第11話 神罰
定期連絡馬車を乗り継ぐこと三回。六月七日の昼過ぎ、リムド達はスルーザ王国の王都・ヴィルモードへ到着した。ヴィルモードは歴史あるこの国の王都に相応しい町だった。要所にたつ、百年を優に越えるような風情ある建物。裏道に至る全ての道に石畳が敷かれ、路上にはゴミも殆ど落ちていない。加えて行き交う人々も、何処と無く上品に見えた。アレフトが活気溢れる「若者」の町であるのに対し、ヴィルモードは風格と威厳を兼ね備えた「壮年」の町だと言えよう。
リムド達がスルーザへ入国して三日が経過したが、幸いなことにここまで来る道程はすこぶる順調だった。恐れていた野盗の襲撃も、恩賞目当てで魔道人を狙う者との遭遇も全く無かったのだ。
リムドの頭を専ら悩ませているものは、再従姉妹のぐうたらぶりを除けばただ一つ、路銀だけだった。治安悪化の影響でより多くの護衛を要するためか、定期連絡馬車の運賃がヨマーンに比べべらぼうに高い。加えて物価も高騰しており、ステイア銅貨一枚でパン一個すら買えない。銅貨一枚あれば、ヨマーンなら安い黒パンが二個買えるのだが。
グレンが護衛の仕事で得た金も、半分近く使ってしまった。このままでは国境へ辿りつく前に、路銀は底をついてしまうかも知れない。だがグレンに頼ることは、ほぼ不可能だった。グレンは仕事で十中八九魔力を使う。人前で大っぴらに魔力を披露すれば、間違いなく周囲の者の目に留まってしまうだろう。そもそも、リムドが魔力を使わないでくれと頼み込んだところで、あのグレンが素直にきいてくれる訳もなかった。
ーー仕方がない。ここはファシドに酒場で頑張って歌ってもらうしかないな……。
グレンに比べればファシドの稼ぎは「しょぼ」かった。彼が出来る唯一の仕事は、吟遊詩人として人前で歌うこと。が、何もしないよりはましだろう。ファシドも事情はよくわかっているので、快く引き受けてくれる筈だ。
王都へ到着して昼食を済ませると、リムド達は手頃な宿へ入った。満腹で眠くなったのか、カグラはすぐさまベッドへ潜り込んだ。リムドはいつものことと意に介さず、マルシャを連れて繁華街へ向かった。夏の日は長く、日没までまだ時間はある。「流し」であるファシドを受け入れてくれそうな酒場を探すことにしたのだ。
一時間程歩き回った結果、リムドは繁華街周辺で何軒か感じの良さそうな酒場を見つけることが出来た。ファシドにも伝えられるよう、店名と場所の詳細をしっかりメモしたまではよかったのだが、土地勘がない故に道に迷ってしまった。
町の人に道を尋ねながら宿へ戻ろうとする途中、リムドは偶然町の真ん中にどっしりとそびる大聖堂の前を通りかかった。奉られている神は勿論、唯一神ベルメールである。
リムドは大聖堂の規模と煌びやかさに圧倒された。高さは最も高い塔の先まで四百ライゼ(二百メートル)、広さは三百ライゼ(百五十メートル)四方。磨き上げられた白大理石造りで、壁面を彩る窓には、色鮮やかなガラスがはめ込まれている。塔の先端部や屋根に配置されているのは竜や鷲、虎といった種々の動物の金色像だ。ベルメールこそが全生物の創造主であることを、知らしめるためであろう。
無論、アレフトにもトゥーラムにも唯一神を奉る大聖堂はあった。だがここまで大規模で豪華絢爛、荘厳な物ではない。この大聖堂は町の象徴、いや歴史そのものと言っても過言ではないのだ。
まだ日差しが厳しい時間帯にもかかわらず、大聖堂の人の出入りは激しかった。皆礼拝するためにここを訪れた信者達だ。しかしリムドは彼らを見ても、ああ熱心な人達だなあ程度しか感じなかった。それというのも、リムドは唯一神の教えに全くと言っていいほど関心がなかったからである。
リムドだけではなく、リムドの家族は信仰に対して冷淡な一面があった。敬虔な信者であれば、それこそ毎日のように足繁く大聖堂へ通う。されどリムドの両親は息子を定期礼拝へ参加させることはおろか、大聖堂の中へ連れ込もうともしなかったのだ。
その一貫した態度はノーラムも同じだった。聖堂のような立派な物とはいかないまでも、住んでいたラシル村にも小さな教会くらいはあった。司祭や何人かの熱心な信者が、有識者たるもの神を崇めないのは如何なものかと抗議。礼拝に参加するよう促したが、ノーラムは全て門前払いを食わし、追い払ったのだ。どうしてそこまで唯一神を拒絶するのか、リムドがそれとなく理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「ベルメールは創世神。創世神はこの世界ヴィルダストリアの管理者でもある。だがそれにもかかわらず、世界規模の凶事は過去四度も起きている……」
ノーラムはそれきり口を閉じてしまったが、リムドは敏感に感じ取った。一見冷静な大伯父の口振りの中に、少なからぬ怒気が含まれていることを。その様子からリムドは、ノーラムが何を言いたいのか理解出来た。
地方や国レベルの凶事ならば兎も角、世界規模の凶事は管理者の管理不行き届き故に起きたのではないかと。忌み子の誕生に原因があるにしろ無いにしろ、凶事の発生そのものは唯一神に責任があるのだと。
ノーラムのベルメールに対する不信感を悟ったリムドは、祖母サーヤが生前、時折青筋を立てながら叫んでいた言葉を思い出した。
「神様にお祈りしたって無駄。私達のお願いを聞いてくれたことなんて、ただの一度もありゃしないんだから!」
普段は優しい祖母が恨み言を吐く様に、幼かったリムドは思いきり引いた。何故そこまで向きになって立腹するのか、祖母はその理由を語ろうとはしなかったが、亡くなる直前に教えてくれた。
祖母の母ーーリムドの曾祖母は若い頃、熱心なベルメールの信者だった。毎日礼拝も欠かさず、貧しいながらも切り詰め、可能な限り大聖堂へ寄付もしたそうだ。やがて曾祖母は双子を授かったと知ると、二人共無事に育てあげられるよう毎日祈りを捧げた。ところが乳の出の悪さから娘を手放すこととなってしまい、以来、曾祖母は大聖堂通いをぱたっと止めてしまったのだ。
「一番大事なお願い事を神様は叶えてくれなかった。あの時のひいお祖母ちゃんの気持ち、お前にもわかるだろう? 私だって姉さんと一緒に暮らせなかったんだ。悔しかったよ……」
死の床で涙を流す祖母の姿は、リムドの脳裏にくっきりと焼き付いていた。リムドの両親も、この話を祖母から聞いていたことは間違いない。それ故リムドの一族はベルメールを無視するようになったのだろう。
昔の出来事を思い起こしている間、リムドは大聖堂を見上げたままぼーっと佇んでいた。そんなリムドを見て不思議に思ったのか、マルシャが服の裾をくわえて引っ張った。
「リムド、どうしたんだい?」
マルシャの声にリムドは我へ返り、視線を下げた。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてさ」
「そうかい。なら折角来たんだから、お祈りでもしていったら? ここまで無事に旅をすることが出来た礼をしても、いいんじゃないの?」
マルシャの期待に満ちた眼差しを見て、リムドは戸惑った。マルシャは大聖堂の内部を見物したいのだろう。自分一匹では追い返されるのは目に見えているので、リムドにくっついていこうという魂胆なのだ。リムドは今一つ気は進まなかったが、マルシャの言い分にも一理ある。連れの勧めるまま、大聖堂の中へ入ることにした。
大聖堂の内部、礼拝堂は外見の美しさとはまた異なる、別世界のような輝きがあった。窓の色ガラスの色に染め上げられた陽光が、床を照らし出している。更に金をあしらった支柱や壁面に反射し、光の粒子が舞う如く煌めいているのだ。これらは全てベルメールが住まう天上界を再現しているとされていた。
遙か頭上、見上げれば首が痛くなるほどに高い天井には、創世神話が色鮮やかに描かれていた。闇を切り裂き、混沌の世界へ降臨したベルメールが光を呼び、天と地を分け、雨をもたらして海と陸地を造った……という。
マルシャはそのあまりに壮大で豪華な造りに、感嘆の息を漏らした。リムドも足を止めて見入ったものの、直ぐに軽い嫌悪感を覚えた。これだけの物を造るのには、莫大な金がかかる。その金の多くは税や寄付といった、一般市民から集めたものだ。ならば恵まれない人々のために使うなどし、世間に還元すべきではないかと。王都の大聖堂なので威厳も大事であろうが、もう少し質素でも良いような気がしたのである。
そんな二人を追い越し、人々は奥へ向かってしずしずと歩いて行く。礼拝堂の一番奥にある物こそ、礼拝者が祈りを捧げる場所ーー祭壇だ。祭壇は神と人とを結びつける、大聖堂の中で最も神聖とされる場所。内外装以上に豪華絢爛で、高さ三十ライゼ(十五メートル)程のその全てに金箔が施され、世界各地から産出された宝石が、惜しみなく装飾に使用されていた。
そして祭壇の中央からやや上、雲を象った台座に安置されているのが、ベルメールの純金像だった。ベルメールは黄金のローブに身を包んだ、背の高い男性の姿をしているとされている。ローブの上から見るその体つきは、中肉のすっきりしたもの。しかし顔はフードに隠され、口より上を見ることは叶わない。いや、見てはならないのだ。ベルメールは想像を超える美丈夫であり、そのあまりの美しさに、素顔を見た者は卒倒すると言われているからである。
だがベルメールの像を目にした途端、リムドは礼拝する気が一瞬にして失せた。ノーラムの指摘通り、この「管理者」の怠慢が原因で再び凶事が起ころうとしているのだ。凶事が起こる度に人々は唯一神に助けを求め、懸命に祈りを捧げてきた。しかし、神が重い腰を上げたのは国も大地も荒廃し、多くの犠牲者が出た後のことだった。
リムドは祭壇に背を向け、大聖堂を後にした。マルシャがどうしたのかとしつこく訊いてくるのも無視して。
翌日の朝、リムド達は南部の町リラス行きの定期連絡馬車に乗車することが出来た。運賃はこれまでの倍近かったが、高額運賃の理由はその行路にあった。今までの連絡馬車の所要時間は、長くても四時間ほど。よって朝一で出発すれば、遅くても昼過ぎくらいには目的地へ到着出来た。だが、今回は途中で山越をしなければならず、リラスへ着くのは午後三時くらいとのことだった。
幸いなことにファシドのおかげで、路銀の心配はひとまずなくなっていた。副面体の中では一番頼りない自分が役に立てればと、ファシドが奮起したのだ。三軒の店を回り、日付が変わるまで歌い続けた。何処の店でも彼の歌の評判は上々で、予想を上回る額を稼ぐことが出来たのである。この調子でファシドに行く先々で頑張ってもらえれば、そう苦労することなく国境まで辿り着けるだろう。
リラス行きの連絡馬車は需要があまり無いためか、馬車は幌付き一台のみで、御者も交代要員無しの一人。それに騎馬の護衛兵六人という構成だった。乗客はマルシャを除けば八人で、年齢も身なりもまちまちだが、女性はカグラと同年代くらいの栗色の髪の娘の二人のみである。
ところがこの娘、連れがいなかった。今の国情を考えれば、若い娘が一人で遠出するなど、通常考えられない。隣に座ったよしみでリムドが尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。
娘の名はリタといった。リタは先月両親を事故で亡くし、リラスの親戚の所へ身を寄せるため行くという。その話を聞き、リムドは同情せずにはいられなかった。かつての自分と同じ身の上であり、痛いほど気持ちがよく理解出来たからだ。両親が突然他界し、どれほど心許なかったかと。
が、当のリタは悲嘆に暮れるどころか、至って明るくーーいや明るすぎるくらい陽気に振る舞っていた。最後部の席から顔を出し、流れ行く外の景色を見てはしゃぐ。みんな黙り込んで詰まらないからと歌いだし、他の乗客にうるさいと注意される有様だった。
おまけに昔飼っていた猫に似ているからと、マルシャをやたらとかまいたがった。見知らぬ人間にいじくり回され、マルシャは迷惑顔。されど普通の猫のふりをし、文句を言うこともなければ、爪も立てなかった。猫でありながら猫を被っていたのである。
そんなこんなで王都を発って二時間近くが経った。リタは相変わらずマルシャを抱いて無邪気に笑ったまま。その隣でリムドは苦笑い。そしてカグラはいつものように、周囲のことにはまるで無関心、うたた寝であった。
その頃、連絡馬車は山道へと差し掛かっていた。上り坂を進んでいるせいか、速度は幾分落ちている。だが馬の足が鈍っている原因は、何も坂のせいだけではない。道は連絡馬車一台が通過出来る程度の幅しかなく、道沿いの木々の枝が道路にまで無造作に伸びており、頻繁に馬車に引っかかる。しかも周囲は鬱蒼と茂る森、薄暗く見通しも悪い。
リムドは内心かなり驚いた。こんなお粗末な街道など、物資や人の往来に力を入れているヨマーンでは考えられなかったからだ。街道の維持管理はその土地を管轄する領主の義務とされ、これを怠ることは面子にかかわる。グレンが仕事で赴いたリーガル山の街道も山賊の出現以降、維持管理が出来なくなった。だからこそモルズ伯爵は懸命に山賊を討伐しようとし、それが解決すると、翌日から手入れを再開したのだ。それ程にヨマーンの貴族は、街道の保守に手間も時間もかけているのである。
ところがスルーザの貴族はその意識に乏しいのか、そもそもそのようなシステムがないのかは不明だが、兎に角街道は荒れ放題。おまけに今いる山中は、如何にも山賊や魔物が潜んでいると言わんばかりの薄気味悪さだ。こんな物騒な所をのろのろと進まねばならないとは。次第にリムドは苛立ち、不満をぶつけるように御者に尋ねた。
「一体いつになったら、この山を抜けられるんです?」
「まー、あと二時間半ってところだな。麓の村へ着いたら昼飯と休憩だ」
御者の返事は素っ気なかったが、気落ちしているのはリムドだけ。カグラは我関せず、残る乗客も表情に変化はない。リタですら「平気平気、護衛の人もいるし。大丈夫ですよー」とけろっとしていた。
確かに定期連絡馬車には前後三騎ずつ、計六騎の護衛兵が馬車を挟むように警護していた。ヨマーンでは定期連絡馬車にこれほど多くの護衛が付くことはまずない。竜騎士を抱える盗賊団が出現する地域を通過する場合を除き、通常二騎だ。
比較的治安が良い筈の王都から程近い地域でも六騎とは。これもこの国の現状を表しているんだなーーと、リムドが溜息をついた時だった。何の前触れもなく急に馬車が停車したのだ。
「賊だ! 山賊が出たぞ!」
先頭を行く護衛兵が叫んだが、何処と無く緊張感に欠けていた。しかも護衛兵は誰一人として、剣を抜こうとしないのだ。
「やれやれ、また例の賊か。ここ二、三ヶ月は出ていなかったんだがなあ」
御者はああ面倒臭い、と言わんばかりにふてくされていた。「例の」と言っているところからみて、この定期連絡馬車は何度か山賊に遭遇しており、御者は慣れっこになっているようだった。
つまり、山賊はこちらを皆殺しにする気はないということだ。このような場合、金品を黙って差し出せば見逃してくれる筈。命には代えられないので、リムドは金袋を取り出そうと懐へ手を突っ込んだ。ところがその時、後方を警備していた護衛兵が信じ難い言葉を発したのである。
「おい、そこの娘二人。降りろ」
リムドは耳を疑い、固まった。そうこうしている間にも、護衛兵はリタの手を乱暴に掴み、引きずり降ろそうとする。異変に気付き目を覚ましたカグラにも、別の一人が迫ってきた。
「ちょ、ちょっと! あなた達何をするつもりですか!」
リムドはカグラを庇い、護衛兵の手を払いのけた。一瞬護衛兵は怯んだものの、前方から聞こえてきた声にその表情が険しくなった。早く娘を寄越せという複数の男の声に。ちらりとそちらを見た後、その護衛兵がリムドに言った。
「奴らはこの山に住み着いている山賊だ。狙うのは若い娘だけ。娘さえ置いていけば、あとの奴には手出ししないんだよ」
「何でそんなことを!」
「国王の所に『魔道人の娘かも知れません』とか言って連れて行くんだろう。最近そんな奴らが増えてなあ」
「あなた護衛でしょう! どうして戦わないんですか!」
リムドが顔を真っ赤にさせ、猛然と抗議すると警備兵はちっと舌を打った。
「あの賊には竜騎士共がいる。下手に抵抗してみろ。竜騎士がすぐさま飛んできて、こちとらいちころだ」
「竜騎士が……?」
「ミスリダから流れてきた奴らだよ。全く、あいつらが来てからろくなことがねえ!」
そう叫ぶや警備兵はカグラを抱え込んだ。だがカグラは抵抗もせず、きょとんとした顔をするばかりだ。
ーーああ、大丈夫。どうにでもなるから。
カグラはそう言っているようにも見えたが、リムドは気が気ではない。リタは恐怖のあまり声も出せず、涙ぐんでいる。リムドは声を張り上げ、訴えた。
「皆さん! 助けて下さい!」
しかし、残る五人の乗客は微動だにしない。娘二人が人身御供となれば、自分達は確実に助かるとわかっているので、皆見て見ぬ振りをしているのだ。
カグラが本気を出して魔力で戦えば、山賊だろうが竜騎士だろうが束になっても叶わないことなど、リムドにもよくわかっていた。だがこのまま山賊に拉致されるのを、見逃すわけには行かない。リムドはサバイバルナイフを背負い袋から取り出し、柄に手をかけた。すると突然、正面に座っていた若い男が立ち上がったではないか。
「おい、止めろ! 我々まで巻き込む気か!」
今まで口を噤んでいた男にいきなり怒鳴られ、リムドははっとなった。男は更にまくし立てる。
「そもそも連れの娘がこうなったのも、貴様の不信心が原因だ。唯一神は貴様の行いを御覧になっておられたのだ!」
リムドはその説教がましい台詞と、首にかかる護符から男が聖職者ーー唯一神に仕える僧であることを知った。着ている服が神官ローブではなく、普段着であることから見て、出家して日も浅い見習い僧であろうことも。
ところがリムドが若僧と向かい合っている間に、カグラとリタは山賊の馬に乗せられ、林間に消えてしまった。
「カグラ!」
後を追おうとするリムドを止めようと、若僧は肩を掴んだ。しかし押し倒すことは叶わなかった。マルシャの牙が若僧の手に深く食い込んだのだ。
「ちょいと! あんた、昨日大聖堂で床磨きしていた下っ端神官だね!」
背中の毛を逆立て、敵意を露わにするマルシャ。噛みつかれたうえに下っ端と小馬鹿にされ、若僧は目をつり上げた。
「何だこの猫、使い魔か!」
「『元』だけどね。ちゃんと仕事しないで、こっちの方をじろじろ見ていたから、わたしゃあんたのことをしっかり覚えていたんだよ!」
マルシャが言うようにこの若僧、仕事そっちのけで礼拝堂でのリムドの行動を逐一観察していた。礼拝堂へ猫が入り込んだことを不快に思い、つい目が行ったのだ。リムドが礼拝もせず帰ったことで、殊更印象に残ったようだった。
しかし、リムドは自分なりに思うところがあって礼拝しなかったのだ。不信心と言われる筋合いはない。リムドの頭にかっと血が上った。
「人のやることをきちんと見ていると言うのなら、大災害があった時に何故唯一神は直ぐに助けてくれなかったんだ!」
「それは民が信仰を疎かにしたからだ。人々の神を尊ぶ心が薄れ、信仰心が失われた時、その奢りを改めさせようと、神は天罰として災いをもたらされたのだ!」
「それなら何故大災害の際、高位神官や敬虔な信者まで犠牲になったんだ! 説明になっていないぞ!」
リムドの主張は屁理屈でも何でもない、事実だった。天変地異や疫病といった災いは犠牲者を選ばない。皆等しく被災し、犠牲になったと、ノーラムの蔵書にははっきり記されていたのだ。背教が原因の神罰であれば、唯一神は「愛し子」を助けるなり災いから逃がすなりの配慮をして当然。それを行わなかったのは、明らかな管理不行き届きだーーとまで、ノーラムは断言していたのである。
「おのれ、この背教者め!」
答えに詰まった若僧は、リムドに向かって呪文を唱え始めた。鎮静の魔法だ。興奮した相手を大人しくさせる際に用いられる、精神系魔法の中でも最も初歩的な術の一つである。
詠唱が終わると同時に、リムドの心は得体の知れぬ力に襲われた。怒りの炎を包み込まんとする、荒波のような力に。ところが抵抗を試みた途端、ぱんと弾けるような感じがして、魔法の力を振り払ったのだ。
「術が効かぬとは……。貴様一体……?」
相変わらず睨みをきかすリムドを前に、若僧は呆然とするばかり。マルシャが嘲笑い、若僧の足の甲をひっかいた。
「あんたの魔法が下手くそだからさ! もっと修行しな、この洟垂れ坊主!」
術の不発が相当ショックだったのか、若僧は言い返そうともしない。そんな若僧に最早目もくれず、リムドは背負い袋二つとマルシャを抱え、幌から飛び降りた。
「僕達はここで降りる。とっとと行ってくれ!」
御者も護衛兵も乗客も、リムドの怒号が聞こえていないかのように俯くばかり。そして定期連絡馬車は、その場から逃げるように去って行った。
山間に消えゆく馬車を振り返ることもなく、リムドはマルシャを路上へ降ろし、言った。
「マルシャ、カグラ達を助けに行こう」
「カグラをかい? 心配いらないよ。あんな雑魚共、簡単にやっつけられるじゃないさ」
マルシャは至って冷静だった。拉致されようとした時、カグラが敢えて抵抗しなかった理由がわかっていたからだ。人前では魔力を容易に振るえないという。
「それよりもリムド、このまま道伝いに麓の村へ行って、待っていた方がいいんじゃないかい? こんな物騒な場所から一刻も早く抜け出そうよ。いつ魔物が襲ってくるかわかりゃしない」
「僕だってそうしたいさ。だけどーー」
リムドは微かに身を震わせ、マルシャを見詰めた。
「だからと言って放っておけないよ。今の僕はカグラの保護者だし、彼女は妹同然なんだから。それにカグラは自力でどうにかなっても、リタはそうもいかないだろう?」
「成る程、わかったよ。だけどどうやって捜すんだい?」
「臭いで跡を追ってくれないか? あいつらはあっちの斜面を馬で降りていったから」
リムドは街道の北側に広がる緩やかな斜面を指さした。まだ馬の足跡と臭いは残っている。それを追って行けば山賊のアジトへ辿り着ける筈だった。
「嬢さん。本当にその女、魔力持ちなんですか?」
先頭の中年男が馬上から後ろを振り返った。草をかき分け、山野を突っ切る獣道を馬に乗った三騎の山賊が、一列になって進んで行く。
「イルク、本当だって。私の勘を信じてよ」
嬢さんと呼ばれた娘ーーリタのむっとした声が返ってきた。リタはイルクと呼ばれた山賊の後ろ、最後尾につく別の山賊と同じ馬に乗っている。
ただし、カグラとは違って拘束はされていなかった。それもその筈、リタはこの山賊の一味だったのだ。リタ自身は魔力持ちではなかったが、魔力に対する「勘」が鋭い。リタは度々王都へ赴き、定期連絡馬車乗り場の近くに待機する。そしてリラス行きの定期連絡馬車に目ぼしい娘が乗り込むと、自分も乗車。その存在が仲間への合図となり、襲撃という手筈なのである。
とは言えど、あくまでも勘は勘。相手が魔力持ちか否か、リタも朧気にしかわからない。今まで魔道人を発見出来た試しは一度もなく、良くても魔道人もどき。仲間内の評価は今一つで、イルクが疑うのも無理はなかった。
「それに別にいいじゃない、外れだって。女郎屋に売り飛ばせば済むことなんだから」
開き直ったようにリタが言うと、イルクは直ぐ後ろにいるカグラの方へ目をやった。呪いの首輪をはめられ、手足を縛られたカグラは、もう一人の仲間に背負われ、やはり馬上の人となっていた。
「でも嬢さん、売るにしてもその面じゃーー」
「イルク!」
リタの鋭い声が、イルクの背中へ突き刺さった。
「私のやることにけちをつけるの! 何だったら今すぐシャロンを呼んでやろうか!」
リタが見せつけるように指を口へ持って行くと、イルクは青ざめた。
「じょ、冗談ですって! お頭の娘御である嬢さんには逆らいませんって!」
「ふん、わかればいいのよ。あー、早く帰って父さんに変化の魔法解いてもらわなくっちゃ。こんな不細工な姿から早く解放されたいわ。栗色の髪って、私嫌いなのよね」
リタから目をそらし、首をすくめるイルク。その二人のやりとりをカグラは黙って聞いていた。楽屋からグレンの「今すぐ出せ! こいつらぶっ飛ばしてやる!」という声が聞こえてきても、完全無視。幾ら無神経なカグラでも、流石にここで舞台メンバーの交代を行うような真似はしない。その場を山賊に見られることになるからだ。
かと言ってカグラは、自ら山賊を薙ぎ倒す気にもなれなかった。拘束を解くのは容易い。ただ自身の秘密を守るためには、全員を抹殺せねばならない。それが億劫だったのだ。
人がいなくなったらアギを出して逃げればいいと、カグラは泣きもわめきも落胆することもせず、惚けたまま。その妙に大人しい態度を不審に思ってか、カグラを背負っている山賊が首を捻った。
「こいつ、嫌がる素振りも見せないぜ。変な奴だな」
「とにかく、早くお頭に術かけてもらって、白黒はっきりさせようぜ。こんなぶす、手元に置いておくだけ金と手間の無駄だ。おや……」
イルクは額へ手を当てた。何か冷たい物が当たったのだ。いつの間にか空は厚い雲に埋め尽くされている。
「こりゃやばい。雨だ。酷くならないうちにアジトへ戻るぞ!」
イルクは馬に一鞭当てた。後続の二騎もそれにならい、馬を走らせる。
五分も経たぬうちに雨は本降りとなった。雨に打たれながらカグラは思った。あの勢いだと、リムドはきっと馬車から降りて自分を追って来るだろう。リムドが持っているはずの自分の荷物、塗れなければいいなあ……と。
同じ頃、山賊の追跡をしていたリムドとマルシャにも、雨は容赦なく降り注いでいた。
「何か通り雨みたいだから、そう長く降ることはないと思うけど……。ついてないね!」
マルシャは恨めしげに空を見上げた。雨は山賊の足跡も臭いも全て洗い流してしまう。手掛かりが失われては追跡は不可能だ。
もっとも、今はもっと目先の心配をすべきだった。樹木の下へ避難する程度では、この雨は凌げそうにない。何処か雨宿り出来る所を探さなければならなかった。いくら夏とは言え、体が冷えるのは堪える。
リムドは足早に木々の間を抜けながら、周囲を見渡した。すると幸運なことに、岩の斜面にぽっかりあいた洞窟が目に入ったのだ。入口の高さ二十ライゼ(十メートル)程。中は暗く、先が見えないことから奥行きも十分で、雨を避けるのには申し分なかった。
「よかった! あそこで一休みしよう」
喜び勇んでリムドは駆け出し、マルシャも続いた。洞窟入口周囲には木が生えておらず、ちょっとした空き地のようになっている。ところが洞窟の中へ飛び込んだ途端、マルシャはびくっと震え上がった。
「リ、リムド。ここはちょっと止めておいた方が……」
「え? どうしたんだい?」
「それがねえ……。何か大型爬虫類の臭いが漂ってくるんだよ」
マルシャは奥の方をちらりと見てから、洞窟の入口付近の岩肌を前足で指した。
「ほら、ここ……。少し焦げているじゃないさ。これ、炎で焼かれたんだよ」
「それじゃ、この中には火竜が……」
リムドは息をのんだ。あの山賊一味の火竜か、それとも乗り手を持たない野生の火竜か……。だがマルシャは首を横へ振った。
「いや、火竜じゃない。私も今まで嗅いだことがない臭いだよ。ってことは……」
マルシャの言葉にリムドは背筋が寒くなった。火竜でなければ魔物かも知れない。多頭蛇や紅岩亀など、何種類かの火を操る爬虫類型の魔物は、ステイア大陸にも棲息している。だが洞窟は深い。中に潜む者の正体を確かめたくても、ここからではそれも叶わないのだ。
残念だが諦めて別の所を探そうと、リムドが一歩後退した時だった。じゃり、という何かが土粒を踏みつける音が、洞窟の奥から響いたのだ。
「ひーっ、で、出たあ!」
マルシャは悲鳴を上げ、脱兎の如く洞窟から飛び出した。リムドも逃げようとしたものの、何故か足が動かない。恐怖で体がすくんでしまった訳ではない。逃げるな、対峙しろーー心の中から湧き上がった謎の声が、リムドをその場に留まらせたのだ。
足音はどんどん入口の方へ向かって近付いてくる。やがて薄暗がりの中から、巨大な生き物が姿を現した。藤色の鱗に覆われた、二本足で歩くトカゲのような生き物が。丸みを帯びた頭、口の中にびっしりと並ぶ鋭い牙。背中には蝙蝠の翼が見える。
その生き物は長い首を伸ばし、緑色の眼をぎょろりと向けてリムドを睨みつけた。その瞬間、リムドの頭の中にある言葉がふっと浮かんだのだ。「ナッグ」と。