その優しい手で
「おいで」
と真紀と千春が呼びかけても、しばらくは何も起きないように見えた。
緊張する兵から、少し力が抜け始めた時、誰かがそれに気づいた。
「う、うわ」
決して大きくはない声だったが、その声を発した兵が見ていたのは明かりが届かない夜空で。
夜空の星をさえぎるように、黒々と影を落とすのは。
「ゲイザーだ……」
「大きいぞ」
「なんて数だ」
エルフの人々には、夕には綿毛で埋め尽くされていたきれいな空が、今はまるでゲイザーで埋めつくされているように見えた。
もっとも、エドウィとエアリスは知っている。ダンジョンから魔物があふれた時はこんなものではないということを。アーロンも同じだ。内陸の鏡の湖のほとりで見たゲイザーたちは、もっと数が多くて、もっと勢いがあった。このゲイザーたちは、静かだ。そう、例えるなら人生を終わりかけている、老人のような。
その時、かすかに弓を引き絞る音が聞こえた。身近にある恐怖に耐えられなくなったのだろう。
「やめて」
その時静かに真紀の声がした。千春は魔物に集中している。魔物をその目にとらえ、千春に寄り添い、そのうえ周りの状況にも注意を払うその真紀の姿は、聖女でありながら守護の騎士のようでもあった。
「やめろ」
同時に指揮官と思われるエルフの声も上がった。弓を弾いていた兵ははっとして弓を引くのをやめた。
その静寂の中、千春の声が響く。
「そう、ダンジョンからでてきたの」
ダンジョンは、せまかった。あまりにもたくさんの仲間がいた。いつの間にか押し出されて、広い場所に出たんだ。
「少しはいろいろなものを見られた?」
見た。明るくていろとりどりのものたちを。暖かい生き物を。そしてさっき、小さな仲間たちを。
「仲間? マンドラゴラね」
地を行くもの。空を舞うもの。神の生み出した最初の生き物たち。
「綿毛もそうなの」
周りにはゲイザーの声が聞こえない。まるで夜空に向かって千春が独り言をつぶやいているかのように見えている。
小さな仲間たちは命の営みに戻っていったよ。
「じゃあ、あなたも魔石に戻りたい?」
そう。すごく疲れたんだ。戻らせて。優しいあなたたちの手で。
千春は真紀と目を合わせて頷くと、つないだ手をそっと離した。エアリスもアーロンも、そしてエドウィもそれを見て兵のほうに振り向き、手を開いて両手を上げた。手を出すなという合図だ。
やがて静かにゲイザーが下りてきて、千春と真紀の手に甘えるように、すり寄るように列を作る。
しゅっと巻き戻るかのように姿を消すゲイザーに、兵たちがひゅっと息をのむ音がする。
からん、からんと石畳に魔石が落ちていく。一体ずつに、話しかけるように優しく、聖女の手が魔物を魔石に戻していく。そして時折額から、柔らかに明かりをはじいて聖女の魔石が落ちていく。それはとても美しく、神秘的な光景であった。
「おお」
思わず一人がひざまずくと、兵たちは弓を傍らに置き次々とひざまずき始めた。
「ちっ、それでも城を守る兵か!」
先ほどの指揮官が舌打ちし、油断なくゲイザーのいる上空を見張るが、はたして兵を鼓舞して守備に回すのが得策か、それとも聖女への畏敬の気持ちを優先するべきか迷う。それでも幾人かの兵が聖女を見守りつつしっかり弓の準備を怠らず、しかも残っているゲイザーの数が少ないのも見て取り、様子を見ることにしたのだった。
しかし、あの聖女。指揮官の目は背の高いほうの聖女に向いた。ゲイザーを魔石に戻しつつも、周りへの注意も怠らない。兵がひざまずくのもとらえていたし、弓を構えている兵も目の端で確認していた。
役割分担か、あるいは守るべきものを持った強さか。おもしろい。
と、夜空にはもう、魔石に戻すべきゲイザーは残っていないかに見えた。
「あれ、君」
真紀の声が響く。その視線の先にいるのは、今までの大きいゲイザーではなく、ちいさい、綿毛ほどのゲイザーだ。
「ミッドランドで会った子だよね」
そのゲイザーはくるり、と回った。
「ああ、やっぱりそう。少し大きくなったね」
真紀がそう声を掛けると、ゲイザーはくるり、くるりと二回回ってこう伝えた。
いい昼だ。そしていい夜だ。たくさんの命が巡り巡ろうとしてるから。
「あら、大きくなっただけでなく、少し賢くなったんだね」
ゲイザーは得意そうにもう一度回ってみせた。
あなたたちがおもしろいから、ついてきた。そしてたくさんの仲間を見た。鳥人を追いかけて、山も越えた。そして大きな水も越えたんだ。
真紀は千春と目を合わせ、くすくすと笑った。
「じゃあ、もう十分見たの?」
まだだ。まだきっとおもしろいことがたくさんある。
「まだ戻らないのね」
戻らない。暖かいものにも寄りついたりしないよ。
「お利口ね」
じゃあ、行くね。
ゲイザーはくるりと回ると夜空に消えていった。
「なぜ逃がす」
思わず指揮官は声を上げた。
「なぜ野にゲイザーを放つのだ」
真紀が振り返り、指揮官を見て首を傾げた。
「あれは暖かいものには寄りつかないと言った。まだ見たいものがあるから、魔石には戻らないって」
「しかし」
「気持ちはわかるけれど、私たちは魔物を退治しているんじゃないの」
指揮官の目は魔石の落ちている石畳に向けられた。これを退治でなくてなんというのだ。
「ダンジョンから迷い出て疲れている魔物を、命の輪に戻す手伝いをしているだけ。魔物の願いを聞いているだけなの」
「魔物の願いだと」
「魔石に戻りたいと、そう願うから。だから魔石になりたくないという魔物を無理に戻すことはしない。もっとも」
真紀は指揮官の目をまっすぐに見てちょっといたずらに微笑んだ。
「戻りたくないと言った魔物はあれが初めてだけれどね」
そう話す背の高い方の聖女は、夜空に溶け込むような黒髪を夜風に揺らし、夜そのもののような瞳が、明かりを受けてきらめいている。美しい。
「どうしました、ハウ」
「何でもない」
ずっと油断せずに警戒を続けていた部下にそう声をかけられると、ハウと呼ばれた指揮官は真紀から何かを振り払うかのようにかすかに頭を振ると、
「残ったゲイザーがいないか警戒! 八班に分かれて探索!」
そう指示を出した。
「いないと思いますよ」
千春がそう言うと、指揮官はわかっていると頷いたが、そのまま捜索は続ける。その言葉が事実であっても、それが彼の仕事だ。あとは聖女の警備のためにも二人に話を聞かなければならない。
「さ、一仕事終わりっと」
「明日のために休もうか」
そう気軽に言ってしまう聖女二人は、この奇跡の出来事を、まるで毎日の何気ない仕事のように終わらせる気だ。あっけにとられ、一瞬何も言えなかった指揮官も含め、周りの人みんなに、
「おつかれさまでしたー」
「おやすみなさい」
と気軽に声を掛けてさっさと城に戻ろうとしている聖女二人。あまつさえエアリスやアーロンもそのまま戻ろうとしている。待て待て、事情も知らせずいきなり警備に出された挙句これはない。
「いや、待ってくれ! 説明を求める!」
「明日じゃだめ?」
そういう問題か! これが指揮官ハウの今日一番の衝撃だったかもしれない。
5月10日2巻発売です。大手の本屋さんではもう少し早いかも!




