第6話 黒猫のマルシャ
「何い! 使い魔だと!」
アギがカッとなり、テーブルを叩いたのも無理はなかった。使い魔が如何なるものなのか、よく知っていたからだーー無論リムドも。
使い魔とは魔術師に仕え、手足となって働く動物のことだ。魔術師は一人前になると、自分が気に入った動物に魔術をかけ、人並みの知能と人語を操る能力を与えて使い魔とする。
ただ、動物ならば何でも良いというわけではない。脆弱、知能が低い、体が大きすぎて扱いづらなどの理由で、使い魔に向かない動物も多い。また、魔力耐性が強い動物も不向きだ。中でも火竜や飛竜は特に難しい。かの竜達は一様にプライドが高い。人に術をかけられることは耐え難い屈辱であり、一層激しく抵抗する。火竜や飛竜に人語話術の魔法がかけられず、意志疎通も念話に頼らざるを得ないのはこのためだ。
よって使い魔の多くには、身近で扱いやすい動物が選ばれることとなる。人気があるのは犬や猫、カラスなど。蛇も好まれるが賢さに難があり、人並みの知能を付与するのに骨が折れるので玄人魔術師向けだ。
術をかけられ、使い魔となった動物はその魔術師に生涯仕え、裏切ることはない。仕事の殆どは雑用だが、魔術の手伝いや伝令、時として偵察や諜報も行う。また戦闘能力の高いものは、主のボディーガードまでこなす。
リムド達にとって厄介だったのは、使い魔が人語を話すという点にあった。何の事情も知らないマルシャが、悪気も無しにカグラの秘密を広める危険性があったのだ。マルシャはアトラに五十年以上仕えた年老いた雌猫、だてに長生きはしていない。アトラの商売を通して人と接する機会も多く、顔も広そうだ。お喋りの合間にうっかり口を滑らせてしまうかもしれない。そして更に面倒なのはーー
「その猫の主で、アトラっていう魔術師の婆さんは、死んでいるんだよな?」
アギの問いかけに、リムドはああと力なく答えた。半年前、旅へ出て最初に王都へやってきた時、リムドは真っ先にアトラの許へ向かった。六年前、両親を失った自分に助け船を出してくれた、あの時の感謝の気持ちを改めて伝えるために。そしてまだまだ半人前ではあるが、懸命に賢者修行を続ける自分の姿を見せるために。
朧気な記憶を頼りに、リムドは王都の南門周辺を隈無く捜し回った。異街道使用禁止令が出て、転送魔術師は職を失ったと聞く。店は畳んでしまったかもしれないが、あのかくしゃくとしたアトラのことだ。きっと店があったあの場所で、今でも元気に暮らしているに違いないと、リムドは疑いもしなかったのだ。
半時間ほど辺りをうろうろして、リムドはやっとのことでかつてアトラの店があった場所を見つけ出した。看板が出ているところをみると、未だに店であることはわかったが、「千里眼魔術師・ダルカンの店」となっている。店の入口は以前と変わらないのに。アトラは別の所へ引っ越したのだろうか。不思議に感じつつ、取り敢えずアトラのことを尋ねてみようと、リムドはドアを開けた。
店内の様子も昔と変わっていなかった。薄暗くて狭く、カウンターが目前に迫ってきているところも全て。が、カウンターの向こう側にいる人物が違う。いたのは見るからに意地の悪そうな目つきをした、小太りの中年男だったのである。
「何だ、坊主。用があるならとっとと言え」
お世辞にも友好的とは言えない態度で、男はリムドを出迎えた。リムドは逃げ出したい気分に駆られたが、どうにか踏みとどまった。
「すいません。ここにいた転送魔術師のアトラさんは?」
アトラと聞き、椅子の上でふんぞり返っていた男が立ち上がった。
「先生か。先生なら三年前に死んじまったよ」
アトラが死んだーー衝撃的な一言に、リムドの頭の中は真っ白になってしまった。時間が経ちすぎたようだ。ショックのあまり言葉を失ったリムドだったが、まだ訊きたいことはある。気を取り直し、男に再度質問した。
「あの、あなたは……」
「俺はダルカン。先生の一番弟子だ」
それであの看板がーーリムドはようやく理解した。このダルカンという男は、アトラの亡き後、ここで自分の店を開いたのだ。賢者がその知識や知恵で助言を与えるように、魔術師は魔術でことの解決を図る。ダルカンはこうした金をもらって魔術を行使する、町の魔術師なのだ。
ただ魔術師も分業化が進んでおり、それぞれが専門とする分野によって出す看板も異なる。攻撃魔法が得意な者は護衛や魔物の退治屋、治癒魔法が得意な者は治療院といった具合に。ダルカンは自ら千里眼と名乗っているところを見ると、遠見魔法が専門の物見屋のようだ。その実力は定かではないが。
そのダルカンの話によれば、異街道使用禁止令のおふれが出た翌年、アトラは病に冒された。失職はアトラの老体にはかなりこたえたようで、それから一月も経たないうちに息を引き取ったという。一番弟子であるダルカンは、アトラの後継者として遺産を相続したのだ。
一通りのことを一方的にまくし立てると、ダルカンはひゅーっと口笛を吹いた。
「おら、坊主! わかったらここから出ていけ! 商売の邪魔だ!」
口笛を聞きつけ、店の奥から子牛ほどもある真っ黒な犬がのそりと現れた。ダルカンの使い魔だ。黒犬は牙を剥き、唸り声をあげてリムドを威嚇した。アトラの墓の場所など、まだまだ知りたいことはあったが、リムドは店を後にせざるを得なかった。
この時のリムドは混乱していたこともあり、マルシャのことなど頭からすっかり抜け落ちていた。生きているのか死んでしまったのか。そんなことを思い巡らす余裕すらなかったのである。
だが野良猫に身をやつしながらも、マルシャは生きていた。使い魔は自分を「作った」魔術師以外の者には、決して仕えない。ダルカンがアトラの家にやって来て、居場所をなくしたマルシャは仕方なく出ていったのだろう。
使い魔は主の意に添わない行動は慎むように躾られている。余計な口出しをしない、無駄口を叩かないというのもその一つだ。されど今のマルシャは自由の身。何の束縛も受けず、口にしたいことを望むままに喋ることが出来る。そんな相手を野放しには出来ないのだ。
「とにかく、一刻も早く見つけてとっつかまえないと」
苛ついたアギがテーブルの足を蹴るのを見て、リムドはこれはまずいと感じた。グレン程ではないにしろ、アギも頭に血が上れば過激な行為に走りやすい。探りを入れようと、リムドはそっと尋ねた。
「マルシャを捕まえてどうするつもりだい?」
「決まっているだろうが。口封じだ、口封じ。皮ひん剥いてビーラにでもにしてやるか」
アギの乱暴な発言にリムドはぎょっとした。ビーラとは弦楽器の一種だ。ステイアでは殆ど見かけることはないが、東のアリム大陸ではかなりメジャーな楽器で、なめした猫の皮を胴皮に使うという。さすがにビーラの皮にするというのは冗談だろうが、アギはマルシャを生かしておく気はさらさらないようだ。不安が的中し、リムドは気が気ではなかった。
「それはちょっとあんまりじゃ……」
「ならどうするんだよ! このまま放っておくのか?」
「うーん……。ちなみに楽屋の三人は何て言っている?」
「ちょっと待っていろ」
アギは目をつぶった。アギは小うるさいという理由で副面体二人の声を遮断しており、カグラは休憩中。改めて楽屋メンバーに念話で話しかける必要があったのだ。しばしの共議の後、アギは目を開けて言った。
「グレンは簀巻きにしてロレーヌ川に放り込めって言っているぜ。ファシドは可哀想だからそっとしておけってよ」
「カグラはーー」
「どうでもいいってよ。関心無いんだろう。いつものことじゃねえか」
三者三様の意見だったが、リムドにとっては全てが想定通りだった。マルシャに危害を加えることなく、カグラの秘密を守る。これが最善の策であることは間違いなかったが、誰もこれが実現可能な方法を提示してはいない。頭を抱えるリムドを見てしびれを切らしたのか、アギがふんと鼻を鳴らした。
「仕方ねえな。舌をちょんぎるぐらいで勘弁してやるか」
「止めてくれよ。お世話になった人の使い魔に、そんな酷いことは出来ないよ」
「それじゃあ、喋れないように呪いでもかけてやろうか? それぐらいのことなら、カグラじゃなくても俺にだって難なく出来るぜ」
先に出した二つに比べればまだましだったが、アギのこの提案もリムドにとっては賛同し難いものだった。アトラの命を受け、マルシャはノーラムの許へリムドの現状を伝える手紙を届けてくれた。リムドにとっては大恩人でもあるのだ。相手が嫌がるような真似は極力避けたいのが本音だった。
ではどうすれば……。リムドは持てる知識を総動員し、知恵を絞った。そしてその甲斐あってか、突然閃いたのだ。全てのことを穏便に済ませる方法が。
「アギ。マルシャを捕まえて、ここへ連れてきてくれないか。僕に考えがある」
「それは構わないけどよ。どうやって奴を見つける? 王都は広いし、猫なら人間が入れないような所に隠れることだって出来るんだぜ。ん……?」
アギが不意に口を閉ざした。声を遮断し忘れていたので、楽屋メンバーが話しかけてきたようだ。
「お前がマルシャを酷い目に遭わせないって約束出来るんなら、自分がやるってファシドが言っているぜ。ここは奴に任せてみるか?」
リムドは思わずえっと叫んだ。ファシドは大人しく控えめな性格の持ち主で、あまり積極的な行動に出るタイプではない。そのファシドが自分からマルシャを捕まえてくると申し出たのだ。リムドが驚くのも当然だった。
しかしリムドは直ぐに思い出した。昔、オルドーの山の中で、ファシドが見せてくれたある「特技」を。そうか、あれを使えば……とリムドは納得した。
「是非頼むよ。ファシドならマルシャをきっと見つけられる」
王都アレフトの目抜き通りを、人混みに混じって一人の若者が歩いていた。年の頃は十七、八くらい。ゆったりとした薄水色のローブを纏い、頭には金環をはめている。白い竪琴を背負っているところから見ると、吟遊詩人のようだ。吟遊詩人は別に王都では珍しい存在ではなかったが、彼は明らかに別格だった。すれ違う女性が老若問わず、うっとりと見入ってしまうような外見の持ち主だったのだ。
背はすらりと高く、体つきはやや痩せ気味。肩に触れる程度の真っ直ぐな髪は銀色で、陽光を浴びてきらきらと輝いていた。目は海の如く蒼色で、肌も透けるように白い。そして歩く姿は実に優雅で、気品漂う。
だが何と言っても彼の最大の魅力は、その面立ちだった。美しく整った顔ーー俗に言う美形だったが、ただの美形ではない。王侯貴族の公達に引けを取らぬ程の高貴さを持つ一方、高慢さや冷たさ、威圧感はゼロ。その穏やかな微笑みは泣く子すら笑顔にさせてしまうような、不思議な暖かみを秘めていたのだ。
女性から注がれる熱い視線には慣れているのか、銀髪の若者は表情を変えることなく足早に歩いて行く。程なくして目抜き通りを外れ、裏通りへと入っていった。薄汚くて狭く、入り組んだ道の先にある袋小路へと。その情景はまさに掃き溜めに鶴……といった感じの明らかなミスマッチだったが、若者ーーファシドは気にもとめず立ち止まり、辺りを見回した。
「グレンがさっき入っていったのは、確かこの辺だったっけ。まだ近くにはいると思うけど」
グレンの視覚を通して見た記憶をもとに、ここまでやってきたファシドだったが、直ぐに確信を得た。見覚えのある木箱の山が目に入ったからだ。足長亭に向かう前、グレンがカグラと入れ替わった場所に違いなかった。
積まれた木箱の上に腰を下ろし、ファシドは竪琴を背中から下ろして弦を弾いた。ポロンと心地の良い音がこぼれる。ここ暫く使っていなかったので、音色を確かめてみたのだ。
音に問題がないことがわかると、ファシドは指を滑らかに動かして次々と弦を弾き、曲に合わせて歌い始めた。しかし琴から奏でられる曲も、その薄い唇から紡ぎ出される歌も、何故か全く聞こえない。端から見れば金魚が口をぱくぱく動かすのにも似た、実に滑稽な仕草だった。
ところが、である。それから一分も経たないうちに、周囲から何かがぞろぞろと集まり始めたのだ。猫だった。時間が経つにつれその数はどんどん増え、ファシドの足下は勿論、塀や木箱の上まで埋め尽くされ、数分後には数十匹にもなっていた。
猫達は気持ちよさそうに目を閉じ、うずくまって両耳だけをぴくぴく動かしている。皆ファシドの歌に聞きほれているのだ。そう、ファシドは猫にしか聞こえないような曲を聴かせていたのである。猫は人間より遙かに高い音を聞くことが出来る。ファシドの歌が人間には感知不可能な高音であったので、歌っていなように見えただけのこと。歌が広範囲に伝わるよう、ファシドはかなりの大音量で歌っている。もし人にも聞こえる音域であれば、人間までも歌に惹かれて来てしまうかもしれない。確実に猫だけに届くよう、ファシドはこんな手の込んだことをしたのだ。
しかし、高音の曲を聴かせるだけでは、猫を集めることは出来ない。ファシドは猫が魅力的に感じられるよう歌に魔力を乗せたのだ。グレンは己の剣に魔力を乗せ、剣圧で火竜の爆炎球を弾き返したが、それと同様のことをファシドは歌に対して行うのである。魔術師の魔術の中には、呪文詠唱と同じ効果がある魔歌というものもあるが、ファシドの歌とは似て非なるものだ。
以前、まだオルドーで暮らしていた頃、ファシドはリムドと共に山の中へ入って様々な「動物寄せ」の歌を披露したことがあった。乗せる魔力を調整すれば、引き寄せる動物を自在に選ぶことが出来る。鳥、狼、リス、猿……。次々に歌を変え、その度に特定の動物だけをファシドは呼び寄せた。人里離れた場所であったので、この時は人にも聞こえる音域で歌ってはいたが。
集まってきた動物達は大人しくファシドの周りにうずくまり、彼の歌に聴き入っていた。歌が終われば、催眠術から解けたようにさっさと立ち去って行く。十分に耳の保養をさせてもらった動物達は、決してファシドに危害を加えるような真似はしなかった。そんなファシドの能力にリムドもいたく感心したものだ。
色とりどりの猫達に囲まれても、ファシドはまだ歌っていた。だが歌いながらも、集まってきた猫を一匹一匹、その目でチェックしていたのだ。捜し求めている猫がいるかどうかを。
やがてファシドの視線は、集団の隅にいる一匹の猫に釘付けとなった。猫達の中には明らかに飼い猫と思われるものもいた。が、その猫は黒い短毛もぼさぼさで汚れも目立ち、みすぼらしくて野良猫であることは一目瞭然。そしてその額にはくっきりと十字の傷。ファシドはそれを見逃さなかった。
歌を奏でつつ、ファシドは木箱からゆっくりと立ち上がった。地面にいる猫に触れぬよう、抜き足差し足で近付き、その猫の側まで来ると額に手をかざした。その途端、猫の頭ががくんと落ち、地に着いた。
直後、ファシドは口を閉じた。猫達ははっとなって目を開け、立ち上がり散り散りに去っていった。その場に残されたのはファシドと、術にかかって眠りこける黒猫だけ。ファシドは竪琴を背負うと、その猫を大事に抱え上げた。
「……シャ、マルシャ」
自分を呼ぶ声がして、黒猫ーーマルシャは目を覚ました。何か軟らかい物の上に寝かされているようだ。マルシャは立ち上がり、周囲へ目をやった。自分は今、見たこともない部屋の中でベッドの上に寝かされていたのだ。いったい何故こんな所に……と疑問に思った次の瞬間、マルシャは自分をじっと見詰める若者と目が合った。
「あ、気が付いたみたいだね、マルシャ」
「あんた誰だい! どうして私の名前を知っているの!」
驚いたマルシャは後ろへジャンプし、背中の毛を逆立てて前足の爪を目一杯伸ばした。若者は悪党には程遠い面立ちだったが、見ず知らずの人物。何をされるのかわかったものではない。もし相手が手を出そうものなら、容赦なく前足の一撃をーー俗に言う猫パンチをお見舞いしてやるつもりなのだ。
「驚かしてごめんよ。僕はリムド。覚えていないのかい? ほら、七年前に賢者である大伯父さんと一緒に、アトラさんの所にーー」
若者ーーリムドが懸命に説明するのを見て、マルシャは鼻を突き出した。臭いを頼りに相手が誰であるか、探ろうとしたのだ。そして間もなく、マルシャは該当する臭いを記憶の奥底から引っ張り出した。
「あー、思い出した。サーヤ婆さんの孫の、あの洟垂れ坊やかい。暫く見ないうちに結構な男前になったじゃないさ。頼りなさそうなところは昔のままだけど」
「よかった。わかってくれたみたいだね……」
リムドは胸を撫で下ろした。しかし爪と警戒心は引っ込めたものの、マルシャはまだ納得していない。どうして自分がここにいて、主の友人の孫が目の前にいるのかを。あの歌謡いの若者は誰なのかを。だがマルシャがそのことを質す前に、リムドは部屋の隅で椅子に腰掛けている娘ーーカグラを指さした。
「彼女に見覚えはあるだろう?」
「おや、あれは……」
マルシャは丸い目をさらに丸くしてカグラを見据えた。カグラは相も変わらずマルシャに全く関心を示さず、振り向こうともしない。テーブルに顎をつけたまま大欠伸だ。
「あの呑気そうな子は誰だい? もしかして、あんたの彼女?」
「まさか。マルシャは大伯父さんの所に手紙を届けた時、会っていないのかい? 彼女はカグラ。大伯父さんの孫、つまり僕の又従姉妹だよ」
「ああ、あのノーラムっていう賢者の孫ね。わたしゃあの子に会うのは初めてだから、わからなかったよ。それであの子、魔力持ちかい? 呪文も唱えず、おっかなそうな女剣士に化けていたじゃないさ。ねえ、教えておくれよ」
長年魔術師に仕えていたこともあり、摩訶不思議な現象を見ると好奇心を刺激されるのだろう。マルシャは興味津々といった感じだったが、リムドの表情は暗かった。やっぱりそうか……と。
「マルシャ、君は見てはならないものを見てしまったんだ。彼女の秘密をね。これを知られるのは、僕らにとって非常に不都合なことなんだ」
「ちょ、ちょっと! リムド、あんたもしかして私をーー」
怯えたマルシャは身を縮こませ、ぶるぶると震え上がった。如何なる用でリムドが自分に会おうとしたのか、聡いこの猫は察してしまったのだ。
「乱暴なことをする気はないから、安心してくれよ。第一、初めからそんなことするつもりだったら、抵抗出来ないように手足を縛っているよ」
「確かに……ねえ。私を始末したかったら、寝ている間にすればいいんだし。それじゃ、私をどうするつもり?」
「一つお願いがあるんだ」
リムドは静かにそう言うと、マルシャの頭を撫でた。
「僕らは訳あって旅をしている。その旅に君も同行して欲しいんだ。君は僕達よりずっと長生きをして経験も豊富だし、長年アトラさんの側で働いていたから様々な知識もある。だから未熟な僕らの手助けをしてくれると、とても助かるんだよ」
リムドは自分なりに考え、最善策を導き出した。それはマルシャを仲間にすることだった。無論、口上で述べたようにアドバイスをもらう目的もある。また正直に言えば、側においてこの猫を監視する意味合いも。だがマルシャが仕えていた相手は、秘密主義傾向が強い魔術師。口が軽い者や愚か者に使い魔は勤まらない。だからこそ仲間にし、自分達の事情を理解してもらえば、カグラの秘密を口外しないだろうとリムドは踏んだのである。
「ふーん……。それでその旅の目的は何で、あの子の秘密っていうのは?」
「それは君が僕らの仲間になったら教えてあげるよ。つまり、そうでもしないと教えられないようなことなんだ」
するとマルシャは立ち上がり、尾をぴんと立てた。これは猫が上機嫌の時に見せる仕草だ。
「成る程ね。よくわからないけど、なかなか面白そうじゃないさ。姐さんがいない今、私も王都に未練はない。ついて行ってもいいよ。だけどここを出る前に、こちらからも一つ頼みがある」
そこまで話した時、マルシャの表情が一変した。心の中にため込んでいた感情を一気に吐き出すように。
「姐さんからもらったペンダントを取り戻してもらいたいんだよ」
怒りで目を爛々とさせつつ、マルシャはペンダントを失った経緯を語り出した。アトラが病を患って死んだ後、マルシャは近所の住民やかつての馴染み客に手伝ってもらい、葬儀を出した。ところが葬儀が終わってほっとしたのも束の間、まるで待ち構えていたかのように、ダルカンが突然姿を現したのだ。
ダルカンはアトラの弟子である自分こそが、正当な遺産相続人だと主張した。ダルカンはアトラの許を去って以来行方知れずで、手紙の一つも寄越さなかった。それを何を今更、図々しいったらありゃしない……とマルシャは激怒したが、アトラの遺産を根こそぎ取られてしまった。そして主から贈られた形見のペンダントまで奪われたばかりか、ダルカンに使い魔である黒犬をけしかけられ、這々の体で逃げ出したのである。
「家やら金やら魔術具なんかは私には扱えないから、悔しいけど諦めるよ。でもあのペンダントだけはどうしても取り戻したい。姐さんと私の絆の証もである、大切な物だからね」
「それにしてもそんな酷い奴、よくアトラさんが弟子にしたなあ」
リムドが首を傾げると、マルシャは牙をむき出しにして怒鳴った。
「馬鹿言ってんじゃないよ! あいつは素行が悪くて、姐さんに破門されて叩き出されたんだよ!」
「でもあのダルカンって人は、自分は一番弟子だってーー」
「そりゃそうだろう! 姐さんの弟子はダルカン一人だけなんだからね! いくらあいつが厚かましい性悪な豚野郎でも、一番弟子だって名乗れるさ! 何の苦労もせず勝手に自分の店出して、あそこで怪しげな商売やっているって噂だよ、あのろくでなしの下衆が!」
余程相手のことが憎たらしいのだろう。マルシャの口からは、ぽんぽんと勢いよくダルカンへの罵詈雑言が飛び出してくる。その口の悪さに閉口しつつ、リムドは話題を別の方へ振った。
「それでそのペンダントは、今ダルカンの所に……」
「あいつの使い魔が首にかけているよ! 全く、癪に障るったらありゃしない。あんなヘロヘロ顔のとろくさい犬にくれてやるなんてさ!」
「ダルカンに事情を説明して頼んでも、素直に返してくれそうにはないな。と、なるとあの黒犬から盗み出すしかーー」
リムドはカグラの方をちらっと見た。アギが楽屋で手を叩いて狂喜する様が目に浮かぶようだ。俺の出番が来たと言わんばかりに。
「……とにかく、今はここまでにして、後で作戦を練ろう。マルシャもお腹が空いているだろう。何か買ってくるよ」
「そりゃ有り難いね。姐さんの家を追い出されて以来、まともな食事にありついていないから。でもその前に、川に連れて行って私を洗っておくれよ」
長い野良猫生活のせいか、マルシャはかなり汚れていた。しかし猫は普通、水に入ることを極端に嫌がる。大丈夫なのかとリムドが心配すると、「わたしゃ綺麗好きなんだよ!」と一喝されてしまった。
マルシャ曰く、王都の要所に設けられている馬の水飲み場は水受けが小さく、体を洗うには窮屈とのことだった。町を出てロレーヌ川まで行けば、思う存分行水が楽しめるのだが、川には人の背丈ほどもある肉食魚が棲息している。水鳥やカワウソも襲って餌食にする危険な相手なので、マルシャも迂闊に川へ入れない。ただその魚は人間を警戒して近寄ってこないため、マルシャはリムドにこんなことを願い出たのだ。
おやすい御用とリムドは快諾し、すぐにマルシャを連れてロレーヌ川へ向かった。二人が北門を抜けて川に到着したのは午後五時過ぎ。日は大分西へ傾いていおり、船荷の積み卸しも全て終わったせいもあって人の姿もまばらだった。
川面や水中の影に注意を払いながら、リムドは浅瀬でマルシャの体をせっせと洗った。一通り汚れを取ってやると、マルシャはぶるっと全身の毛を震わせ、嬉しそうに背伸びをした。
「あーさっぱりした。あんな小汚い体じゃみっともなくて、あんた達に付いて行けないからね」
マルシャは艶やかな黒い毛並みを取り戻していた。年老いているとはいえそこは使い魔、やはり野良猫とは違う気品や風格がある。
「もうマルシャは僕らの仲間になったんだから、ちゃんと世話はするよ」
リムドはマルシャの体を手拭いで拭きながら、何気にそう言った。が、マルシャは何故か笑顔を改め、真剣な眼差しをリムドへ向けた。
「何であんたは知られちゃ困る秘密を知った私を、仲間にしようとしたんだい?」
「マルシャもアトラさんも僕にとっては大恩人だ。口封じなんかして、恩を仇で返すことは出来ないだろう? だから仲間にしようと思ったんだ」
「そういう意味じゃなくて、何故私を下僕扱いにしなかったかってことさ」
「使い魔は主以外の人間には仕えないって聞いた。マルシャの主はアトラさんじゃないか。それに僕は魔術師じゃない。下僕になんて出来ないよ」
「でも上下関係をつけて、私を縛ることは出来たはずだ。私に呪いの首輪でもつければ、あんたも頭ごなしに命令出来るじゃない」
呪いの首輪とは、かつて奴隷に用いられた悪名高い魔法具だ。主の命に背くと縮まり、装着した者の首を絞める。ヨマーンでは人に使われることはまずないが、動物用にはまだ多くの需要がある。
ところがそんなふうにマルシャが問いつめても、リムドは手を止めてきょとんとするだけ。この少年の頭の中には、端からそんな考えなどないーーそう悟ったマルシャはしみじみと言った。
「あんたはいい子だね。さすがあのサーヤ婆さんの孫だけあるよ。いいかい、わたしゃ使い魔なんだよ。人間、特に魔術師が使い魔をどう見ているのか、知っているのかい?」
「そう言われてもなあ……。僕もマルシャ以外の使い魔はよく知らないし」
「なら教えて上げる。使い魔はね、主人から物扱いされているの。姐さんはいい人で私を大事にしてくれたけど、大部分の魔術師はそうじゃない」
使い魔は本来長寿で、元の動物の二、三倍は生きる。だが大抵の場合、虐待や酷使が原因で寿命を全うすることはない。マルシャのように五十年以上生きる使い魔は極めて希なのだ。
「散々こき使った挙げ句、死んだら涙一つこぼさずポイ。それでも魔術師は全然困らない。また新しい使い魔を作ればいいんだから。魔術師にとって私らはその程度の存在ーー使い捨ての道具でしかないってことさ」
使い捨ての道具と聞き、リムドはふと偽奥方一行のことを思い出した。囮として捨て駒にされたあの気の毒な三人のことを。グレンの活躍で命拾いしたものの、彼らが味わった恐怖や屈辱は一生消えることはないだろう。
「でもあんたは上から目線ではなく、仲間って言ってくれた。そのことがどれほど嬉しかったか、わかるかい? だから私もあんた達にとことん付き合おうって気になったのさ」
マルシャの笑顔を見て、リムドは自分がマルシャを下僕扱いにしなかった、その理由を考えた。自分は辺境オルドーの寒村で、知識を身に付けるべく書庫に籠もってばかりいた。だから世間知らずだし、感覚や常識も多少ずれいることは否めない。しかしその一方で、変な固定観念に捕らわれていないのも事実だ。だからマルシャを配下に置こうなど思いも付かなかった。やろうと思えばアギにでも頼んで、呪いをかけて束縛することも出来たはずだ。
「さてそれじゃ、久しぶりに美味い肉でもご馳走になろうかねえ。食事がすんだらあの子の秘密や旅の目的やらを教えておくれよ」
すたすたと歩き出すマルシャにリムドは我に返り、慌てて後を追った。口達者で全く遠慮しないマルシャだったが、彼女の知識や経験は間違いなく頼りになる。これで少しはこの旅も楽になるのでは……と息を吐くリムドだった。