魔物のこころ
その静けさの中、町に戻ろうとすることは自殺行為に思えた二人は、グルドと共に静かに目立たないようにしていた。しかし、ふ、と一匹のゲイザーが真紀と千春のほうを見た。
その目が歓喜に輝いたような気がしたが、気のせいだと思いたい。だって目を合わせてはいけないって誰かが、そうカイダルが言っていたもの。真紀と千春はグルドの両側にしがみつきながら、なるべくそっちを見ないようにじっとしていた。
しかし、その気づきはなぜだか次々とゲイザーに伝染したようだった。やがて兵もゲイザーが一心に何を見つめているのか気になり始め、ちらちらとそちらに目をやるものが出てきた。
「なんだ、何が起きている」
「わからん」
魔物から目を離すわけにはいかないカイダルとナイランは、そう囁き合ったが、後方にいる真紀と千春のことはわからなかった。
「マキ、チハール、なぜここへ!」
そこにエアリスの声が響いた。
「なんだと? マキ? チハール?」
「保養地にいたはずだ!」
「ノーフェ!」
「だめだ、カイダル、後ろを向くな! 均衡が崩れる!」
「くっ」
しかし、すでに均衡は崩れ去ろうとしていた。魔物の視線はすべて真紀と千春に集まり、それを確認しようとした兵士の視線は自然と後ろを向き、いつの間にか真紀と千春まで、まるで一本の道のような流れができていたのだった。
「まずい!」
ナイランがつぶやくと同時に、魔物は一気に真紀と千春に向かった。途中の兵士を跳ね飛ばしながら。
それを真紀と千春は、まるで映画を見るような気持ちで見ていた。上からは大きな目のかたまり。正面からは黒い大きな四足のもの。真紀と千春のそばまで来て静かに止まる魔物たち。それはやがて、すべての視界を塗りつぶすほどに集まってきた。
「なんと、これは」
グルドが思わずつぶやく。魔物は襲ってくるわけでもなく、静かに真紀と千春の側でたたずんでいる。
「君は、しっぽがあればしっぽを振ってそうだね」
真紀は思わず手近にいた四つ足の魔物に話しかけた。魔物は見えないしっぽを振ったような気がした。
「真紀ちゃん、モフモフじゃないよ、その黒いのは瘴気だよ」
「わかってるけど」
魔物の体からもやっとにじんで空気に消えて行くのは目に見えるほど濃い瘴気だ。さっきから額が痛いほどうずく。
「でもなでてほしそうなんだもの」
「マキ、何を言っているのだ! 触ったら生気を吸い取られて弱っていくんだぞ!」
「グルド、わかっているんだけど」
でも真紀と千春の胸には、魔物たちの何かが響いてくるのだ。その手を伸ばして。さあ、と。
千春の前に、ゲイザーが下りてくる。そしてそっと頭を下げた。まるで甘えた猫が手の下に頭を持ってくるように。千春は思わず両手を広げ、ゲイザーに手を伸ばした。
「チハール!」
からん。
魔石が地面に落ちた。
「なんと、ゲイザーが消えた……」
千春は両手を広げたまま呆然と立ちつくしている。
すっと、次のゲイザーがやってきた。真紀の前にもまるで列を作るかのように、魔物が見えないしっぽを振っている。
「だめだよ」
千春が声を震わせて言った。
「せっかく魔物として生まれたんでしょ。どうして消えてしまおうとするの」
「チハール、何を言っているのだ」
グルドがいぶかしげに尋ねた。魔物の声など聞こえない。ましてや魔物に気持ちなど、あるわけがないのに。
しかし千春の声に魔物が身を震わす。まるで喜んでいるかのように。
「ねえ、その大きな眼は外を見るためのものじゃないの。せっかく漂うだけの瘴気から、自由に動ける体になったのに、何も見ないで消えてしまうの」
真紀も言う。
「その足は地面を踏みしめるために、遠くに行くためにあるのではないの?」
いいんだ、と魔物は身を震わせる。十分に見たんだ。そうして魔石としてさらにこごって、また空気に溶け出す。それから闇界に戻って、またここにやって来るんだ。
なぜだ。グルドはそう思う。さっきから、なにかが伝わって来るのだ。そんなはずがないのに。これが魔物の思いだと言うのか。グルドは千春と真紀の背中を支えている自分の手を見る。聖女か。この二人を通して伝わってきているのか。
いずれまたこごる命なら、あなたがこごらせて、愛し子よ。
千春も真紀もずっと涙が止まらない。カイダルもナイランも、グルドもこれが危険な魔物だと言う。この優しい、愛しい生き物が。それを消して、魔石に戻せと、魔物自身がそう言うのだ。
真紀は千春を見た。涙で顔がすごいことになってる。千春は顔をごしごしと袖で拭いた。
「お互い様だよ、真紀ちゃん」
真紀もごしごしと顔をこすった。
「うん」
「できる?」
「やるしかないよね」
二人は額のハンカチを外し、かつらを取り去った。閉じ込めていた髪をばさばさっと広げる。
「はあ、すっきりした」
「ほんとほんと」
広場に来てから額がうずいて仕方がなかったのだ。
「グルド、支えていてね」
「何をする気じゃ」
「仕方ないの。みんながそうしてくれって言うから、このかわいい生き物たちが」
「マキよ、チハールよ」
懇願するように名を呼ぶグルドに、二人はそう言うと、両手を前にそっと伸ばした。来るものをまるで抱きしめるように、丸く。
二人の背中を支えるグルドの手には、一体魔物が消えるたびに二人の体が衝撃を受けるのが伝わってきた。真紀も千春も、魔物を一体ずつ確かめながら、そっと触れて行く。触れるたびに魔物はまるで巻き戻されるかのようにしゅっと縮んで、魔石となって消えて行く。またいつか会おうね、と真紀の口が動く。さよなら、と千春の口がそう言う。
からん。からん、と落ちる魔石の音に交じって、きーんと鋭い音がするのは、真紀と千春の額から落ちる聖女の魔石の音だ。いったいいくつ落ちたのか。一日一つどころか、何分かに一つ魔石を作る真紀と千春の負担はいかばかりか。
それでもグルドは二人の背中を支え続けるしかなかった。




