第十六話 二四三年 新たな任地へ
それから二年で淮南は大幅に豊かになり、鄧艾はその手腕を買われて任地を淮南から西方の南安へと移る事になった。
涼州付近の南安は土地の生産力だけでなく治安の面でも不安要素が多く、それだけに高い能力が必要と判断されたのである。
無官となっていた羊祜とは、ここで別れる事になった。
「私は自分の未熟さを知りました。生まれた家柄や親族の繋がりなどで過分の評価をされてきましたが、それは私の実力ではない事を改めて知る事が出来ました。もう一度、全て捨て去り一からやり直したいと思います」
そう言う羊祜は、晴れやかな表情だった。
それでも杜預は引き止めていたのだが、本人の意志は固く、最後は笑顔で送り出す事にした。
その一方で名門の生まれの杜預は、自ら進んで鄧艾の副将を続け、都から遠く離れた南安にも同行している。
彼だけでなく、芍陂で共に戦った荒くれ者達も、今ではすっかり鄧艾の私兵として機能しつつあり、鄧艾は淮南に残る事も許したのだがほとんどが同行してきた。
「お嬢と士載がなぁ。ま、意外と言うわけではないし、ようやくと言ったところだなぁ」
石苞が笑いながら言う。
「私はてっきり石苞の方かと思ってましたから」
「それは無いのは分かるだろ?」
石苞と鄧艾が話している所に、媛がやって来る。
「あ? 都からの来客だと聞いたから急いで来たら、仲容だったのか。ちっ、慌てなくて良かった」
「ほらな。この通りだ」
媛の態度を見ながら、石苞は笑いながら鄧艾に言う。
「忠は?」
「お義母さんと元凱に預けてきた。司馬家の人かと思ったから、待たせちゃまずいと思って。こいつだって分かってたら来てないし」
「……俺、お嬢に何かしましたっけ?」
あまりの扱いの悪さに、石苞は心配になっている。
「でも、こんなところにいて良いの? 何か、蜀に侵攻するって話だけど?」
「はい? 何の話で?」
石苞は驚いているが、それは鄧艾も知らない情報である。
「何の話ですか?」
「ほら、最近蜀の大将軍の病がだいぶキテるらしいでしょ? 漢中からも兵を引いたし」
「ええ、それは知っています」
媛が言う様に、蜀で大将軍にある蒋琬は以前から持病を持っていたが、それがいよいよ悪化して軍事を担う事が出来なくなってきたと言う噂は、この南安にまで届いている。
実際に蜀軍は最前線の漢中より兵を引き上げているので、それは事実なのだろう。
それだけに鄧艾は安心して内政に注力しているのだが、どうやらそれでは済まなくなってきたらしい。
「今が侵攻の好機だって大将軍が思っているらしくてね。太傅はその時に非ずって反対してるみたいだけど、どうも侵攻作戦は進んでるみたいよ」
「いや、お嬢。その情報、どこからのモノですか? めちゃくちゃ具体的ですけど」
「奥方様。手紙のやり取りをしてるんだけど、そんな事が書いてあったから」
媛はそう答えるが、奥方と言うのは司馬懿の妻である張氏の事である。
鄧艾が媛を妻に迎えた時、さすがにその仲立ちをしてくれた司馬懿に挨拶しない訳にはいかないだろうと言う事で挨拶に行ったのだが、その時に媛は張氏との面識を得たらしい。
そこでどの様な会話がされたのかは知らないが、意気投合して今でも文のやり取りをしていると言う事は鄧艾も知っていた。
が、これほどの機密に触れるほどとは思ってもいなかった。
「仲容、声かかってないの?」
「大将軍かぁ。俺って親司馬派と思われてるからかなぁ。毌丘倹将軍もそれらしい事は言っていなかったし、そもそもまだ遼東だし。お嬢、奥方様はその辺の人事については何も書いてなかったのか?」
「それはさすがにね。多分まだ決まってないんじゃない? そう言う事は私より仲容の方が分かると思うけど?」
「いや、俺、その蜀侵攻の話も知らなかったし」
「信頼されてないんじゃない?」
「ですかねぇ」
と石苞は言うが、石苞がどうと言うより媛の情報の方が凄いのである。
「で、士載はどう思う? 太傅は時期に非ずって事らしいけど」
「もちろん太傅がおっしゃられているからとかではなく、私も同じ意見です。損害によっての撤退ではなく、大将軍の病と言う事での一時撤退ですから、将兵の士気が極端に下がっていると言う事も無いと思われます。それに聞く所によると、かの諸葛亮は自身の後任を数名上げていると言われていますので、今の大将軍を失ってもおそらく次の大将軍候補は決まっているのではないでしょうか。現場の武将達がその人事に納得しているのであれば、おそらくすぐにでも対応するでしょう。それらを確認した上で戦機を図るのが妥当かと思いますよ」
「ま、概ね太傅と同じ意見みたいね」
媛は頷きながら言う。
「お前ら、ほんと凄いな」
その会話を聞きながら、ちょっと呆れ気味に石苞は言う。
「あ、石苞将軍だったんですか」
媛より遅れてやってきたのは、副将の杜預だった。
本来であれば鄧艾の副将なので傍に控えておくべきなのだが、最近では鄧艾の副将なのか媛の下僕なのか分からなくなってきている。
「忠は?」
「母上様に預けてます」
媛の質問に、杜預はそう答える。
「母上って、お袋さん、南安に来てるのか?」
石苞は鄧艾に尋ねる。
石苞も鄧艾と同じく非常に貧しい家に生まれ、鄧艾の家と違って病弱な母の面倒も見ていた。
そんな事もあって、鄧艾の母はよく石苞や石苞の母の面倒も見ていたので、石苞は鄧艾の母の事を『お袋さん』と呼んでいた。
「お袋さんがいるってことは、旦那様もいるのか?」
「いや、旦那様は……」
「父さんなら、何年か前に死んだわよ?」
言葉を濁す鄧艾だったが、媛がさらっと石苞に答える。
「え? 旦那様が? いつ?」
「んー、確かあんたらが遼東行ってる頃だったわね」
媛は軽く答えるが、これは彼女の弱味を見せたがらない性格によるところが大きい。
鄧艾にもまったくそう言う素振りは見せなかったが、鄧艾の母が言うには媛の父親の葬儀の時には周りが気の毒に思うくらいに号泣していたと言う。
結局何も恩返し出来なかった事は鄧艾も心残りだったが、媛の父親も鄧艾の事は認めていたので、媛を幸せにする事が最大の恩返しになると思いなさいと母から言われた。
媛は常に楽しそうだし、何より常に楽しい事を探す事にかけては貪欲なので、見た目には幸せそうに見える。
そう言う事で、一応恩返しはできているだろう。
「それはお悔やみを……」
「なーに似合わない事言ってんの? 仲容のくせに」
この調子で返されるので、真面目にしようとしている石苞も馬鹿馬鹿しくなってきた。
「もういいよ。奥方様からの手紙とか見せてもらえないか?」
「あ? 何であんたなんかに」
「私も見たいです」
「あー、士載が言うんじゃしょうがないかー」
媛は鄧艾に言われて、手紙を取りに行く。
「……俺、一応将軍になったんだけどなぁ。これでも士載より偉いんだが」
「ですねぇ。まぁ、彼女は何か違う価値観で動いてるみたいですから」
媛にはそう言うところがある。
と言うより、偉いと言う事を恐れない傾向が強い。
何しろ司馬懿やその妻である張氏に対してすら、さほど恐れを抱いていないのだから相当なものだ。
「元凱、お前、大丈夫か?」
「何がです?」
「あの人、人使い荒いだろ?」
「荒いですね。でも楽しいですよ?」
「そう思えるのなら、お前も大したもんだ。俺も士載もあの人には振り回されたからなぁ」
「いや、過去形ではなく現在進行形で振り回されてますよ」
何分媛は行動力の塊である。
基本的には善意からの行動が多いので、杜預にしても前任者であった羊祜もその行動の補佐を務める事を嫌がってはいない。
もっとも、その二人の性格や寛容さがあっての話でもある。
南安での仕事は最初こそ困難を極めたが、媛の明るさに助けられたところは大きい。
だが、それ以外でも意外なところで助けになる人物は現れた。
淮南で募った荒くれ者の中に、段信と言う者がいた。
淮南で出会った当初は相当な荒くれ者で、とにかく乱暴者だった。
しかし改心してからは妙に高い教養を感じさせるところがあり、詳しく聞いてみるとこの南安の豪族の後継だと言う事が分かった。
また、彼には段灼と言う息子がいて、かなり優秀だと自慢していた。
段信自身は地方の豪族ならではのしきたりなどに嫌気が差して出奔したのだが、南安での鄧艾の仕事の役に立つと言う理由で復帰し、南安の民との橋渡しを行ってくれている。
それらの事もあって、南安の治安などは劇的に改善されてきていた。
「持ってきたよー」
媛が張氏からの手紙を持ってくるが、一見したところ媛が言っていた様な機密に触れる事は一切書かれていない。
と言うより、手紙の内容そのものがおそろしくしょうもない日常風景で、今日は晴れていたので使用人に洗濯させたとか、ネズミがいるとかそう言う事だった。
「……これのどこにさっきみたいな情報が?」
石苞が不思議そうに尋ねるが、それは鄧艾も同じである。
「読み方があるのよ。手紙の文字を半分になる様に折って、次の文と合わせると……」
そう言って媛は手馴れた様子で手紙を折っていくと、確かにそこにはまったく別の文章が現れ、大将軍による蜀侵攻の事が浮かび上がってきた。
「……凄いな、コレ」
「これは、誰に確認されてもわからないでしょうね」
鄧艾と石苞は、張氏の手紙に感心している。
「太傅とのやり取りも似たような事やってたみたいよ? 司馬家には幾つかの暗号があって、それをさらに組み合わせているみたいだから、司馬家の者以外にはまず解読できないらしいし、その解読法によって意味が変わってくるって言ってたし」
「……と、言うと?」
「この手紙、実は他の暗号文も隠されてるのよ」
媛がそう言うと、手紙を別の形に折る。
そうすると、司馬懿がさすがに歳だからそろそろ本気で引退してほしいと、司馬懿の事を心配する文章が浮かんできた。
「……本当に凄いな、コレ」
「これは太傅も頭が上がらないと言われているのも、頷けるかも」
張氏自身は控えめな女性で、司馬師、司馬昭の母としてもその子育ての手腕の高さもうかがわせるのだが、それより何故か狂気的な逸話ばかりが広まっている人物である。
本当にただ狂気的な女性であったとしたら、司馬懿も何かしら手を打っていたかもしれないが、ここまで聡明であれば本当に頭が上がらないのかもしれないと思わせる。
数日後には、張氏からの私信としての情報ではなく司馬昭から正式に書状が届いた。
今回の蜀侵攻は大将軍曹爽の名の元に行われ、参加する武将も数多く、その軍は十万もの大軍となるので物資を南安からも出す様にとの事だった。
また、蜀は涼州の異民族を使って揺さぶりをかけてくる事も考えられるので、警戒を怠らない様にとの注意も書かれていた。
「……俺、招集されてないけどな」
石苞は不思議そうに言う。
「まだいたんですか。その方が驚きですよ」
ものすごく馴染んでいるのだが、石苞はあくまでも都からの来客である。
その事を忘れそうになるくらいで、杜預はそんな事を言う。
「石苞だけじゃなく、遼東での戦いに参加した者は任地から呼ばれる事も無く、今回は外れているみたいだ」
鄧艾は書状を見ながら言う。
それだけでなく、芍陂での戦いに参加した者達も外れている。
一人例外として、郭循の名を確認する事は出来た。
今回参加の武将は大将軍曹爽の他、皇族の一員である夏侯玄、曹爽や夏侯玄と非常に仲が良かったが明帝によって罷免されていたのを復帰した李勝など、ほとんどが親曹派で占められている。
僅かな親司馬派として参加しているのは、夏侯玄の副将として参加する司馬昭や郭淮といったところである。
「本当は親曹派で固めたかったのかもしれないけど、親司馬派に見せつけると言う事で司馬昭様が参加されているんだろうな。で、以前蜀軍との戦いで敗戦した郭淮将軍に再戦の機会を与えて恩を売る、と」
陣容を見ながら石苞は言う。
「……そう簡単に事が運べば良いのですが、諸葛亮存命の頃は防戦一方だったんです。それは諸葛亮と言う鬼才がいたと言うだけでなく、その鬼才の作戦を遂行できる人材がいたと言う事。敵の大将軍が病だからといって侮る様な事が無ければ良いのですが」
鄧艾はその書状を見ながら、そんな不安を抱えていた。
何人か細かい設定について
段灼は晋時代の人で、鄧艾の死後その名誉回復に命を賭けた人です。(Wikipedia参照)
ですが、父親の段信は創作です。
別に父親不在だったとか言う訳ではなく、ちゃんとした豪族の人です。
石苞と鄧艾は幼い頃の友人だった事は事実ですが、その母親に世話になったかはわかりません。
でも、どちらも貧乏だったので有り得るかも知れないと思ってこうなりました。
また、鄧艾の妻が司馬懿の妻と仲が良かったとか言う事もありません。
媛自体がほぼ創作ですが、張春華と個人的な知り合いだった可能性はまったくのゼロと言う訳ではないと思われます。
多分無いでしょうけど。




