第14話 悪意ある魔力
『半身の……我が半身の元へ行き、盟約を結ばねば……』
森の中へ降り立ったアルデブラストは、最後の力を振り絞り、岩屋へ向かって歩き始めた。満身創痍の彼を駆り立てるのは、真の乗り手に対する異常なまでの執着心だった。一刻も早く盟約を結び、究極の力を手に入れたい……その一心だったのである。
だが、アルデブラストは全長三十ライゼ(十五メートル)を越える巨体の持ち主。一歩足を踏み出す度に翼や胴体が木々に引っかかってしまう。焦りは積もるばかりだったが、そこへ更なる災いが何の前触れもなく空から降ってきた。勢いよく降りてきた巨大な「それ」の全重量が背中にのしかかり、たまらずアルデブラストは腹を地に着けた。
『よお。いい格好だな』
聞き覚えのある念話にアルデブラストが振り返ると、藤色の飛竜が背中に立っていた。目障りだと事あるごとに追い立てていた、あのナッグだった。
『姉貴を殺ってこのざまかよ。それはともかく、今まで散々いたぶってくれた礼、まとめてさせてもらうぜ!』
そう叫ぶやナッグは背中から飛び降り、後肢でアルデブラストの頭を思い切り蹴った。頭が地面へ叩きつけられたところで鉤爪を立て、眼球に突き立てる。アルデブラストは抗うことも出来ず、弱々しく悲鳴を上げるにとどまった。
目潰しだけでナッグの気が収まる筈もなく、私刑は更に続いた。今度は翼を引っ張って広げると、骨を噛み砕き始めたのだ。しかも先端の爪から、上腕に当たる太い骨に至るまでじわじわと。力と誇りの象徴である翼を失うことは、竜にとって最大の屈辱であると知ってのことだ。痛みは目潰しの時とは比べものにならなかったが、アルデブラストには声を上げる力すら残っていなかった。
『けっ、ざまあみろ! そのまま一生地面に這い蹲ってな!』
息絶え絶えで横たわるアルデブラストを見下ろしながら、ナッグは気味悪い声を上げて笑った。敢えてとどめは刺さず、苦痛を長引かせる。飛竜らしい実に陰湿なやり方だった。
さて次はどこを痛めつけてやろうかと、ナッグが悩んでいた時だった。少し離れた場所からこちらの様子をじっと窺う、馬に乗った三人の山賊と目が合ったのだ。男達はナッグと足下にぐったりと横たわるアルデブラストの姿を見て仰天し、直ぐに馬首を返して姿を消した。
『あいつら、こいつの様子を見に来たのか。よお、アルトさん。お前がくたばったら、乗り手がこっぴどい目に遭うんじゃねえか?』
ナッグはからかい半分でアルデブラストに尋ねた。山賊団員の力関係や事情を、ナッグも多少なりとも知っていたのだ。
『もはやあのような者など知……らぬ。我には誠の乗り手……が……。早くねぐらへ戻らね……ば……』
その言葉を最後に、アルデブラストは意識を失った。もうこれ以上私刑を続ける意味がなくなり、ナッグは腹いせにアルデブラストの頭を踏みつけた。
『ちっ、もう気絶しちまったのかよ。面白くねえな。まあ、この様子じゃ明日にはくたばるだろうから、いいか』
ともあれにっくき邪魔者は消え、自分の天下が戻ってきた。満足したナッグはねぐらへ戻ろうとしたが、ここで飛竜が故の気紛れさが頭をもたげた。
『この野郎の真の乗り手か。どんな奴かちょいと顔でも拝んでくるか』
そう呟いてアルデブラストに背を向けると、ナッグは飛び立った。行き先は勿論、火竜の姉弟がねぐらにしていた、あの岩屋だった。
「とまあ、こんな訳だ。それで奴らがいなくなった隙に、金貨を頂いてきたってわけよ。けどこうも上手くことが運ぶとはなあ」
アギはもう笑いが止まらないといった感じだった。アギにはわかっていたのだ。強い方と盟約を結ぶなどと答えれば、火竜がとる方法は一つしかないことを。火竜同士本気でぶつかり合えば、勝った方とて無事では済まないことを。自分の手を汚さず、労力も一切かけず、その舌先三寸でアギはことを成し遂げたのである。
「お前って奴は本当に……。何も姉弟同士で殺し合いをさせることはないだろう。もっと別の方法を考えれば……」
アギの知略に感心をすることが多いリムドでも、流石に今度ばかりは頂けない。そんな再従兄弟の反応が癇に障ったのか、アギは猛然と反論した。
「何言っていやがる! 俺はファシドの腰抜けとは違うぜ。こういう滅多にない機会を上手く使わない手はないだろう!」
リムドよりもずっと小柄なアギだったが、怒った時の迫力はグレンに勝るとも劣らない。圧倒されたリムドはやむなく話題を変えることにした。
「……でもお前、二頭同時に火竜の誠の名を捉えたのか? そんなことが起きるなんて……」
「まー、たまたまだろう。あのファシドでさえザントの火竜の名前がわかったんだ。俺達多面族は火竜と相性が良いのかもしれないな」
アギは上手く利用出来たことで有頂天となり、この不可解な現象について深く追求しようとはしない。一方、リムドはどうも引っかかった。シャリナマーロンとアルデブラストは姉弟なので、互いの精神波の波長が近い可能性はあるが、それでも少なからぬ差はある筈だ。
ーー確かにアギが言うように、多面族は火竜と精神波の波長が合いやすいのかもしれない。それにしては高々数日の間に、カグラ団のメンバーが相次いで火竜に盟約を迫られるとは……。
思い返せばこの六月に入るまで、リムドやカグラ団のメンバーが火竜に接近した経験は皆無だった。故郷の村の周辺には野生の火竜は生息しておらず、領主の竜騎士が村を訪れることもなかった。領主はノーラムの許へ使いや迎えをよこす際、竜兵士を使っていたのである。
旅へ出てからも傭兵稼業を始めたグレンですら、火竜と接触する機会はなかった。つまり雇い主にも戦った相手にも、竜騎士は存在していなかったのだ。あの山賊退治の雇い主だったモルズ伯爵は、竜兵団の所持を国王から許されていない。よって地上戦で臨む他無く、あれほど苦戦したのである。
リムドがそんなふうにあれこれ一人考え込んでいると、森の中から蹄の音が近付いてきた。火竜の様子を見に行っていた山賊がアジトへ戻ってきたのだ。勝ち誇ったように口々に叫びながら。
「シャロンは死んだ。アルトも虫の息だ!」
したり顔の男達が馬から飛び降り、中へ駆け込んでものの数秒もしないうちに、アジト内が騒然とし始めた。
「魔法も使えねえ、火竜もいねえ貴様なんぞ、もう怖くねえ!」
「今までよくもいいようにこき使ってくれやがったな!」
「今度は貴様を女郎屋に叩き売ってやる! 覚悟しやがれ!」
飛び交う罵声や怒号、悲鳴。どたばたと駆けずり回る音。それはもう建物が揺れんばかりの凄まじさだった。魔法も封じられ、頼みの火竜も失ってはとても太刀打ち出来ない。多勢に無勢、頭とレナは手下達から逃げ回っているのだ。
だが追っ手である手下達は、ある致命的なミスを犯していた。火竜再起不能の吉報を早く知らせんとするあまり、馬具も外さず馬を放置してしまったのだ。外へ逃れた頭とレナが、それを見逃す筈もなかった。これ幸いと揃ってその馬に跨がり、全速力でアジトから遠ざかって行った。
「畜生、逃げやがったぞ!」
続いて飛び出したイルクが悔しそうに叫んだ。それでもすぐさま残る一頭に乗り、後から出てきた仲間に、
「俺は先に奴らを追う。お前らも直ぐ来い!」
と山刀を振り上げ、二人の追跡を開始。残る十名程の山賊も各々厩から馬を引っ張り出し、後へ続いた。
「お仕置き大成功だな。へっへっへ」
得意満面のアギとは対照的に、リムドは浮かぬ顔をしていた。山賊達のあの勢いでは見つかったら最後、頭とレナは殺されてしまうかもしれない。いくら嫌がる手下に人さらいを強要させたとは言え、アギの仕置きは些か度が過ぎているような気がしたのである。更にーー
「アギ、レナの首にまだ呪いの首輪が着いたままだったじゃないか。もう気が済んだだろう。外してやったらどうだ?」
呪いの首輪はたとえ離れた場所にいても、装着者が「首輪よ、落ちろ」と言えば外れて落ちる。しかし、アギはリムドの言葉に耳を傾けようともせず、けらけら笑うだけだった。
「おいおい、俺は今後レナと金輪際関わりを持つ気は無いんだぜ。あいつがこっちにちょっかいを出さない限り、あの素敵なネックレスは無害だ。気に入らなきゃ誰かに取ってもらえばいい。パパが無理なら、何処ぞの魔術師に頼めば済む話だろう」
「それもそうだが……。でも何であの親子、火竜に異変が起きたことに気付いた時点で、逃げ出さなかったんだろうな」
「当然だろう。奴らは騎竜の身に起きたことなんて、わかっちゃいねえ。頭はラマナを口に含んで七転八倒、レナはネックレスのことで頭が一杯だったんだからな」
そう一気にまくし立てると、アギは金袋をリムドへ投げ渡した。
「それだけありゃ、暫く路銀には困らないだろう。さて、俺もやりたいことはやったし、そろそろカグラと替わるぜ。カグラの奴、さっきから腹減った腹減ったってうるせえんだよ」
人目はなかったが、用心深いアギは草むらへ潜り込んだ。間もなくカグラが草むらから現れ、リムドの顔を見るなり言った。
「何か食べたい。干し肉でいいから頂戴」
再会の第一声がそれかと、リムドは全身から力が一気に抜けていった。食欲旺盛なカグラらしいと言えばそれまでだが、誘拐されて少しはショックを受けているかと思いきや、全く応えていないらしい。
「生憎だけど、僕は今荷物を持っていないよ。駄々をこねても無駄だ」
「ならあそこで食べる」
カグラが指さした先にあったのは山賊のアジトだ。全ての人が出払い、もぬけの殻となったとはいえ、寄りによって山賊のアジトで盗み食いしようとは。リムドも開いた口が塞がらなかった。
「さっきアギが忍び込んだ時に色んな食べ物が見えた。美味しそうな物、結構あった」
「おいおい、もうあそこから何かを失敬するのは……」
しかしそんな説得も、主面体の凄まじい食欲の前には無力だ。リムドをその場に残し、カグラはさっさとアジトの中へ入って行った。このままこの食欲魔神を放置すれば、どんな「無礼」な行いをするかわかったものではない。やむなくリムドは後を追った。
アジトの台所に着くや否や、カグラは直ぐに食べられそうな物ーーチーズや果物、パンなどを手に取り、片っ端から口へ押し込めた。予想通りの振る舞いではあったが、リムドは無言でその様子を眺めるだけで、一切手出しはしなかった。却ってこの方がいいかもしれないと思い直したのだ。森の獣が忍び込んで、台所を荒らしていったように見えたからである。
とは言え、山賊がいつ戻ってくるとも限らない。食べる勢いが落ちてきた頃を見計らい、リムドはカグラの手を引っ張ってアジトの外へ連れ出した。マルシャが待つナッグのねぐらを捜してもらわねばならない。アジトの側を流れる小川の水を桶に汲むと、リムドはカグラの前に置いた。
「これで遠見術を使ってくれ。マルシャがいる飛竜のねぐらの場所が知りたい。そこから空を飛んでここまで来たから、場所がわからなくなったんだ」
ところがリムドがいくら術を使うよう促しても、カグラは桶に見向きもしない。黙って西の空を見上げるばかりだ。
「カグラ、どうした? 何かあっちの方にあるのか?」
これは何かあると、リムドが西を向いた時だった。何の前触れもなく、空から藤色の巨体が二人の前へ舞い降りてきたのだ。アルデブラストへの報復を済ませ、とっくの昔にねぐらへ帰った筈のナッグだった。
ーーえ? もう僕には用は無いんだろう? 一体何故?
訳がわからず、呆然とするリムド。更に不可解なことに、ナッグは頭を突き出し、何故かカグラばかりを凝視している。その竜の熱い視線を受けても、カグラは表情一つ変えず、リムドの方を振り向いた。
「この飛竜がさっきあんたが契約したって言っていた相手?」
「ああ。ナッグというんだが……」
「ふーん、そうなんだ。でもこいつの名前、本当はナグナギールっていうんだよ」
一瞬の沈黙の後、ナッグーーいやナグナギールは狂ったように笑い出した。狂喜しているのだ。自分の真の名を捉えることが出来る者ーー真の乗り手が見つかったことに。
だがこの予想外の展開を、リムドは素直に喜べなかった。ナグナギールがカグラに対して次にとる行動は、明白だったからだ。リムドは両者の間へ割って入ると、正面からカグラの両肩を掴んだ。
「カグラ……。お前、まさかナッグと盟約を結ぶつもりじゃ……。そんなことをしたら僕やマルシャはーー」
『うるせエ! てめえは黙ってイロ!』
カグラに返答する間も与えず、ナグナギールが念話を飛ばしてきた。
『やっと出会えタ真の乗り手だ! 邪魔するンジャねえ!』
ナグナギールの凄みを利かせた声には、殺気すら感じられた。飛竜の真の乗り手に対する執着心は、火竜のそれに引けを取らない。いや執念深い分、尚更始末が悪そうだ。されどリムドは目線を反らすことなく、ナグナギールにはっきりと告げた。
「だが君がカグラと盟約を結べば、僕とマルシャのことをほっぽらかすに決まっている。僕らはある目的を持って共に旅をしているんだ。ここで別れるわけにはいかないよ」
『何ダト、コノくそがきがあ! こいつをクレテやらあ!』
ナグナギールは口を目一杯開けた。喉の奥に光る赤い球体を見て、リムドは蒼白となった。炎の吐息を吐くつもりなのだ。火竜に比べれば威力もたかが知れているが、人を一人消し炭にすることぐらい造作ない。しかしーー
「止めなよ。あんたの真の乗り手になってやってもいいよ」
カグラはあっさりと盟約締結を承諾したのだ。ナグナギールは発射寸前の吐息を飲み込み、勝ち誇ったように胸を張った。一方リムドは、奈落の底へ突き落とされるかのような絶望感に襲われた。再従兄弟である自分やマルシャよりも、この気紛れで狡猾な竜を選ぶのか、と。
ところが、カグラが発した次の言葉は、誰もが予想だにないものだった。
「ただし、条件がある。リムドとマルシャも一緒に乗せること」
完全に意表を突かれたナグナギールは、口をあんぐり開けたまま固まってしまった。そんなことお構いなしに、カグラが更に畳みかける。
「別にいいじゃない。けちけちしなさんな。リムドは仮初めの乗り手になれる資格があるし、マルシャだって念話が通じるんだから」
カグラが出した条件が不服だったのか、ナグナギールは牙をむいてリムドを睨みつけた。それを見たカグラのぼんやりとした表情が一変、刺々しい目つきとなった。
「あー、嫌なんだ。それならどうする気? 私を脅迫して無理矢理盟約を結ばせるつもり?」
間髪をおかずナグナギールはギャーッと叫んだ。決まっているだろうと言わんばかりに。それでもカグラは慌てることなく、乾いた笑みを浮かべて言った。
「そうなんだ。ならこっちも実力行使に出るけど、いい? こう見えても魔力持ちでね。飛竜の一匹や二匹、本気出さなくたってあっと言う間に料理出来るよ。膾と丸焼き、どっちが好み?」
カグラの応対にリムドは驚きを隠せなかった。いつも無気力無関心のカグラが饒舌に話し、しかも喧嘩腰ときているのだから。カグラがこんな調子で喋るのは、王都の足長亭でリムドと口論となって以来だったが、あの時ですらここまで辛辣な物言いはしていない。再従兄弟を冗談抜きで焼き殺そうとし、自分に盟約締結を強要させようとした飛竜の態度が許せなかったのだ。
ナグナギールは黙ったままだった。魔力持ちと戦っても分が悪い、膾も丸焼きも御免だと思ったのだろう。優位に立ったと確信したカグラは、声色を和らげた。
「別に私は、あんたに常時私達にくっついていろとは言わない。必要な時は呼ぶから来てよ。あんたが瞬間移動で私達を運んでくれれば、こっちも路銀が節約出来るし」
『俺をアッシーにスル気かよ!』
ナグナギールは鼻孔から水蒸気を勢いよく噴射した。これは火竜や飛竜が頭へ血が上った時によくする仕草だ。
「そ。そうすればあんたも私達が必要としていない時、自由に暮らせるじゃない。私達についてこの山を離れなくても済むし」
確かにカグラの言っていることは妙案だった。真の乗り手と騎竜は精神的な繋がりを持つので、たとえ遠く離れていても、心の声が届く。しかも盟約を結んだ飛竜は長距離を瞬間移動出来るので、常に乗り手の側にいる必要はない。カグラの呼び出しに応じ、いつでも何処でも駆けつけることも可能なのだ。
これが同じ鞍無しでも、火竜の場合だと事情が異なる。直ぐに飛んで来られる範囲、大凡二マール(一キロ)以内に火竜は待機しなければならない。乗り手の身の安全を守ることは、騎竜の重要な役目の一つなのである。
ナグナギールはなかなか返答しようとしない。「おまけ」二人を乗せるのも嫌、カグラと勝負するのも嫌。かといって盟約締結を諦めるのは以ての外。どれを選んでも納得がいかない。そんな相手の煮え切らない態度に、カグラは次第に苛々してきた。
「で、どうするの? 私と盟約結ぶの、結ばないの? ちなみに私はどっちでもいい。つまり、あんた次第ってことだ」
『ちっ! わかっタヨ! このくそがきとばばあ猫ヲを乗せればイインダろう、乗せれば!』
自棄になったナグナギールは、カグラが出した条件をのんだ。いくら狡賢い飛竜とはいえ、一度盟約を結べば乗り手に対する裏切り行為は許されない。この禁を犯せば竜は己が名の発信が不可能となり、乗り手の死亡後は盟約は愚か、契約すら新たに結べなくなると言われている。つまり条件をのんだ振りをして、リムドとマルシャの騎乗を拒否することは出来ないのだ。
リムドはカグラの言動を意外に感じていた。面倒事を嫌うこのぐうたら娘なら、「やーなこった」の一言で盟約締結を拒絶するだろうと予想していたからだ。そんなカグラが自分なりに考え、ナグナギールの力を利用しつつ、リムド達とも別れずに済む方法を編み出したのである。口を開けば億劫、腹減ったとしか言わないこの再従姉妹を、リムドは少し見直した。
「それじゃ、盟約の儀式を済まそうじゃないさ。リムドも立ち会うんだから、ちゃんと真面目にやりなさいよ」
カグラが真正面へ回ると、ナグナギールは少し戸惑いつつも鼻先から尾の先端に至るまで背筋をぴんと伸ばし、ゆったりとした口調で告げた。
『我と汝は共にアリ。死が我らを分かつ時まで』
「うん、わかった。いいよ」
カグラもしっかり相手の顔を見据え、答えた。ところがカグラが宣誓の言葉を受け入れたにもかかわらず、然るべき現象が起こらない。ナグナギールの体から結びの光が出ないのだ。
『体が重い……。元に戻っちまったジャねえか!』
異変を察したナグナギールが、食い殺さんばかりの勢いでカグラに突っかかってきた。カグラと盟約を結んだ時点で、リムドとの契約は自動的に切れ、飛翔速度アップと長距離瞬間移動能力が身につく筈だ。だが、盟約で得られるこれらの能力が、何故か全く得られていないようなのである。
『オイ、こんなんじゃ全然跳べねえぞ! これならソコノくそガキの時の方がまだマシじゃねえか!』
「ふーん、そうなんだ」
とぼけているのか何も感じていないのか、カグラは人事のように腕を組んでいるだけだった。怒り狂ったナグナギールは地団太を踏んだ。
『そうなんだじゃネエだろう! てめえ、俺をはめやがったナ!』
「そんなつもりはないよ。なら、確かめてみようか」
カグラは自らの体を念力で持ち上げ、ナグナギールの首筋へ降り立った。次いで胡座をかいてどっかと座り、翼を拳でぽんと叩いた。
「ほれ、飛んでみそ」
『うるせえ! 振り落トシてやる!』
鼻孔から蒸気を出しながら、ナグナギールはカグラを乗せて上昇。乱暴な急旋回や急上昇、急下降を何度も繰り返した。地上のリムドは気が気でなかったが、背中のカグラは座ったまま微動だにない。遂にはナグナギールは根負けし、ふらふらになって降りてきた。ぼさぼさになった髪を手櫛ですきながら、カグラは涼しい顔で言った。
「私ら、鞍無しの竜奇兵になっているじゃない。ちゃんと盟約は結ばれているんだよ」
『畜生……。なら何でてめえはよくて、俺は駄目ナンだよ?』
「さあてねえ……」
カグラが背中から飛び降りると、ナグナギールは舌を出し、だらしなく寝そべった。無茶な飛行で疲労困憊、もう立っているのもしんどいらしい。
「おい、大丈夫か? お前、本当に魔力も使わず座っていられたのか?」
駆けよってきたリムドにカグラは頷いた。
「うん、私は何もしていない。ただ座っていただけ」
「ならナッグに何も起きていないのは何故だろう? 結びの光も出なかったし」
「じゃ、少し調べてみようか。何かわかるかもね」
カグラはナグナギールの許へ歩み寄ると、その額に右掌を押し当てた。まるで読心術を施すかのような怪しげな行為だったが、ナグナギールは文句の一つも言ってこない。もう勝手にしろと自棄になっているのだろう。
カグラが何をしようとしているのか、リムドにはわかっていた。ナグナギールの体に魔力を通し、何か異常がないか探っているのだ。以前体調が悪くなった時、リムドも同じことをされて風邪だと診断された経験があった。しかしその時は数秒程たらずで判明したのに、今度は勝手が違うのかカグラは眉をひそめている。一分近く経ってようやくカグラは手を離した。
「どうだったんだ、カグラ。何かわかったのか?」
「うん、わかった」
カグラはナグナギールをしげしげと見詰め、一呼吸おいてから言った。
「あんた、悪意ある魔力に縛られているね」
「悪意ある魔力?」
ナグナギールが尋ねる前に、リムドが口を出した。視線を飛竜に据えたまま、カグラが答える。
「俗に『呪い』って言われるやつだね」
「呪い……」
穏やかならぬ事実にリムドは愕然とした。ナグナギールの数々の素行を考えれば、呪いをかけられていも不思議ではない。それでもこれ程までに巨大で自由奔放な竜に呪いがかけられていようとは、にわかに信じ難かったのだ。
当のナグナギールはショックのあまり、頭が真っ白になってしまったようだ。小刻みに体を震わせる飛竜に代わり、リムドが更に問いかける。
「それでどんな呪いなんだい?」
「どんな呪いかは、具体的にはわからない。でも魔力を通してみたら、物凄く嫌な思念が返ってきた。こいつを呪ってやる、苦しめてやるっていう感じの、憎悪の塊みたいなものがね。そんな厄介なやつが、それこそ蔦みたいに絡みついているんだよ」
「お前の魔力で解けそうか?」
「少し本気を出せば解けるね。まー面倒臭いけど。で、どうする? 呪いを解いて欲しい?」
『決まっているじゃネエか! そんな厄介なもの、俺の半身ナラ何とかシロ!』
ナグナギールの返答は、人に頼みごとをするような口利きではなかった。だが、カグラはへそを曲げることもなく、
「あ、そう。ならやってみるか」
と膝を折り、飛竜の首の付け根の筋肉を軽く掴んだ。
「解呪にはそれなりに心身に負担がかかる。体にめり込んだ蔦を力ずくで引きちぎるようなものだからね。苦しくても暴れたりしないでよ。こっちは魔力放出にかかりきりの無防備な状態だ。前足や翼の一撃を食らったら、ひとたまりもない」
解呪が苦痛を伴うものと知り、ナグナギールは息をのんだ。されどがさつな割にはプライドが高いこの竜は、弱みを見せまいと鋭い目つきでカグラを睨みつけた。
『わかった! 絶対に動かねえから早クしろ!』
カグラは小さく頷くと、一回大きく深呼吸をして目を閉じた。岩を動かすぐらいなら寝ぼけていても出来るカグラが、精神を集中させている。やはり本気を出さねばならぬようだ。ナグナギールの体にまとわりついた呪いは、予想以上に厄介な代物だったのである。
注入された魔力が全身に回り、効力を発揮し始めたのか、ナグナギールは苦しげに呻き出した。だが牙をむき出しにして食いしばり、爪を地面に食い込ませてはいるものの、暴れる素振りは微塵も見せない。必死に耐えているのである。
そんな二人をリムドは見守ることしか出来なかった。時が経つのが恐ろしく遅く感じる。ここまで真剣に打ち込むカグラを見るのは久し振りだったこともあったが。
この状態が二分程続いただろうか。カグラが突然立ち上がり、叫んだ。
「よし、解けた!」
カグラが身を翻して離れた直後、ナグナギールの体が光に包まれた。一瞬藤色の巨体が見えなくなる程にまばゆく、神々しい白い光に。
ーー結びの光だ! 盟約の時はこんなに明るく光るのか。僕の時とは比べものにならないな……。
リムドは感極まって何も言えなかったが、大仕事をやってのけた割にカグラの態度は素っ気ない。まだ息も荒々しく寝そべるナグナギールの頬を急かすように二、三発はたいた。
「ほれ、立ってみそ。ついでに体力も回復してやったから、瞬間移動出来るかどうか、試してみい」
半信半疑なのかナグナギールは顔をしかめたが、直ぐに体の変化に気付いた。ゆっくりと立ち上がり、翼を広げると、嬉々とした声を上げた。
『体が信じラレナいくらい軽いジャねえか! これはいけるゼ!』
カグラに礼も言わず、ナグナギールは空へ向かって一直線に飛び出した。まるでカタパルトから発射される弾丸の如く勢いで。飛翔速度が格段に上がっているのだ。
数秒後、ナグナギールの姿は空に出来た黒い穴の中へ消えた。即席の異街道を作り、何処かへ移動したのだ。しかし今度はリムドとの契約時とは異なり、なかなか姿を現さない。目視可能な範囲の外へ行ったと悟り、空を見上げながらカグラが呟いた。
「こりゃ相当遠くへ行ったね」
「そうだなあ。僕との契約の時は大して跳べなかったから、きっと嬉しいんだろうな」
などと答えつつも、リムドは少し不安だった。嬉しさ余ってナグナギールが自分達をすっぽかし、何処かへ行ってしまったらと思ったのだ。幸いそれは杞憂に過ぎなかったようで、大凡五分後、ナグナギールは再び姿を現し、リムド達の前へ降り立った。口に四ライゼ(二メートル)はあろうかという、銀色の巨大魚をくわえて。
『中央大陸の海岸線まで行ってキタゼ。海風は気持ちがいいモンダな。ついでにこいつも捕っテキタぜ。デカイだろう』
ナグナギールは見せびらかすのもそこそこに、ばりばりと豪快な音を立てて獲物を頭からかじり始めた。獲物はリムドが知るステイア近海の魚ではなく、ナグナギールの言っていることは真実のようだ。が、ここからクエンザーの海岸線までは、少なく見積もっても二千五百マールはある。そこまで瞬間移動で一気に到達したというから驚きだ。
『お袋が言ってイタゼ。魔力持ちと盟約を結ブト、移動距離が飛躍的に伸ビルッテな。これなら世界の果てにダッテ行けるぜ』
腹を満たしたナグナギールは上機嫌で告げたが、カグラは全く関心を示さない。
「そうなんだ。で、満足した? それならこっちの約束もきっちり守ってよ」
『わかっているゼ。そこのくそがきとババア猫も乗せるからヨ』
「そういうこと。ならまずマルシャと荷物を拾って、その後ミスリダまで飛んでもらおうか」
『ミスリダあ? そりゃあそこには昔行ったことがあるカラ、行けねえことはネエケドよお』
いきなりのアッシー扱いにナグナギールは浮かぬ顔。だが、カグラの有無を言わせぬ雰囲気を察し、渋々承知した。厚顔の飛竜とて呪いを解いてもらった恩を忘れたわけではなかったのである。
そんな二人の横で、リムドはナグナギールにかけられた呪いについて考えていた。解呪前、盟約締結の恩恵を得られたのは乗り手だけで、竜の能力は据え置き。しかしリムドと契約を結ぶ際は、何ら問題がなかった。このことから呪いは、「契約はきちんと結べても、盟約は一方的な形でしか結べない」というものだったことになる。
では、この呪いをいつ誰がかけたのか。ナグナギールの驚愕ぶりからして、本人は己に呪いがかかっていることなど、露とも知らなかったとみえる。ただこの呪いは、カグラが多少本気を出さなければ解けない程強力なものだ。本当に当人は気付いていなかったのか。念のため確認しておこうと、リムドはナグナギールに声をかけた。
「君はいつ何でこんな呪いを受けたのか、身に覚えはないのかい?」
『あるわけネエジャねえか! わかってイタラ自分でどうにかシヨウトとしてらあ!』
ナグナギールは鼻面をリムドの目前まで突き出し、怒鳴った。その彼らしい怒りっぷりから、嘘ではないとリムドは判断。別の可能性を指摘した。
「そうか。でも物心つく前、例えばまだ卵の中にいる時に呪いを受けたかもしれないじゃないか。母親に訊いて確認してみたらどうだい?」
『お袋に会うのカヨ……』
あれ程威勢が良かったナグナギールが、突然萎れたように大人しくなった。母親に会いに行くのは気乗りがしないらしい。先程「お袋に聞いた」などと自慢していた割には。
ただその理由について、リムドには見当がついていた。竜は母親が単独で子育てをする。その子育て中の母親にとって最も恐ろしい敵は同種の雄だ。雄竜の中には自分の子供を産ませようと、子供を故意に襲って殺そうとする輩がいる。母親は自力でその雄竜から子供を守らねばならない。よって雄竜以上に気性の激しい雌竜は多い。恐らくーー
「君、母親が苦手なのかい? 頭が上がらないんだろう?」
リムドの思わぬ突っ込みに、ナグナギールは目をつり上げた。
『黙れ、コノくそがき! 変なこと言うんじゃネエ!』
むきになって羽ばたくナグナギールを見て、リムドは可笑しく感じる一方、羨ましもく思った。母親がいるだけ有り難いではないか。自分もカグラも母親に会いたくても、それは叶わぬ望みなのだ……と。