落ちた日
五月の連休も過ぎた金曜日の午後7時、千春はデスクを手早く片づけ、帰りの支度を始めた。
「あれ、麻生さん、めずらしいね、定時なんて」
「今日は友だちと飲み会なので」
「そんなこと言って、彼氏じゃないのかい?」
「ははは、そうだといいんですけどねー、お疲れ様でしたー」
「お疲れー」
千春は主任の発言を軽く受け流し、少し急ぎ足で外に出た。これからバスに乗って最寄りの駅に向かう。そこで同期の相田真紀と待ち合わせだ。
千春は物流の会社に勤めて3年目で、営業事務をやっている。多少残業があってもブラックではないよい会社なのだが、いかんせん勤務先が倉庫の多い工業団地で駅から遠い。この春から別の事務所に転勤になった真紀とは一ヶ月ぶりの飲み会だ。
最寄り駅についた千春は、初夏と言うにはまだ肌寒い夜の風に、やわらかなピンクのカーディガンの前をきゅっと合わせた。優しい花柄のスカートをふわりと揺らし、緩やかなウェーブのかかった髪をなびかせて待ち合わせ場所に急ぐ千春に目を止めた男は多かったが、今日も含めて千春はついぞナンパに遭ったことがない。そのためあんまりもてないと思っている千春だが、たまに告白してくる男性はすべて結婚前提なのが重い。つまり見た目が箱入りすぎて気軽に声をかけづらい人なのだった。
と、ライオン像の前に、待ち人がいた。黒のパンツスーツを着ていて、きれいな黒髪を肩にかからないくらいにそろえている。相変わらずかっこいいなあと千春は胸が暖かくなる。
「真紀ちゃん!」
「千春!」
自然と笑顔になる。麻生千春。相田真紀。親しい人には名前で呼ばれている。同期入社の二人は、なぜだか気があって、二人とも酒が強いとわかるとさらに親密になったのだった。明るくてきりっとしているのに面倒見のいい真紀が実はのんびりだったり、ゆるふわで優しげな千春が中身がブラックだったりと、そんな組み合わせもよかった。それ以来こうして飲みに行ったり、時には旅行に行ったりする仲良しなのである。
すぐそばの居酒屋に入ると、個室風の席に案内された。今日の主旨から言って好都合だ。
「千春、何にする?」
「んー、とりあえず芋焼酎、ロックで」
「ぷはっ、相変わらずかっこいいな、いきなり焼酎とは。しかもロックだし。じゃああたしは純米吟醸、マスで」
「はあ、真紀ちゃんこそいきなり日本酒……純米吟醸って……いいな、この店のラインナップ」
店員さんの顔が引きつっていたような気がしないでもない。いいんだ。今日は。千春も真紀もそう思った。
「じゃあ、乾杯しますか」
「おう、じゃあ、古典的なやつでね」
「おっけー」
「「ふられて乾杯!」」
かつん。グラスとマスで乾杯だ。
「ちくしょー、確かに社会人になって会う機会は減ったよ? でもさー、もう付き合って5年目だよ? しかもお互い社会人として大切な時期じゃん。仕事一生懸命にしていて何が悪いんだよー」
「そうだそうだー」
「毎日毎日営業で靴をすり減らしてさ、疲れて家に帰ってさ、ご飯作って癒してほしいのはこっちだっつーの」
「そうだそうだー。あ、店員さん、次レモンハイボールで」
「あ、あたしもそれで。会いたくても我慢してさ、でも営業だから休みはすれ違うしさ」
「そうだそうだー、あ、厚焼き卵で」
「あ、タコやき明石風で。あと大根サラダ。それなのにさー」
真紀はさっそくくだを巻いている。
「わかる、わかるよ真紀ちゃん。彼氏の言ったこと当ててみようか、あ、彼氏じゃないね、馬鹿れ氏か」
「千春……さっそく黒いよ……」
「君は一人でもやっていけるよ。でも彼女は一人ではやっていけないんだ。俺が支えなきゃ……」
千春は身ぶりを付けてそう言った。
「……当たりだよ、千春……悪魔?」
「いやそこは神だろ」
「ナイス突込みだよ」
「な? 一人でもやっていけるように努力したんだっつーの! それが仕事を持った社会人っていうものだろう。違いますか、真紀さん」
「は、違いません」
「ほんとは甘えたいのを我慢してがんばって仕事をしてたんです。それが正しい社会人だろう。違いますか真紀さん」
「は、違いません。ちなみに、私これできないんですうって甘えまくって、実家暮らしで、定時に仕事を残していく新人さんを、支えなきゃっておかしくないですか? 千春さん」
「は、おかしいです、真紀ちゃんさん」
「や、そこは真紀さんで」
「そうだった」
二人はテーブルに突っ伏した。要するに、二人とも、この春入社した新人さんに彼氏をとられたばかりなのだった。何でチューター制度なんてものがあるんだろう。いや、先輩が後輩に仕事を教えるいい制度なんだけど、カップル成立率半端ないんだ、これが。千春はさらに言い募った。
「まださ、結婚とか早いって思うのに、早く結婚したいってせかしてきたのはあいつなんだよ? 確かにまだ早いとは言ったよ。けど、千春には家にいてほしいなんて、ごめんこうむるね!」
「千春は見た目守ってあげたいタイプだからね」
「まだもう少し仕事をしたいって思ったっておかしくないでしょ? まだベテランでさえないんだから」
「仕事、大変だけどおもしろいしね……」
「うん……。今度は仕事も人生も支え合える人を好きになる」
「うん。うん。あいつなんか、新人ちゃんに甘え倒されて倒れてしまうがいい!」
「ふふふ……」
「ど、どうしたの」
「真紀ちゃんの彼氏はわかんないけどね、私の元彼のね、新しい彼女ね」
千春はハイボールをグイッと飲みほした。
「店員さん、赤ワイン、デキャンタで!」
「行くねー、混ざりすぎじゃない?」
「グラス二つで!」
「私もか!」
「でね」
「ああ、戻るのね……」
「持ってるものや着てるものがね、ブランドものばかりなの」
「ほほう、千春、すなわちそれは?」
「二割逆玉、八割食いつぶされるとみた」
「ばかだね、彼氏」
「元彼な」
「はいはい」
「食いつぶされてしまえ!」
「そのとーり!」
デキャンタは空けた。本来そのくらいで酔う二人ではなかったが、ピッチが速すぎた。
「次行こうぜー、次!」
「いえーい」
元彼なんてもうどうでもいい。酒と友だちがいればさ。二人は酔っ払って腕を組んだままご機嫌で店を出た。
そして落ちた。
新人は残業させないのが普通だと思いますが、初日から残業させられたとのニュースも出ていましたね。筆者は一人暮らし、実家暮らし、寮暮らしにかかわらず、すべての新社会人を応援しています。