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カグラの四つの顔  作者: 工藤 湧
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第20話 想定外の出来事

 スルーザ王国西部、フォルム海に突き出るエルゴ半島は、その遙か北にある中央大陸(クエンザー)に直線距離にして最も近い場所だ。しかしその先端部は切り立った崖に囲まれており、港を作るには不向きだった。故にこの半島から中央大陸へ船で渡航する場合、多くの者は半島中央部のマラドア港を利用する。先端部を通過する者は、空を行き交う者ーー竜騎士か竜兵士ぐらいのものであった。

 南国の夏にしては珍しく涼しい風が吹く六月のある日のこと。エルゴ半島の突端から一マール(五百メートル)程の沖合を、小柄な薄紅(うすくれない)色の飛竜(ゼダーン)が一頭、飛んでいた。眼下の海面にはこの周辺の海域に多く生息するステイアアシカが、群を成して泳ぎ回っている。

「あーっ、何よ、この! そんなにうろちょろしないでよっ!」

 薄紅色の飛竜ーーナグナギールの妹・ルビナは、狩りの練習の真っ最中だった。母親メジナの縄張りであるこの周囲一体の海には、獲物となる大型魚や海獣が多数生息している。中でもステイアアシカは主たる獲物であり、これが狩れて初めて母親の縄張りを引き継ぐ資格を得ることが出来るのだ。

 そうは言ってもルビナはまだ幼く、経験も足りない。水中を自由自在に泳ぎ回るアシカにいいように翻弄されるだけだ。おまけにアシカ達は頭もいい。ルビナが捕らえんと降下を開始しようものなら、あっと言う間に潜ってしまう。そして少し離れた海面からひょっこりと愛嬌のある顔を覗かせるのだ。完全にルビナはアシカ達に侮られ、からかわれているのである。

 しかし、アシカ達は子竜の近くには親竜がいることもよく心得ている。親竜は狩りの名手、恐ろしい天敵だ。子竜と「戯れる」と同時に、親竜の出現に備え警戒を怠らない。

 実際、メジナはルビナの少し上空を飛んでいた。もたもたする我が子に苛立ちを隠せないメジナは、容赦なく叱咤する。

「何やっているんだい! 闇雲に追い回さないで、どれか一つに狙いを絞りな! 何度言ったらわかるんだ、このすかぽんたん!」

「そんなこと言ったって~」

 いくら怒鳴りつけようとも、ルビナはあっちうろうろ、こっちうろうろするばかりで、まるで効果がない。その情けない姿に、メジナははーっと大きく息をついた。

「やれやれ、見ちゃいられないねえ……。あのどら息子ですら、もうちょっとましだったよ。あの子の狩りのセンスは最悪だよ、全く……」

 これではまた自分が手本を示さなくてはならない。一体いつになったらあの子は、自分の後継者に相応しい竜になるのか。ああ、先が思いやられるーーと、渋面のメジナが高度を下げようとした時だった。北の沖合から何か巨大な「物体」が、波間をかき分けるように急接近するのが見えたのだ。

「何だいあれは? 鯨かい?」

 だが鯨にしては妙だ。形が明らかに異なるうえ、潮吹きも見えない。しかもその「物体」は、鯨よりも遙かに高速で泳いでいる。不吉な予感に駆られたメジナは、まだ水面近くでアシカを追い回している娘に向かって叫んだ。

「ルビナ! 何かやばいものが来る! 早くこっちに上がって来な!」

 尋常ではないその叫びにルビナは慌てて急上昇、一目散に母親の許まで飛んで来た。と、その数秒後、「物体」が海面を突き破り、踊るように全身を現した。優に火竜(ドレイク)の倍はありそうな、漆黒のぬらぬらとした巨体。長い蛇のような七本の首。水掻きと鋭い鉤爪がのついた八本の足。トカゲのような尾には、鋭いスパイクがずらりと並んでいる。

 その禍々しい姿に、メジナは戦慄を覚えずにはいられなかった。雄竜を食い殺し、若い頃は火竜に喧嘩を売ったことすらあるメジナですら。百年近く生きてきたが、こんな恐ろしい生き物、見たことも聞いたこともなかったのだ。

 怪物は七つの頭を突き上げ、雷鳴の如く咆哮すると、パニック状態に陥ったアシカの群に襲いかかった。悲鳴を上げ逃げ回るアシカを、それこそ信じがたい早さで首を動かし、手当たり次第に捕らえては丸飲みにして行く。ものの一分もしないうちに二十頭近くいたアシカは、全て怪物の腹の中に収まってしまった。

「お、お母さん……。あれ、何……」

「そんなこと知るかい! こっちが訊きたいくらいだよ!」

 呆然とするメジナだったが、ここで我に返りーーそしてある深刻な問題と直面することとなった。この怪物がこの辺りに居着こうものならどうなるか。アシカの群を一瞬で食い尽くす程の食欲だ。自分達の獲物は根こそぎ食べられてしまうに違いない。

 が、今はそんな「先」のことを心配している場合ではなかった。怪物の頭の一つが旋回する飛竜の親子に気付いたかと思うと、残りの頭も一斉に同じ方向を向いたのだ。十四の目から放たれる物欲しげな視線が、メジナ達を捕らえる。

「まずい! あいつ、まだ食い足りないみたいだ! 逃げるよ、ルビナ!」

 メジナ達は全速力で巣穴を目指した。幸いあの怪物には翼はない。あれ程の巨体ならば、住処である断崖の洞窟まで上ってくることなど、到底不可能ーーと睨んだメジナだったが、直ぐにその考えの甘さを思い知ることとなった。

「きゃーっ! お母さあん!」

 張り裂けんばかりの娘の悲鳴に振り返ったメジナは息をのんだ。怪物の背中から、これまた闇の帳のような二対の翼が飛び出したのだ。海面を激しく波立たせて羽ばたくと、怪物は宙に舞い上がった。

「な……何てこったい! あいつ、飛べるのか!」

 それはもう悪夢としか言いようのない光景だった。あの重たげで不格好な怪物が、悠々と飛行しているのだ。まさか空も飛べるとは想定外だった。

 こうなれば残された手段はただ一つ。飛竜自慢の飛翔速度で相手を振りきるしかない。戦おうにも飛竜の武器は牙と四肢の鉤爪、そしてか細い炎の吐息のみ。勝てる見込みは全く無い。

 ところがまずいことに、「想定外」の事態は更に続く。怪物の飛行速度は、その見た目からは想像出来ない程速く、火竜と同程度くらいだったのだ。

 迫り来る怪物を見詰めながらメジナは思った。自分一人ならば逃げきれるだろう。しかし、娘のルビナは飛行速度も技術もまだまだ未熟ーー

 覚悟を決め、メジナは娘に言った。

「ルビナ、よく聞きな。何があっても絶対に振り返らず、全速力で奥地の森まで逃げるんだ。わかったね!」

「う、うん……」

 ルビナは黙って頷くしかなかった。「お母さんはどうするの?」と尋ねる暇などないことくらい、幼いなりに理解していたのだ。

 ルビナが横をすり抜けけるや否や、メジナは身を翻し、謎の怪物めがけて猛然と突っ込んでいった。ただ、メジナはここで我が身を犠牲にするつもりは毛頭なかった。ルビナは満足に狩りも出来ぬ子供だ。娘を一人前にするまでは絶対に死ねない。何としても自分も生き延びねばならないという、強い決意を胸に秘めていたのである。

 幸い相手はあの巨体、空中での動きは鈍そうだ。敏捷力はこちらの方が上、倒すことは不可能としても、時間稼ぎ程度ならば十分可能な筈。そして頃合いを見計らい、自分も離脱して娘とは別方向へ逃げるーーそれがメジナの作戦だった。

 怪物との間合いを詰めると、メジナは相手の首の射程圏内へ到達する直前で急降下。腹部へ回り込み、一発炎の吐息をお見舞いした。怪物にしてみれば腹を多少炙られた程度、大したダメージは受けていない。それでも思わぬ反撃に怪物は猛り狂い、血眼になってメジナを追い回し始めた。

 怪物は牙をむき、次々に首の攻撃を繰り出していった。しかし、メジナはそれを素早い身のこなしで難なくかわす。相手をこれ以上陸地へ近付けさせぬよう、周囲をぐるぐると飛び回って足止めすることも忘れない。

 作戦は功を奏し、怪物は海上に留まった。だが、もうそろそろよかろうと離脱を試みた時、メジナの心に隙が生じーーそしてそれは、致命的な結果となって返ってきた。メジナが後方へ向かった途端、怪物は長い尾を横へしならせ、力任せに振ってきたのである。

 油断していたメジナは避けることも叶わず、身を捻るのが精一杯。尾の先が腰に命中し、体が吹き飛んだ。激痛が走り、下半身の感覚がなくなる。腰骨と大腿骨が粉砕されたのだ。

 ーー私としたことが……しくじった……。

 意識を失いかけたメジナだったが、そこは幾多の修羅場を潜り抜けてきた百戦錬磨の猛者。最後の力を振り絞り、ほぼ無傷な翼を懸命にはためかせ、どうにか半島突端の崖の上にたどり着いた。だが、それが限界だった。瀕死の重傷を負ったメジナはもはや微動だに出来ない。

 ーーこれが人間が言う年貢の納め時ってやつかい。あの子の成長を見届けられなかったのは残念だけど、せめて生きてさえいてくれれば……。ん……!

 意識を失いつつあるメジナの耳があるものをとらえた。ルビナの声だ。母親がなかなかやって来ないので、心配になって引き返してきてしまったのである。メジナにとって最悪の事態だったが、そんな親心など知らぬルビナは母親の許へ降り立った。

『ば、馬鹿……。早く逃げろってあれほど……』

 息も絶え絶えのメジナは懸命に念話を飛ばしたが、ルビナは、

「お母さーん、お母さーん、しっかりして」

 と泣きながら母親の顔を舐めるばかりで、側から離れようとはしない。そこの、ずんという音と地響がし、ルビナははたと面を上げた。崖の先にあの怪物がいる。口からちろちろと舌を出し入れさせながら親子を見詰める眼差しは、恋人へ向けるそれにも似て何処となく嬉しそうに見えた。

 視線が合った途端、ルビナは凍り付いた。俗に言う蛇に睨まれた蛙状態だ。こうなってはもう逃げられない。親子の命はまさに風前の灯火であった。ところがーー

 一歩踏み出したところで、何故か怪物はぴたりと足を止めた。首を目一杯伸ばし、親子の遙か向こうの空を凝視している。だがそれも僅かなこと、くるりと反転したかと思うと、一目散に海へ向かって飛び去ったのだ。食べ応えのある獲物を目前にしながら。

 ルビナは呆気にとられ、怪物の後ろ姿をただ見詰めることしか出来なかった。何故怪物が去ったのか、さっぱり理由がわからなかったのだ。ただルビナの目には怪物が何かに怯え、大慌てで逃げ出したようにも見えた。

 その時だった。ルビナの頭上をきらめく一陣の風が吹き抜けたのは。驚いたルビナが風を追って目を向けると、青銀色に輝く見たこともない竜が、矢の如く速さで海の方へ飛んで行くのが見えた。鳥に似た翼を広げたその姿は実に優美で、神々しさすら感じる。ただ、その背には人間が乗っていたようだったが。

 ルビナは悟った。謎の竜は怪物を追っており、怪物もそれに気付いて逃げ出したのだと。謎の竜は人間を乗せていたことから、鞍無しの竜騎士とも考えられる。と、すれば爆炎球を恐れてのことだったのかもしれない。が、怪物が逃げ出す理由はない筈。体の大きさという点だけを見れば、怪物の方が遙かに上なのだから。

 しかし、今はそんなことを悠長に考えている場合ではない。怪物が消えた今が逃げるチャンスだ。第一、あの謎の竜も味方だとは限らない。

 一刻も早く母親を安全な場所へ連れて行かねばと、ルビナは虫の息のメジナの首元を噛み、必死になって引きずろうとした。だが非力な子供の力ではどうにもならず、母親の体はびくともしない。

『私はもう助からないよ。これからは自分の力だけで生きな……』

 薄れ行く意識の中で、メジナは最後の念話を娘に飛ばした。

「いやーっ! お願いだから死なないで、お母さん!」

 ルビナはぼろぼろ泣きながらも、口を離そうとはしない。が、涙に霞んだその目が何かをとらえた。沖合を走る目映い一筋の光の帯。真夏の陽光すらもかき消すような強烈な光だった。

 一体あの光は何だったのかーーと、そんな疑問を抱いたのも束の間、ルビナは悪寒を覚えた。今度はあの謎の竜がこちらへ向かって来たのだ。

 ーーあの変な竜が……。は、早くお母さんを……。

 そうは言ってもここは半島突端の崖の上。隠れる場所など何処にもない。あっと言う間に問題の竜は親子の目の前に降りたった。

「あ……」

 ルビナは震えが止まらなかった。無理もない。相手は母親よりも優に二周りは大きい巨竜だ。加えてあの怪物の野獣の如き恐ろしさとはまた違ったオーラを放っており、それは幼いルビナを畏怖させるには十分すぎた。しかも相手は騎竜具を一切身に付けていない、鞍無しの竜騎士。炎の吐息一つでルビナなど容易に消し炭に出来る。

 ところが謎の竜はその場から動かず、ただその緑色の瞳でじっと親子を見下ろすばかり。やがて背に乗っていた若い人間の男が地へ飛び降り、二人の側へ歩み寄ってきた。


 半年間の探求の旅を終え、ようやく帰郷したリムドとカグラ。が、その翌日ーー六月十日午後、二人はマルシャと共にヨマーン西部サタール地方のビスタ侯爵領内にいた。目的は無論、ラージとディーヴランドルに接触するためだ。仇であるボルドーク目当てで、必ずやこの地へ姿を現す筈だからである。

 ただ、この地へ来る際、リムド達はナグナギールの力は借りなかった。流石にあの癇癪持ちの飛竜を、三日続けて運搬役(アッシー)扱いするわけにもいかなかったのだ。その様なわけでリムドは渋るカグラの尻を叩き、魔力を使わせて移動したのである。

 ビスタ邸は領内中央部の小高い丘の上に建てられていた。これは由緒ある家柄ーーヨマーン建国以前の内乱時代から続く貴族の屋敷にはよくあることだ。見晴らしがよい場所ならば敵兵が攻め込んで来た際、直ぐにその存在を察知出来るからである。

 更に屋敷の四方、半マール(二百五十メートル)程離れた所に、見張り櫓もあった。平和な時代の今となっては無用の長物なので放置され、荒れるに任されていたが。

 リムド達はその一つ、南側の櫓に待機することにした。相手がミスリダ大公国がある方角ーー南側から飛来する可能性が高いからだ。幸いグレンの話によれば、ディーヴランドルは光り輝く竜、とにかく目立つ。たとえ夜間であっても夜目がきくカグラ団のメンバーやマルシャならば、見逃す危険性は低いだろう。

 とは言え、相手がいつ現れるかはわからない。持ってきた荷物を整理しながら、リムドは呟いた。

「いくら故国を陥れた張本人がいるとはいえ、昨日グレンと別れたばかりのラージ達が、すぐここに来るとは思えないよなあ……」

「まあね。気長に待つしかないんじゃない」

 マルシャの言葉は素っ気ないものだったが、実際その通りだった。ディーヴランドルの回復にはそれ相当の日数がかかるだろう。ノーラムにせっつかれ、急ぎこの地までやってきたものの、果たして意味があったのか。

 これならば家にいるうちにグレンにもう一度遠見魔法を使ってもらい、ラージ達の状態を把握しておくべきだったのではないだろうかーーと、今更ながらリムドは後悔していた。リムドをまるで子供のように見下すグレンだが、ノーラムが相手ならば話は別。あの火の玉娘も祖父の言うことには素直に従うのだからーー愚痴はこぼすが。

 問題は他にもある。多少の長期戦を見込んで食料は用意してきたが、それも五日分程度だ。幸い近くに小川があるので水の心配は無用だが、食料は尽きれば近くの村まで買い出しに行かねばならない。大食らいのカグラがいる以上、深刻な問題だ。

 しかし、それ以上に厄介なのが「退屈」だった。出来ることはひたすら待つことだけ。暇を持て余し、カグラは早々に寝そべっている。見張りをする気は毛頭無いようだ。カグラのぐうたらぶりは毎度のことではあるが、リムドは頭が痛かった。

 こうなったら南の空を見張りつつ、マルシャと話でもして時間を潰すしかない。リムドがそんなことを考えていると、マルシャの方から話しかけてきた。

「ねえ、リムド。それはそうとボルドークはもうこの領内にはいないんじゃないかい?」

「正直、僕もそうだと思う。セレアナさんを取り逃がして、自分の秘密を国王に知られてしまったんだからね」

 セレアナ抹殺の刺客として送り込んだカイエンは戻らず、その調査に向かわせたザントとラージも、ミイラ取りがミイラに……の状態。抹殺が失敗に終わったことぐらい、容易に察しがつく。

「僕がボルドークだったら、失敗を確信した時点で直ぐに逃げ出すよ。いくら鞍無しの竜騎士で、強力な術が使える神官と言っても、国王の竜兵団と真正面から勝負を挑もうなんて思わないだろう」

「仮に屋敷に留まっていたとしても、既にビスタ邸には国王軍の兵士が押し掛けている。確実にあそこにはいないね」

「そういうこと。グレンは親切のつもりでボルドークの居場所を教えたんだろうけど、ラージはとんだ骨折り損になりそうだ」

「そうだね。ところでリムド、これは提案なんだけど」

 マルシャは一回大きく伸びをすると、リムドを見上げた。

「時間はたっぷりあるんだから、私がちょいと屋敷に忍び込んで探ってこようか? 情報は多いに越したことはないんだからさ」

 それは確かに悪くない提案だった。マルシャは言葉さえ発しなければ、普通の猫と見分けがつかない。使い魔だと気付く者はまずいない筈だ。

 だが、リムドが難色を示した。マルシャには隠密行動をするうえで問題点があったのだ。黒猫でオッドアイ、額には古傷、首には黒曜石のペンダントと、兎に角人の印象に残るような特徴を幾つもマルシャは持っている。それに万が一捕縛された場合、自力で逃げ出すことも叶わない。

「まあ、そりゃそうだけどさ。じゃ、アギにでも頼むかい? あれなら嬉々として行きそうじゃないさ」

 リムドの指摘に肩を落としつつ、既に寝息を立て始めているカグラを一瞥するマルシャ。しかし、リムドはゆっくりと首を横に振った。

「いや、駄目だな。確かにアギは諜報活動が得意だ。でもあいつはーー」

「あー、わかった。何処かに忍び込んで、『手ぶら』で帰ってきた試しはないってことだね?」

「その通りだよ……」

 アギの手癖の悪さには、リムドもほとほと手を焼いている。隙あらば自分からも盗もうとする奴だ。貴族の屋敷で何をしでかすかは火を見るよりも明らかだった。

「それじゃ、誰が行くんだい? まさかリムド、あんたが?」

「僕はそういうのは全然駄目だな。ここは一つファシドに頼もうかと思う」

「は、ファシドに? あの吟遊詩人の坊やにどうして?」

「僕に考えがある。まあ、見ててくれ」

 そう言うと小首を傾げるマルシャをよそに、リムドはカグラの肩を揺すり始めた。


 ビスタ侯爵邸の庭の一角に、一人の若い侍女が虚ろな目で立ち尽くしていた。目の前には赤やピンク、黄色といった色鮮やかなバラがその美しさを競うかのように咲き誇っていたが、今の彼女には何の慰めにもならないようだった。

「ああ、奥様は本当にバラのお花がお好きだったわね。このバラも旦那様が奥様のお誕生日のお祝いに植えられたものだし……。それなのに何で旦那様はあんな酷いことをおっしゃって……」

 溜息混じりに侍女は呟いた。彼女は奥方ーーセレアナ専属の侍女だったのだ。セレアナは今月の一日、実母の具合が思わしくないと言い出し、実家へ向かった。ところがその日のうちに、護衛として侯爵と共に外出していた竜兵団団長のボルドークが、副団長のカイエンとザントを連れて滞在先から戻ってきたのである。直後、屋敷は異様なた空気に包まれ、極度の緊張状態に陥った。そして上を下への大騒動ーー

 下働きである侍女に詳しい事情などわかる筈もなかった。今は自分が出来ることは、ただ己に与えられた仕事をこなすだけ。そう、いつセレアナが帰ってきてもいいように、主の部屋を完璧な状態に保つことだ。ならばバラを活けようかと、花に手を伸ばそうとしたその時ーー

「あら……?」

 微かな歌声が屋敷の外から聞こえてきた。耳を澄ませているうちに、侍女はふらふらと歩き出したーー声のする方へ向かって。バラの香りにも似た甘美な歌声。心地よく耳の中を転がり、心くすぐられるような声の主を求めて。

 裏門から屋敷の外へ出た侍女は、裏手に立つ木立の陰に竪琴を抱えた若者がいることに気付いた。輝くばかりの銀髪を棚引かせた、澄んだ瞳を持つ美青年。ファシドだった。

「こんにちは、お嬢さん」

 ファシドはにこにこと笑いながら侍女の前へ姿を現した。その妙に馴れ馴れしい態度を目にすれば、「どちら様ですか」の一声と共に身構えるのが普通だろう。

 ところが侍女は警戒する素振りなど微塵も見せず、魂を奪われたかの如く目つきでファシドを見詰めるだけだった。それもそのはず、ファシドは歌に魔力を乗せていたのだ。聞いた者の心から警戒心を消し去り、自分の思い通りに動かせる催眠術のような力を。

「お会いして早々で恐縮ですが、お名前を教えて下さい」

「リア……です」

 口調はややぎこちなかったが、リアという名の侍女はファシドの質問に間を置かず答えた。術が完全に効いていることを確信したファシドは、楽屋で「よっ、女たらし!」と茶化すアギの声を無視し、本題に入った。

「ご覧の通り、僕は旅の吟遊詩人です。僕がこうしてこのお屋敷に伺ったのには訳があります。こちらには純白の素晴らしい火竜に乗った竜騎士がおられると聞きました。是非ともお会いして彼の事を歌にしたい。お目通り願えませんか?」

「あ……団長のことですか……?」

「その通りです。お名前は確かボルドーク・ウラノス様とおっしゃった筈ですが」

「団長は今ここにはおられません……。あの……先日お屋敷を出られたようで……」

 やはり既に相手はここにいないかーーと思いつつも、ファシドは質問を続けた。

「先日? それはいつのことですか?」

「五日の早朝です。あの方が一緒にミスリダから連れてこられた方達と一緒に」

「その一緒に来たという人は、誰ですか?」

「ログス・アーデン様、ウェール・キド様、オラム・ジェイナス様……。全員竜騎士です。鞍無しではありませんが」

 ログスの名を耳にし、ファシドの眉がぴくりと動いた。ローランの飯屋の主人が捜していた、幼なじみのログスに違いない。騎竜は白黒の縞模様の火竜だと聞く。

『ふーん、成る程ねえ』

 ここで急に楽屋からグレンの憎々しげな呟きがした。

『カイエンとザントはくたばり、ラージは術が解けて離反した。ってことは、ミスリダからあのくそ坊主にくっついてきた奴は、全部で六人ってことかい』

 ボルドークもその残党三人も首を洗って待っていなーーと言いたげな様子のグレンに内心苦笑しつつ、ファシドは落胆した「ふり」をした。

「そうですか、それは残念です。せっかくボルドーク様にお会い出来るかと思ったのですが。それでボルドーク様はどちらへ?」

「わかりません。何もおっしゃらずに出て……」

 ここでファシドはリアの側まですすっと歩み寄ると、肩に手をそっと置いた。これはファシドなりの作戦だ。こちらがより親しげな態度を示すことによって術の効果が増し、相手の舌が更にまろやかになるのである。

「わかりました。ではここ十日間の間に起きた、あなたの知っていること全てを順だって教えて下さい」

「はい……」

 「肩に手」作戦の効果は絶大で、ある種の「勘違い」をしたリアは頬を赤らめながら話し始めた。先月末、ビスタ侯爵は母方の従兄弟の結婚式に出席するため、ボルドークをはじめとする数騎の竜騎士と共に従兄弟の領地へ向け出発した。そして今月の一日に、今度はセレアナが実家へ向かうため屋敷を発ったのだが、その数時間後に何故かボルドークがカイエンとザントを連れ、血相変えて戻ってきたという。

 その後のことはどたばたの連続で、リアにもよくわからない。ただ、ビスタ侯爵の態度が引っかかった。三日に従兄弟の屋敷から帰還した際、奥方が留守にしている理由を聞いても、「そうか」と一言言っただけで、別段気にする素振りも見せなかった。

 問題はこの後だった。ボルドーク一党が姿を消した直後の五日の朝、下働きの者を除く全員ーー侯爵本人は勿論、竜兵団員や側近達が、突如パニック状態に陥ったのだ。まるで夢から覚めたかの如く、「これはいったいどういうことだ!」などと口走り、頭を抱えてしまった。ここ四年間の記憶がすっぽりと抜け、その間に起きた出来事を何一つ覚えてはいなかったのだ。ビスタ侯爵に至っては先日行われた従兄弟の婚礼はおろか、セレアナを娶ったことすら記憶になかったのである。

「端くれ貴族の娘が我が妻に? 馬鹿な! あのような下賤がこの屋敷を我が物顔で歩いていたというのか! 虫酸が走る!」

 そう叫んでビスタ侯爵は発狂寸前。ところがその混乱の最中、今度は国王軍の竜騎士が数十騎、屋敷へ押し寄せた。異端者ボルドークを差し出せと。そうは言っても邸内の主要人物は自分のことで手一杯、それどころではない。

 そこで記憶喪失に陥っていない者の中で、唯一事情説明が可能な執事長が対応することとなった。ボルドークを捕らえ損なった国王軍の竜兵団は一部をその探索に向かわせ、執事長を連れて王都へ帰還。残された侍従達は記憶喪失者のケアに追われていたが、昨日くらいからようやく邸内も落ち着きを取り戻し、リアもほっとしているという。

『こりゃあのラージ(ボケ)と一緒だね。屋敷の連中、くそ坊主に人格移植の術をかけられていたんだ』

『あの野郎、とんずらする際に術を解除しやがったな。それにしてもそれだけの大人数に魔法かけるとは、悪党ながら大した奴だぜ。ラージの奴、返り討ちにあわなきゃいいがな』

 グレンとアギの声にファシドは無言で頷いた。ボルドークは偽神から相当量の力を授かった、恐るべき実力者なのだ。もし対峙したらカグラでも勝てるだろうか……ファシドは不安を覚えずにはいられなかったが、そんなことはおくびにも出さず、笑顔を見せた。

「成る程。あなた方も大変でしたね。で、他に変わったことは?」

「そう言えばついさっきーー今日の昼前に、ボルドーク様の子飼いの竜兵士だったラージ様が、こっそり戻ってこられました」

「え……!」

 ファシドは危うく腰を抜かすところだった。グレンがラージとローラン郊外で別れたのは昨日の午前だ。呪いを解かれて助かったとはいえ、ディーヴランドルは死の淵にいた。それ程までに衰弱していたかの竜が、この地へ飛翔するまでに回復したとは信じ難い。異街道を使用しようにもミスリダでは大公暗殺未遂事件以来、異街道は全て廃止され、隣国のスルーザやシャルドラでも使用は一切禁じられている。越境しヨマーンへ到達することは容易ではない筈だ。

「そ、そうですか。戻ってきたってことはそのラージさんは出かけていて、主のボルドーク様の所へ戻ろうと……」

 リアはこくりと頷いた。ラージはリアをこっそり屋敷の外へ呼び出したそうだ。実のところリアはラージに淡い恋心を抱いた。ラージもそのことに薄々気付いており、まんまと利用されてしまったらしい。

 ラージはボルドークがここにいないと知ると、居場所を聞き出そうと問いつめた。もっともリアがその様なことを知る訳もなく、「自分が来たことは他言無用」と口止めすると、早々に立ち去ってしまった。リアががっかりしたのは言うまでもない。ラージはお尋ね者となったボルドークの配下なので、その気持ちは彼女も理解出来たが。

「もう少しラージ様とお話がしたかったわ。でもザント様はどうしたのかしら?」

「ザントさん……って?」

 ファシドにしてみれば実に白々しい問いだったので、その声は多少上擦っていた。が、リアはその不自然さに全く気付いていない。

「ザント様はラージ様の上役に当たる方です。お二人は何日か前、一緒にお屋敷を出て行ったんですけど……。ラージ様、さっきは何か違う方を連れていましたし……」

「違う方?」

「はい。雪みたいな真っ白い髪の若い男の人と一緒でした。目も綺麗な緑色で、それは素敵な方でしたわ。あなたと引きを取らないぐらいに」

 嬉しそうに微笑むリアを余所に、ファシドは眉間に皺をよせた。リアが知らないということはその若者、屋敷の者ではない。ラージにその様な知り合いがいたとは……と疑問に感じたのだ。

「で、その白髪の人の名はわかりますか?」

「はい。確かラージ様はーー」

 リアが口にした名を聞いた途端、衝撃のあまりファシドは片膝をついた。しかし直ぐに立ち上がると、リアに自分と会ったことを口止めするよう(まじな)いをかけ、その場を後にした。

 ボルドークが屋敷にいないことは予想通りだった。だが、あとの二つの重要な情報は想定外だ。ラージが既にこの地へやってきたこと、そしてその謎の同伴者ーー

 早くこのことをリムドに、そして祖父のノーラムに知らせねばならない。楽屋であれこれと騒ぎ立てるグレンとアギを無視し、ファシドは見張り櫓目指して懸命に走り続けるのだった。

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