第十六話 二六四年 綿竹の決戦
「師纂、無事か?」
拠点に戻る途中、師纂が負傷したと言う報告を受けて鄧艾は急いで確認に来た。
「将軍、この通り大丈夫です。戦には何ら影響はありません」
師纂はそう答えるが、命に別状は無かったにしてもその傷は決して浅くない事は見ただけで分かる。
師纂の負傷は戦力から見ても痛手ではあったが、負傷しても奮戦する武将の姿に兵の戦意は高まっている。
鄧忠の方も厳しい戦を強いられたが、鄧忠自ら陣頭に立ち槍を振るって戦う事によって兵の信頼を得る事も出来ていた。
もはやこの兵は蜀の貧民と言うより、訓練こそ受けていないものの十分な士気の高さと戦意を持つ鄧艾軍の兵と言える。
「兵と将を集めてくれ。明日の戦の話をする」
鄧艾は陳寿と丘本に指示を出す。
「今日の戦を見る限り、明日には蜀軍も勝負を決めに来るだろう。蜀軍とて戦意が高く、単純な兵力の戦闘能力で言えば向こうの方がはっきりと上だ。それは鄧忠、師纂と言う猛者ですら手負いとなる事からも皆が分かっている事だろう」
「……将軍、それは士気に関わる事では?」
丘本が不安そうに尋ねる。
「そう、その通り。兵長を任せられる君ですら不安を感じるくらいだから、兵はそれよりさらに不安でしょうね」
鄧艾はそう言うと、丘本や同じ様な表情を浮かべる陳寿を安心させる様に微笑む。
「その上で断言します。明日、勝負を決めるのは我々である、と。さほど難しい話はしませんから、私に従って下さい」
もし蜀軍の相手が鄧艾ではなく鍾会であれば、結果は違ったかも知れない。
諸葛瞻は知らなかったのだ。
鄧艾は司馬懿に見出される前から、正規の軍を率いるのではなくこの様な素人集団を率いて戦ってきたと言う事を。
そして、武将となってからもその環境はさほど変わらなかったにも関わらず、多大な戦功を上げてきたと言う事を。
翌日、諸葛瞻を総大将とする蜀軍は張遵を先鋒として、敵右翼に置かれた師纂には諸葛尚を、敵左翼の鄧忠には黄崇をそれぞれに配置する。
二度鄧艾軍と戦って分かった事は、鄧艾の率いている兵は明らかに弱兵であると言う事だった。
数でこそ当初想定していた以上の数ではあったが、明らかに寄せ集めの烏合の衆であり、とても軍隊と呼べる様なモノではない。
「聞くところによると、鄧艾軍が今率いている兵は魏から率いていた兵ではなく、この近辺の飢民を武装させた者達であるとか」
諸葛瞻にそう言うのは、参謀として参加していた李球と言う人物だった。
彼は蜀の政治家であり、あの馬超を先帝の元に帰順させた弁舌の士でもあった李恢の甥である。
基本的には年長の黄崇を立てているので積極的に発言する事は無かったが、黄崇がすでに本隊を離れて配置についているので、李球が諸葛瞻に進言した。
「ほう、詳しく聞きたいな」
諸葛瞻が眉を寄せる。
「何でも鄧艾は、江油、涪の二城を落とした後、近隣の廃村を周り飢民に食料を配ったとか。そこで兵を募ったのではないでしょうか」
「ふむ、魏の武将が率いる反乱軍、いや、大規模な野盗の集団か」
諸葛瞻は鼻で笑う。
「よろしいのですか、将軍。鄧艾は敵兵であるとは言え、率いているのは蜀の民ですよ?」
「考えないではないが、これを許してしまえば地方の民の統制が効かなくなる。少なくとも魏と結託した事は、無罪放免とはいかん。たとえ冷酷非道と誹られようと、蜀の民であろうと敵は魏軍である。一切の容赦も躊躇も必要無い」
諸葛瞻は非情とも言える決断を下す。
彼の目は、すでにこの戦の後に向いていた。
蜀の治安と言う意味でも、ここで鄧艾に協力した者を何事も無く受け入れる訳にはいかない。
「ここで魏軍に打ち勝つ。その為にも張遵へ伝令を出す。この戦で、父張苞の名を超え、祖父張飛にも届かせよ、と」
諸葛瞻の伝令が届いたからか、戦の開始を知らせるかの様に先鋒隊から大きな喚声が上がった。
武名が轟いているとは言えないまでも、鄧艾の息子である鄧忠や鄧艾の配下武将である師纂は相当な実力者である。
が、それでも張遵の方が上であると、先日の戦でも諸葛瞻は判断した。
どれほど鄧艾が名将であったとしても、一人で戦が出来る訳ではない。
それが十人や百人単位であれば可能かも知れないが、万を超す軍同士の戦いにおいて兵をいかに戦わせるかが重要である。
鄧艾は自身が戦った訳ではないとは言え、初日と昨日とすでに二連敗。
率いる兵も地元の飢民であり、まともな訓練など受けていない民兵とも呼べない様な烏合の衆。
そこに向かっていくのは、蜀の次代を担うと期待されている豪傑の資質を持つ張遵であり、率いる兵も装備に優れ連戦連勝で士気も高い。
実際に張遵の突撃を受けているのは鄧艾の本隊だったが、その勢いに押されているらしく鄧艾軍の本隊も後退していた。
装備にも訓練にも差があり、しかも実戦において連勝している側と連敗している側。
「押し込むぞ! 鄧艾を逃がす訳にはいかん!」
圧倒的な攻撃力で押し込む張遵に対応出来ていない鄧艾と言う図式に、諸葛瞻は勝機を見出していた。
見るからに師纂の軍は動きが重く、張遵の勢いに押されて鄧艾も後退、その動きについていけないのか鄧忠の軍は前に出る事も後ろに下がる事も出来ていない。
魏軍完全崩壊は時間の問題。
諸葛瞻の目にはそう見えたからこそ、本隊を前に出して勝負を決めに行ったのだった。
「ん? 諸葛瞻がもう動き出したか?」
本隊を下げながら、鄧艾は伝令の報告を受けていた。
敵将張遵の動きに合わせて下がる鄧艾軍を見て、張遵の猛攻を鄧艾が受けきれていないと思っての事だろう。
「では、もう少し急いで下がらないといけないな」
鄧艾はそう言うと、さらに後退の合図を送る。
本隊を下げて、代わりに鄧忠を前に、師纂の軍を広げる様に少しずつ前進させる。
「……凄い。これが用兵と言うモノですか」
「事を分かりやすく見せてやる事も、兵の士気を上げる事と命令に従う事にも伝わりますからね」
感嘆する陳寿に、鄧艾は説明する。
鄧艾はいかにも真正面からのぶつかり合いと言う様な布陣していたが、それは蜀軍を誘い込む罠だった。
この二戦を見て、鄧艾は妙に蜀軍が勢いに任せているのが気になっていた。
陳寿や丘本に確認すると、姜維の率いる蜀軍は常に前線で戦い続けているのに対し、成都の防衛軍は名門士族によって構成されている事もあって、ほとんど実戦経験が無いと言う。
そこに勝利と言う自信を植え付けて士気を高めるのは、決して悪手ではない。
むしろ敵の短所を早くに見抜いて、そこを攻める手腕は諸葛瞻と言う武将が凡庸ではない事の証明だと言えるだろう。
が、それだけだ。
もし姜維であれば、ここまで勢いに任せただけの戦はしない。
実戦経験豊富な廖化、張翼であればここまで露骨な鄧艾の罠にかかる事は無い。
戦において勢いは決して無視する事は出来ないが、勢いに流されてはいけない。
才能や素質はあるかもしれないが、諸葛瞻には経験が足りていない。
残念ながらその機会も、こちらから与えるつもりもない。
「鄧艾将軍、配置完了した模様です」
「では、始めましょうか」
鄧艾は全軍に後退を止める様に指示すると、自ら槍を手に前へ行く。
「将軍が行くのですか?」
「ええ。分かりやすく、と言う一点においても私がもっとも適任ですよ」
陳寿は止めようとしたのだが、鄧艾は構わずに進んでいく。
ちょうどそこに敵将である張遵が切り込んでくるところだった。
「はっはっは! 後方に隠れていなくて良いのか、魏の凡将よ!」
「せっかく死地に入って来たのですから、今のうちに生きている実感を味わっておく事をおすすめしますよ」
鄧艾は肩をすくめて言う。
「ほう、言うではないか」
余裕を見せる鄧艾に警戒したのか、張遵は勢いのまま突撃してくるのではなく、一度馬の足を止める。
「魏将よ、名を名乗る事を許す。この張遵に討たれた事を誇る事を許そう」
「これはまた、随分と尊大な若者だ。まぁ、せっかくだからその好意には甘えておきましょうか。私は鄧艾。おそらく短い付き合いになりますが、よろしくお願いします」
「ははっ、噂に聞く鄧艾とはこれほど見栄えのせぬ男であったか! 名前を聞いていて良かった! 首にしては誰か分からぬところであったぞ!」
「その実力があれば良かったですね」
どこまでも尊大で傲慢な張遵に、鄧艾は溜息混じりに答える。
彼の祖父、張飛もまたそう言うところがあったと言う話は聞いた事があったが、それは実力あっての話である。
また、張飛はその性格が祟って戦の前に命を落とした。
魏の生まれの鄧艾であってすら聞いた事のある話を、直系の張遵が知らないはずがない。
それとも、そこまで踏まえて祖父に近付こうとしたのか。
「ここは既に死地。無駄に命を落とす事はありません。今すぐ武器を捨てて投降するのであれば、命までは取らない事を約束しましょう」
「面白い! 鄧艾将軍は、いっそ講談師にでもなった方が良かったのではないか? もっとも、蜀の地に足を踏み入れた事が既に許されざる事。死して悔み、この張遵の武功となるがいい!」
張遵は矛を振るって鄧艾に向かってくる。
蜀の兵達は、将来を嘱望される張遵の武勇を知っていた。
また、張遵が言っていた様に鄧艾は見るからに猛将と言う風貌ではなく、ゆっくりと構える槍に威圧感は少ない。
蜀の兵は期待の目を、鄧艾軍の兵は不安の目を二人の武将に向ける。
切り合うか、打ち合うか。
だが、張遵は鄧艾を素通りして魏軍本隊へと馬を進める。
しかも、矛を掲げたまま。
不思議に思う蜀軍の兵だったが、事態を理解した瞬間に恐怖の淵へと叩き落とされる事になった。
いつ繰り出したかも分からない神速の突きによって、張遵は喉を貫かれてそのまま首を跳ね飛ばされていたのだ。
自分に何が起きたのかも分からないまま張遵の体は、勢いに乗った馬が走るままに魏軍本隊に運ばれただけで、既に絶命していたのである。
「さあ、反撃だ!」
鄧艾が号令をかけると、後退するだけだった鄧艾軍の兵が一斉に蜀軍に襲いかかる。
ここで張遵の部隊は、鄧艾が言う様に死地に運ばれた事を知った。
剛勇を誇るはずの張遵を僅か一刺しにて絶命させた、仙術の如き槍術を見せた鄧艾が襲いかかってくるだけでなく、本隊が一気に押し寄せてくる。
左右へ逃げ散ろうとしたのだが、そこには鄧忠、師纂の軍が壁となって退路を遮断していた。
しかも後方からは状況を知らない諸葛瞻の本隊も押し寄せてくる。
率いる武将を失った張遵軍の兵は、ただ恐慌状態となって鄧艾の軍に討たれるか、それでも逃げようと散らばり鄧忠と師纂の軍によって討たれていく。
当初の予定の状況に無いと知った諸葛瞻は本隊を下げようとしたのだが、その前に鄧艾の本隊が事態の掴めていない諸葛瞻軍に襲いかかる。
今でも装備の上では諸葛瞻軍の方が上である。
しかし、それを活かせる状態では無くなった。
鄧艾の常人離れした武勇によって、率いられる兵は勇気付けられ、しかも飢民となっていた蜀の民は蜀軍の兵に対して深い恨みを抱いていた。
その恨みを晴らす好機となり、兵はただ武器を持った飢民などではなく血に飢えた悪鬼と化していた。
十分に経験を積んでいたならばともかく、ほとんど戦の経験の無い諸葛瞻軍の武将達は危機に瀕した時にどう動くべきかを知らず、焦りによって行動してしまった。
総大将である諸葛瞻の危機を救おうと、諸葛尚と黄崇の軍もわざわざ包囲の中に入り込んでしまったのである。
これによって七万の蜀軍は、三万の鄧艾軍に包囲され、装備に優れていたにも関わらず一方的に打ち破られる事になった。
「父上! ここは私が引き受けます! どうかお逃げ下さい!」
圧倒的な攻撃力にさらされ、蜀軍はただ討たれるだけの状態だった中で、諸葛尚が諸葛瞻に向かって言う。
「逃げると言っても、どこへですか? 囲みを破る事は出来そうにありませんよ!」
年長である黄崇が、焦りを隠さずに諸葛尚に言う。
「確かに三方を囲まれていますが、綿竹へまっすぐ下がれば、そこに魏軍はいないはず! 私が殿軍を率いますので、どうか父上はお退き下さい! 今ならまだ大将軍が率いる精鋭軍があります! 都を守る事は出来ましょう!」
「将軍! 御子息の言葉、まことにもっとも! ここは退きましょう!」
勝利を目前と考えていた諸葛瞻だったが、それらは全て鄧艾の演出であり、何もかもが掌の上の出来事であったと思い知らされ、諸葛瞻は放心状態だった。
「黄崇殿! 父上を頼みます!」
「心得た!」
この絶望的な戦場は諸葛尚に任せ、黄崇と諸葛瞻は僅かな手勢を率いて綿竹城へ逃げ帰ろうとした。
まさに城が見えてきたその時、その退路には既に魏の一軍が待ち構えていた。
「まさか逃げられると思っているのか?」
敵将は馬にも乗らずに、諸葛瞻を待ち構えていた。
「捕えよ。こやつを逃す訳にはいかないからな」
率いる兵を左右に広げ、諸葛瞻と黄崇を捕らえようとする。
「将軍、ここはお任せ下さい! 成都へ帰れば、この状況も……」
「遅いって」
いつの間にか諸葛瞻の目の前に来ていた魏軍の武将は、軽やかに飛び上がると諸葛瞻に飛びついて馬から引きずり下ろすと、その首筋に剣の刃を当てる。
「さて、どうする? 一矢報いて見るか?」
魏の武将は黄崇に向かって言う。
「……貴将は一体?」
「ああ、鄧艾将軍の副将の杜預と言うんだが、まぁさほど重要な事じゃ無いさ。どうする? 総大将の首を落とされてでも、俺を討つかい?」
杜預は笑いながら、しかし一切の油断無く黄崇に尋ねる。
もちろん、黄崇の答えは決まっていた。
大幅アレンジ
ほとんど原型を留めない戦になりましたが、結果だけは史実や演義と同じ、鄧艾の圧勝です。
とは言え、張遵と一騎打ちなんかやってませんし、杜預も諸葛瞻を生け捕ったりしていません。
この戦の結果の為か、諸葛瞻の評価は非常に低くなっていますが、正直なところここまで差がつくほどの能力の差があったとは思えません。
ただ、『諸葛亮の息子』と言う肩書きの為に実戦経験を積む機会に恵まれなかった事と、黄皓に対して日和った事が全てだったでしょう。
ちなみにチラッとだけ出てきた李球ですが、Wikiを見た限りでは中国語版にのみ存在する武将らしく、私が参考にしているモノの中には見当たらなった名前です。
なので、詳しい事は私にも分かりません。




