第1話 空襲
「ちょいと! あんた達、一体何を考えているのさ!」
自分の正面に並んで座る一組の男女に、赤毛の女は眉をつり上げ、噛みつかんばかりの勢いで叫んだ。
「こんな目立つ所を堂々と馬車で行くっていうのは、どういうつもりなんだい! まるで襲って下さいと言わんばかりじゃないさ!」
今、三人がいるのは馬車の中。長旅にも耐えられる屋根付きの箱馬車で、扉には凝った彫刻が施されている。ふんわりと軟らかなシートには前後の席に二人ずつ、計四人が向かい合ってゆったりと座ることが可能。貴族や豪商が優雅な旅を楽しむ目的で作られた、豪華な一品だった。
されど中に乗っている者達は、旅を楽しむ余裕などなかった。車を引く逞しい二頭の馬は、御者の鞭を受けて街道を全力疾走中だったのだ。ただ街道とは言っても、道は曲がりくねって小石だらけ。おまけに今は朝で、すれ違う人も車も殆どなく、馬車はスピードを一向に落とさない。故に揺れは結構酷く、喋るタイミングを間違えれば舌を噛みかねなかった。
しかし、赤毛の女は乗り心地のことなどどうでもよかったようで、腕を組んだまま不機嫌そうに二人を睨みつけている。一方、怒鳴られた相手ーースミレ色のドレスを身に纏った貴婦人は俯いたまま。赤毛の女の剣幕に萎縮してしまったのか、一言も声を発しない。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
さすがにこのまま揃って無言を押し通すのは、まずいと感じたのだろう。貴婦人の隣に座る、人の良さそうな初老の男ーー執事が宥めに入った。
「まあまあグレン殿。奥方様には奥方様のお考えがありまして……」
「ほー、それじゃのそのお考えとやらを聞かせてもらおうじゃないか。私にしてみればこんな危なっかしい行動、常識外れもいいところなんだからね!」
更に凄みをきかせて赤毛の女ーーグレンが一喝すると、今度は執事までも青ざめて目線をそらしてしまった。
そもそもグレンは、長い間この二人と行動を共にしてきたわけではない。彼らとの「出会い」は、昨日の午前十時過ぎのこと。初夏のある日、ヨマーン王国西部最大の都市・トゥーラムの傭兵仕事紹介所で、女傭兵グレンは手っ取り早く金を稼ぐことが出来る依頼を探していた。
グレンのトレードマークは、背中にまで達した炎のような赤い髪と薄闇色の瞳。加えて王侯貴族の姫君にも引けを取らない、輝くばかりの美貌の持ち主でもある。ただ見るからにきつそうで、気軽に声をかけられるような感じではないし、育ちの良さも窺えない。年は未だ十六だというが、少女らしい初々しさも一切感じられず、どう見ても二十歳過ぎにしか見えなかった。
この外見だけでも十分目立つが、グレンは傭兵としての実力も兼ね備えていた。男戦士に見劣りしないほど長身で、体格もよく腕っ節も強い。剣の腕前は経験不足もあって未熟さが残るが、それを補ってなお余りある能力を彼女は持っていた。人には珍しい生まれついての魔力持ち、即ち無詠唱魔法が使えるのだ。
傭兵になって僅か半年、グレンは同業者の間では既に噂の的であった。駆け出しの傭兵とは思えないような、数々の実績を上げていたからだ。殊に二ヶ月程前に参戦した王国北部の大規模な山賊討伐では、賊の半数以上を一人で討ち、グレンの名は一気に知られるようになった。
だが、グレンの評判は必ずしもいいものばかりではない。請け負った仕事は必ず成功させるものの、そのやり方には些か問題があったのだ。敵と見なしたら最後、徹底的に叩く。相手が逃げようが降伏しようが関係はない。とにかく、全ての敵を抹殺しなければ気が済まないーーそんな無慈悲で野獣のような一面が、グレンにはあったのである。
そのグレンに声をかけたのが、この執事だった。彼は仕事紹介所へやってくると、まず支配人にこう尋ねた。凄腕の傭兵はいないかと。すると支配人は相手が提示した条件を確認した後、室内の片隅を指さした。その先にいたのがグレンだったのだ。
グレンに執事は仕事の依頼話を持ちかけ、紹介所の裏手へ連れ出して詳細を説明した。とある地方貴族の奥方が、火急の用件で密かに国王に謁見しようとしていた。ところが王都アレフトへ向かう途中で、「敵」に今回の計画が発覚。敵はこれを阻止せんと、配下の竜騎士を一騎放った。奥方が乗った馬車は竜騎士に追いつかれかけたが、どうにかトゥーラムへ逃げ込むことに成功した。
大空を自在に駆ける竜騎士にとって、都市の城壁などないも同然。されど竜騎士は城壁を越え、町の中まで奥方達を追いかけようとはしなかった。いや、出来なかったのだ。いくら竜騎士とはいえど、町中で騎乗する火竜を暴れさせるという暴挙に出ることは不可能。トゥーラム騎士団に所属していない竜騎士が、都市上空に出現しただけでも町は大騒ぎになり、兵が駆けつける事態になるのだから。無論、騎竜から降りて騎士が単身町に潜入することは出来る。だが土地勘がない者が、この広く入り組んだ町の中で捜索するのは至難の業だった。
よってトゥーラムにいる間は安全だろう。しかし敵は諦め、引き返したわけでは決してない。町の近くに身を潜め、こちらが出て来たところを襲おうと、虎視眈々と狙っているに違いなかった。
「我々はいつまでもここにいるわけにはいきません。一刻も早く王都へ向かわねばならないのです。そこで我々の護衛となり、竜騎士を撃退して頂きたいのです」
執事は必死の形相で何度もグレンに頭を下げた。竜騎士に単身挑むなど、無茶苦茶な話。よほど腕に覚えのある者でなければ無理だ。執事はグレンの評判をーーいいも悪いも全て承知の上で、仕事を依頼したのだった。
一通り話を聞き終えたグレンは考えた。馬車ならトゥーラムから王都まで半日足らずだが、それは王都へと通じる街道を通ればの話だ。町の東側はなだらかな丘陵地帯に広がる草原で、街道は丘の間を縫うように走っている。馬車が隠れるような場所は何処にもなく、上空の敵からはこちらの姿が丸見え。街道を走るルートは危険極まりない。
ただ、町の南東部には鬱蒼と茂る広大な森がある。車を捨てて馬に乗り換え、森の中を進むのが最善の策だ。今は初夏で森の緑が最も濃い季節。空から捜そうにも木立に隠れ、こちらの姿は敵に見つかりにくい。森さえ抜ければ、王都は目と鼻の先だ。
街道を走るより多少遠回りにはなるが、騎馬で森を抜けるこのルートでも一日あれば十分のはず。拘束時間は短く、更に報酬も相場よりかなり上だ。割がいい仕事だとグレンは喜び、この仕事を引き受けることにした。必ず森を馬で行くようにくどいほど言い聞かせると、グレンは一旦執事と別れて宿へ戻った。開門時間の明朝七時に、東門の前で落ち合う約束をして。
そして翌日の早朝、グレンは執事との約束通り町の東門の前で彼らが来るのを待っていた。ところがやってきたのは何と馬車。馬車では木々が生い茂る森の中を通ることは出来ない。グレンは依頼主がやろうとしていること知り、激怒した。彼女にしてみれば自殺行為とも言える、馬車で街道を行く「強行突破」だったからだ。まさに「襲って下さいと言わんばかり」の行動だった。
しかし一度受けた依頼は決して投げ出さず、最後までやり遂げるのがグレンのポリシーでもある。仕方なく馬車に乗り込み、東門が開門するのと同時に一行はトゥーラムを出発。されど不満を隠しきれないグレンは、町を発ってから半時間もの間ずっとグチをこぼし続けていたのである。
「こんな馬車、火竜の炎一発でお終い。あっという間に棺桶に早変わりだね。あんた達、死にたいの?」
「ですから私達はあなたに用心棒になって頂いたのです。火竜ですら剣の一撃で倒すと評判のあなたに」
ここでようやく黙り込んでいた奥方が面を上げた。年の頃は三十歳手前と言ったところか。栗色の髪は艶やかで美しかったが、女性としては極々普通。美貌という点ではグレンの足元にも及ばない。おまけに恐怖のせいかその顔はひきつり、貴婦人とは思えないほど情けなく見えた。
「私は何としても陛下の御前に参らねばなりません。あなたに守って頂かなくては……」
「はいはい、わかりました。あんたの言う通り、私の役目はあんた達の護衛。引き受けた以上、仕事はきっちりするよ。おや……」
グレンはふと右手ーー窓の方を見た。
「どうやら来たようだね。おっしゃる通り竜騎士が一騎。しかも『鞍無し』ときたもんだ」
グレンは窓から顔を出し、後方の一点を凝視した。空から何かが猛スピードで近付いてくる。最初は小さな点にすぎなかった「それ」は、次第に大きくなりーーやがて肉眼ではっきり確認できる姿となった。
現れたのは鋼の如く鱗に覆われた、蒼い巨大な竜。全長は三十六ライゼ(十八メートル)、翼長は四十ライゼ(二十メートル)といったところか。火竜としては小柄な部類に入るが、侮れない。火竜には鋭い爪と牙、尾の一撃に加え、恐ろしい武器がある。口から吐く灼熱の炎ーーあらゆる物を焼き尽くす「炎の吐息」だ。
そして火竜の首元に跨がる者こそ、この火竜と盟約を結んだ乗り手である竜騎士だった。全身を火竜と揃いの色の鎧で覆い、右手には槍を握っている。大抵の場合、竜騎士は竜の首元に手摺りと鐙を備えた鞍を据えて騎乗する。が、この騎士の騎竜はそうした騎竜具を一切つけていない、裸馬ならぬ裸竜。これが「鞍無し」と呼ばれる所以だった。
目指す「獲物」を見つけた火竜は大きく咆哮をの声をあげ、更にスピードを上げた。火竜の飛行速度は馬車の走行速度を遙かに上回る。いくら御者が馬に鞭をくれようとも振り切れるはずはない。
「あ、あれは我々を追ってきた竜騎士……。どうして今頃……」
執事は後方を振り向き、戦慄いた。上手いこと相手に気付かれず、トゥーラムを脱出できたかもしれないーーなどと密かに期待していたようだ。そんな甘い考えに心底呆れかえったのか、グレンは薄笑いを浮かべて言った。
「あんたは馬鹿か? トゥーラムの近くで竜騎士が暴れりゃ、町の中から衛兵やら野次馬やらがわらわら出てきて、お祭り騒ぎになるじゃないさ。だから町から遠く離れた、こんな人気のない所に相手が行くのを待って襲いかかってきたんだよ!」
「た、確かに……。我々を襲うところを人に目撃されるのは、相手にとって避けなければならないことですから……」
「そういうこと。私らが町を出たことなんて、とっくの昔にーー恐らく出た直後に気付いていたはずだよ。こちらに悟られない程度に距離をおき、追尾してきたんじゃないか」
二人がそんなことを話している間にも、両者の距離はみる間に縮まって行った。しかしグレンは焦る様子一つ見せない。
「鞍無しかい。相手にとって不足はないね。どれ、一仕事してくるかい!」
グレンは扉を蹴り開けると、信じられないような身軽さでーーまるで軽業師のように馬車の屋根の上にひらりと飛び移った。グレンは兜こそ被っていなかったが、竜騎士と似たような金属製の完全鎧を着用している。髪の毛同様、真っ赤な鎧だ。さらに背中に身の丈ほどもあろうかという両刃の大剣を背負い、左の腰にはごく普通の長剣を下げている。かなりの重装備で、いくら力があろうともこうも機敏には動けないはずなのだが……。
馬車の上に髪をたなびかせた女戦士が出現するという、予想外の展開に火竜も竜騎士も些か驚いたようだ。だがそれも一瞬のこと。三百ライゼ(百五十メートル)程まで距離を詰めた時、火竜は頬を大きく膨らませ始めた。
「ほー、そこで一発吐くつもりかい。でもここまでかなり距離がある。火炎放射の射程距離は、乗り手のいる竜でも精々百ライゼ(五十メートル)ってところだから、火を吐くつもりじゃないね。相手は鞍無し、ってことはーー」
敵の作戦を察し、グレンはほくそ笑んだ。全力疾走する馬車の上で立ち上がり、背中の大剣をすらりと抜くと頭上に高々と掲げた。
「丁度いい。私、ずっと前から疑問に思っていたんだよね。火竜がーー」
両手で大剣をしっかりと構え、グレンは上空の敵を見据えた。火竜に剣一本で立ち向かうことなど、狂気の沙汰。己の勝利を確信し、火竜は大きく口を開けた。しかし相手まで距離があるせいか、竜も騎士も全く気付いていなかった。グレンが自身の持つ魔力を剣に注ぎ込んでいたことを。
次の瞬間、火竜の口から人の頭ほどの大きさの炎の塊が、勢いよく吐き出された。小さい火の玉だと思って油断することなかれ。着弾すると大爆発を起こし、半径五十ライゼ(二十五メートル)にある全ての物を吹き飛ばし、火の海と化す「鞍無し」火竜特有の武器・爆炎球だ。通常の火炎放射でも馬車を焼くことは出来るが、火の手が中に回る前に脱出され、相手に逃げられてしまうかもしれない。確実に息の根を止められる方法を敵は選択したのだ。
馬車めがけ、一直線に飛んでくる爆炎球。されどグレンは少しも慌てず即座に、
「爆炎球に耐えられるかってことをさ!」
と、叫ぶや否や、全力で大剣を振り下ろした。馬車の屋根に剣先が届く寸前で止めはしたものの、ぐおんとくぐもった奇妙な音がすると同時に剣圧が発生。剣圧は魔力と混じり合って空気の塊と化し、爆炎球へ向かって行く。
程なくそれと爆炎球は真正面からぶつかった。通常ならここで爆炎球が弾け、大爆発が起こるはず。だが魔力が込められたグレンの一撃は、爆炎球を破裂させることなく、勢いもそのままに押し返し始めた。今度は来た方向とは逆にーー火竜めがけて。
火竜は爆風が届かない安全な位置まで後退しようとしていたが、信じがたい現象を目にして唖然とし、一瞬動きが止まった。しかしこれがまずかった。爆炎球を避ける時間を失ってしまったのだ。背中の盟友の「逃げろ!」との叫びに我に返ったものの、時既に遅し。高度を上げようと大きく羽ばたいたその時、爆炎球は火竜の胸元に命中、爆発した。
周囲に轟く、耳をつんざくような爆発音。黒煙が立ち上り、高熱の突風が凄まじい勢いで吹き荒れる。火竜の身体は砕けて無数の炎の塊と化し、四方八方へ飛び散った。幸い馬車は爆破地点から既にかなり離れた場所を走行していたので、大した影響を受けずに済んだが。
「あれまあ……。何とも呆気ない」
一際巨大な塊が一つ、炎に包まれて街道へ落下して行く様を見ながら、グレンはふうとため息をついた。正直、面白くなかったのだ。爆炎球を受けながらも火竜が牙をむき、自分に襲いかかってくる……と、いう展開を内心期待していたのだから。
大剣を背中の鞘に収めると、グレンは御者台の方を振り返った。
「ちょいとあんた! 馬車を止めて!」
グレンの鋭い一声に御者は慌てて手綱を引いた。馬車が停車したところでグレンは屋根からおり、中で縮こまって震えている奥方と執事に声をかけた。
「約束通り、敵は始末したよ」
「は……はい。有り難う御座います……」
奥方はようやく振り絞るようにして礼を述べたが、卒倒寸前だった。敵襲来の恐怖で二人とも馬車の中で身を堅くし、目をつぶっていた。故にグレンが何をしたのか、その瞬間を目撃してはいない。しかし、ただならぬ爆音が何を物語っているのかは、嫌でも想像がつくというものだ。怖がらない方がどうかしている。
されどグレンはそんな相手の心情などお構いなしだ。執事の頭をむんずと掴み、無理矢理外を向かせた。
「いいかい、あの丘の向こうに小川が流れている。あそこに馬車をやって、馬に水を飲ませてやりな。それが済んだら草もだ。トゥーラムを出て走りっぱなしで、馬も相当へばっているからね。休ませてやらないと、王都まで保たないよ」
「わ……わかりました」
「ただし、長居は無用だ。それが済んだらとっとと出発するよ。理由はわかっているね?」
執事は無言で頷いた。襲撃してきたのはあの竜騎士は、敵の配下の一人にすぎない。向こうの手勢はまだまだいるのだ。放った刺客が戻ってこないことで異変に気付き、早晩新たな敵がやってくるだろう。それまでに何としても王都へ駆け込まなければならない。取りあえず脅威は去ったが、あまりのんびりしてもいられないのである。
「その間に私はやることがある。あんたらは馬車でおとなしく待っていな」
「あの……。何をやられるので……」
恐る恐る執事が尋ねると、グレンは舌を打った。
「全く、鈍い奴だね。あいつらが本当にくたばったかどうか、念のため確認してくるんだよ。死んだふりされてまた追いかけられたら、たまったもんじゃないからね」
「そうですか。それなら私も一緒に確認をーー」
「いや、来ない方がいい。あんた達の目には刺激が強すぎるよ、多分」
グレンはそう言い残し、一人馬車を離れて街道を引き返し始めた。やがて巨大な塊が落下した地点へたどり着くと、周囲をぐるりと見渡してみる。肉が焦げる臭いが鼻を突き、草原の草陰からちろちろと小さな火の手が、方々であがっているのが見えた。
問題の路上に転がっている塊ーー焼けた肉塊は、火竜の胴体部分だった。とは言え原形をとどめてはいない。首と尾は途中でちぎれているし、前足と翼に至っては吹き飛ばされて跡形もない。
「こんなロースト状態じゃ、いくら火竜といえど完全に死んでいるね。さて、乗り手の方はどうなったかな……っと」
グレンは足早に左手の草地の方へ入っていった。爆炎球が炸裂した際、人らしき別の塊が草地へ飛んでいったのが見えたのだ。
青草を踏みしめながら進むうちに、街道から二百ライゼ(百メートル)ほど離れた丘の向こう側で、グレンはうつ伏せに倒れている死体を見つけた。間違いなく竜騎士のものだ。鎧のおかげで辛うじて形は保っており、火も既に消えている。が、鎧は焼けて変色し、その下でぶすぶすと肉がくすぶっているのがわかった。兜の面頬をあげて生死を確認するまでもなさそうだ。
「うん、大丈夫だ。これじゃもう追ってくるどころじゃないね。しかし火竜と言えど、爆炎球の直撃をくらえばこの様なんだねえ」
敵の無惨な最後を目にしても、グレンはけろっとしている。幾つもの激戦を経験し、この手のことには慣れっこになっているのだ。それどころか長年疑問に感じていたことが判明し、笑みすら浮かべている有様だった。
呑気に鼻歌を口ずさみながら、グレンは小川の側に止まる馬車へ戻ってきた。二頭の馬は既に存分に水を飲んだのか、川辺の軟らかい草を美味そうにはんでいる。
「御者さんよ、馬は休ませたかい?」
馬の状態をチェックするのに夢中で気付かなかったのだろう。グレンに急に声をかけられ、馬の傍らに立っていた御者は驚き、びくっと肩を震わせた。
「は、はい」
「よし、それじゃ出発しようか。このまま邪魔さえ入らなきゃ、巡航速度でも昼くらいに王都へ入れるね」
グレンが馬車へ乗り込むと御者も御者台へ戻り、馬に一鞭くれた。もう死に物狂いで疾走する必要はない。馬車は早足で進み出し、街道へと戻った。
「グレン殿。竜騎士はどうなっておりましたか?」
暫し間をおいてから執事は尋ねたが、グレンの返答は素っ気なかった。
「心配ご無用、竜も乗り手もお陀仏だよ。もう焼けた肉の破片と塊でしかない」
「そうですか……」
敵が撃退されたにもかかわらず執事も、そして奥方もその表情は冴えなかった。あの女は火竜ですら一撃で葬るーー傭兵仕事紹介所の支配人が言ったことは真実であり、グレンを雇ったことは正解だった。が、まさか本当にこうも易々と倒してしまうとは。そんな化け物じみた相手と、この狭い車内に少なくともあと三、四時間は一緒にいなければならないのだ。気が重くなるのも当然だったが、そんな二人の気持ちなど知るよしもないグレンは、ぶつぶつと呟いた。
「それにしても面白味がないねー。竜騎士って言うから、もっと手応えがある相手だと思っていたのに。あれ一騎でお終いじゃつまらなすぎるよ、本当」
一仕事終え、少し疲れたのだろうか。人目もはばからず、あーあと大あくびをするグレン。大きく開いた口を手で隠そうともしなかったが、彼女の品のなさを咎める者は誰もいなかった。
グレンの予想通り、馬車が王都アレフトの西門を通過したのは、教会が正午の鐘を鳴らした直後のことだった。あの竜騎士以外に敵の襲来はなかったので、馬車は順調に王都を目指すことが出来たのである。
グレンが受けた用心棒の依頼は、依頼者が王都の中へ入るまでという契約だった。つまり、門を抜ければグレンの仕事は終わりということだ。奥方はすぐに馬車をメイン通りから少し外れた路地に止めさせ、グレンに約束の報酬を手渡した。傭兵が三ヶ月は遊んで暮らせるほどの額ーーという話だったが、実際の額はそれよりも幾分多かった。どうも執事が少し気を利かせ、ポケットマネーを加えたらしい。もっとも感謝の気持ちというよりは、癇癪持ちである相手の機嫌を損ねないための配慮といったところであろうが。
しかし減額されたのならともかく、増えたのであればグレンは深く理由を追求しない。金の入った袋を手に馬車から降りると、「それじゃどうも」と軽く手を振っただけでさっさと立ち去ってしまった。もう一行のことなど気にかけようともしない。契約を守り、与えられた仕事をきっちりこなした。報酬さえ受け取れば、あとは依頼者がどうなろうと、自分の知ったことではない。後腐れなく、はいさようならーー傭兵とはそういうものだと、グレンは完全に割り切っていた。
かくしてグレンは見事依頼を成功させ、大金を手に入れた。これで当分の間は仕事をする必要もない。と、なればやることは一つ。金さえあれば毎日でも行いたい、グレン最大の「楽しみ」を。
「さーて、金も手には入ったことだし……。これで盛大にやるか!」
今日は夜明けまで飲み明かすぞと、グレンは気合い全開だった。グレンは酒に目がない。弱冠十六歳で「うわばみ」だ。未だ日も高いというのに、酒場に入って浴びるほど酒を飲もうという魂胆なのである。
足取りも軽く、グレンは目抜き通りへ向かった。通りには幾つもの酒場が軒を構えている。酒場と一言にいっても、傭兵や冒険者がたむろする安酒場から、金持ちの社交場も兼ねている高級酒場までピンキリだ。普段のグレンならば迷わず安酒場へ入るところだが、今は懐も暖かい。今回はもう少し格が高い店にしようと、心もうきうきしていた。
目抜き通りに着いたグレンは、早速店の物色を開始した。ところがその矢先、彼女の喜びに水を差すような事態が起こったのである。
「え、何だって? もう戻れって!」
いきなり立ち止まり、大声で叫ぶグレン。何事かと周囲の通行人の視線がいっせいに集中する。これには流石のグレンも慌てて踵を返し、視線を避けるように人混みから姿を消した。
間もなく目抜き通りの裏手、薄汚い袋小路へ入ったところでグレンは足を止めた。するとどうしたことか、彼女はすぐに辺りをきょろきょろと見回し始めた。何度も何度も注意深く、人に見られていないことをしつこいくらい確認して。
やがて周囲に自分しかいないとわかると、グレンは顔を真っ赤にさせ、怒りを爆発させたーー先程とは違い、声の音量を相当落として。
「おい! 金さえ手に入ったら、私はお役御免かい! この金は私が稼いだんだよ! どう使おうと私の勝手じゃないさ!」
一体誰に文句を言っているのか。無論、辺りに人の姿もなければ、声も聞こえない。まるで目に見えない相手と喧嘩をしているかの如く、グレンは近くの壁を力任せに蹴飛ばした。
「あんたって奴は、いつもそうだね! 面倒くさいことは人にやらせておいて、自分はぐーたら。いくら自分が『メイン』だからって、あんまりじゃないさ!」
ところがそう叫んだ直後、グレンの怒りは潮が引くようにすーっと消えていった。「喧嘩相手」がある「殺し文句」を放ったのだ。
「はいはい、わかった、わかった。あんたのおっしゃるとおりだよ。ここはおとなしく引っ込めばいいんだろう? そのかわり今度出てきた時には、必ず一杯飲ませてくれよ! 約束だよ!」
怒りは鎮まったとはいえ、不満はまだまだ残るのだろう。口を尖らせ、グレンは道端に積んであった木箱の山の陰に身を隠した。
そして数十秒が経過した時、女が一人、そこから出てきた。ただしグレンではない。全くの別人だ。グレンのように長身でもなければ、体つきも貧弱で腕も細い。着古した旅装束姿のしまりのない顔つきの女で、どことなくぼーっとしているように見える。ただその右手には、グレンが持っていた金袋がしっかりと握られていた。
女は袋小路から出た所で一回大きく伸びをすると、鼻の頭をかきながらぽつりと漏らした。
「はて、リムドと待ち合わせをしている宿屋は何て言ったっけ?」