追い払えるものなら
そんな二人のそばで、一緒に来た男は布を広げ、木箱に持ってきた魚を見事な手つきでさばいている。しまいには切り身が美しく大きな皿に盛られた。
「アミア様、これならばどうでしょう。沿岸のほうではこうして生で魚を食べる文化もあると聞きます」
「いらぬ。それより湖に戻せ。お前とはもう何日も話しただろう。少し話したいだけと言ったはずだ」
「まあ、シュゼが満足するほどお話などしておりませぬ。アミア様は名前以外ほとんど何もおっしゃらないのですもの」
「人族は皆話が通じないのか。お前のやっていることを父や兄が知ったら何と思う」
「私のやっていること?」
「他種族を閉じ込めていることだ」
「閉じ込めてなど。お招きしているだけにございます。アミア様は何か欲しいものはございませんか」
「湖に入りたい」
「湖に入ったらアミア様は帰ってしまわれるでしょう」
「らちが明かぬ」
それからはシュゼがいくら話しかけてもアミアは返事をせず、湖を見ていた。
「それではまた後で参ります」
そう言うとシュゼは廊下に出て、ほーとため息をついた。しばらく歩くと侍女にこう言った。
「今日も麗しかったわね、アミア様。話さなくても、いてくださるだけでいいの」
「しかしそろそろお返しなさいませ。シュゼ様」
侍女はそうそっけなく言った。
「そもそも今年の湖への避暑は危険だからというのを押し切ってシュゼ様がいらしたのですよ。そのうえ人魚を捕らえたなどと姫様のおいたが知られたら、しばらく外出禁止ですよ、まったく」
「捕らえたなんて! 来ていただいたのよ!」
「だって半分魚ですよ。生の魚がいいなどと、恐ろしい」
「いいじゃない別に」
「そろそろ水に返さないと、乾いて死んでしまいますよ」
「なんてこと言うの! それこそ恐ろしいわ!」
恐ろしいのは、死ぬかもしれないというのに閉じ込めて離さない姫様の執着ですと、侍女は言いそうになってやめた。古参の者たちも些細なことで辞めさせられる最近の王宮では、前のように正直に物を言うことはためらわれた。
多少夢見がちでも素直だったシュゼ様はどうしてしまわれたのかと侍女は思う。
「ノーフェ様がいてくださったら、いえ」
妹に優しいノーフェ様だが、この事態に冷静に対応してくださるかどうか。あの大きい魚を返すならともかく、もしも、仮に、害するようなことがあったら。侍女は頭を振ってその考えを頭の隅に追いやり、大事な王女の後を歩いて行った。
一方、部屋を出ていくシュゼたちを背中で見送ったアミアは、尾びれで一度ボスンとソファを叩くと、ふうとため息をついた。
湖は浅い。わかってはいたのだが瘴気の気配にひかれてつい岸辺に寄ったのが悪かった。うっかり網に絡まってしまった間抜けな自分にも腹が立つが、逃げようと思えば網を切って逃げられた。
ただ、
「離宮においでいただけませんか」
と願った人族の少女に、愛し子の面影をふと重ねてしまったのがいけなかった。黒髪でも、黒い瞳でもない。しかし、少女の純真さに、ほんの少し付き合おうかと思ったらこれだ、そう思いながらまたボスンと尾びれでソファを叩く。
確かに純真は純真なのだろう。だが自分のことで頭がいっぱいで話を聞こうともしない。それでも人魚であったとてその年頃の子どもは多かれ少なかれそんなものだ。
敵ならば排除もしよう。王族であったとて気に入らなければ相手をする必要もない。
抜け出すことは簡単だが、自分がいなくなって嘆く子どもを思うと逃げられもせず、冷たくすることもできず、アミアは珍しいことに心底困っていた。
つまり、自分が非常に間抜けな状態に陥っていることを自覚し、ほんの少しだけ焦ってもいた。
「サイアが先走らぬとよいが」
まだ若い後継を心配しそうつぶやいたが、その心配はすでに遅かったことをアミアはまだ知らない。
☆ ☆ ☆
「ノーフェ、シュゼ!」
馬車の前から呼ぶ声がする。相変わらず馬車の後ろに腰かけて景色を眺めていた真紀と千春は、その声に大きな声で返事をした。
「はーい」
「どうしたの?」
真紀はよっと声をかけてバランスよく立ち上がると、ゆっくり進む馬車の荷物の間を通って御者台に顔を出した。
「町の入り口に珍しく兵がいる」
アーロンが答えた。真紀はちょっと背伸びして前を見た。
「ほんとだ。馬車も人も一台ずつ確認されてるね。でも」
さらに目を凝らす。
「何かを探しているというよりは、危険なものや不審な人を入れないようにしてるだけじゃない? なら大丈夫だよ」
さも安心したように言う真紀に、アーロンはため息をついた。
「なあ、この時期試しにソルナみかんを売りに来たなんて、俺たち結構怪しい一行なんだが、その根拠のない自信はどこから来る?」
「だって今更どうしようもないじゃない。どうしようもないなら、堂々としているほかないでしょ」
「そうなんだが、そうなんだが、おい、エドウィ」
「はいはい。堂々としているにしても、そういう状況だから気をつけようぜってことですよ、マキ」
「それはそうだ。気を付けて後ろにいるね」
「そうしてください」
真紀は後ろに戻っていった。
「エドウィ、言葉遣い」
「そうだった。気を付ける」
「さて、もう少しでネリスの町だ。入ったら宿をとって、市場に場所を確保だな」
後ろでは、千春がのんきに足をぶらぶらしている。といっても木の板に長時間座るのはつらい。時には馬車の横を歩いたり、荷台の隙間に寝転がったりして、道中は結構大変だったのだ。
「もう少しで目的地だ」
「結局途中では王女様が避暑に来てることと、湖からの魚の供給が途絶えてることくらいしかわからなかったねえ」
「王女様とかわーらーえーる。あのおこちゃまのことでしょ」
真紀はふんっと鼻息を荒くした。千春は苦笑してたしなめた。
「真紀ちゃんてばそんな言い方して。ほんとにおこちゃまと思ってたらそんな意地悪言わないの」
「だってさ、あいつらほんとむかついたよね」
「それは否定しないよ。むしろなんであんなに目の敵にされたんだろうねえ」
あんなに意地悪されたのにもうどうでもいいと思っている千春にあきれながらも真紀はこんな話を持ち出した。
「ほんとにね。聖女への拠出金って実際はそんなに多くないんだってよ? 聖女宮の建て増しとか、そういう大きいものの時は多少は支払うけど、普段の拠出は一国あたりに割ると騎士一人分程度なんだって」
「うわ安いわー。騎士一人分で瘴気を浄化してくれるなら十分じゃない。あ、今私たちまさに絶賛瘴気の浄化中だよ! なんか癪に障るね」
千春は見えない瘴気をしっしっと手で追い払ったが、体は勝手に瘴気を吸い込んで浄化してしまうのだった。真紀は思わず笑ってしまった。
「はは、無駄無駄。それにしても、ここらあたりは正直ドワーフ領に行った時くらい瘴気が濃いよ」
「そうだね。魔石の生成も早い」
千春はそっと額を押さえ、そして胸を押さえた。王族のためじゃない。皆のためなんだから、仕方ない。あの時感じた胸の痛みなど、忘れてしまおう。そんな聖女を乗せて、馬車は町の入り口で止まった。




