第9話 神に仕えし者の影
六月四日の昼過ぎ。リムド達は王都アレフト南の森の中を、西へ向かって進んでいた。ただし徒歩による移動ではなく、長さ四ライゼ(二メートル)程の倒木を使って。先頭に跨がるカグラが魔力で倒木を宙に浮かせ、滑るように走らせるのだ。馬の倍とまでは行かないまでも、風を切るほどの速度が出る。
実のところ二人がこの旅へ出てからは、こうして適当な物に乗って移動していた。カグラが魔力持ちであることを隠すため、人がいない場所限定ではあったが。この時ばかりはぐうたらなカグラも、そう嫌がることなく魔力を使った。さっさと旅を終わらせ、故郷へ戻りたいからであろう。
当初の予定では今日の午後、リムドはアトラの墓参りへ行くつもりだった。ところが事態は急変、それどころではなくなった。王立図書館での調査を終え、リムドが足長亭の客室へ足を踏み入れるや、一足先に戻ったマルシャが駆け寄ってきたのだ。
「リムド! 急いで王都から離れなきゃいけない事態になったから、直ぐにここから出な!」
いきなり何を言い出すのかと、リムドは言葉に詰まった。リムドもカグラとマルシャに、報告しなければいけないことがあったのだ。重大な調査結果を。
しかし、そんなことなどお構いなしに、マルシャは更にまくし立てた。ファシドが火竜に気に入られた。異街道を使って遠くへ追い払ったが、しつこい火竜のことだ。ファシドを捜しに王都へやってくるかもしれない。相手が来る前に出来るだけ遠くへ逃げなければーーと。
リムドは肝を潰した。あのおっとりしたファシドが、火竜の真の乗り手に選ばれたことは勿論、異街道の入口を強引に引き寄せ、火竜を強制送致したことに。何者かが異街道をただならぬ方法で無断使用したーーこの事実は早晩魔術師ギルドの、そして国王の知るところとなるだろう。ファシドを責めるつもりはなかったが、とんでもないことになったとリムドは青ざめた。
「まずい……まずいぞ。ほとぼりが冷めるまで、国外へ逃げた方がいい。それでマルシャ、火竜はモーリスへ送られたんだよね?」
「そうだよ。南の国境の町だ」
「と、言うことは火竜は南から来るな。シャルドラへ向かえば最悪鉢合わせするかもしれない。西へ、スルーザヘ行こう」
「わかった。それじゃひとまずトゥーラムだね。直ぐにでも定期連絡馬車にーー」
「いや、駄目だよ」
リムドは首を横へ振り、言った。火竜も同じことを考える筈だと。王都の北はロレーヌ川、南は森、東は共同墓地がある丘。最も安全で簡単に移動出来るのは、トゥーラムへと向かう街道が整備されている西だ。王都にファシドがいないと知ったら、火竜はきっと街道沿いに追ってくる。トゥーラム行きの定期連絡馬車は、午後一時頃に出発し、日没前には到着する。追いつかれる危険性は低いが、何らかのトラブルで遅延することも十分考えられる。それにもし火竜に見つかれば、他の乗客も巻き込みかねない。
「仮に無事トゥーラムに着いたとしても、翌朝まで町から出られないから、火竜に追いつかれる。兎に角、そいつに僕らが何処にいるのか、見当がつかないようなルートで国境まで行かなくちゃ」
「成る程。ファシドを楽屋に隠していても、あいつは私を見ているからね。私を目印に捜すかもしれない。私を目撃されるのは、極力避けた方がいいね」
「ああ。だけど理由は違えど、僕らがあの偽奥方と同じように、火竜に追われる羽目になるとはなあ……」
そのような訳でリムド達は早々に王都を発ち、ファシドが火竜と出会ったあの森を進むこととなった。森の中ならば上空からでも見つかりにくい。それにこの森は、スルーザとの国境沿いの町の手前まで続いている。国境へ向かう街道は森に沿うように走っているので、森を通過する方が移動距離も短くて済むという利点もあった。アクシデントさえなければ、日没前には関へ到着する筈だ。
森へ入って一時間ほど経過した頃、リムド達は休憩をとることにした。魔力を消費したカグラが、空腹を訴えたからである。
大木の根本へ腰を下ろすとすぐ、カグラは保存用のパンを背負い袋から取り出し、無我夢中で頬張り始めた。その横でリムドも干し肉を片手に、マルシャと向かい合った。足長亭では時間が差し迫っていたので、互いに伝えたい話は道中でする約束になっていたのだ。
「それでマルシャ、さっきの話には続きがあるって言っていたけど……」
「そうそう、その話なんだけどね。火竜を追っ払って、ファシドが休んでいると、『あの』二人がやってきて……」
興奮を抑えつつ、マルシャは喋り出した。森の草地へ現れた二人の男に起きた事件を。
「あんた、何者だ? どうして俺の名を知っている?」
ザントをじっと見詰めたまま、ラージはふらふらと立ち上がった。突然の何者発言にザントは意表を突かれ、口をあんぐり開けたまま固まっている。されどラージは冗談を言っているつもりなど微塵もない、正真正銘の真顔。つまりラージは本当にザントが誰なのか、わからなくなってしまったのである。
「それにここは何処だ? 何で俺はこんな所にいる?」
辺りを見渡したラージは、今度はおろおろし始めた。自分が今何処にいるのかも認識出来ず、動転しているようだ。
「ここは王都アレフトの近くにある森の中だよ」
見かねた、いやお節介でグレンが背後から声をかけると、ラージは目を見開き、振り返った。
「アレフト? アレフトってヨマーンの? それじゃここはヨマーンなのか! 何でこんな遠くに……。俺はミスリダのーー」
そこまで言った時、ラージは異様な気配を感じて口を閉ざした。ザントが剣先を自分へ向けている。苦虫を噛み潰したような顔には、「しまった!」とはっきり書いてあった。どうやらザントにとって、何か不都合なことが起きたようだ。そしてその解決策として、最も手っ取り早く単純なやり方を選択したのであるーー迷うことなく。
「おいあんた、何をするつもりだ! 俺はあんたとやり合うつもりなんてーー」
戸惑うラージへ向かい、ザントは問答無用で剣を振り下ろした。間一髪ラージは仰け反り身をかわしたが、切っ先が左頬を掠め、一筋の赤い線が刻まれる。
相手がこちらの言うことに耳を貸さないと悟ったラージは、やむを得ず剣を抜いた。上官と部下であった筈の二人が、一瞬にして剣を交える関係へと変貌を遂げてしまったのだ。
「おーや、仲間割れかい? 面白いね! ほらほら、どっちも頑張りな。勝った方と勝負してやるよ!」
グレンは腕を組んだまま、高みの見物を決め込んで煽った。マルシャは突然始まった殺し合いを止めたかったが、どうにもならない。正視出来ず、大事に至らぬよう祈るしかなかった。
グレンとしては実力が拮抗する「面白い」見せ物を期待していたようだが、残念なことに戦いは一方的な展開となった。本気で相手を討とうと、殺気を露わに剣を振るうザント。片やラージは自分が置かれた状況も把握出来ないうえ、頭の中も疑問符だらけ。実力が出せず、防戦一方だ。
数回の打ち合いの末、ラージの剣は弾き飛ばされ、数ライゼ横の草の中へ消えた。逃亡を図ろうにも今立っている場所は草地の縁、背後には木。もう逃げ場はない。
「これで最後だ! 死ね!」
袈裟懸けを食らわせようと、ザントが剣を振り上げた時だった。巨大な影がザントに覆い被さり、耳をつんざくような鳴き声が上空から降って来たのだ。
「ギャーッ、グエグエーッ!」
声の主は翼竜だった。怒号と共に空からザントへ襲いかかってきたのだ。翼竜は唯一の武器である、後ろ足の鉤爪をザントへ向けた。予想だもない急襲にザントは剣をはたき落とされ、抗う間も与えられず体をがっちり掴まれてしまった。
ザントを握りしめたまま、翼竜は舞い上がった。叫び、手足をじたばたさせてザントが暴れても、翼竜はどんどん高度を上げて行く。そして百ライゼ(五十メートル)程上がった時、無情にも翼竜は足の指の力を抜いた。うわーっという悲鳴を上げてザントは落下。鈍い音を立て、草地の真ん中へ墜落した。
あまりに衝撃的な出来事に、グレンもラージも、そしてマルシャも呆然とその様を眺めることしか出来なかった。驚かない方がどうかしている。虫も殺さぬ大人しい翼竜が人を襲ったのだ。攻撃されれば防御のため反撃に転じることはあるが、危害も加えぬ相手を襲うなど前代未聞の出来事だった。
地面に叩きつけられたザントはぴくりとも動かない。翼竜はその横へ降り立つも見向きもせず、ラージの側へ駆け寄った。自分も襲われると戦き、顔をひきつらせるラージ。ところが翼竜は頭を突き出し、ラージの頬の傷をぺろりと舐めた。
「お前……?」
恐る恐るラージは翼竜の目を覗き込んだ。縦長のその瞳からは怒りの炎は消え失せ、淡い優しげな光が宿っている。
「ご主人様を救おうと、危険を省みず敵をやっつけたんだねえ。泣かせてくれるじゃないさ。あんたみたいな大ぼけで屁っ放り腰、盆暗の竜兵士には勿体ないよ、全く」
グレンは挑発するかのように罵詈雑言を放ったが、ラージは立ち尽くしたまま。言い返そうとも振り返ろうともしない。その態度から自分に対する敵意はないと判断したグレンは、ラージの背中をぽんと押した。
「ほら、何しているのさ。よくやったと誉めてやりな」
「この翼竜は……?」
「何とぼけたこと言ってんだよ。そいつはあんたの竜じゃないさ。さもなきゃあんたのこと、助けたりはしないよ」
「俺の竜……。いや、俺の竜は……」
ラージははっとなった。自分の竜と聞き、思い出したのだ。いつも側にいた、あの竜はーー
「あの野郎が……。あの野郎が俺のベリーズをーっ!」
突然の絶叫に翼竜は驚き、一歩飛び退いた。ラージは膝を突き、拳を狂ったように地面へ叩きつける。グレンも止めるような真似はせず、無言でその様を見詰めているだけだった。
やがてラージは息を荒げつつも立ち上がった。興奮が収まったのを見計らい、グレンが問いかける。
「……で、一体どういうこと? あんたさっきから一人で騒ぎまくっているけど、こっちにはさっぱりわからないんだよ。最初から順立てて説明しな」
「最初からって……。っていうか、あんた誰だ?」
「私はグレン。ただの傭兵だよ。あそこにひっくり返っている奴の上官を殺ったんだけどねーー依頼でさ」
「あの男の? 俺を殺そうとした奴の上官をか?」
「そう。その上官はあんたの上官でもあったみたいだね。わかるかい?」
「いや、さっぱり……」
うなだれるラージを見ても、グレンは舌打ちの一つもしなかった。気付いたのだ。この男は記憶障害をおこしており、ザントや副団長のことも覚えていないと。そしてそれがザントに殺されそうになった原因ではないか……と。
「あんた、本気で何も覚えちゃいないようだね。なら仕方がない。わかっていることでいいから話しな。まずあんたの名前と素性からだ」
「ああ……。俺の名はラージ・ゴルバス。ミスリダ王国の貴族・カーネミー伯爵家に仕えていた者だ……」
相手は見知らぬ怪しげな女戦士だったが、ラージは記憶を掘り起こすように、ぽつりぽつりと語り始めた。今の自分は何が何だかわからない。兎に角、誰でもいいから助けて欲しい……という藁にも縋る思いだったのだろう。
ゴルバス家は代々カーネミー伯爵家に仕える騎士の家系だった。ラージ自身も若くして竜騎士ーー鞍無しではない普通の竜騎士となり、伯爵家の竜兵団の一員となった。
「俺の竜の名はベリーズといった。くすんだ鱗一つない純白の雌竜で、目は空の如く澄んだ青。気品漂うその姿は息を呑むほどに美しく、『白銀の貴婦人』とも呼ばれていた。そんなベリーズの相棒であることを、俺は誇りに思っていた。だが……」
ラージが竜騎士となって二年も経たないうちに、ミスリダに激震が走った。大公暗殺未遂事件である。カーネミー伯爵はこの事件と無関係だったが、あることが原因で濡れ衣を着せられ、伯爵家は取り潰されてしまった。
かくして伯爵家の竜兵団は解散。団員は全員浪人となり、ラージも今後の身の振り方を考えねばならなくなった。新たな主を求めて積極的に自己アピールをしても、何処の領主も手を上げようとしない。皆恐れていたのだ。謀反人の元家臣を迎え入れれば、今度は大公の嫌疑の目が自分へ向けられるのではないかと。
厳しい現実に直面したラージは活路を開くため、隣国のスルーザ王国へ渡ろうと決心した。スルーザ西部近海でこの半年ほどの間、海賊が頻繁に出現。被害が深刻化し、討伐のため竜兵団を強化するという噂を耳にしたからだ。
そしていよいよ故国を出立しようという前夜のことだった。突然、「あの男」が現れたのだ。
「あの日の夜、俺はベリーズと二人きりで伯爵邸の庭にいた。もうこの地へ戻ってくることはないから、今夜は名残を惜しもうと。そんな時、空から竜兵士が一騎やってきたんだが、ベリーズの様子がおかしい。ずっと奴の方ばかり見ていたーー」
やがて竜兵士は邸内へ着陸し、翼竜の乗り手が二人の前へやってきた。マントのフードに隠れて顔は見えなかったが、年輩の男のようだった。ラージが何者だと男を詰問するも、相手は完全に無視。ベリーズへ向かい、男ははっきりとその名を呼んだのだーーベリアライローズと。
「ベリアライローズ。それがベリーズの真の名だった。ベリーズは狂喜した。真の乗り手が現れたと。そしてその瞬間、俺はお払い箱となった。奴は俺を嘲笑い、ベリーズもこれ見よがしに俺に鞍を投げつけてきた。覚えているのはそこまでだ……」
「そこまでって、その後のことは覚えていないのかい?」
「ああ。気が付いたらここにいた。いや、待てよ……」
ラージは頭を一回ぶるっと振い、記憶を絞り出した。屈辱と悲しみに打ちひしがれ、泣き崩れる自分の頭上で、男が訳のわからぬ言葉でぶつぶつと呟いた。その直後、頭の中が真っ白になり、意識がなくなった……と。それを聞いてグレンは、一人納得したように頷いた。
「そりゃ魔法だよ、間違いなく。あんたはその男に魔法をかけられたんだ。しかも五年も前にね」
「五年前? どういうことだ?」
「鈍い奴だねえ。あんたの国の大公が殺されそうになったのは、五年前のことだって言っているんだよ」
「何だって! それじゃ俺はその間、一体何を……」
「知るか! あんたがわからないのに、どうして他人の私がわかるのさ!」
そう言い捨てると狼狽えるラージを放置し、グレンは草地の中央部、仰向けにひっくり返っているザントの許へ向かった。足先でその体を小突き、頬を叩くなどして乱暴にいじった後、口をへの字に曲げて戻ってきた。
「そういうことはあいつがよく知っている筈だけど、生憎くたばっている。残念だったね」
ああ詰まらないと頭をかくグレンを見て、マルシャは深く溜息をついた。もしまだ息があれば、グレンは魔力を使ってザントの心を読む魂胆だったのだろう。無論それはラージに対する親切心などではなく、己の好奇心を満たすためであろうが。
とはいえマルシャも、ラージが何かしらの魔法をかけられた点について異論はなかった。では、その術とは何なのか。人を意のままに操る傀儡魔法か、それとも術者に惚れ込んでしまう魅了魔法か。しかし、マルシャはそのどちらでもないと考えていた。
まず傀儡魔法にしては、行動に不自然な点がある。傀儡魔法をかけられた者は、己の人格が消えて術者の操り人形と化し、命じられたことしかこなせない。だがラージは、行方知れずのザントの騎竜を捜しに行こうと申し出た。これは明らかな自発的行為だ。また傀儡魔法の犠牲者は、表情が極端に乏しくなるので、この点も異なる。
一方魅了魔法は、かけた者を術者の虜にし、全てを捧げ尽くしたいと思わせる魔法だ。その熱意は異常とも呼べる域のもので、術者のためならば自分はおろか、家族の犠牲までも厭わない。よって犠牲者は積極的に行動するし、喜怒哀楽も激しくなる傾向がある。ただ自身の人格が完全に残っているので、術が解けた途端、記憶まで消し飛ぶということはない。
と、なれば可能性はただ一つ、人格移植魔法しかない。これは犠牲者に全く異なる人格を植え付ける魔法だ。別人格が身体を乗っ取る形となるので、本来の人格は封じられて冬眠状態となる。よって術が解けても、別人格に支配されていた間の記憶は残っていない。前出の二つの魔法同様、善意で用いられることは殆どなく、植え付けられる人格も術者にとって都合がいいものが大多数を占める。身代わりとして悪事を犯させるのには、格好の魔法なのだ。
マルシャはグレンにこの自分の考えを伝えたかったが、人前で副面体の前へ出ることは厳禁。やむなく様子を窺っていると、グレンはラージの額を指先で弾いた。
「あんた、魔法で別人になっていたね。そんな魔法があるって、聞いたことがあるよ」
「え? 俺が別人に? 何でわかるんだ、あんた」
「あんたと似たような奴を見たことがあるんだよ、前に」
グレンの説明によれば、人格移植魔法は臆病者や戦う意思の弱い者を戦場へ駆り立てるのにも適しているという。グレンが傭兵として参戦した際、味方の魔術師が戦意高揚のため、自軍兵の一部にこの魔法をかけていたことがあった。それを快く思わなかったグレンが、面白半分でうち一人の術を勝手に解除してしまったのだ。しかも戦闘の真っ最中に。
「術が解けた途端、そいつは『うわーっ、何で俺こんな物騒な所にいるんだ!』とか喚いてパニクっちまった。そう、今のあんたみたいにさ」
「……あんた、魔力持ちか。それじゃ、俺の術を解いてくれたのもあんたか?」
「まさか。私は無料でそんなことするほど優しい女じゃないよ。あんたが自力で解いたんだろう。この手の魔法は強烈な精神的ショックを受けると、解けることがあるからね」
「精神的ショック……?」
「ああ。あのザントって男は竜騎士だったけど、ついさっき真の乗り手が見つかってね。あっさり火竜に捨てられたんだよ。誰かさんと同じようにねえ」
グレンが薄笑いを浮かべると、ラージは歯を食いしばり、黙り込んだ。己にかけられた術が解けた理由がわかったのだ。
火竜との契約が打ち切られ、絶望し怒り狂うザントの姿は、まさに過去の自分と同じであった。そんな衝撃的な場面を目の当たりにした結果、眠っていた人格が覚醒し始めた。更に苦い記憶と耐え難い屈辱までも蘇り、そのショックで完全に術が解けたのだ。
ラージの目から涙が溢れ出た。悔しかったのだ。「あの男」に火竜を奪われたばかりか、別人格を植え付けられたと知って。自分には何の落ち度もなく、恨まるようなことをした覚えもないのに。ラージはもう心が押し潰されそうだった。
翼竜は二人が話をしている間、大人しく後方で待機していた。だがやるせない思いに苦しむ主を慰めようと思ったのか、そっと口を差し出してきた。ところがその瞬間ラージは振り向き、目をつり上げて叫んだ。
「……思い出したぞ。お前、あの時あいつが乗ってきた翼竜だな! お前のような奴などこうしてくれる!」
ラージは翼竜の口を払いのけると、草の上に転がるザントの剣へ手を伸ばそうとした。が、柄へ指が触れるよりも早く、グレンに右頬を叩かれ、よろめいた。
「この恩知らずが! 一体誰に助けてもらったと思っているんだ! この翼竜がいなきゃ、今頃あんたは草の肥やしになっているよ!」
凄まじい剣幕で怒鳴るグレンを前にしても、ラージは赤くなった頬を押さえようともせず、ぼーっとしたまま。もっともグレンの一撃は、利き手ではない左手での平手打ちなので、ダメージは大したことはない。グレンも利き手の拳で殴れば、簡単に昏倒させられた筈。だが、翼竜に敵と認識される恐れがあるので、手加減したのだ。
「坊主憎けりゃ何とかかい! 第一、この翼竜に何の罪があるって言うんだよ!」
「あ、ああ……。すまない……」
ようやくラージは謝罪の言葉を口にした。相手が反省の態度を示したことで、グレンも口撃を収めた。
「謝る相手が違うだろうが、ったく。言っておくけどあんた、さっきこの翼竜のことをディルって呼んで、可愛がっていたんだからね」
「可愛がっていたのか? 俺が?」
「大事な相棒とか言っていたよ。もっとも例の奴が、これは自分のお下がりだから大切に扱えと、別人のあんたに命じていたような気もするけど」
ラージは渋い表情を見せた。内心複雑だったのだ。憎い相手の元騎竜を別の自分が相棒とし、大事にしていたと聞いて。しかしそれが功を奏し、翼竜は危機から救ってくれた。恩を仇で返すべきではないと思い直したのか、ラージは翼竜の鼻筋をさすった。
「さっきはすまなかったな、ディル。これからもよろしく頼む」
「わかったかい? あんたがやろうとしたことは、所詮は八つ当たりにすぎないってことを。それであんた、これからどうするつもりだい?」
「ミスリダに帰るつもりだ。戻ったところで行く宛もないが、とにかく今は祖国の様子が知りたい」
ラージの実に「質素」な望みに、グレンはがっかりしたように土を蹴り上げた。
「詰まんないねえ。あんたも騎士の端くれなら、自分に術をかけた奴に仕返ししようって気はないのかい?」
「無いと言えば嘘になるが、相手が魔術師である以上、今の俺には打つ手がない。それにあいつが何者かわからないのでは、どうにもならん」
「じゃあ、ミスリダでそいつが誰なのか調べればいいじゃないさ。そうすれば復讐出来るかもしれないよ」
そうだなとラージは答えたが、表情は冴えなかった。名前も知らぬ、顔もわからぬ相手を自力で追い詰めるなど、ほぼ不可能だからであろう。
「ま、とにかく、今は早くヨマーンから離れた方がいい。あんたの優しいお仲間が、追いかけてくるだろうからね」
グレンの警告は的を射ていた。王都へ調査に向かったザントとラージも戻ってこないとなれば、「向こう」は必ず動く。ラージが術から解放されたことも、いずれ知るところとなり、ザントと同様の判断を下すだろう。片やラージは厄介なことに別人の間の記憶がなく、元仲間の顔を知らない。見つかっても刺客とわからず、極めて危険だ。
だがその危険も、国外へ脱出すればぐっと低くなる。遠見魔法が効きづらくなり、捜索が困難となるからだ。加えて正規の竜兵団員は、無断越境が原則禁止されている。相手は貴族所有の竜兵団と思われることから、容易に追っ手を差し向けられない。一方ラージは、今やヨマーンの「元」竜兵団員にすぎず、この規制から外れる。翼竜を所有する民間人も珍しくないので、偽名を用い身分を偽っても、怪しまれることはないだろう。
ラージもその様な裏事情には精通しているようだったが、何故か翼竜の首をちらちらと見るばかりで、落ち着きがない。すると理由を察したグレンが、「これは貸しにしてやるよ」と、魔力で翼竜の首筋についた焼き印を消した。多くの国の竜兵団では、翼竜の所属を明確にするため、団ごとに定められた焼き印を押す決まりがある。ただ火竜や飛竜はプライドが高く、焼き印は到底無理なので、戦場や公の場では識別用の小道具を身に付けることが多い。
焼き印が跡形もなく消えたのを確認すると、ラージは嬉しそうに微笑んで翼竜の背に跨がった。
「あんた、グレンと言ったな。あんたには借りが出来た。もしまた会うことがあったら、必ずこの借りは返す」
「期待しないで待っているよ。気を付けて行きな」
ラージの一蹴りで翼竜は一声甲高く鳴き、翼はためかせて舞い上がった。その姿が空の彼方へ消えるまで、グレンは静かに見守り続けた。
「そんなことがあったのか……」
一通り話を聞き終えたリムドはしばしの沈黙後、マルシャに尋ねた。
「それでラージの元騎竜だった火竜は、間違いなくベリアライローズという名の白い雌竜なんだね?」
それはマルシャにとって想定外の質問だった。何故リムドが火竜について突っ込みを入れるのか、マルシャは理解出来ずただ頷くことしか出来なかった。
「そうか……。これは絶対に偶然じゃないな……」
「それどういうことさ、リムド」
「実はね……。王立図書館での調査で、意外なことが判明したんだよ」
リムドは一回深呼吸をし、意を決したように告げた。
「侯爵夫人のセレアナの命を狙い、ザントとラージが所属している竜兵団は……ビスタ侯爵の竜兵団だったんだ……」
「何だって!」
マルシャは驚きのあまりのけぞった。普段関心を示さないカグラでさえ、口を休めて目を向けたほどだ。
「ってことは、あの奥方は自分の所の竜兵団に襲われたってことかい!」
「ああ、間違いない。あの条件に合致する竜兵団は、そこしかなかった」
「もしかして、派手な夫婦喧嘩かい? どっちかが浮気でもしていたとか。でもそんな下らないこと、国王に報告するなんておかしいし」
マルシャが首を傾げるのも当然だった。セレアナが嫁ぎ先の竜兵団に襲われる理由が全く読めないのだ。
「ビスタ竜兵団の団長はボルドーク・ウラノスという人物で、鞍無しの竜騎士だ。そして彼の騎竜こそ、白き雌竜ベリアライローズ……」
「じゃあ、ラージに術をかけたのも……」
「そう。ボルドークということになるな」
リムドは水筒の水で口の渇きを癒すと、王立図書館での調査結果の続きを語った。
ボルドークと数名の団員は、スルーザ経由でミスリダからやってきた異国人だった。四年前にビスタ竜兵団の一員となった際、ボルドークが率いてきた団員の中にザント・アリムスやラージ、そして副団長で鞍無しの竜騎士であるカイエン・バーンの名もあったという。
「成る程ねえ……」
マルシャはリムドから視線を外し、うんうんと頷いた。
「それでダルカンがザントのことを、『外国人竜騎士』って言っていたのか。ダルカンは姐さんの財産を強奪する前、ミスリダで商売していたって聞いていたから、その時知り合ったんだ」
「更にボルドークは大司教クラスの高僧らしい。でもビスタ侯爵は僧でも魔術師でもない普通の人間。つまりラージ達が導師と呼んでいた『主』は、ボルドークと見て間違いないだろう。ザントとラージ、それにカイエンはボルドークの命令で動いていたんだ」
「だけどボルドークだって侯爵に仕えているんだろう? どうして主人の女房を……。国王に知られちゃ困る秘密って、一体何だい? 第一、侯爵は女房が殺されようとしていることを、知らないのかい?」
しかしマルシャが矢継ぎ早に質問しても、リムドは困ったように首を横へ振るばかりだった。
「わからないよ。でもやっと相手の正体もわかった。もうこれ以上この事件と関わらない方がいい」
ビスタ侯爵家の騒動について、リムドも興味がないわけではなかった。ただ恐ろしかったのだ。アギが忠告したように、好奇心の赴くまま首を突っ込めば、本当に首が抜けなくなってしまうと。国王まで動き出すかも知れぬ事件に、自分達も巻き込まれてしまうのではないかと。
だがミスリダ出身者が、この騒動に深く関与しているのは事実。彼らがヨマーンへ渡ってくる原因となったのは、あの大公暗殺未遂事件に違いない。この事件前後にミスリダ国内で何が起こったのか、調査する価値はありそうだ。もしかしたら世界規模の凶事と関係があるかも知れない。これといった手がかりがないならば、少しでも可能性がある方へ赴くべきだろう。
そのような理由もあり、リムドはスルーザ行きを提案した。ミスリダへ行くならば、姉妹国のスルーザを経由した方が断然楽なのだ。シャルドラ経由でも入国は可能だが、ミスリダとの関係は良好とは言い難く、国境の関で足止めされるのは目に見えている。
「で、何でザントはラージを始末しようとしたんだ? 確かにあいつ、正気を取り戻したラージを見て、まずいことになったと言わんばかりの顔をしていたけど」
ここでカグラがいきなり口を挟んできた。無関心を貫くこの怠け者が質問するなど、滅多にないことだ。一瞬呆気にとられはしたが、リムドが落ち着いて答えた。
「それはやっぱり、何らかの不都合が生じるからだろうなあ。その間の記憶がないとは言え、ラージは五年もボルドークに仕えていたんだから」
五年前のあの日、ボルドークはラージに不意打ち同然に人格移植魔法を施し、臣下とした。これだけでも十分問題はあるが、今回主君の奥方の殺害まで目論んだのだ。無論、これらの事件も氷山の一角にすぎない可能性もあるわけで、とても唯一神の高僧とは思えない所行だ。
そのような「悪行」の数々が、ボルドークの支配から逃れたラージの存在が切っ掛けで、芋蔓式に明るみになる恐れもある。放置するなど以ての外、災いの芽は摘み取っておかねばならない。術が解け、もはや同士ではなくなったラージをザントが危険分子と判断し、処分しようとしたのは自然なことだ。更にラージにとって、ボルドークは屈辱を味わわせた憎むべき敵。本来の人格を取り戻せば恨みも蘇り、禍根ともなろう。
ボルドークが何者で、一体何を企んでいるのかはわからない。だがこの件に関わらないと決心したリムドの関心は、異国へと向いていた。大陸北中央部、山に囲まれた小国ミスリダ大公国へと。