撤収
人魚の長はすでに部屋を出ていたが、ノーフェとシュゼの声に真紀と千春を両側に従えたまま振り返った。
「幼子よ、数日世話になった。そろそろ帰る。今度は人魚島で会おう」
そう言うと、くるりと湖に向き戻り、一歩踏み出そうとした。
「待って、待ってください。まだ話は終わっておりませぬ。王都へと招いていたはずです」
「断った」
「しかし、もう一日考えてくださると」
「言っていない。もう飽きたのだ。海に帰る」
ノーフェの懇願をことごとく払いのけて、長はまた歩き出した。
「ローランドの少年、が二人? なぜここにいるのです」
シュゼの小さな声がした。その声にノーフェは少し落ちついて周りの状況を見ると、長は尾びれはどこへやらすたすたと歩いているし、その両脇にはロ-ランドの少年を二人抱え込んでいる。それを先導するように大人の男が二人、窓の外で待っている。
「警備の者はどうした! そうか、洞窟のほうに」
自分で納得したノーフェは、廊下側に向かって叫んだ。
「人魚の部屋に、くせ者である! 兵を集めよ!」
さすがに王子付きの護衛は洞窟に行っていなかったようで、兵を手配するものが走っていった他に二人ほどノーフェの前にでた。しかし、その動向をのんびり見守っている場合ではないくらいには緊急事態であることは長もわかっていた。無言で湖のほうにすたすたと歩いている。
「待て!」
待てと言われても待つ人などいないのだということを、千春は今実感している。
「アミア、そろそろ離して。足手まといだし、私たちは私たちで鳥人に運んでもらうから。ほら、お迎えが来た!」
千春がアミアに話しかけている間にも、湖から次々と人魚が上がってくる。
「サイアめ、余計なことを!」
「黙っていなくなったら心配するものでしょ! アミアが反省しなさい!」
「ちっ」
舌打ちした! 千春はそのわがままっぷりにむしろ感心した。そこに大きな犬人が四人、陰から飛び出してきた。
「いつまで聖女を抱えている。とっとと離せ。そして早く湖に戻るがいい」
灰色の大きな犬、これはザイナスだ。珍しく言い方がきつい。千春と真紀がハッとしてザイナスを見ると、
「洞窟に本当に魔物が出たのだ。おかげでこちらに兵が戻る余裕がないはず。今のうちに、さあ!」
そのザイナスの声に長は渋々と真紀と千春の背から手を外した。
「長殿!」
護衛を振り切って外まで出てきたノーフェが声をかける。アミアはゆっくりと振り向き、ノーフェと目を合わせた。と、犬人と向かい合うような場所に、夜目にも真っ白な羽根がばさりと舞い降りた。その後ろにも次々に茶色の鳥人が舞い降りてくる。
「なんだ、鳥人? それにその大きな犬は、獣人ではないか! なぜここにいる?」
さすがに驚いて立ちすくむノーフェが長を見やると、長の背後にはおびただしい数の人魚が陸に上がってきている。
拝啓、日本のお兄ちゃんたち。真紀は異世界で元気に暮らしています。ラッシュは元気かな。
今ね、にぎやかな場所にいるんだ。おかしいなあ。長の、アミアの情報を、水からではわからない情報を、こっそりと探るだけの簡単なお仕事のはずでした。もしかしたらローランドの人を少しだけ巻き込むかもしれないけれど、そこは目をつぶってもらって、何日かで情報を探って、そっと戻る。そんな予定でした。
でもね、なんか鳥人がいっぱいいて、犬の獣人もいて、そうそう、ラッシュによく似ていてね、それからものすごい数の人魚がいて、あと、王子さま? 三人もいるんだ。それにお姫様が一人。頭大丈夫かって? ほんとだよね。
「真紀ちゃん、しっかりして!」
「千春……」
「結構非常事態だよ。魂飛ばしてる場合じゃないよ!」
ちょっと現実逃避しかけていた真紀は、千春にがくがくと揺さぶられて、はっと戻ってきた。そのとたん、獣人全員が空を見上げた。
「ゲイザーだ……」
「なんてことだ!」
ゲイザーを追って、兵も洞窟の方面から何人もやってきて、この場のようすを見て立ちすくんだ。
「なんだこれは……」
全員が固まって何もできないでいた。誰か一人でも動いたら、均衡が崩れる。早く脱出しなければならないのに、緊張した時間が過ぎていく。
最初に動いたのはゲイザーだった。
真紀と千春には、魔物が二人を認識したのが伝わった。喜んで二人のもとに寄ろうとする魔物に、そうと気が付かない兵が切りかかる。
「待て!」
その少年にしては高く優しい声は、しかし凛と夜空に響いた。千春だ。
「ゲイザーは上のほうで待機!」
待機の意味を知っているのかどうか、しかし千春の声に従って、魔物が少し上で寄り集まる。
「アミア、行って!」
「しかし」
「あなたが行かないことには何も解決しないの!」
アミアは千春と真紀のほほにそっと手をやると湖に去っていく。人魚は一人また一人と長に従って数を減らしていく。
「アミア様!」
シュゼの切ない声が響く。アミアはその声に振り向くと、
「幼子よ」
と大きい声を上げた。
「湖にたくさん網を仕掛けるのはやめておくれ。そうすればまたいつか」
そう言うと、微笑んで湖に入っていった。いつかは湖をまた訪れよう。そんな約束だった。
湖に最後の人魚の一人が入るまで何となく見送ってしまったが、真紀と千春のそばに見覚えのある白い羽が近づいた。
「さあ、帰ろう」
「さあじゃないし。目立つから来ないって約束だったでしょ」
サウロに思わず言い返した千春だったが、ノーフェも同時に鳥人の正体に気づいた。
「お前、ミッドランドの鳥人だな! 獣人と言い、さてはこれはミッドランドの差し金か!」
ほら、目立つから! 千春はイライラした。
「俺はミッドランドの鳥人ではない」
サウロは短い髪をさらりとかき上げてそう宣言した。そんなこと信じられるか! 千春の心の中の突っ込みと共に、ノーフェも怒りの声を上げた。
「信じられるか。ミッドランドの城付きの鳥人だろう。よく聖女と一緒にいて働きもせず遊びほうけていた」
「お前、そう言えばあの時の失礼な王族か」
「なっ」
むしろ認識されていなかったノーフェは怒りで顔を真っ赤にした。それ以上何も言わせず、サウロはばさりと大きく翼を広げると、こう宣言した。
「我らには国境など意味はない。ハイランドには観光に来ただけだ」
「俺もだ」
「私もよ」
白と茶色が入り交じってそれぞれがそう主張した。
「では犬の獣人は何の目的だ!」
ノーフェの言葉に、
「観光だ」
「観光だな」
犬人もそう返事をした。
「では、そのローランドの少年は?」
そんな馬鹿なと思いつつも、思わず詰まったノーフェに代わって、シュゼが小さい声でそう聞いた。
「家出だ。迎えに来た」
「でもみかんを売っていたわ!」
「家出をごまかすためだな」
そう言い張るサウロに、真紀と千春は怒りが爆発しそうだった。確かに本来の目的地であるエルフ領行きの途中に抜け出した。みかんは目的をごまかすため。サウロの言うことはあながち間違ってはいない。しかし、大量の鳥人に迎えにこられる家出ってなんだ。
「しかし、鳥人に迎えに来られる家出など……」
さっきから実は真紀は思っていた。この中で一番共感できる、まともなことを言っているのは、ノーフェではないか。しかし、鳥人はそれを黙殺した。
「さて、それでは家出の子どもを連れ帰るか。ハイランドは実に風がいい!」
そう高らかに宣言すると、真紀と千春、それにエドウィとアーロンを抱え上げてさっと飛び上がった。
「上昇気流が最高よ!」
「今度は王都に遊びに行くぞ!」
他の鳥人も口々にそうノーフェに話しかけると、次々に飛び上がった。
「あっ」
その複雑な羽根の起こす風で、どんなに訓練しても大丈夫だった千春のかつらが飛んだ。千春の長い髪がふわりと空に舞う。ノーフェはそれを見てハッと気が付いたようにこう叫んだ。
「お前は! みかんの娘!」
違うから! いや、そうだけれど、違うから! 千春の声なき叫びがゲイザーをざわめかせる。
「違う! いや違わない? その黒髪、聖女か!」
自分で間違いに気づいたノーフェだった。そりゃばれるよね……。一瞬ノーフェの驚愕に見開かれた目と視線が交わった気がしたが、千春と真紀は鳥人に連れ去られ、後を追ってゲイザーもまたいなくなってしまった。
そこにはさっきまであったざわめきは何もなく、ただ茫然とした兵と、ハイランドの王族が立ち尽くすのみだった。
さあ、撤収だ!
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