第8話 袂を分かつ時
「……とまあ、そんなことがあったわけだ」
話を終えたアギは腹が減ったと言って、リムドがマルシャのために買っておいたチーズを勝手に齧り始めた。それを見てもマルシャは怒り出そうともせず、
「ダルカンの奴、死んじまったのかい。因果応報、罰が当たったんだよ。姐さんの遺産を独り占めして、私を追い出したんだからね。ざまあみろって言うもんだ! これで気持ちよく眠れるね!」
と吐き捨て、テーブルから降りてベッドへ潜り込んだ。
ところがリムドは逆に眠気が吹き飛んでしまった。ダルカンの死は兎も角、アギがもたらした数々の情報が、あまりに衝撃的だったからだ。貴族の奥方の正体。そしてその奥方を狙う敵の一味が、仲間の仇を捜していたこと。心配していたことが現実となり、リムドはじっとしていられなかったのである。
「そんなことがあったとは……。アギ、本当にその二人は副団長殺しが、グレンの仕業だってことに気付いていないのかい?」
「あー、平気平気」
チーズを頬張りながらアギはぱぱっと手を振って見せた。
「その点は心配いらねえよ。奴らグレンの噂すら聞いたことがないみたいだから。だけど当分の間、グレンを外に出さん方がいいな」
「ああ。でもその導師って人物は誰で、国王に知られたくない秘密って何だろう?」
「さあてなあ……。奴らも『導師』と呼んで名前は口に出さなかったし、秘密についても『あの事』としか言っていなかったしな」
アギはもう説明するのも面倒なのか、チーズを手にベッドへ移動。だがリムドは椅子に腰を下ろしたまま、考え込んだ。腑に落ちない点が多すぎるのだ。
アギの話から推測するに、ビスタ侯爵家には敵対勢力がいるようだ。グレンに倒された鞍無しが副団長であることから、その敵は竜兵団を従えている。国王より竜兵団の所有が許可されている者は、ヨマーンでは貴族のみ。竜騎士を抱える非公認の市民兵団や盗賊団も僅かに存在するが、鞍無しがいるという話は聞いたことがない。つまり普通に考えれば、その敵は他の貴族ということになるのだ。
ここまではリムドも、グレンが護衛の依頼を受けた時点で何となく想像はついていた。ああ、下級貴族が領地争いでもめて、国王へ直訴しに行くのかと。それを相手の貴族が阻止しようとしているのだと。平和なヨマーンでも時々そのような貴族間紛争が起こり、国王が直接介入に出ることがあったのである。
しかし、実際はそうではなかった。ビスタ侯爵家はヨマーンの貴族の中でも屈指の実力を持つ。そのビスタ家を敵に回し、奥方を亡き者にしようと企む貴族が、果たして存在したかどうか。そのような凶悪な手段に訴えてまでも、敵が国王に知られたくない秘密とは……。
更によくよく考えてみれば、それほど重大な秘密を国王へ伝えるために、奥方を使者に立てるのも如何なものか。領主自らが出向くか、それが無理ならば信頼できる家臣ーー竜兵団団長を向かわせるのが筋だろう。ビスタ侯爵家ほどの名門貴族の竜兵団ともなれば、保有する竜騎士は優に十騎を越えるはず。火竜の翼を以てすれば、国内ならば何処にいても一日とかからず王都へ着く。わざわざ時間をかけ、馬車で危険な陸路を進む必要性など何処にもないのだ。
ザントとラージが主のことを導師と呼んでいたのも引っかかった。リムドも最初は仲間の「同士」かと思っていたが、アギは間違いなく僧の「導師」だと断言していた。我が主君は大いなる神から力を与えられた方だから……という話が、あの二人の会話の中に出てきたという。
王侯貴族中には僧を兼ねる者も少なくなく、あの二人が主を「導師」と呼ぶことに不自然な点はない。問題は敵の主が僧ということだ。ヴィルダストリアの僧が仕える神は、唯一神ベルメールに他ならない。ベルメールはこの世界の創造神であると同時に、正義と秩序を司る神でもある。邪悪な者に力を授けるはずがない。それとも邪悪なのは奥方の方なのか……。
ーーとにかく、急いで敵の正体を探らなくっちゃ。明日は直ぐにでも王立図書館に行こう。
そうリムドが自分に言い聞かせているうちに、腹を満たしたアギは楽屋へ戻り、カグラが舞台へ出てきた。ああ眠いと大欠伸をしながら、さっさと毛布にくるまるカグラ。リムドも直ぐに床へ着いたが、頭の中で謎と疑問がぐるぐると渦巻き、容易に寝付けそうになかった。
夜が明けた六月四日の朝、午前九時頃。ファシドはマルシャと共に王都から一マール(五百メートル)ほど南に離れた所にある森の中にいた。ここはトゥーラムの南東から延々と続く広大な森。セレアナが二人の護衛を連れ、王都へ逃げ込む時に通ったと思われる、あの森である。
二人がここへ来ることになったのは、マルシャが望んだからだった。森に点在する草地の一つに、モラという野草が群生している場所がある。モラは丁度今ぐらいの季節に青い可憐な花を咲かせる。アトラは生前この花が好きだったので、マルシャは献花する花を摘みたかったのだ。
アトラ一人分の花であれば、マルシャだけでも十分だった。しかしリムドは、一緒に両親や祖母の墓参りもするだろう。それほどの量の花を、マルシャだけでは持ちきれない。リムドに付き合ってもらいたくても、王立図書館へ行く予定がある。
そこでマルシャは、カグラ団一行に同行を願い出た。四人は代わる代わるマルシャの前へ現れたがーー
「あー、面倒臭い」
「花摘み? 馬鹿言っているんじゃないよ! そんな飯事に付き合っていられるかい!」
「おいおい、俺にガキの使いをさせようっていうのか?」
とまあ、うち三人はけんもほろろに断ってしまい、お人好しのファシドだけが快く承諾した次第である。
副面体と共に行動するところを、人に見られるのは避けて欲しい……というリムドの言いつけ通り、マルシャはファシドと別々に王都を出て、森の入口で合流した。森は薬屋が薬草採取のため訪れる程度で、王都の住民は殆ど入らない。二人の姿が目撃される恐れはまずないだろう。
鬱蒼とした森を十分ほど歩いた後、二人は目的地である草地へ到着した。広さは円形競技場ほど。中に生えているのは種々雑多な草のみで、低木の一本すら見当たらない。
薄暗い森の中とは違い、日差しが直接届く草地の中は明るく、青々とした草も映える。目の覚めるような緑地を前に、ファシドは一曲歌いたいような気分に駆られた。ところがマルシャはそれどころではなかった。お目当てのモラの花が一輪も咲いていないのだ。
「どういうこと! いつもの年ならそれこそ絨毯みたいに咲いているの……」
急にマルシャが口ごもった。この場にいるはずのない生き物が一匹、奥の方で草を夢中ではんでいる。褐色の鱗。細長い首と尾。皮膜の翼。それはーー
「翼竜だ!」
ファシドが声を上げた途端、翼竜は口をもごもごと動かしながら、二人の方へ歩み寄ってきた。
翼竜は竜兵士が騎乗する竜だ。全長は二十八ライゼ(十四メートル)前後、翼長は三十八ライゼ(十九メートル)前後と火竜に比べて小柄。体色は灰色や褐色等と地味で、バリエーションも少ない。
翼竜の最大の特徴は、前足が翼となっている点である。構造はコウモリのそれと同じで、この点は他の二種の竜と共通している。ただ翼竜には、器用に物を掴める「手」に該当する部分がない。
頭部は細長いトカゲといった感じで、角もない。体格は華奢で重量感に乏しく、尾も鞭のように細長い。飛翔速度は火竜には劣るものの、飛行能力となると話は別。翼竜は身軽で空中での動きは機敏、火竜には難しい急旋回も難なくやってのける。中には空中停止までこなす個体もいるほどだ。
知能は犬程度で、念話による意思疎通も出来ない。誇り高き肉食の火竜、雑食で悪食な飛竜とは異なり、翼竜は完全な草食性だ。食性の影響もあって性格は温厚かつ従順。「扱いは馬とほぼ同じ。違いは空を飛ぶことだけ」と言う者もいる。
火竜や飛竜は、乗り手と対等な立場であることに固執し、無条件で人には従わない。しかし、翼竜は乗り手を選ぶことも殆どないうえ、調教によって意のままに操ることも出来る。口の奥の歯が生えていない箇所に馬銜を噛ませ、手綱で御すのである。
ただ翼竜は炎の吐息も吐かず、草の咀嚼に適した平たい歯も、攻撃には不向き。やや臆病な嫌いもあるので、戦闘能力は期待出来ない。そのため竜兵士は、竜兵団の中では格下扱いされる。火竜と契約したくても出来ない兵が、代用として騎乗することが多いのだ。
さてーー問題の翼竜はファシドとマルシャの前で止まると、くわぁと嬉しそうに鳴いた。構って欲しくて近付いてきたようだ。手綱も鞍も装着しており、誰かの騎竜であることは明白だったが、乗り手の姿が見当たらない。どうも近くにはいないようだ。が、その半開きになった口の中に、青い花びらを見つけたマルシャは金切り声を上げた。
「何てこった! お前が根こそぎモラの花を食べたんかい!」
怒ったマルシャは爪を立て、翼竜の足を力任せにひっかいたが、分厚い鱗に阻まれて掠り傷一つ付けられない。翼竜はけろっとした顔でマルシャを眺めるばかりだ。
「へえ、翼竜ってモラの花が好物だったんだ。知らなかったなあ」
呑気なファシドは微笑みながら翼竜を見上げた。翼竜はよく人に馴れると聞いてはいたが、この個体は子猫のように大人しい。ファシドも間近で見るのは初めてであり、珍しさもあって撫でてやろうと手を伸ばした。
その時だった。南の空から何かが猛スピードで草地めがけて飛んできたのだ。それは見事なまでに美しい、エメラルドグリーンの火竜だった。翼が巻き起こす突風が辺りの草花を凪払い、ファシドは顔を背け、マルシャは慌てて身を伏せた。
ずん、というという地響きと共に、火竜は草地の真ん中に降り立った。その背には鞍が据え付けられていたが、乗り手たる竜騎士の姿はない。
突然の火竜の出現に翼竜は驚きもせず、場を譲るように後退した。この二匹、どうやら「顔見知り」らしい。
マルシャは恐怖のあまり縮み上がった。自分達が翼竜にちょっかいを出したので、火竜は怒っているのかもしれない。炎の吐息を吐かれたら……そう思うと震えが止まらなかった。
「まずいよ、ファシド! 早く森の中に!」
が、いくらマルシャが急かしても、ファシドは一歩もその場から動こうとはしない。どういう訳か呆気にとられ、かちかちに固まってしまっている。
そうこうしている間にも火竜は広々とした皮膜の翼を畳み、二人の側までやってきた。幸いマルシャの心配は杞憂に終わったようで、火竜から敵意は感じられなかったが、少し様子がおかしい。マルシャの方には目もくれず、長い首を伸ばしてファシドだけを見詰めている。しかもその視線は異様なまでに熱かった。まるでプロポーズをした男が、恋人からの返事を待っているかのように。
当のファシドは俯き黙り込んでいたが、暫しの後ゆっくりと面を上げた。
「ガロディリアス……?」
ファシドが漏らした言葉を耳にした途端、火竜は頭を高く突き上げ、咆哮した。
『我が名を間違いなく捉えたのだな! おお、我はついに巡り会ったぞ! 我が半身たる者と!』
ファシドの頭の中にがんがんするほどの大音量で、火竜の歓喜の声が響き渡った。それは雑音が全くない、実にクリアな念話だった。
狂喜乱舞し、天へ向かって高々と祝賀の火を吐く火竜。その姿を目の当たりにしたファシドは、ある話を思い出した。真の乗り手を持たぬ火竜は、常に特殊な念話で己の名を周囲に「発信」している。真の乗り手は多少離れていてもこれを捉え、正確な名前までも知り得る。火竜が現れた直後、ファシドが固まったのも、突然火竜の名が頭の中に浮かび、訳がわからず混乱したからだ。
これに対し仮初めの乗り手は、目の前まで来なければ念話を捉えられないうえ、略称しかわからないそうだ。ガロディリアスならガロリィ程度にしか。
火竜は発信した我が名を真の乗り手がキャッチしたその一瞬、心が繋がったような感覚を得るという。されど火竜は慌てず、まずは相手を見据え、己の名を理解したかどうか確認を試みる。相手がその名を正確に返せば確定だ。直ぐにでも盟約を結ぼうとするだろう。
だがファシドはこの火竜ーーガロディリアスの真の乗り手になることに、全く乗り気ではなかった。気が弱い自分に竜騎士など不相応だということもある。しかし何と言っても最大の問題は、真の乗り手を得た火竜は他の人間を決して受け入れないという点にあった。もしファシドがガロディリアスの望むまま、竜騎士になったらどうなるか。楽屋メンバーの存在は無視され、リムドやマルシャは置き去りにされてしまうに違いない。何が何でも、竜騎士に「される」ことだけは避けなければならなかったのだ。
一方、ファシドの心中など知る由もないガロディリアスは、鞍を胴体に固定する革紐を食いちぎると、鞍諸共かなぐり捨てた。
『半身と巡り会えた以上、もうこのような物は不要ぞ!』
後ろ足でむんぞと鞍を踏みつけると、ガロディリアスは牙を見せて嬉しそうに笑った。
『さあ、我が半身よ! 我と盟約を結ぶのだ。我は今より「我は汝と一心同体。死すまで汝と共にあり」と宣言する。お主がそれに受け入れれば盟約は成立だ!』
「そ……それはちょっと……。ほら、僕は吟遊詩人なんだよ。僕みたいな軟弱者じゃなくて、もっと騎士らしい立派な人を乗り手にしたら……」
『見た目など一切関係はない! 我が声を支障なく聞き取れることこそが重要なのだ!』
「でも僕は騎士って柄じゃないし……」
『構わぬ! 我が認めた者こそが真の乗り手なのだ!』
ガロディリアスにしてみれば、ここでファシドを手放す気など毛頭なかった。生涯をかけ探し求めてきた真の乗り手と、ようやく出会えたのだ。見た目の貧弱さなど眼中にはない。その背に乗せれば飛翔速度が上がり、爆炎球が放てるようになるのだから。この機を逃すまい、必ずや盟約を結ぶのだーーそんな鬼気迫る思いが、全身からオーラのように立ち上っていた。
マルシャは当初、この両者の間で如何なる会話がなされているの全くわからなかった。ガロディリアスが念話で話しかけていたのはファシドであり、マルシャには聞こえていなかったからだ。だが状況から、ファシドが如何なる災難に巻き込まれているのかを悟り、助け船を出すべく動いた。背後からジャンプすると、ファシドの肩に前足を引っかけ、耳元でマルシャは囁いた。
「早くこんな奴から逃げな! 魔力持ちのあんたならどうにかなるんじゃないの!」
マルシャの一言でファシドはようやく考え始めた。竜騎士にならずにすむ方法を。もしグレンだったら躊躇なく剣を抜くところであろうが、暴力沙汰を嫌うファシドに同じ真似は無理だ。かといって諦めるよう相手を説得するのは至難の業、と言うかほぼ不可能。マルシャの言うように逃げるしかない。
逃げる手立てがないわけではなかった。火竜は視覚と聴覚は優れているが、嗅覚は鈍い。姿と気配を消せば、撒くことも可能だろう。されど火竜の真の乗り手に対する執着心は凄まじい。たとえ見失っても血眼になり、死に物狂いで捜す筈だ。王都へ逃げ込みでもしようものなら、町中まで追って来るかもしれない。
『どうしたのだ、我が半身よ! よもや我と盟約を結ぶことを拒むわけではあるまいな!』
ガロディリアスは苛ついているようだった。竜騎士に憧れ、火竜と共にありたいと切望する人間は多い。鞍無しともなれば尚更のはず。ファシドが何故盟約を結ぶことを渋っているのか、ガロディリアスには理解不能だったのだ。
「だ、だけどさ。今までの乗り手にきちんと断っておいた方がいいんじゃ……」
『あやつか? もはやあんな男に用はない。今更礼を尽くす必要もなかろう』
「でも黙って去ったら、きっと彼も怒ると思うよ。お別れの一言でも……」
『ならぬ! あの腹黒い男のことだ。その様なことをしようものなら、お主を殺しかねぬ!』
そう叫ぶや否や、ガロディリアスは鼻孔から蒸気を勢いよく噴射した。もう一刻の猶予もないと言わんばかりに。「あの男」が戻ってくる前に、ファシドを乗せてここから立ち去りたいのだ。
ファシドは焦った。このままでは強引に盟約を結ばれてしまう。楽屋メンバーに助言を……と考えたその時、ファシドはふっとあることを思い出した。
ーー確か王都の南門の前には、まだ「あれ」が残っていたんじゃ……。
ファシドはマルシャを背中から降ろすと竪琴を手に取り、にっこりと笑った。
「それじゃ盟約を結ぶ前に、一曲如何? 君と僕の運命的な出会いを記念して」
『そうか! 是非お聞かせ願おう!』
時間がないと苛立っているわりには、ガロディリアスは相好を崩し、あっさりその場に座り込んだ。ファシドの「好意」を無下にしたくなかったのか、単純に嬉しかったのかは定かではないが。
ファシドが披露したのは、結婚式などの吉事に歌われる祝い歌だった。ファシドの澄み切った美声と竪琴の音色が紡ぎ出す、心弾むテンポの良い曲に、ガロディリアスも上機嫌。リズムに合わせて尾や首を振り、楽しんでいた。
無論、ファシドはただ歌っているだけではなく、歌に魔力を乗せていた。魔力耐性の高い火竜だが、意外にも魔力の感知能力は低く、ファシドもそのことは計算済みだった。
曲が終盤に差し掛かった頃、火竜は急に動きを止め上空を見上げた。しかし、時既に遅し。突如として頭上の空間に出現した強大な黒い「穴」に、あっと言う間に吸い込まれ、消えてしまったのだ。「顔見知り」の突然の消失に驚き、翼竜がぎゃっと叫ぶ。
「ふう……。どうにか上手くいった……」
ファシドは崩れるようにうずくまった。恐怖と疲労のせいで顔色は真っ青だ。マルシャが心配そうに覗き込む。
「大丈夫かい? ところであんた、一体何をした?」
「異街道の入口を南門前からここまで引き寄せたんだよ。いくら火竜といえど、一旦異街道に入ったら終点に着くまで出られないからね」
「ひゃーっ、そんな無茶苦茶なこと! それであのでかぶつを何処に送り込んだんだい?」
「わからないよ。兎に角、一番遠くまで延びている異街道を選んだから……」
「一番遠く……。ってことは、モーリスかい!」
流石は元転送魔術師の使い魔、直ぐにぴんときたようだ。モーリスとは南の国境沿いの町で、王都からは優に千二百マール(六百キロ)はある。
ガロディリアスに盟約を迫られた時、ファシドは懸命に考えた。遠くに逃げるため、時間稼ぎをしなければならないと。相手に「もう王都とその周辺にはいない」と思わせるだけの。
そしてそれは上手くいった。モーリスならば火竜が全速力で休まず飛行しても、王都まで四、五時間はかかる。それも迷わずに最短距離で来られればの話だ。
「異街道の入口を引き寄せるのは意外にしんどかったよ。カグラならこれくらい何てことないだろうけど。御免ね、マルシャ。もう花摘みどころじゃない。早くリムドと合流して、王都から離れないと」
「まー、仕方がないさ。私が花摘みに誘わなきゃ、あんたもこんな目に遭わずに済んだんだし。でもあんな不男にプロポーズされるなんて、あんたも運がないねえ」
「僕が人間の戦士で一人旅をしているのなら、両手を上げて歓迎するところだけどなあ……」
ため息をつくと、ファシドは疲れを癒すため、マルシャと草地縁の木陰まで移動した。本当は直ぐに楽屋へ戻りたかったのだが、物臭なカグラが歩くのが面倒、森の入口まで出ていろと拒否したのだ。
更にファシドの「不運」は続いた。五分と休まぬうちに人の声が近付いてきたのだ。マルシャがぴくりと耳を立て、左手ーー森の入口の方を向く。翼竜も聞こえたようで、はっとなったように首を伸ばした。
声の主は男、しかも二人だった。相手はこちらに気付いていないのか、会話を止める気配はない。黙ってこの場から立ち去れば、姿を見られることはなかろうと、ファシドは腰を上げた。が、木立の間から相手の姿がちらりと見えた瞬間、血相を変えてマルシャを抱きかかえた。
「マルシャ、静かに! 姿を消すから!」
直後、ファシドは魔力で姿を消した。マルシャもファシドの慌てようからただならぬものを察し、黙り込んだ。
程なくして、男達の会話の内容が聞こえてきた。宿で代金の件でごねられた。門兵に怪しまれて尋問された。おかげでえらく時間がかかった……等々、下らない文句ばかり言っている。
ファシドは姿を消したまま息を凝らし、相手が来るのを待った。しかしこの時、カグラの念話の声が聞こえたのだ。カグラが何やら命じる声が。
ファシドが想定外の災難に見舞われていた頃、リムドは王立図書館にいた。王立図書館は王都の中心部からやや西寄りの一画にあった。白大理石で造られたその建物は、神殿を彷彿させるような荘厳な物で、中に十万冊近い貴重な書物を収蔵している。
ただ、誰でも気軽に利用可能というわけではない。自由に閲覧出来るのは、王侯貴族や富裕層などの上流階級のみ。庶民が閲覧を希望する場合は、事前に利用審査の申請を行い、それにパスして初めて中へ入ることが許される。唯一の例外は、知識を世のため有益に使うとされる職業ーー賢者で、その身分を証明出来る物を提示さえすればよかった。
リムドは修行中の身であったが、ノーラムが事前にオルドーの領主ダルメス男爵に依頼して、賢者の身分証を発行してもらっていた。その男爵お墨付きの身分証のおかげで、すんなり入館することが出来たのだ。「随分と若い賢者だな」と受付の役人に笑われてしまったが。
受付を通過したリムドは大回廊を通り、その突き当たりにある書庫へ入った。書庫には黒檀の書棚が置かれ、各分野別に整理された書物が整然と並べられている。まだ早い時間ということもあり、室内にはリムドの姿しかなかった。
蔵書の配置図で場所を確認した後、リムドは竜兵団名簿が納められた書棚へ向かった。竜兵団名簿には国防に関わる機密事項が記されているが故に、厳重に取り扱われている。記載内容の転写は厳禁であり、情報が欲しければ記憶に頼らざるを得なかった。
竜兵団名簿は全七冊あり、ヨマーンで公認されている全ての竜兵団とその団員、騎竜に関する情報が記されている。最初の一冊を手にするにあたり、リムドは検索条件を頭の中で復唱した。副団長が青い騎竜の鞍無しであること。団員の中にザントとラージという者がいることーーと。アギがもたらした追加情報のおかげで、調査もより容易となっていた。
竜兵団名簿は五年に一度更新される。最新の更新は昨年の末に行われたと聞いた。それからまだ半年しか経過していないので、該当者の記載漏れの可能性は極めて低いだろう。
リムドは書庫に隣接された閲覧室に竜兵団名簿を持ち込み、一冊ずつ慎重に確認していった。だがどういうことか、七冊全てを見終わっても、条件に合致する竜兵団が見つからない。
ーー妙だなあ。鞍無しを抱えるくらいの竜兵団なら、盗賊団の類じゃない筈なんだが……。
リムドは頭を抱え込んだが、はたと思った。自分は敢えて幾つかの竜兵団を飛ばして調べていた。それはここが該当することなどない、調べるまでもないと確信していたからだ。
まさか……と思いつつも、リムドは再度竜兵団名簿に目を通した。今度は飛ばすことなく、虱潰しに。その試みは無駄ではなかった。あったのだ。該当する竜兵団が。
ーーそんな……。そんな馬鹿なことがあるのか……。
リムドのページを指し示す手は微かに震えていた。信じられなかったのだ。常識的に考えれば絶対にあり得ない、その竜兵団であったことに。
火竜に続き、構ってくれた人と猫までも消えてしまい、翼竜は落ち着きなく辺りを歩き回っていた。だが、草地に現れた男達の姿を見るや否や、嬉しそうに翼をばたつかせ、うち一人ーー若者の方へ全速力で駆け寄ってきた。
「ディル。大人しくここで待っていたか?」
すり寄せてきた翼竜の長い口を、若者は愛おしそうに撫でた。その隣でもう一人の男ーー年配者がくすりと笑う。
「それにしてもその翼竜はお前によく懐いているな、ラージ」
「私が竜兵士になった頃から乗っている大事な相棒ですから。ところでザント殿、貴殿の火竜は?」
ラージが怪訝な面持ちで尋ねた。ここにいるはずのもう一頭の竜がいないのだ。ザントの騎竜が。
二人は王都に滞在している間、自分達の騎竜をこの草地に待機させていた。森には竜の食料も豊富にあり、人も早々立ち入らないので、竜を隠すのにはうってつけの場所だったのだ。王都での調査を終えた二人は、主の待つ屋敷へ帰還するため、ここへ戻ってきたのである。
「ガロリィめ、狩りにでも行っておるようだな。急いで導師の許へ帰らねばならぬというのに。どれ、呼んでみるか」
ザントは指笛を吹き、騎竜を呼んだ。ところがいつもなら直ぐに駆けつける火竜が、何度鳴らしても姿を見せない。見かねたラージが騎竜の手綱を引き、鞍へ手をかけた。
「近くにはいないようです。私が一飛びして捜して参りましょうか?」
「いや、下手に離れて擦れ違いになっても困る。やむを得まい。もう少し待ってーー」
ザントの言葉が不意に途絶えた。右を向いた拍子に、ある物が視界へ飛び込んできたのだ。それは紛れもない、騎竜の背に据えていた自分の鞍だった。
「こ、これはどういうことだ! ガロリィの奴、これを置いて一体何処へ……」
無造作に投げ捨てられた鞍を手にし、愕然とするザント。急ぎザントの許へ駆け寄ったラージまでも目を見開き、まるで「己のこと」のようにショックを受けている。その時だった。
「おーや、お二人ともえらく驚いているようだねえ」
背後から若い女の声がしたのだ。草地の入口に立っていたのは、真紅の鎧を纏った赤毛の女戦士。グレンだった。
「ザントさん。あんたの愛しい相棒は、真の乗り手を見つけたんだよ。つまりあんたは契約を打ち切られ、用無しになったってわけ。残念だったね」
グレンはさも楽しそうに声を上げて笑った。ザントを嘲り、挑発するかのように。
「何だと! 我が火竜が真の乗り手を見つけただと! その様な戯れ言、儂が信じるとでも思うか!」
顔を真っ赤にさせ、声を荒げて睨みつけるザント。しかしグレンは平気の平左、調子に乗って更に煽り立てる。
「信じるも何も、そこにある鞍が何よりの証拠じゃないさ。あの緑色の火竜は半身を見つけたって、嬉々としてすっ飛んでいったよ。自分から鞍を引っ剥がしてね」
グレンの発言には一部偽りがあったが、そんな些細なことはどうでもよかった。火竜に捨てられたことをネタに、あの二人をおちょくってやりたい。その一心で舞台へ出てきたのだ。
ザントが竜騎士であることは、ダルカンの店の一件でわかっていた。そのザントが草地へ向かってきたのを見て、グレンは気付いたのだ。ガロディリアスがザントの騎竜だったことを。楽屋で傍観することなど出来る筈もなく、グレンはカグラにごり押しした。カグラもこの願いを聞き入れ、まだ舞台にいたファシドに少し森の中へ入るよう指示。舞台メンバーの入れ替わり時は魔力を使えず、姿を晒してしまうからだ。人目に触れない木陰でカグラはファシドを引っ込め、更にグレンと交代したのである。
ーー全く、何て女だろうねえ……。人の傷口に塩を塗って面白がっているなんてさ……。
樹上から隠れて三人のやりとりを見ていたマルシャは、グレンの性格の悪さに心底呆れ返った。グレンはあの二人の上官を討った張本人。出れば一悶着起きるのは目に見えているのに、わざわざ姿を現すとは。昨夜リムドとアギが話していたことを聞いていなかったのかと、マルシャはカグラに説教してやりたかった。
そして案の定、ザントが気が付いた。グレンが何者であるかということに。
「き、貴様、もしや……。副団長を亡き者にしたあの女では……。」
「はーい、大正解。よくわかったじゃないさ。誉めてやるよ、ハッ!」
「お……おのれえ!」
ザントは怒りにまかせて腰の剣を引き抜いた。だがグレンは余裕綽々、得物に手をかけようともしない。
「わかっちゃいないようだね。火竜のいない今のあんたなんて、ただの雑魚だよ、雑魚。鞍無しを殺った私に勝てるとでも?」
「黙れ! ここで貴様を倒し、副団長の仇を討つ!」
「まー、無駄な悪足掻きに終わると思うけどねえ。こっちも退屈していたから、相手になってやってもいいよ」
ところがいくらグレンがからかっても、殺気を露わにしているのはザントだけ。昨夜あれほど「副団長の仇を討つ!」と息巻いていたラージが、魂が抜けたかのように惚け、一言も発さず微動だにしない。
ーー残念だったな……。
この時、ラージの脳裏には「あの男」の言葉が蘇っていた。そしてそれは、心の奥底に封じていた屈辱的な記憶を引きずり出した。
ーーこの竜は私を選んだ。これより「彼女」は我が半身となる。お前との契約は今ここに打ち切られたのだ……。
相棒だった火竜は鞍を引き剥がし、自分へ投げつけてきた。それは決別を意味する行為。自分はもはや竜騎士ではない。一介の雑兵へと墜ちたーー
「うわあああーっ! 止めろおーっ!」
身を引き裂かれるかのような絶叫と共に、ラージは膝を着いた。突然のことにグレンもザントも驚き、動きを止める。
「ラージ! 一体どうしたというのだ!」
ザントが叱咤しても、ラージは顔を伏せてうずくまったまま。直後、後頭部へザントの鉄拳が一発炸裂。ようやくラージは面を上げ、ザントをまじまじと見上げながら呟いた。
「あんた、誰……だ……?」