第十四話 二六四年 綿竹へ
魏軍現ると言う凶報は、剣閣から董厥が戻るより早く成都にもたらされた。
しかもその兵を率いるのは当代屈指の名将、鄧艾であると言う。
「今すぐ剣閣の大将軍を成都の守りに当たらせるべきでしょう。今なら兵力も十分、成都の防備をもってすれば魏の攻撃を防ぐ事は出来ます」
そう発言したのは閻宇だったが、これは閻宇と言うより黄皓からの指示でもあった。
実際にそれしか守る手段が無いと思われていたのだが、それに反対する者もいた。
「皆、浮き足立つな。状況を考えてみよ。もし魏軍が奇襲として兵を出したとしても、それは隠平道からと思われるが、あの道を大軍で移動する事など出来るはずがない」
慌てる蜀の重臣達を落ち着かせる為に口を開いたのは、諸葛瞻である。
「鄧艾と言う智将、自身の名の大きさをよく知っている。実際には少数の奇襲部隊でありながら自身の旗をはためかせ、鄧艾が来たぞと喧伝する事によって実際より大きく見せているだけに過ぎない。その数、おそらく多くても五千。どれほど多くても一万に満たない兵力のはずだ」
諸葛瞻はそう言うと、伝令の者に事の詳細を報告する様に言う。
しかし伝令も詳細な情報と言うモノは持っておらず、突然鄧艾が現れて江油城と涪城を陥落させたので救援を求むくらいの情報しか無かった。
「やはりか。江油城の馬邈にしても、涪城にしてもおそらくその旗を見て焦り、正しく状況を把握出来なかったのだろう。だが、これ以上調子に乗らせる事も無い。この諸葛瞻が魏軍の小細工、見事打ち砕いて見せましょう」
「ふむ。ここは思遠に任せようと思うが、皆はどうだ?」
事の重大さが分かっていない様な、いつもの調子で劉禅が周りの意見を確認する。
おそらく諸葛瞻の予測が合っているだろう事は全員が思っているのだが、それでも相手はあの姜維と互角に戦ってきた魏の名将鄧艾である。
また、兵が少数であると言うのはあくまでも諸葛瞻の予想で、実際の兵数は今のところ不明であり、鄧艾が本来率いているはずの数万の兵を持っていてもおかしくはないと言う恐れがあった。
「陛下、諸葛瞻将軍こそ適任。事は一刻を争いますので、諸葛瞻将軍に討伐の任をお与え下さい」
いつまでも話が進まないと感じた郤正が、劉禅に進言する。
「うむ、思遠に任せよう。兵の数はいかに?」
「現状での魏軍の攻め手はこの奇襲部隊と、剣閣の主力部隊のみ。この奇襲部隊を短期間で打ち破り、剣閣の大将軍と挟撃する事によって魏に深刻な打撃を与える事が出来ます。故に都の兵力の総動員をお許し下さい」
諸葛瞻にはこの時、剣閣で姜維が思い描いていた勝利の道筋と同じモノが見えていた。
そしてその先の展望も。
ここで魏軍を打ち破れば、次は呉と共同作戦で魏を攻める。
呉には荊州北部、または長年の因縁がある合肥を攻めさせ、蜀は勝利の余勢で雍州に攻め込む。
魏は対応に迫られる事になるが、長安の四十万の兵を雍州に向ける事は無いだろう。
おそらく司馬昭は長安の守りに兵を置きながら半数近くを呉の対策に向かわせる。
この一戦で魏を滅ぼすほどの打撃は与えられないにしても、雍州を奪い取る事は出来る。
この時の諸葛瞻の戦略眼は、確かに姜維と同じものを見ていた。
ただ、姜維にしても諸葛瞻にしても同じモノを見ていた為に、同じモノが見えていなかった。
敵である鄧艾ばかりを気にして、自国民の状態を正確に把握していなかった事である。
一方の鄧艾達も鄧忠達と合流を果たしたのだが、想定より増え過ぎた蜀の民の処置処遇に手間取り、綿竹城へ兵を進めるのが遅れていた。
この近辺の貧しさが深刻だった事もあるのだが、食料を持って離れる者ばかりではなく鄧艾の軍と合流したいと言う志願者が多数存在した事が鄧艾を困惑させていた。
彼らは進んで敵である鄧艾に手を貸し、自国の兵と戦う事を望んでいるのである。
最初は間者なども疑いはしたが、間者も何も彼らは蜀の国民であり、鄧艾に同行を申し出たのも食糧難と言う問題を抱えている為であって魏に投降したと言う訳ではない。
いつ鄧艾を裏切るか分からない危険極まる存在ではあるのだが、それでも協力それ自体は非常に有難い事である。
同行を望む者をほぼ無条件に受け入れた鄧艾は、江油城や涪城に不必要なほどあった武具を与えて軍として編成した。
と言っても、彼らは何の訓練も行っていない雑兵、と言うよりただ武具を身につけただけの一般人である。
とても軍隊とは呼べないくらいに戦闘能力は著しく低いが、それでもいないよりは遥かにマシだった。
ひとまず先発隊として本人達の希望もあり、鄧忠と師纂を出す。
「あいつらで大丈夫ですか? ここでの戦は戦わない事が重要って事、わかってますかね?」
杜預は心配そうに尋ねる。
「好戦的ではあるが、二人とも次の魏を支える武将になってもらう為には、ただ戦って武勇を誇るだけではなく、それこそ君や亡き陳泰将軍を目指して欲しいと思ってます」
「だから、俺は文官なんですって」
杜預はあくまでもそこは否定する。
「両将軍、あまり余裕は無さそうですよ」
口を挟んできたのは陳寿だった。
「先ほど馬邈がこの絵図を持ってきました。おそらくは気に入られようとの算段なのでしょうが、これを見て下さい」
「陳寿、馬邈はお前の元上官だよな?」
「さあ? 記憶にありません」
「ホント、お前のそう言うとこ好きだなぁ」
杜預は笑いながら陳寿が広げた絵図を見る。
それはこの近辺の地図だった。
「正直なところ、今の蜀の将軍達で前線に出ていない者は、はっきり言えば取るに足りない能力の低い武将だと言っても良いくらいです。が、個々の武勇と言う点では魏の将軍の足元に及ばないにしても、自身が戦わずに誰かを動かす事で勝利を得ようとする能力で言えば、魏の並み居る智将と比べても遜色無いかもしれません。その上で今の兵力配置を考えますと……」
「もし成都から姜維に出る命令が成都に戻る事では無く、剣閣にて鍾会を足止めしつつ我が方の後方を断つ動きを見せる様な事になれば、間違いなく我々は全滅ですね」
馬邈の持ってきた絵図は非常に詳細な地図で、成都までの砦や関所などの難所も克明に記されている。
その上で、蜀の最終防衛線の役割を担うのが綿竹城である事も分かった。
「蜀軍の物資を干上がらせるにも、ここがもっとも効果的と言う訳ですね」
「ただ、成都の倉にどれほどの物資がある事か。また、自国民が餓えるのを知った事では無いとばかりに兵糧戦に持ち込まれては、確実にこちらが不利です」
「妙な話になりますが、そこまで非道かつ暗愚では無いと信じたいところです」
杜預の危惧する通りである事は、鄧艾にもわかっている。
「ですが、将軍。それくらいの事はやりかねないと思った方が良いかもしれません」
鄧艾にそう言ったのは、丘本と言う者だった。
彼はこの近辺出身だった兵士なのだが、先の戦で魏に投降。今回の異動で鄧艾の元へやって来た経緯の持ち主でもある。
顔役とまでは言わないまでもそれなりに広い交友関係の持ち主だったらしく、鄧艾に助けを求めに来た村や集落の代表者達にも知り合いがいた事もあって、まとめ役として臨時兵長を勤めている人物であった。
「妙に税収があるって話をしていたでしょう? アレの理由も分かりました」
二つの城の近辺の貧しさの割に城の中には非常に豊かな物資が揃っていた事は鄧艾達も不思議に思っていたのだが、丘本もその事について物資を求めてやって来た者達に訪ねていたと言う。
その結果分かったのは、さほど複雑なからくりでは無く、あまりにも非道な事だった。
重い税を払えなかった村にへ兵が派遣され、無理矢理にでも徴収していたと言う。
払えないのであれば、年若い娘をさらって行ったり働くのに不具合がありそうな高齢な者を切り捨てたりと、それはもうやりたい放題だったらしい。
重税の原因は魏や呉といった敵国の存在があった事ではあるのだが、兵や官吏の行動を見る限りでは敵国と言う大義名分を掲げて自国領で略奪行為に励んでいたと言う。
それほど徹底していたせいか、この近辺には野盗になって周囲を襲うほどの体力を持った者も少ない為に、結果として治安は悪くない。
そうは言ってもそれを歓迎する者は無く、この近辺の領民は魏や呉が無くても、おそらく同じ事だろうと考え、むしろ自国の兵の方を嫌っているらしい。
「戦意の高さはソレか」
杜預は苦々しい表情で呟く。
ただ不思議な事に、ここまで自国に対する不満が溜まっている民だったが、それでも皇帝である劉禅を悪く言う者はいない。
こう言う時に真っ先に槍玉に挙げられそうなものなのだが、官吏や兵に対する不満は爆発寸前でありながら皇帝を悪く言う者がいないと言うのも中々奇妙なものだ、と鄧艾などは思う。
「いざ戦になった時には、案外頼れそうですね」
鄧艾はそう考えていたが、事態は鄧艾の予想とは大きく違う事になっていった。
鄧忠と師纂の先発隊が綿竹城近辺まで到着すると、すでにそこには蜀軍が陣立を済ませていた。
「蜀軍につぐ! 俺は鄧艾軍の武将、師纂である! 無益無用の戦に及ぶ必要などない! 自国の窮状を自らの目で見て、今すぐに戦をやめて自国の民を慈しむ事こそ、国の正道である事を知るがよい!」
「よく覚えたな」
師纂のよく通る声で呼びかけた後、小声で鄧忠が感心した様に言う。
その呼びかけに答える様に、蜀軍の陣から数名の武将と、それらの中心に鎮座する四輪車に乗った、羽扇を持つ道服の男だった。
「誰だ? 随分と偉そうに見えるが」
「俺が知るかよ。党均がいれば分かりそうなんだが」
師纂も鄧忠も、蜀に知り合いがいない事もあって現れた者が何者か分からなかった。
が、次に掲げられた旗を見た時には、さすがに顔色が変わった。
旗には『漢丞相・諸葛武侯』と記されていたのである。
「……諸葛亮、だと?」
「諸葛丞相だ!」
師纂も鄧忠も諸葛亮を知らないのだが、蜀からの同行者である兵の一人がそう叫ぶ。
「何を馬鹿な! 諸葛亮など、俺らが生まれる前にはすでに死んでいるではないか!」
鄧忠が兵に向かって言うが、蜀の地での諸葛亮はほぼ神と言っても良いほどに慕われている。
兵に対する暴発寸前の不満があったとしても、諸葛亮と戦う事はさすがにためらわれるようだった。
「虚仮威しだ! 奴らは諸葛亮の偶像を持って、我々を騙そうとしているのだ!」
師纂は叱責するが、それでも蜀の民は動こうとしない。
完全に足並みを崩した魏軍を見た蜀軍は、諸葛亮の四輪車を下げると一斉に突撃して来る。
「奴ら、正気か? 蜀の民だぞ!」
師纂は慌てて応戦しようとするが、兵の混乱はとても立て直せるものではなかった。
「退こう、師纂! 今の状況では勝目が無い!」
鄧忠は、あくまでも応戦しようとする師纂を押さえる。
「敵を目の前にしてか!」
「今の兵を見ろ! 諸葛亮が偽物だと説明しない限り、今は戦どころではないだろう!」
こうして師纂と鄧忠は撤退した。
後続の鄧艾の本隊と合流するまでに蜀軍の追撃は厳しく、師纂と鄧忠の率いた兵には多大な被害が出ていた。
同じ蜀の民であるにも関わらず、である。
創作色強めになってます。
この物語では率先して戦場に向かった諸葛瞻ですが、私が参考にさせてもらっています中国劇画三国志の中では、最初は病と称して出仕していなかったところ郤正から推挙されて戦場に出る事になっています。
ちなみに丘本も中国劇画三国志の登場人物ですが、ちゃんとした鄧艾の部下の人で蜀の人では無いと思われます。
諸葛亮の件も中国劇画三国志にあるモノですが、さすがにこれはどうなんでしょうね。
もし存命だったとしても、孔明先生八十過ぎてるワケですし。
なので展開がちょっと違ってます。
まぁ、鄧忠も師纂も直接孔明先生見た事無いでしょうから、見た瞬間に慌てふためく事は無いのかなとか思いまして。




