそうだとかの話はありましたが、武将や将軍格が移動してきたと言う情報は特に無かったと思われます」
「では、私の考え過ぎと言う事か。だが、これで動かない様な男が太守と言うのであれば、それはそれで打つべき手はある。次は我々が手柄を立てようぞ」
姜維はそう言うと、廖化を伴って涼州へと戻っていった。
デキる男費禕と謎の多すぎる男廖化
諸葛亮の次の次の丞相兼大将軍の費禕ですが、堅苦しい蜀の重臣の中ではかなりの変わり種です。
何しろ、宴会と博打が大好きの遊び人と言う一面を持っています。
それでいて丞相としての仕事も完璧、大将軍としても十分と言う恐ろしい才能の塊の遊び人。
こう言う人が賢者に転職出来るんだぞ、と言う見本の様な人です。
ちなみに三国志の中には数人丞相が出てきますが、遊んでいる丞相は費禕以外だと董卓と曹操くらいです。
もしこの人が長く丞相を勤めていれば、アメとムチを使い分ける事も出来たでしょうから劉禅の評価も今と同じでは無かったでしょう。
もっとも、正史での劉禅は今の評価ほど無能ではありませんが。
三国志の生き字引である廖化ですが、この人、黄巾の乱(一八三年)から蜀滅亡後の騒乱(二六四年)まで現役武将と言う化物です。
黄巾兵は若年兵も多かったらしいですが、それでも最期は九十超えてるくらいと言う有り得ない老人、もはや仙人です。
が、この物語の中では代替わりしてます。
本編で語る事はありませんが、実はこの時の廖化は四代目。
初代は黄巾の乱~官渡の戦いくらいまで
二代目は関羽の関所破り~関羽が死ぬまで
三代目はそこから五丈原くらいまで
で、四代目となってます。
なので、ここで出てきた廖化は姜維より年下です。
廖化伝を書けば、三国志のほとんど全てが書けますが私は手出し出来ません。
怖すぎて。




