序話 二六三年
この物語は三国志演義をベースに、独自解釈と特殊な設定を盛ったフィクションです。
登場人物は史実と大幅に異なるところがあります。
参考文献
陳舜臣監修 中国劇画三国志
日本文芸社 三国志新聞
Koei 三国志武将ファイル
Wikipedia
などを参考とさせていただいた二次創作物です。
※更新は毎週金曜日を予定していますが、不定期になる恐れもあります。
西暦二六三年、これまで蜀の北伐を防いできた魏はついに蜀征伐に乗り出す。
それは時の大将軍、司馬昭自らが指揮を取る大々的なものだった。
迎え撃つは、蜀の大将軍である姜維。
魏は鄧艾を当たらせるが、軍事の天才である姜維に苦戦。
司馬昭はさらに鍾会に十万の兵を与え、援軍に向かわせる。
それを迎え撃とうとした姜維を鄧艾は知略で追い詰めた。
千載一遇と言えた好機だったが、姜維はそれを切り抜け要害である剣閣に立て篭る。
鍾会はそれを一気に打ち破ろうとしたが、姜維の防備は固く打ち破る事は至難となっていた。
「姜維は紛れもない天才。正道で当たって勝利は見込めません」
鄧艾は鍾会に向かって言う。
年齢で言えば鄧艾は鍾会よりかなり年上であったが、将軍位こそ鍾会と同位であり名家の生まれと言う事もあって、鄧艾は鍾会に対して一定の礼を持って接している。
それもあって鄧艾は、鍾会を上位として扱っていた。
「ほう。これまで姜維の侵攻を阻んできた鄧艾将軍でしか勝利はもたらせないと?」
そう言ったのは鍾会ではなく、その部下である田続である。
「よさないか、田続。鄧艾将軍はこれまでに数々の武勲を上げられた名将。その実力はかつての大都督である仲達様や郭淮将軍達も認めている。しかし将軍、蜀の姜維の実力は侮れない事は僕も戦ってみて分かりましたが、その武勇や指揮、知略においても傑物の類。下手な策では通用しないと思いますが、将軍には何か妙案がありますか?」
田続をたしなめる鍾会だったが、その目には言葉ほどの余裕はない。
鄧艾にはこれまで多くの武勲があり、その実力や人望は魏随一とさえ言えるほどである。
それに対し、鍾会はまだ何も実績が無い。
司馬昭に対して大見得を切って援軍に来た以上、ここで結果を出さなければならないのだが、知略において他に及ぶ者無しを自負する鍾会の目にも剣閣を抜くのは容易な事ではない事は分かる。
知略はともかく、軍略においては比肩する事を認めてやってもいい鄧艾が、この苦境をどう打破するつもりかは興味があった。
だが、鄧艾はそれに対して首を振る。
「これまで私が姜維に勝利出来たのは、姜維が魏に攻めてきたのを私が防いだからです。こちらに地の利があって、初めて勝利を得られた事。此度は逆に向こうに地の利があります。事実、ここでの戦は連戦連敗。当代の王佐の才と謳われる鍾会将軍にこそ、何らかの手立てがあるのでは?」
鄧艾は謙遜して鍾会に水を向けるが、鍾会は首を振る。
「僕には実戦経験が少なく、全て机上の策。鄧艾将軍の様に実戦で練られた血肉の通った策では無いので、上手くいくとは限らず、また兵士もついて来てくれるか心配です。まして相手があの姜維となれば、僕の経験不足は致命的でしょう。なにとぞ、良策をご教授下さいますよう」
鍾会は、年長の鄧艾を立てる様にいう。
とは言え、まったく本心を偽っているという訳ではない。
蜀の大将軍にある姜維は若くして最前線にあり、その戦歴は長く、しかもかなり濃い。
あの諸葛亮の腹心、と言うより一番弟子の立場で北伐に参加して司馬懿と戦った経験があり、幾度となく勝利を収めている実力者である。
そんな人物が蜀の精鋭を率い、要害である剣閣に立て篭っている状態は、鄧艾が言う様に正道の戦い方では被害が大きく時間もかかりすぎる。
何かしらの策を用いない限り、ここを抜く事も出来ず、それはつまり蜀征伐はなせないと言う事だった。
この後も鍾会と鄧艾はお互いに謙遜しあっていたが、先に折れたのは鄧艾だった。
「それでは地図を」
鄧艾はそう言うと、息子の鄧忠が机の上に地図を広げる。
「この地図を見る限りでは、陰平より間道が通り、その先の涪へ向かえば成都まで約三百里。この涪城を取れば奇兵にて敵の中心部を突く事となり、いかな名将姜維といえど剣閣から兵を動かさない訳にはいかず、そこを鍾会将軍が討つもよし。あるいは、姜維がそのまま兵を動かさないようであれば、兵は少ないままなので、このまま攻め落とすもよし」
「素晴らしい!」
鄧艾の策を聞いて、鍾会は感嘆の声を上げる。
「かつて呉の孫権は、大都督の仲達様を『神の如き手腕』と称えた事があったと言うが、鄧艾将軍の奇策は往年の大都督にすら劣らない。僕などが足元にも及ばない、まさに名将の中の名将の策。これ以上の妙策は無いでしょう」
「恐れ入ります」
「将軍、何かご入り用がありましたらなんでもお申し付け下さい。僕に出来る協力であれば惜しみません」
「では、将軍の率いた兵の中で、蜀の投降兵がいれば私の元へ送っていただけないでしょうか。もし蜀に帰りたいと思っている者がいれば、一切の罰に問わず鄧艾の元へ行けと言って下されば、当面はそれ以上の入用はありません」
「分かりました。全面的に将軍に協力致しましょう」
鍾会はそう言うと頭を下げる。
「では、さっそく我らはその準備にかかりますので」
鄧艾と鄧忠はそう言うと鍾会の幕舎を出る。
「良かったのですか?」
鄧艾が出た事を確認した後、田続は鍾会に尋ねる。
「当代の名将と言われる鄧艾、どれほどの者かと思ったが、とんだ愚か者だったな」
鍾会は笑いながら、地図を見る。
「この陰平の間道、地図には記されているものの、実際に道と呼べる様なものは無いんだよ。これはあの諸葛亮の小細工で、この道は地図に記され、ここから奇襲をかける事が出来ると敵に伝えるだけものものであり、いざその道へ行こうとすると、そこは山や崖に阻まれる迷路に誘われる事になる。僕には確かに実戦経験は少ないかもしれないが、それで侮られる程度の知識しか持っていない訳ではない。古今の兵法を調べ、その研究も行ってきた」
鍾会は鼻で笑う。
「諸葛亮はかつて石兵八陣とか言う奇策で迷路を作り出し、呉の陸遜をハメた事があると言う。この奇道もその名残と言えるだろう。功を焦った者ほど、この間道を行きたがる様に仕向けていると言う訳だ」
「つまり、功を焦った鄧艾はその策にまんまとハマったと?」
「その程度も見抜けぬ愚か者だったと言う事よ」
鍾会はそう言うと、地図を片付けさせる。
「で、どうしますか? 念のため蜀軍にこの情報を流しておきますか?」
「姜維と言う男が僕と同程度の知略を持ち合わせているのであれば、この情報を手にすれば大喜びで手を叩くだろう。何しろこちらが何もしなくても勝手に死んでくれるのだからな」
鍾会はそう言うが、一旦言葉を区切る。
「だが、一応蜀の連中にも情報を流しておくのも良いだろう。もしそこに兵を割いてくれるのであれば、こちらは力で突破しやすくなると言うものだからな」
「父上、良かったのですか?」
「何が?」
「鍾会のヤツ、口ではああ言っていたものの、内心では父上を馬鹿にしていた様に見えました。ここまで蜀軍を追い詰めたのは父上の功績だと言うのに、後から出てきて手柄を横取りしようとは、浅ましい限りではありませんか」
怒り心頭の鄧忠に対し、鄧艾は笑う。
「姜維はそれほど簡単に打ち破れる者ではない。鍾会がどれほどの大軍を率いたとしても、本気で守る姜維を破るのはまず無理だろう」
「ですが父上、この間道は危険過ぎます。この間道は言わば蜀軍の釣り針の様なモノ。露骨に見せる罠は、罠の気配だけで実際には無いと言う勘違いを引き起こさせる罠。俺に分かる事であれば、父上にも分かっている事でしょう?」
その事は、もちろん鄧艾にも分かっている。
「もし相手が諸葛亮であれば、万に一つも成功する事は無い無謀だろう。だが、姜維は諸葛亮と比べ大胆な武将。おそらく剣閣から兵を動かさず、成都にも連絡しない事だろう」
本来であれば、それは有り得ない愚行である。
いかに大軍を率いているとは言え、姜維の率いる大軍が蜀軍の全てと言う事は無い。
もし間道を抜ける事が出来たとしても、それは大軍と言う訳にはいかない。
鄧艾が間道を抜けて成都を急襲する恐れがある、と成都に報告するだけで守備軍を動かして対策するだけで、この策は失敗する。
だが、姜維はそれをしないと言う自信が鄧艾にはあった。
これまでに北伐を繰り返しながら結果の出せない姜維に、蜀の者達は不満を抱えている。
先年には成都に呼び出して暗殺しようとした、と言う事も起きている。
蜀に投降した夏侯覇がいた頃には皇族の後ろ盾を得ていたが、今では完全に孤立している状態だった。
そんな中で奇襲の恐れ有りの報告を送った場合、前線より全軍撤退し首都の防衛に当たれと言う命令が下る恐れがある。
と言うより、まず間違いなくそうなる。
そうすると司馬昭率いる大軍はまったく無傷で蜀国内に入り込み、首都以外の蜀の国土を魏に与える事になる。
その事を姜維は知っているので、報告しようにも出来ないのだ。
それにしても、賭けである事に違いはない。
こう言う賭けはあまり好きではないのだが、生前の司馬懿はこう話していた事があった。
「諸葛亮は神の如き知略の持ち主であり、千年の後にも語り継がれるべき最高の軍師だったが、あまりにも完璧を求めすぎた。最初の北伐の際、蜀の大将である魏延は間道からの奇襲を提案したという。あの時、魏には侵攻に対する備え少なく、成功の可能性は高いとは言えないまでも悲観するほど低くなかった。だが、諸葛亮は採用しなかった。失敗して失うものの大きさを恐れたのだ。それはそれで間違ってはないのだが、勝てば全てを得られたものを、諸葛亮はその一歩を踏み出せなかった。故にあれほどの才覚を持ちながら、結果五丈原にて天命を使い果たす事となったのだ」
今にして思えば、司馬懿の言葉は今この時の為だったのではないかとさえ思える。
かつての司馬懿の話と、今の状況が重なる。
この間道を行く奇襲も、成功の可能性は高いとは言えない。
しかし、成功すれば蜀は終わる事だろう。
鄧艾にとって一世一代の大博打が始まろうとしていた。
細かいところですが。
史実の鄧艾は吃音がひどかったらしく、それによって出世が遅れたとあります。
が、本編では流暢に喋ります。
セリフの一つ一つをどもらせると、結構見づらく、読みづらくなりますので普通に喋るキャラになってます。
また、年齢もエルフ式で、ある程度まで成長すると老化しなくなります。
このあたりは演義でも採用されている方式ですね。
と言うのも、史実によると二六三年の鄧艾は推定年齢七十代、姜維は六十代との事でいくらフィクションでも、さすがにリアリティー無さ過ぎな展開になってしまいますので、実年齢は考えない様にして下さい。
なお登場人物がたくさん出てきましたが、今回出てきた名前のほとんどがいずれ本編でも出てきますので、気長にお待ち下さい。