第5話 目撃者
「凶事……か」
リムドの記憶は「あの日」から、ラシル村の大伯父の家を出立し、カグラと共に旅へ出た時へと飛んだ。
半年前ーー昨年の十二月初め、年末も押し迫った冬の日のことだ。その日の昼過ぎ、リムドがいつものように書庫に籠もって本を読んでいると、突然ノーラムに執務室へ呼び出された。リムドはしばしばシュリフへの買い出しを言いつけられていたので、またお使いかと軽い気持ちで執務室へ入った。ところがあに図らんや、ノーラムはとんでもないことを切り出したのである。
「リムド。三日以内にカグラと共にここを発ち、凶事の正体を探る旅に出るのだ」
突拍子もない命令にリムドは耳を疑った。いきなりカグラと旅に出ろ……と言われても、はいわかりましたと二つ返事で承知出来るはずがない。第一、どうやって凶事の調査すればいいのか見当もつかず、心の準備も出来ていない。完全な不意打ちにリムドは困惑するばかりだったが、ノーラムは構わず話し続けた。
「カグラが成人するまでに起こるとされている世界規模の凶事は、未だ気配すら見せてはおらぬ。今なら間に合う。凶事の正体を突き止め、事前にそれを食い止めることが出来れば、カグラも副面体の三人も生き延びられよう」
ノーラムが言うことはもっともだった。凶事さえ起こらなければ、カグラが死ぬこともないだろう。可愛い四人の孫達を何としても生かしたいーーその一心でノーラムはこんな無茶苦茶なことを命じたのだろうが、リムドの頭は混乱するばかりだった。
「十一年前、我が息子と嫁はカグラを助けるため、凶事調査の旅に出た。しかし乗船していた大陸連絡船が難破し、帰らぬ者となった。その意志を引き継いで欲しいのだ」
息子夫婦の死を知った時、ノーラムは直ぐにでも後を追って旅へ出たかった。しかし当時のカグラは未だ四歳。幼子一人残して長時間家を空けることも、一緒に旅に連れて行くことも出来ない。カグラが成長し、やっとその心配もない年になったと思ったら、今度は自分が年をとりすぎていた。ノーラムももう七十三歳、長旅に耐えられるほどの体力は残ってはいない。そこでリムドと二人で探求の旅へ出すことにしたのだ。
「カグラは十五、お前はあと二ヶ月もすれば十七だ。お前も賢者見習いとして修行に励み、一通りの知識を身に付けた。もう立派に探求の旅に出られるだろう」
「まあ、それは……。でもーー」
どうにか落ち着きを取り戻したリムドは、怖ず怖ずと声を絞り出した。
「それなら僕と一緒ではなく、カグラ一人を出せば……。カグラは魔力持ちですし、個性的な副面体もついています。十分一人でやっていけるのでは……」
リムドは旅などに出たくはなかった。探求の旅なら当事者であるカグラがやればいい。自分は大伯父の許でもっと修行し、一日も早く一人前の賢者になりたい……と反論したかったのだ。だがノーラムの次の台詞が、そんな望みを呆気なく粉砕してしまった。
「リムド。お前は六年もの間、カグラと兄弟同然に過ごしてきたではないか。あれの性格はよく知っているであろう。たとえ己のためであっても、凶事の正体を真剣に探ろうとすると思うか?」
リムドは敢えてノーラムの問いかけに応じようとはしなかった。答えるまでもなかったのだ。日がな一日、家の中でごろごろするだけの食っちゃ寝生活。何をするにも、そう風呂に入ることすら億劫だと嫌がるーーそんなカグラのていたらくを、リムドは六年間ずっと見続けてきたのである。
「だからお前が監視役となるのだ。お前が中心となり、凶事が如何なるものなのか、突き止めてこい。そしてその正体が判明したら、即刻ここへ戻ってくるのだ。後のことは儂がやる」
ノーラムは更に、この旅の真の目的は伏せるようにと警告した。ことが重大だけに、他人に知られれば不都合が生じる恐れがあったからだ。過去四回の凶事は全て時疫や天変地異といった天災だったが、今回もそうだとは限らない。何者かが故意に災厄を引き起こそうと画策する可能性も否定出来ないのだ。もしそうであれば、相手は計画を嗅ぎつけようとする者を放置はしないだろう。仮に天災だとしても、人々の不安を煽ることになってしまう。
「表向きはお前の見聞を広める旅ということにしておくのだ。実際、家長の後継者は十七、八歳になると、一人で大陸中を旅して様々なことを見聞きし、経験を積むことが我が家の慣習となっている。本の中の知識のみでは、賢者になるには足りぬ部分も多いのでな。わかったな」
結局、リムドはノーラムの有無を言わさぬ態度に屈した。そしてこの二日後、カグラと共に穏やかな田舎暮らしに別れを告げ、嫌々渋々ラシル村を発ったのである。凶事の正体を掴むまでは、帰宅は許されない。勿論二人共この旅に乗り気ではなかった。面倒臭がり屋のカグラは勿論、そのカグラの「お守り」を押し付けられたリムドも憂鬱で堪らなかったのだ。
とは言え、幾ら嫌がったところで埒は開かない。ノーラムの助言を受け、まず二人は王都アレフトへ向かった。王都には国中のありとあらゆる噂が集まってくるからだ。だが王都ではめぼしい情報は得られず、当時は真冬だったこともあり、より暖かい国の南部で調査を開始。春になり気候が良くなると、今度は北部へ移動。しかしいずれの地方でも、凶事に関する情報は噂の欠片すら掴めず、一度王都へ戻って出直すことにした。その途中でトゥーラムへ立ち寄り、路銀を得るためグレンに傭兵仕事紹介所で仕事を探させたのだ。
そして昨日の午前、グレンは貴族を護衛し、王都へ送り届ける依頼を受けた。一旦依頼主と別れた後、今度はカグラが「舞台」に立ち、宿で待機していたリムドの許へ戻った。
グレンの仕事内容を聞いたリムドはカグラの荷物を預かり、一足先に王都へ向かうことにした。王都行きの定期連絡馬車に乗ろうというのだ。出発は昼過ぎだが、今は最も日が長い時期。日没までに王都へ到着することが出来る。リムドは王都で落ち合う場所をカグラに伝えると、定期連絡馬車へ乗り込んだ。
ところでリムドがカグラと別行動をとったのには、理由があった。リムドは人前では副面体の三人と行動を共にしないよう心掛けているのだ。もし副面体と一緒にいる場面を人に見られれば、自分を通してカグラと副面体が顔見知りであると思われてしまう。まあ知人程度で済めばいいが、そこからカグラの秘密が発覚する危険性は十分にあった。
おまけにグレンはトラブルメーカー。グレンとの関係が知られたら、リムドやカグラにもとばっちりが来ることは必至だ。もっともグレンもリムドのことをひ弱で頼り無い萌やしっ子と卑下しており、一緒にいることを嫌っている。傭兵の仕事に同行を願おうものなら、「お前は足手纏いなんだよ!」とはり倒されかねない。
……とまあ色々あったが、グレンは仕事を無事済ませ、カグラもどうにかリムドと合流することが出来た。そのカグラはここ足長亭の客室でベッドに寝転がり、既に寝息も立て始めている。リムドとの落ち合い先を探すのに手間取り、疲れたと言って。カグラのぐうたらは毎度のことだが、これが原因で凶事の調査は今一つはかどっていない。ノーラムの予想通り、カグラは調査には全くの無関心。ぐずぐずしていれば、自分の運命も決してしまうはずだが、焦っているのはリムドだけ。当の本人はのんびりしたもので、相変わらずの食っちゃ寝生活である。
こんなカグラの無精ぶりを長年見てきたリムドには、何故多面族が滅んだのかわかるような気がした。火を起こすにしても、普通の人間は火口箱を使い、手間と時間をかける。だがカグラはちょっと意識すれば、ぱっと火がつく。大の大人が持ち上げられないような重い物も、手も触れずに軽々移動だ。大方のことは魔力が解決してくれるので、苦労することもない。多面族がこのような努力や挑戦と程遠い暮らしをしていたのでは、自然消滅して然るべきだろう。
されどカグラの無気力には他にも理由があった。カグラは自分の運命を知っている。未来がわかれば生きる気力も奪われる。そんな人生ほど空しいものはない。しかもカグラの場合、その先に確実に待ち受けているのは、人生という名の劇の「終演」だ。自分はどうせ三十歳まで生きられないから、未来を見据えて懸命に何かしようとしても無駄。だから好きなことだけをして、楽に過ごしたい……といういい加減な態度に出てしまうのである。
ノーラムもそんな孫を不憫に思ってか、口うるさく注意しようともしなかった。リムドも又従姉妹のことを哀れんではいたが、自暴自棄にならずもう少し希望を持って生きるべきではないかと考えていた。この旅の目的は、まさにカグラが寿命を全うするための手がかりを、探し求めることにあるのだから。
その無気力娘のカグラが、昨日珍しく自分から行動を起こそうとした。トゥーラムで別れる直前、リムドにこう言ったのだ。「王都に行くのなら、異街道を開いて送ってやろうか」と。思いもかけない申し出に、リムドは腰を抜かさんばかりに驚いた。カグラの「好意」もさながら、異街道の入口を自分の魔力でこじ開け、勝手に使おうという行為に衝撃を受けたのである。すぐさまリムドは断った。異街道を管理する魔術師ギルドの対応を恐れてのことだったが、他にも理由はあった。
かつてノーラムはリムドを迎えに行く際、異街道を使った。あの当時ーー七年前は料金さえ払えば、転送魔術師に依頼して誰でも異街道の利用が可能だった。ところがその二年後、ある事件が状況を一変させた。ステイア大陸北中央部の小国・ミスリダ大公国で、異街道を悪用した大公暗殺未遂事件が起こったのだ。国家乗っ取りを企む諸侯の一派が、密かに公都の城に異街道を通じさせ、暗殺者を送り込んだのである。幸いにも既の所で暗殺者は捕らえられ、大公は事なきを得た。だが、異街道の利便性と危険性は表裏一体であることを、この事件は人々に思い知らせることとなったのである。
これを機に、ステイア大陸の各国は異街道の悪用を警戒し、その利用に規制をかけるようになった。他の四大陸の中には異街道の全面利用禁止、もしくは異街道そのものを廃止とした国も少なくない。が、ステイア大陸は南国特有の大らかな土地柄もあり、利用を制限することなど殆どなかったのだ。
しかし、最早楽観視も出来ない。結果、ヨマーン王国でも「利用は災害などの緊急時のみとし、その際も必ず国王の許可をとること」と決められてしまった。更に維持管理が容易ではない故に、主要都市を結ぶ路線を除いて異街道は廃止された。シュリフへ通じていた路線も例外ではなく、もう気軽に王都へ行けなくなったとノーラムも嘆いたものだ。
こんな状況で異街道の利用が発覚すれば、間違いなく罰せられる。最悪打ち首だ。だからこそリムドは泡食ってカグラを止めたのだが、その一方でふと思った。もし今も昔のように異街道が自由に使えたら、グレンが今回の依頼を受けることはなかっただろうと。貴族の奥方が馬車をとばして逃げようとすることもなく、竜騎士が追いかけてくることもなかった。追う方も追われる方も、異街道を利用すれば難なく王都へ辿り着けたのだから。
そんなことを色々と考えているうちに、リムドはぽつりと呟いた。
「どうしてあの貴族の奥方は、街道を馬車で逃げようとしたんだろうなあ……」
グレンだけではなく、リムドにとってもそれは不可解な謎だった。リムドもグレンが森を馬で逃げるコースを指示したことは、カグラから聞いていた。追っ手に襲撃されることを承知で、依頼主が敢えて危険なコースを選んだ訳は何なのか。リムドが首を捻っているとーー
「あー、うるさい」
背後からカグラの苛ついたような声がした。寝言にしては声が大きい。目を覚ましたようだ。リムドは自分の呟きが原因かとそっと振り返ったが、そうではないことは直ぐにわかった。半身を起こしたカグラが恨めしそうに見詰めていたのはリムドではなく、己の胸元だったからである。
「どうした、カグラ。その様子だと、誰かに念話で話しかけられたな」
「そう。アギに叩き起こされた」
カグラはむっとした表情で枕をはたいた。見慣れてはいるものの、何度見てもカグラの膨れっ面は駄々っ子のようでおかしい。リムドはくすりと笑い、カグラの側へ歩み寄った。
「それなら起こされないように声を遮断すればよかっただろう。相変わらず横着な奴だな」
「グレンは不満をグチグチ言ってくるから遮断したけど、後の二人はやっていなかった。そしたらいきなりアギが大声でーー」
「でも珍しいな。アギが突然お前を起こすなんて」
確かにアギは悪戯者だったが、主面体であるカグラの眠りを妨害することはまずしない。何か理由あってのことに違いなかったが、リムドがそのことを質す前にカグラはぶっきらぼうに言った。
「あんたと話したがっているんだよ」
「僕と? アギが?」
「あんたの独り言について、言いたいことがあるんだってさ」
カグラが眠っていても、楽屋にいる副面体には外部の音が聞こえる。貴族の奥方が云々とのリムドの声が、アギの耳にはしっかり届いていたのだ。
「そうか。それなら替わってくれないか」
「あ、そう。私は眠い。それなら少しアギの中で休む」
カグラはそう言って一回大きく息を吸い込んだが、リムドが制止した。リムドにはまずやることがあったのだ。カグラが副面体と入れ替わるところを、誰かに見られるのは絶対に避けねばならない。リムドはまず手早く窓のカーテンを閉め、次いで部屋のドアから顔を出し、廊下と周囲に人影がないことを確認した。
リムドがオーケーを出すと、カグラはベッドに腰を下ろして「舞台俳優」の交代を始めた。輪郭がぼやけ始めてから約三十秒後、そこに十四、五歳位の茶髪の少年が現れた。背丈はリムドよりずっと、カグラよりは幾分低く、この国の同世代の若者にしてはかなり小柄だ。体格は華奢とまではいかないものの、腕力に覚えがあるようにも見えない。されどしなやかで引き締まった筋肉は、素早い動きを繰り出すため以外の何ものでもなかった。装備は動きを制限しない少し緩めの服に柔らかなブーツ、軽くて扱いやすい短剣とまるで盗賊のような出で立ちである。
だが「盗賊のような」姿は、装備品だけではなかった。肌の色は淡い褐色で、瞳も黒。おまけに丸みを帯びた面立ちは見るからに抜け目なく、一瞬の隙も見逃すまいという妙な「気迫」に満ちている。見た目は場末に暗躍する小悪党……いや、喩えは良くないがまるで溝鼠のような曲者ーーそれがこの少年・アギだった。
リムドはこんなアギが嫌いではなく、むしろ好感を持っていた。気が強いグレンは側にいるのも遠慮したかったし、大人しいファシドは一緒にいても何か面白味に欠ける。それに対し、アギは顔を合わせる度に様々な悪戯を仕掛けてきたが、悪意は感じられず、リムドも本気で腹を立てることはなかった。アギも悪戯と悪事の境界線をよく心得ており、一線を越えるような真似は決してしない。故にその行いには茶目っ気があり、何処となく憎めないところがあったのだ。
またアギは目敏く、機転が利く上に頭の回転も速い。ややのんびりしたところがあるリムドが、気付かないことも度々指摘してくれた。アギは自分に欠けている部分を補い、賢者になるための行く手助けをしてくれる存在だったのだ。
「よう。久し振りだな」
ベッドから立ち上がったアギは、すれ違いざまにリムドの胸板をぽんと叩いた。直後、リムドの懐がふわっと軽くなった。
「アギ! またいつもの悪い癖が出たな!」
リムドが慌てて振り返ると、アギはにやにやと笑いながら手の上で何かを弄んでいた。リムドが先程カグラから受け取ったばかりの金袋だ。
「お前って奴は、本当に隙だらけだよな。ちょろいもんだぜ」
アギは一瞬の早業でリムドの懐から金袋を抜き取ったのだ。気が合うとはいえ、アギの手癖の悪さにはリムドもほとほと手を焼いていた。誰彼お構いなく、アギは金目の物を狙おうとする。さすがに祖父のノーラムには手を出さなかったが、リムドは毎回のように被害に遭っていた。この旅へ出てアギに路銀稼ぎをさせなかったのも、どんな手段で金を得ようとするのか、嫌と言うほどわかっていたからである。
「そう目くじらを立てるなよ。ほれ、返すぜ。こんな物を持ってカグラの中には戻れないからな」
アギはあっさりと金袋をリムドへ投げた。大抵、アギも盗んだ物を相手に返していた。この悪戯好きの若者にとって、所詮は盗みも戯れの一つにしかすぎないのだ。
もっとも本人が言うように、アギは盗んだ物を持ったまま楽屋へは行けない。主面体も副面体も、楽屋へ持ち込めるのは魔力で作った物のみ。横着者のカグラは必要最低限の物ーー自分が着る服ぐらいしか作ろうとはしないが、副面体の三人はそれ以外の装備品まで拵える。アギは短剣、ファシドは竪琴、グレンに至っては鎧や剣までも己の魔力で作り上げてしまう。
魔力による物品製造は、他者の魔力に依存する詠唱魔術では易しい術ではない。だが自分の魔力を源とする無詠唱魔法は、自由度が高く融通が利くので、服ぐらいならば容易く生み出せる。実際、これが出来ないと多面族は困ったことになるのだ。グレンが初めて表へ出た時全裸だったのは、まだ魔力が覚醒しておらず服を作れなかったから。入れ替わったカグラも、親が着せてくれた普通の服を楽屋へ持ち込めなかった。そしてグレンの中へ入った時に脱げ、地面に残されたという訳である。
さてーー金袋を慎重に懐へ戻すと、リムドはアギと部屋の隅へ移り、備え付けのテーブルを挟んで向かい合わせに座った。アギの話はどうも雑談の類ではなさそうなので、リムドもきちんと腰を落ち着けさせて聞きたかったのだ。
「それで僕に話したいことって、何だい?」
「おう、そのことだ。お前さっき、貴族の奥方がどうして街道を……とか言っていただろう?」
「ああ、言った。それが何か?」
「その理由、俺には見当がついているんだよ」
「え、本当か!」
顔を突き出すリムドを焦らすように、アギはふふんと鼻を鳴らした。
「ま、あくまでも俺の推測だけどな。知りたいか?」
「勿論。どう考えてもおかしいじゃないか。グレンの忠告を無視してまで、危険な街道を行くコースを選ぶなんて」
リムドの顔は興奮のあまり紅潮していたが、それが余程おかしかったのだろう。アギはテーブルの上に身を伏し、腹を抱えて笑い出した。
「全く、興味があることには何でも首を突っ込みたがるお前らしいよな。じゃ、教えてやるか。だけどその前に一つ質問だ。あの時奥方と一緒にいたのは、グレンを除けば御者と執事の二人だけ。さて、何か不自然なことは?」
「え……?」
リムドはすぐにぴんときた。上流階級の者が旅をする際、必ず同行させる者ーー護衛がいないことに。もし、護衛も連れずに呑気に旅などしようものなら、たちまち強盗のカモにされてしまう。ましてや奥方には敵対する者がおり、一行の王都行きを阻止せんとしていた。領地の館からトゥーラムへ到着するまでの間、戦闘能力などゼロに等しいこの三人で旅をするなどまず有り得ない。
「アギ。もしかしたら、護衛はトゥーラムに来る前に殺されてしまったのかも知れない。それで別の護衛を探して、グレンを雇ったとも考えられるんじゃないか?」
「確かにな。だがその可能性はないぜ。あの連中にはちゃんと護衛が付いていて、一緒にトゥーラムに入っている。しかも少なくとも二人はいたはずだ」
「何でそんなことをーー」
不思議そうに見詰めるリムドに、アギは鼻高々に告げた。
「丁度お前が王都行きの定期馬車に揺られている頃、聞いたんだよ。トゥーラムの酒場で護衛らしい奴らが話しているのを」
昨日の五時過ぎ、カグラは一人夕食をとるためトゥーラムの酒場へ入った。主面体は副面体を養うために、常人の倍近い量の食料を必要とする。これが財布を軽くする最大の原因なので、リムドも正直頭が痛かったのだが。
そんな理由から、カグラはとにかく食べるのに夢中。隣の席にいた二人の戦士らしき男など、眼中になかった。その相手も酒場の雑音の中では会話もかき消されると思い、油断していたのだろう。声を潜めるでもなく普通に喋っていたので、彼らの話すことは自称地獄耳のアギには全て筒抜けだったのである。
「こいつらが依頼主の護衛だってことは、一発でわかったぜ。奥方をトゥーラムから逃がす云々って話していたからな。直ぐに席を立っちまったから、詳しいことは聞けなかったけどよ」
「グレンやファシドは気付かなかったのかい?」
「あの二人なら全感覚遮断していたぜ。グレンは酒場に入ると酒飲みたくなってじっとしていられなくなるし、ファシドはカグラが食べるところには興味がないって言ってな」
つまり、護衛の存在に感づいていたのはアギだけだったのだ。しかしこれほど重要な情報を、同じ副面体で直接依頼を受けたグレンにアギは伝えていない。こんな些かひねくれた性格も、手癖の悪さと共にアギの困ったところでもあった。
「護衛はいるのに、いないふりをしてグレンを雇った。グレンの言ったことを守らず、危険な街道を通った。更になーー」
息をのんで話に聞き入るリムドの目を、アギはじっと覗き込んだ。
「お前はあの連中に会ったことがないからわからないだろうけど、俺の目にはとても貴族には見えなかったぜ。奥方って女はとにかく情けない奴で、貴族らしい威厳なんてこれっぽっちも感じなかった。御者と執事はまあそれ相当の奴らだったけどな」
「それじゃグレンが護衛した奥方は……」
「偽者だ」
アギは自信満々に断言した。
「おそらくあの奥方を名乗る女は、本物の奥方の侍女か何かだ。本物の奥方は自分が連れてきた護衛と馬で森を通り、王都へ行った。つまり囮を用意し、そいつらが鞍無しを引きつけている間に、自分達は別ルートでとっとととんずらしたってわけよ。全く、貴族らしいやり方だぜ」
そんな酷いことを……とリムドがこぼす間も与えず、アギの舌は更に勢いを増していった。
「捨て石に使った奴らが生きていた、しかも鞍無しを吹っ飛ばして無事辿り着いたと知ったら、本物の奥方は目玉が飛び出るほど驚いたことだろうよ。ま、その捨て石にも護衛を雇うだけの金は与えていたみたいだから、本気で死んでもいいとは思っていなかったんだろうな」
「でも付き人を犠牲にしてでも、王都へ行きたいなんて……。奥方は何の用で国王に謁見しようとしていたんだろう」
「そんなこと知らねえよ。だがよ、連中の敵って奴が、最速最強の鞍無しを刺客として送り込んでいるだぜ。確実に連中を消したかったんだろう。これは俺達が考えている以上にことは厄介そうだ。おいリムド。いくら興味があるからって、この件にもう首は突っ込むなよ。俺達には関係のないことだ。これ以上関わると、首が抜けなくなるぞ」
アギは珍しく真顔でリムドに忠告した。アギが得意げに自説を披露したのは、所詮は他人事だと思ったからだ。グレンが依頼主と別れた時点で、もう自分達とは無縁の事件となったはず。だが、リムドはきっぱりと言った。
「無関係なんかじゃない。グレンはその鞍無しを惨いやり方で葬っているんだ。あいつの仲間がグレンに報復を企てるかも知れない。だから依頼主を狙った者が誰なのか、こっちも知っておく必要があるんだ」
「成る程……な。なら木っ端微塵になった鞍無しが誰だか、調べればいいんじゃないか? 鞍無し、しかも騎竜は青い火竜だ。該当する竜騎士はヨマーンじゃそう何騎もいない。王立図書館の竜兵団名簿でも閲覧すれば、すぐにわかるだろうな」
「ああ。明日にでも行ってみようと思う。何処の騎士団に所属しているのか判明すれば、敵の正体がわかる」
「そうだな。ところで鞍無しで思い出したがーー」
まだ喋り足りないのか、アギにいつもの人をおちょくるような口調が戻ってきた。
「俺が思うに、依頼者は追っ手が鞍無しだってことは知っていたはずだ。自分達を抹殺しようと追ってきた奴を、あの連中が確認していない訳がねえ。護衛の依頼を断られることを恐れて、グレンには黙っていたんだろうな」
「でもグレンならたとえ相手が鞍無しだと知っても、絶対に依頼を受けただろうな……」
「違いねえ。グレンはプライドが高いし、相手が強ければ強いほど張り切る性分だ。それにあいつは、以前から鞍無しとドンパチやることを望んでいたからな」
「そうだな。それにしてもやっぱりアギは凄いな。僕じゃそんなこと想像もつかなかった」
確かにアギの洞察力は大したものだった。少ない情報からこれだけのことを導き出したのだ。アギの頭の回転の良さには、リムドは勿論ノーラムも一目置いていた。ただアギには幾分軽率な一面があり、誉められれば有頂天になってしまう。それは今回も例外ではなかった。
「まーな。こう見えても俺は、四人の中じゃ一番頭が切れるからな。癇癪持ちでおつむも足りない、グレンには思いも着かないことだろうよ」
「おいおい、いいのか。また兄弟をそんなふうに馬鹿にして」
「俺達は同時に二人は外に出られない。あいつと俺は絶対に顔を合わせることはないんだ。俺をぶん殴りたくてもグレンには出来ない。カグラの中に戻ればまたギャーギャー言ってくるだろうけどな、あの盆暗は」
盆暗はさすがに言い過ぎだろうとリムドは苦笑したが、アギの毒舌は絶好調、一向に収まる気配はなかった。
「言っておくが、ありゃカグラ以上のボケ女だぞ。ついさっき、カグラに入れ替わる時、あいつはその現場を見られた」
「え……何だって! 一体誰に!」
一変血相を変え、立ち上がるリムド。殆どの人は多面族のことなど知らない。カグラとグレンが同一人物と思われる危険性があるのだ。ところがアギの答えは意外なものだった。
「猫だ、猫。野良猫だ。あの小汚さは、飼い猫じゃねえな」
何だ猫か……とリムドは胸を撫で下ろし、腰を下ろした。だがそれにしてはアギの表情は冴えない。不吉な予感に駆られつつもリムドは尋ねた。
「その猫に何処で見られたんだ?」
「いやな……。カグラが楽屋に戻れと命令した時、グレンの奴が切れてな。人目に付かない裏通りの片隅でグチって騒ぎやがった。問題の猫はそれを聞きつけたらしい。いつの間にか塀の上にいて、一瞬目が合った。グレンの奴は気にもとめず、とっとと木箱の山の陰に隠れて入れ替わったわけだ」
「それじゃその猫は、その様子をしっかり見ていたのか」
「ああ。カグラが出てきた時もまだ塀の上にいた。塀の上からなら木箱の山の裏側なんて丸見えだ。それで俺が危惧していることは」
アギはうーんと唸り、腕組みをしたまま俯いた。
「それがどうもただの猫には見えなかったってことだ。カグラも他の二人もまるで気付かなかったが、何かそこらの野良猫とは違う雰囲気があった。妙に利口そうな目をしていたぜ」
「そんなに気になったのなら、どうしてカグラに念話で警告しなかったんだ?」
「アホ。俺の言うことに聞く耳持つような奴かよ。面倒臭いとか言ってシカトするに決まっているじゃねえか」
「だろうなあ……」
リムドも納得せざるを得なかった。カグラの性格は勿論、アギが危険と知りつつ猫に手出し出来なかったことにも。楽屋メンバーの副面体が、舞台メンバーに出せるのは「口」だけ。楽屋へ入ってしまえば、中のメンバーは魔力も行使不可となる。つまり、殆ど外部の出来事に直接関与することが出来なくなるのだ。
「とにかく、その猫を捜した方がいい。それでどんな猫だった?」
「黒猫だ。だが目が変わっていた。右目が金で左目が青。俗に言うオッドアイってやつだな。あと、額に十字の古傷があった」
「その猫、もしかして両耳の先が少しだけ白くなかったか?」
リムドの唇は微かに震えていた。明らかに動揺している。途端にアギは眉間に皺を寄せ、詰め寄った。
「どうしてそれを知っている? お前、その猫を知っているのか!」
リムドはぎこちなく頷いた。そう、かつてリムドはその黒猫に一度だけ会ったことがあったのだ。
「その猫はマルシャだ。アトラさんの使い魔だった、あの黒猫だ……」