前夜の千春
「ダンジョンだと」
冒険者は呆気にとられたように言った。そういえば、ダンジョンがあるということはまだ各領のトップにしか伝わっていない。ここでは人族にはそれは伝わっていなかった。
「内陸で最近発見されたらしい。まだ公にはなっていないが、ゲイザーの発生を確認した」
ザイナスはたんたんと説明した。
「バカな。人間領にだと! 気づかずに放置しておいたら一般人に被害が及ぶではないか!」
「内陸にあるということはわかったが、どれほどの規模でどのように対策しているかまではわかっていない。何しろ内陸自体が公表していないからな」
人族の冒険者は信じられないというように首を振った。
「内陸は闇界から最も遠く離れたところにある。たとえ洞窟があったとしても、魔物が出る理由がわからない」
「が、事実だ。この目で見てきたからな」
ザイナスは腕を組んで海の方角を見た。人間領の方角だ。
「無理を押して、ドワーフ領にも、エルフ領にも、そして獣人領にも来てくれた聖女を、我らがどれほど愛しく思っているか内陸にはわからないのであろうな」
「ザイナス……」
「マキ、もしチハールに何かあったら、我ら三領は決して内陸を許さぬ。たとえミッドランドやローランドが許してもだ」
王族はどうであろうと、真紀たちがみかんを売った町の人達はみんな親切だった。千春が無事でありますように。そして、何事も起こっていませんように。ザイナスの隣で、真紀も遠く海の方角に祈るしかなかった。
☆ ☆ ☆
前日のこと。千春は真紀が獣人たちに連れられて行くのを、少し憧れの気持ちで眺めてから、ゆっくりと宿に向かった。
いつだって真紀は、男女関係なくみんなの中心にいる。それは真紀がもともと人と壁を作らないせいでもあるし、いわゆる女っぽく見えないせいでもある。少し引っ込み思案で、どう頑張っても逆に女扱いしかされない千春にとっては、それはうらやましいことだった。
男女間でだって、友達であってもいい。今、千春も真紀も聖女として忙しく働かされてはいるけれど、仲間と呼べる人が何人もいて、なんでも恋愛に結び付けずに暮らしていけることがどんなに楽しいことか。
今はこうやって真紀が人の中心にいるのを、引け目を感じずに眺めることができる。もうすぐ宿だというところで、千春はもう一度真紀のいるほうを振り返った。うん、明日からも一緒に頑張ろう。
その時、ばさりと羽音がした気がした。なんだろうとそちらを見ようとした途端、ふわりと何かの布をかけられた。これは人魚にもらった水蜘蛛の布に似ている、と思っている間に、その布の上からさらに厚手の何かを巻かれた。
「ちょっと! なに?」
さすがに驚いて声が出たが、毛布ごとぐいっと縦抱きにされた。
これは新しいバージョンだ。一瞬そう思った千春は、きっと昨日の熱が残って疲れていたのに違いない。ここまで本来しなければならないことは、大声で叫ぶことだったはずだ。
やっとここに来て千春はぎゃ、とかぐえ、などと声を出して暴れ始めたが、千春を抱えた誰かはそれをものともせず、千春をどこかへ運んでいく。
「さ、ここに」
小さいがこの声には聴き覚えがある。千春は何かにそっと座らされたが、千春を運んでいた人はそのまましばらく手を放さず、千春が少し静かになったところでこうささやいた。
「お前、昨日熱が出たんだって? それなのに、こんな遅くまで働かせて。サウロ、前は自由でほんとにいい奴だったのに、今は率先してお前たちを働かせてる。こんなの間違ってるだろう」
この声はあれだ。茶色の羽の、早口言葉のような名前の鳥人。そう、ネモとモア。お風呂を覗いた奴らだ!
そんなの間違ってるって、だけどそうしなかったら荒れたゲイザーが獣人領にあふれてしまうではないか。
「俺たちがお前たちを自由にしてやる。少しの間、我慢してくれ」
声は千春から離れて、千春が毛布を出ようともがいている間に、かちゃりと鍵がかかった音がし、ふわっと浮き上がった。浮き上がった?
「これ、来るときに乗っていたかごじゃない? まずい、私さらわれてる?」
千春は今頃気が付いた。確かにこの世界に来てからさらわれることが多かったが、だからと言ってまたさらわれるとは思いもしなかった。
「真紀ちゃん、助けて、真紀ちゃん!」
しかし声は毛布越しではくぐもってほどけない。それにしっかり巻かれているせいで、腕を動かすのも難しい。その間にも、どうやら空を運ばれている気配がする。箱型に作られたかごは空気を通さず、寒い思いをすることはなかった。しかし。
「言ってもいいですかね」
千春は誰もいないかごの中で、毛布にぐるぐる巻きに去れながらぶつぶつつぶやいた。
「飛ぶのがへたくそなんだよ! さっきからがくがく揺れるし、上がったり下がったりだし、さらおうと思うんならちょっとは練習しようよ!」
しかし、ぶつぶつ言ったところで鳥人には聞こえないし、急に鳥人が上手になるわけではないのだった。
「そうだ、何かを、何かをできないか、ええと、前は人魚のうろこを落としたりしたけどそもそも腕を外に出せないし、うろこは大半売っちゃったし、そもそも今ポーチを持ってないし。前ぐるぐる巻きにされた時は真紀ちゃんが一緒だったし、真紀ちゃん、そうだ! ゲイザーだ!」
やっとそれを思いついた千春は目をつぶって心の中に集中した。
「やばい、目をつむって下を向くと具合が悪くなる。ええと、まず上を向いて……」
毛布の中で上を向いて、目をつぶってゲイザーに呼びかける。
愛し子よ!
いた! すぐ後ろ? 隣? 私が焦って何もできないでいる間に、ゲイザーがついてきてくれていたの?
本当は愛し子と呼ばれたのかどうかもわからない。しかし、千春に一生懸命声をかけてくれていたのは確かなのだ。
「ゲイザー、ゲイザー、私、今、毛布に巻かれて、空を飛んでいるの。外から見てどうなっているかわかる?」
大きな鳥人の影が二人分、そしてその二人の外側にもう二人、月明かりはかすかなのでその色や顔かたちまではわからない。今は黒々とした森の上を飛んでいるようだ。
ゲイザーの焦ったような声が聞こえてくる。我らは、鳥人にずっとついていけるほど早くはない、早晩置いていかれる。愛し子よ、鳥人を弱らせたいか。そうゲイザーが伝えてきた。怒りの感情と共に。
「弱らせる? ううん、ううん、それはしてはだめ」
千春はゲイザーが着いてきてくれている嬉しさと同時に、恐ろしさも感じ、背筋が寒くなった。私が今一言、うん、と言いさえすれば、着いてきているゲイザーが鳥人を取り囲み、命を吸い取ってしまう。いや、違うのか、瘴気をまとわせて弱らせてしまうのだ。それはしてはいけないことだろう。
できるだけ着いていく、しかし、もし我らが離れてしまったら、その土地のゲイザーと心通わせて……。
何体もいたはずのゲイザーの、気配が一つずつ遠ざかっていく。心をずっとゲイザーとつなげていた千春は、昨日の熱の疲れと、毛布にぐるぐる巻きにされていることに疲れて、いつの間にか眠ってしまっていた。
愛し子よ。たった一言、うんと頷くだけでいいのに……。
やがて砂浜でいったんかごを下ろした鳥人は、千春が眠っているのを見ると、そっと毛布でくるみなおし、交代して夜の海へと飛び立った。後ろからついて来ているゲイザーにも、海から彼らを見上げ、ついて来ているものにも気づくこともなく、聖女を自由にしてやれる高揚感に取りつかれたまま。
次は水曜日に更新します。さて、10日はぶらり旅3巻の発売日でした。3巻ともなると本屋さんにはないことも(涙)そんな時はネットで!あるいは電子書籍で!という手もありますよ(๑•̀ㅂ•́)و✧
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