第十九話 二六四年 戦いは終わっていない
剣閣にて援軍が来る事を待っていた姜維達だったが、戻って来た董厥が持って来たモノはまったく想像とは違うものだった。
「これはどう言う……」
姜維は卓を叩いて怒鳴ろうとしたのだが、途中で言葉を切って大きく深呼吸する。
「大将軍?」
張翼はそんな姜維の行動に、よほどの事だと察する。
「……すまない、ちょっと一息置く」
姜維はそう言うと、董厥の持って来た書状を張翼に渡す。
そこには、鄧艾が隠平道よりの奇襲に成功して蜀に入り、迎撃に出た諸葛瞻の守備軍を全滅させた後に成都へ兵を進め、劉禅が降伏に至った事が記されていた。
「……は?」
あまりにも現実味の無い書状に、張翼はどう反応して良いのか分からないと言った感じで声が漏れる。
張翼は一度姜維を見て、姜維が頷いた事でその書状を他の諸将にも回して見せる。
その反応は様々だったが、姜維の様に即座に怒りを表に出す武将はいなかった。
一つには、あまりにも有り得ないとしか思えない内容だったという事が大きい。
「鄧艾を侮っていたか」
姜維は天を仰いで呟く。
「ですが大将軍、諸葛瞻軍を打ち破ったという鄧艾軍の兵三万というのは一体どこから? 魏の兵に動きは無かったはずですが」
廖化は不思議そうに尋ねる。
「書状には結果のみしか書かれていないが、それは恐らく蜀の民なのでは?」
姜維の質問に、董厥は無言のまま頷く。
「蜀の民が、魏の将軍の指揮の下、蜀の軍と戦ったというのか? 馬鹿な! 鄧艾は妖術か何か使ったというのか?」
「いえ、私の見落とし、と言うより先入観による侮りが原因です」
張翼の怒りに満ちた言葉に、姜維は落ち着いて答える。
姜維は鄧艾が、魏だけでなく蜀や呉の武将達の中でも奇妙な経歴の持ち主である事は調べていた。
元は下級役人のさらに下についていた様な地位の者だったが、何をどうしたのか時の大将軍だった司馬懿の目に止まって属官に取り立てられる事となった。
そう、調べはついていたのだ。
鄧艾が将軍となったのは、実はそれほど前の事では無く、司馬懿から司馬師の属官になった時にもまだ将軍では無かった。
鄧艾の経歴は、将軍であるより農政官や文官としての期間の方が長く、しかもずっと恵まれたとは言えない環境に置かれてきた。
それは姜維や鍾会とは違う目線と価値観を培うには、十分な環境だったのだろう。
それ故に鄧艾は、誰よりも民に近しい立場である事が長かった。
「鄧艾だからこその、奇計奇策であったとは。本当の狙いは私の予想より深いところにあったと言う事だ。まんまと出し抜かれたか」
姜維は大きく息を吐くと、董厥に目を向ける。
「それで、成都の状況は? 陛下はいかがされている?」
「鄧艾将軍は成都に入るなり、一刀のもとに黄皓を切り捨てたのみで、他には誰にも危害は与えていません。ただ、降伏に絶望された劉諶様が妻子と共に自害されています」
「……劉諶様が、か。痛ましい限りではあるが、陛下や皇太子の劉璿様はご無事なんですね?」
「はい、それは間違いありません。鄧艾将軍自身が成都での略奪などは厳しく戒めております」
「でしょうね。その辺りは信頼出来そうです」
姜維は柔らかく頷く。
「もし私が魏の洛陽を落としたとしても、洛陽での略奪などを行って魏の民の信頼を失う様な事はしません。まして鄧艾が率いたのは蜀の民であるのですから、成都を火の海にしたり無駄な血を流す事はしないでしょう。そう言う意味では、鄧艾で良かったと言うべきでしょうね」
姜維はそう言うと、立ち上がる。
「では、魏に降る事にしましょうか」
「大将軍、本気ですか?」
廖化の質問に、姜維は頷く。
「もちろん。それが陛下のご意志であるのなら、家臣の私もそれに従うのが道理と言うものです」
「口惜しいですね。まだ戦えるのに。我々が敗れたと言う訳でも無いのに」
珍しく張翼も感情的になっている。
いつもとは立場が逆だな、と姜維はふと思った。
「陛下や皇太子が無事であれば、まだ蜀が滅んだと言う事ではありませんよ。もし私達が無意味な意地を張って鄧艾の気分を害する様な事になれば、私達が陛下や皇太子を危険に晒す事になるのです」
「……大将軍?」
「ここでの戦いは終わりですが、私達の戦いそのものはまだ終わっていません」
そう言うと姜維は大きく伸びをする。
「ちょっと、外の空気を吸ってきます」
姜維は軽く首を回しながら幕舎を出る。
頭を冷やす意味合いもあってだったのだが、受け入れたはずの現実が嫌でも膨らんで来た。
「うおおおおおおお!」
膨らみ続ける亡国への負の感情を吐き出す様に姜維は叫び、剣を抜いて岩に叩きつける。
力任せに叩きつけた剣は岩を切るには及ばず、悲鳴の様な音を立てて姜維の剣は根本からへし折れた。
「だ、大将軍?」
姜維の奇行に、幕舎から飛び出してきた張翼をはじめとする武将達が心配そうに尋ねるが、姜維はそれに気を配る余裕も無く、周りに鋭い目を向ける。
「……終わらせてなるものか」
同じように、魏軍の方でもその情報をすぐに信じる事は出来なかった。
「はっはっは! そりゃすげえ! 鄧艾将軍、すげえ事するじゃねえか!」
そんな中で大喜びだったのは、胡烈だった。
「さすがだな、丘建。お前の上司は、大したもんだ!」
胡烈は預けられた雍州の兵長である丘建の背中を、ばんばんと叩く。
彼は句安と共に蜀から投降してきた人物であり、魏に下ってからは雍州で句安や陳泰らと共に戦ってきた人物でもある。
「……丘建? ひょっとして丘本と知り合い?」
使者としてやって来ていた師纂が、丘建に尋ねる。
「丘本? ああ、近くは無いが族弟に本と言う者はいました」
「今、将軍の元で兵長やったぞ」
「ほう、それは会うのが楽しみです」
丘建は笑顔を浮かべる。
丘建と師纂は年齢も離れていたが、それでも丘建は兵長であり師纂は将軍位と言う事もあって、年下の師纂に対しても一歩退いた態度で接している。
「そうか。鄧艾将軍が、劉禅を降伏させたか。それは素晴らしい事だ」
長く書状を見たまま動かなかった鍾会が、ようやく口を開く。
「それでは、剣閣に使者を出すとしようか。丘建と言ったか?」
鍾会が丘建の方を見る。
「その方、元は蜀の者であったようだな。使者としては適任であろう」
「鍾会将軍、それには及びません。すでに剣閣には蜀の使者が着いているはずで、おそらく向こうから使者を送ってくると、将軍より言われています」
「……さすが、鄧艾将軍だな。打つべき手は打っている」
鍾会の表情は、胡烈ほど分かりやすく喜んでいる様には見えない。
「それでは俺は、鄧艾将軍の元へ戻ります。将軍達を、成都でお待ちしております」
「待て」
その場を離れようとする師纂を、鍾会は引き止める。
「剣閣に蜀の使者が向かっていると言うのであれば、立て篭っている姜維達も降ってくる。その場に立ち会う事は、次世代の将軍を担うのであれば決して無駄にはならないだろう」
「俺が、その場に立ち会って良いんですか?」
「私が許可しよう」
鍾会が大きく頷いている。
それからまもなく、剣閣からの使者が魏軍の陣にやって来た。
それは降伏の申し出であり、鍾会もそれを快く受け入れる。
「では、後日この陣でそちらの軍をお待ちすると、姜維将軍にお伝え願いたい。よろしいかな?」
鍾会は蜀の使者にそう告げる。
どの様な形であったとしても、魏軍は勝者であり降伏は向こうからの申し出である。
こちらの方が立場は上である事を、向こうにも知らしめなければならない。
また、ある種の挑発も含めた行動だったのだが、姜維からの返答は全軍を持って山を出て魏軍に降る事を約束した。
「抵抗しない、か。少々意外ではあるが、姜維と言う武将、さすがに話は分かる男らしい」
鍾会は姜維に直接会った事が無かった事もあり、興味が湧いてきた事もあって会談の日取りを伝える。
姜維はその日付通りに山を降りて、全軍で鍾会の前に来て膝をつく。
「この度は、降伏を受け入れて頂き、ありがとうございます。降伏するまでに時間がかかりましたのは、全てこの姜維の不徳と致すところ。全ての責任はこの私にあり、他の武将、兵士には何ら責任はありません。何卒寛容な……」
「将軍。この鍾会、戦場以外でむやみな血を流させる様な事は好みません。将軍は敗れて降る訳ではないのに、その決断を下された。それは誰にでも出来る事ではない」
鍾会はそう言うと、姜維を助け起こす。
「将軍にはまだまだ教えを請いたい。蜀軍の武将方々、皆様も敗れて降る無く、またその恥辱に耐える決断をされた。せめて一席設けますので、どうぞこちらへ」
鍾会は本陣で酒宴を設けると、姜維を上座に誘う。
「私は敗軍の将。下座どころか、末席で十分です」
「何を言われる。将軍は大将軍の地位にあったお方。僕などより地位も実績も十分。とても末席などに座らせる訳には参りません。何卒、こちらへ」
そう言う問答の末に、姜維は鍾会の隣の席につく事になった。
「戦は終わった。皆、過去の事を水に流し、これからは共に手を取り合って行こう!」
鍾会はそう言って、盃を取ると酒宴が始まった。
「是非とも将軍には幾つか聞きたい事がありました」
「私如きで答えられる事でしたら、何なりと」
「まず、降伏が遅れた理由を教えていただきたい。些か、遅かったのでは?」
鍾会の言葉に、姜維はふと笑顔を浮かべる。
「私としては、これでも早すぎたのではと思っております。ただ、部下から諭されまして、決断するのに時間が掛かりました。それに連弩の焼却処分にも時間がかかりまして」
「連弩の処分?」
「はい。アレは諸葛丞相が魏に対する国防の為の兵器であり、魏との戦いが終わったのであれば必要ありません。過剰な殺戮を引き起こす兵器は勝利以上の禍根を残しますので、全て処分致しました」
「将軍は、隠さないのですね」
鍾会は少し驚いて言う。
姜維を困らせてみようと敢えて失礼な質問をしてみたのだが、姜維は怒るでもなく受け流すでもなく、柔らかくも誠実に答える。
連弩の処分、か。魏に渡る危険を避けたか、自身の降伏の意を伝える為か、あるいはその両方か。これが、天水の麒麟児と言われた男か。切れる男だ。
鍾会は姜維を見て改めて思う。
桁外れの実力者であり、若い頃から十分過ぎる実績を積んで来た割には傲慢なところも少なく、物腰も柔らかい。
「隠す様な事ではありませんから」
そんな泰然自若とした姜維の態度に、鍾会は惚れ込んでいた。
かつて諸葛亮の北征にて、最大の戦果は姜維を得た事であるとまで言わしめた異才。
その評判に偽りなしと言うのは、戦った鍾会にも分かっている。
それがこれほど柔らかい男だとは、想像もしていなかった。
そして司馬懿も姜維を高く評価していた。
後世に名を残す二大軍師も認めた、天才。
「しかし、魏軍にはどれほどの人材がいる事か」
「何を言われます。姜維将軍も、元を正せば魏の人ではありませんか」
「確かに生まれは魏ですが、私は蜀の武将として魏と敵対し、魏の兵を数多く殺してきました。今更魏の武将を気取るのは、魏の方々にも面白くは無いでしょう」
「そんな事は無いさ。将軍ほどのお方なら、大歓迎だ」
すっかり酔っている胡烈が絡んでくる。
「胡烈、無礼であるぞ」
「まあまあ、せっかくの宴席です。無礼講ではありませんか」
姜維が鍾会を宥める。
「姜維将軍と言えば、天下に知られた智将であり天下無双の猛将の一面もあるとか。是非一度手合わせしていただきたい」
胡烈がふらつく足で姜維に近付いて行く。
「私が天下無双? いえいえ、無双などとは恐れ多い。実際に私と互角以上の武将が魏にはいらっしゃるではありませんか」
「ほう、どなたです?」
「鄧艾将軍です。鄧艾将軍は知略においても、私は幾度も苦杯を舐めさせられた上にその武勇にも舌を巻く事もありました。手合わせというのであれば、私より鄧艾将軍の方がおそらく楽しめる事でしょう」
ニコニコと笑いながら、姜維は答える。
「そうは見えないが、あの人相当やり手みたいだなぁ」
「そこも鄧艾将軍の恐ろしいところでしょうね。そんな方だからこそ、成都を攻め落とすのではなく、ほぼ無血で開城させる事が出来たのでしょう」
姜維の言葉を聞いて、鍾会も頷かされるところがあった。
胡烈が言う様に、鄧艾と言う武将は見た目に才能を感じさせる人物と言う訳ではない。
それこそ姜維と言う男は見るからに華があり、誰の目にも異才を感じさせるところが見ただけで分かると言ってもいい。
魏でも今は亡き司馬師や諸葛誕、また鄧艾の同僚である石苞などはそう言うところがある。
そんな人物であれば油断しなかっただろうが、鄧艾はその知略や武勇を見ただけでは分からない。
「姜維将軍から見て、鄧艾将軍はどう評価されているのですか?」
鍾会はふと気になって姜維に尋ねる。
「まさに当代の名将ですね。おそらく、今を生きる武将達であれば誰もが鄧艾将軍と同じ時代に生まれた事を悔やむ事でしょう。例えるなら、秦の白起、漢の韓信とも言うべき名将の中の名将でしょう」
姜維は笑顔で答えた。
「なるほど、まさしく名将の中の名将ですな」
鍾会は何度も頷いて同意する。
その後、宴席は終わり全軍で成都へ向かう事となった。
「……姜維のヤツはさっそく鄧艾に取り入ろうとしているのか、あからさまな媚び方でしたな」
「田続にはそう聞こえたか。姜維の真意を読み取れなかったと見える」
成都への移動の際に語りかけてきた田続に、鍾会は薄く笑いながら言う。
姜維もまた、鄧艾の死を望んでいる。
そして、具体的な手段さえも鍾会に知らせてきた。
今後の事を考えると鄧艾には消えてもらうしかないと考えていた鍾会だったが、姜維と言う心強い味方を得た事はまさに僥倖と言えた。
「僕は少し姜維将軍と話を詰めてくるが、安心して良い。彼は僕らの仲間だよ。それより田続、鄧艾からの使者で来ていた者は?」
「胡烈と共にいますが、呼びますか?」
「……そうだな、姜維将軍と話した後に、彼にも少し話しておいた方が良い事があるからね。鄧艾は実に良い人物を寄越してくれたものだ」
鍾会はこの時すでに、鄧艾を追い落とす策を考えていた。
そしてまた、姜維も自身の仕掛けた策に手応えを感じていたのである。
鍾会と姜維
本編では鍾会は戦場以外での流血は好まないと言っていましたが、正史では盤外戦大好きで嵌め手や粛清大好きの危険人物です。
むしろ戦場以外での流血こそ本領発揮といったところです。
姜維もとことん柔らかいと書いてますが、演義でも正史でもちゃんと傲慢なところがあります。
が、この二人は会った途端に意気投合。
特に鍾会は姜維に惚れ込んでいたみたいです。
鄧艾にとって不幸なのは、自分が知らないところで時代を代表する様な傑物二人が敵になって手を組んだ事でしょう。
ちなみに鍾会と姜維は投降した際に話していますが、ここまで胡散臭い話をしていた訳ではありません。




