第十二話 二六四年 蜀へ
冬の終わり。
まもなく春が訪れようかと言う頃、杜預からの報告を受けて鄧艾は前線拠点へ移動した。
「縄は出来ました。大きめの岩で試したところ、おそらく底まで到達したと思われます」
「了解、早速移動しよう」
鄧艾と杜預の他、前線拠点の兵達が断崖へ移動する。
岩で試したとはいえ、底の見えない断崖に挑むと言うのは中々に度胸が必要なモノである。
「よし、では私が最初に行きましょう。縄を」
しかし、鄧艾はまったく恐れる様子を見せずに先陣を切ろうする。
「いやいやいや、ちょっ、ちょっと待って下さい。いくらなんでも総大将が最初にやる事じゃ無いでしょう。ここは俺が行きます」
「それこそ無茶でしょう。こう言う事は普段偉そうにしている人間がやらなくては意味がありませんからね」
「だとすれば、それはますます俺の仕事ですよ。総大将の責任ってのは、こう言うモノではありません」
杜預はそう言うと、鄧艾をまっすぐ見る。
「総大将は全てが失敗した時に、その責任を取るべき立場です。もしここで先頭切って崖に挑んで命を落とした場合、俺や忠が将軍の代わりに責任をとって首を切られる事になります。命を賭けるにしても、それじゃ浮かばれませんよ。なので、先頭は副将である俺の役割です」
杜預にそう言われては、鄧艾としても譲る他ない。
「ま、岩では成功しているんですし、そう心配しないで下さい。それに、野郎共に蜀へ帰してやるって約束してるんで。魏の将軍は約束を守るってところを見せないと」
杜預は命綱を自分に巻きながら、無理にでも笑顔で言ってみせる。
「無理だと判断したら、すぐに戻って下さい。司馬家に連なる者を失ったとなれば、私はどの道首をはねられますから」
「了解。無理はしませんよ」
杜預は内心どう思っているか分からないものの、少なくともその表面上は一切の恐れもなく、生来の身軽さもあってするすると断崖を降りていく。
当然ながら鄧艾は心配だったが、周りを見る限りではこの前線の兵士達も直接の上官となった杜預の事を心配している様に見える。
相変わらず杜預には出自の高貴さの割に気取ったところが無く、蜀からの投降兵に対しても態度を変える事無く接していたらしい。
多少感情を隠す事が下手で人の好き嫌いも少なくないのだが、それでも公平誠実で気取らない性格は兵からの支持も厚い。
皆で心配しながら待っていたところ、杜預からの合図を待っていた兵に動きがあった。
「合図、来ました! 杜預将軍からの合図です!」
それによって歓声が上がる。
「よし、では私も行く。皆、私に続け!」
鄧艾はそう言うと、兵の一人に道作りの拠点にいる鄧忠と師纂に伝令を出すと、兵を率いて断崖を降りようとする。
「お待ち下さい、将軍。将軍に何かあっては困ります。将軍は筵でその御身を守り、我々の後に続かれては?」
兵の一人が心配そうに提案したが、鄧艾は首を振る。
「案ずるな。私の身に何かあれば、副将である杜預の命令に全て従うのだ。杜預は私より遥かに優秀だ。何も心配いらない」
鄧艾はそう言うと、兵を鼓舞する様に自ら断崖を降り始める。
指揮官自らが危険を顧みず先陣を切る姿は、兵の士気を高める効果も十分だった。
断崖を降りたところで、鄧艾と杜預だけでなく兵達も合流する。
「恐れていたほどでは無かったですね」
「準備が入念だったからですよ。では、縄を持って上に登る事が出来れば少なくとも縄を張る事が出来る訳ですね。ここから見る限りでは、向こうに登れそうな感じにも見えますが」
「よっしゃ、俺がやってみます」
杜預はそう言うと、身軽にひょいひょいと断崖を登っていく。
「頼りになるのは良いのですが、皆には無理な事を言ったりしていませんでしたか?」
鄧艾は近くにいた兵に尋ねてみる。
「無理……は、割と言われましたね」
兵は笑いながら言う。
杜預自身は仕事に忠実で、縄作りと言う一点で言えば予定より早く終わったのだと言う。が、そこでよしとせずに当初想定していたより長く丈夫な縄を作ると急に言い出したらしい。
反対側の崖の上から、新たな縄が投げ下ろされる。
杜預が登りきったらしい。
それを助けに、鄧艾と兵達は続々と崖の上に登る。
「おーい、浮かれるな。まだ何もなしてないぞー」
久しぶりに蜀の地を踏んだ投降兵達は、母国に帰り着いた事で大喜びだったが杜預は念の為に声をかける。
「まだ崖越えただけだからなー。ちょっと偵察隊出すぞー」
杜預が手を叩いて指示を出す。
この兵に関しては鄧艾より杜預の方がよくわかっているので、そこは全て任せる事にする。
いかに前線の裏手に出る事に成功したとはいえ、鄧艾が率いているのは蜀の投降兵であり、その数は三千に満たない数であった。
もしここに蜀の守備隊が残っていた場合、戦闘になる以前に杜預や鄧艾は簡単に捕らえられる事になりかねない。
手際よく偵察隊を編成した杜預はその隊を先行させる。
しばらく待つ予定だったのだが、偵察隊は予想以上に早く戻って来た。
「前方に砦があります」
「砦? こんな辺鄙な所に? それで守備兵は?」
「それが……。とにかく、来て下さい」
偵察隊の兵は複雑な表情を浮かべて、鄧艾達を呼ぶ。
単純に砦があったと言う訳ではないのは分かるが、急ぎで呼ぶと言う事は何か余程の異変があったのだろう。
偵察隊が予想より早く戻って来た事からも分かる通り、砦は断崖からさほど離れていないところにあった。
立派と言う事はないが、それでもこの断崖から奇襲をかけようと考えている、まさに鄧艾達の様な少数の奇襲部隊であれば十分過ぎるほどに対処出来そうな砦である。
が、砦があるだけで肝心の守備兵がいない。
もしこの砦に二千ほどの守備兵が配置されていれば、三千どころか五千でも一万でもある程度の期間を守り通す事も出来たはずであり、砦の中の様子を見る限りでは備えは十分過ぎるほどに整えられている。
「これがあの姜維の師であり、仲達様をして神の如しとまで言わしめた、諸葛亮孔明か。もし当代にも健在であれば、この奇襲ですら対応されていたという事になる。実に恐ろしくも素晴らしい方なのだな」
高い壁に深い堀、整然と並べられた竈などを見ても一時しのぎの為の砦ではなく、考えられる奇襲の兵の規模を正確に予測した万全たる防御力を誇る砦である事が分かる。
「姜維が兵を引き上げたのでしょうか?」
「いや、姜維はそこまで無能では無い。ほかの誰か、おそらくは黄皓辺りが無駄な兵の配置だと言って引き上げさせたのだろう。もしそうだったら、党均の手柄だな」
鄧艾はこの砦で休養を取る事を兵に伝える。
放置されたとはいえ、この砦自体は諸葛亮の遺産である事から、兵にも過ごしやすく設計されている。
また、侵入がバレたとしてもこの砦であれば連絡を受けた鄧忠や師纂の到着まで守る事も出来るだろうし、最悪の場合でもここで騒ぎを起こせば剣閣の姜維もいつまでも山に篭っている訳にはいかず、数の劣勢を抱えたまま鍾会と決戦せざるを得なくなる事も考えられる。
鄧艾はそう思っていたが、実際に起きた事はまったく想定していない事だった。
「……何だ? 何がどうなっているんだ?」
十分な休養を取った後、鄧艾は砦から蜀の大地を見渡した時に目を疑った。
蜀と言えば天険に守られた豊かな国と言われ、国土は魏と比べられないくらいに狭いものの、その生産量は国土から考えればかなりの量である事が予想されていた。
しかし、この砦から見渡した蜀の国土は、かつて鄧艾が運河を作る前までの淮南の様に荒れすさみ、とても豊かな大地とは思えなかった。
「……兵の中にこの近辺が故郷の者はいるか?」
鄧艾は杜預に尋ねる。
「ちょっと確認してみます」
杜預が確認したところ、この近辺の出身者が数名いたのだが、彼らもまた鄧艾達と同様かそれ以上に衝撃を受けていた。
正直に言えば、鄧艾は蜀の辺境は相当貧しいだろうというのは予想していた。
それは党均からの報告もあったのだが、戦の規模や出費などの観点からも地方にはかなりのしわ寄せが行っているだろうと思っていた。
だが、この荒れ具合は鄧艾の予想を遥かに超えている。
本来であればこの近辺の出身者の者を使いに立てて、多少なりとも食料なりを供出してもらえれば、などと考えていたのだがこの有様では供出どころか、小さな村などであれば生存していないかも知れないほどだった。
「これより、もっとも近い城である江油城を攻める。本来であれば鄧忠達と合流してからと思っていたが、我々も食料が尽きた。この近辺は非常に貧しいが、城にまで食料が無いという事は無いはず」
鄧艾はそう言った後、一度言葉を切って兵士達を見回す。
「この鄧艾、皆に一つ約束しよう。もし江油城に十分な兵糧があったのならば、我々は必要最低限だけを手に次の涪城攻略に取り掛かり、余剰の兵糧は全て近隣の村や集落へ分配する。蜀の民からすれば私は侵略者である事に違いはないが、私の目的は蜀という国の打倒であっても、蜀の国に住む民の根絶やしでは無い。偽善に思われても仕方のない事だが、今、目の前で餓えに苦しみ死にゆく民を見殺しにする事は、私には出来ない。皆、力を貸して欲しい」
鄧艾の言葉に、蜀からの投降兵だった者達の士気も上がる。
生粋の武将ではなく、元は農政官であった鄧艾の言葉だからこそ響いたのかもしれない。
また、鄧艾を含めた奇襲部隊の食料が完全に尽きた事も、彼らを焚きつけた要因になったとも言える。
いずれにしても、鄧艾は投降したとはいえ蜀の兵を率いて、蜀の攻略を開始したのである。
その最初の標的となった江油城だが、主戦場から遠くかけ離れている事もあって、城壁にはまともに見張りの兵などもいない。
特別治安が良く、統治がなされているという訳ではなく、ただ単純に城主にしてもその守備兵にしても怠慢なのだと鄧艾は察した。
と、同時に怒りもこみ上げてくる。
もちろん城の守りが手薄なのは有難いし、兵が怠慢であれば攻略する上ではなお良しとさえ言える。
しかし、閑職扱いを受けていた雍州各郡の太守達も、貧しい土地に住む者達をいかに生活させていくかを思案し、共に少しでも豊かにと知恵を出し合ったものだ。
この蜀の大地を見る限り、完全に見捨てられている。
そう思うと、鄧艾はこの城だけでなく、この近辺を治める太守などにも怒りを覚える。
鄧艾達の奇襲部隊はまともに攻城兵器など持ち合わせていないのだが、何しろ城壁はさほど高くない上に荒れて補修もされていないだけでなく、見張りの兵などすらいないのである。
ここへ来る断崖と比べると、この程度の城壁を登る事などまったく問題にならなかった。
江油城主である馬邈は、この時酒宴の真っ只中だったのだがその酒宴の場に鄧艾達が踏み込んでくるまで敵襲を知らなかったという有様であった。
「お前が城主か」
「な、何事だ! 謀反か!」
「敵襲だよ」
鄧艾は剣を抜いて、馬邈の肩の上に刃を置く。
「私は魏の武将、鄧艾と言う。城主よ、これよりだが、いかがする? 私と一戦交え、その武名を知らしめるか?」
馬邈の肩を剣で叩きながら、鄧艾は睨みつけて尋ねる。
いかに前線から離れていても、鄧艾の名は馬邈も知っていた。
あの姜維と互角に戦う魏随一の武将。
その武将が何故こんな前線から離れた城に現れたのかと言う疑問は、今の馬邈には浮かばなかった。
剣が横に降られれば、首が飛ぶというこの状況でそこまで頭が回らなかったのである。
「城主、いかにする?」
その問いに、剣をもって答えるほどの気概は馬邈には無く、すぐに降伏した。
「……随分と豊かに見えるな。杜預、城内の兵糧を調べよ」
「はっ」
鄧艾は馬邈の肩に剣を置いたまま、杜預に指示を出す。
また、城主が降伏した事を告げ、江油城の兵士達にも無駄に抵抗しないのであればこれ以上の危害は加えない事も約束する。
「この様子だと、近隣の村や集落に分配というのも一苦労だな。誰か書記官はいないか? 一筆書いて各村へ届け、そこから取りに来てもらう様にした方が効率的かもしれない」
鄧艾はそう言うと、書生を一人呼ぶ。
文面としては、江油城に不正に蓄えられていた兵糧が大量に発見されたので、それぞれの村に分配する事にしたので、各村集落の代表が江油城まで取りに来られたし。その際に運搬用の荷車や牛車などが不足した場合には江油城からも協力する、と。
「……ほう、こんな地方の書生などやらせておくのは惜しい文才だな。名前は何と言う?」
鄧艾はその書生が書いた文面を見ながら、感心して尋ねる。
「はい、陳寿と申します」
断崖を降りたのは
この物語では杜預が行ってますが、演義では鄧艾自ら最初に崖を降り始めます。
演義でも正史でも杜預は鄧艾旗下の武将という訳では無いので、この崖を真っ先に降り始めるという事はありえないのです。
たぶん司馬昭の本隊に配置だったのではないでしょうか。
正史では鄧艾が先頭に立つ事はありえません。
だって七十過ぎた老人だし。
最後に出てきた作者様についてはまた次回以降という事で。




