雨降る日の君へ
始業式の日から雨とは今学期はついていないのかもしれない。そんなことを考えながら、帰り道を歩く。いつも隣にいる騒がしい友人は部活へ行った。
「運動部って大変だよな……」
体育館を見ながらそう呟く。我が写真部は今日のミーティングはなし。次のコンクール用に各自撮影だった。学校は午前中で終わったから、どこかに写真を撮りに行こうかと思っていた。
「雨だし、どうするか」
薄暗い空を見上げる。小雨ながらも止むことがなさそうな空。傘をさしても濡れることにイラつきを感じる。さて、傘を片手に撮影の旅に出かけるか、大人しく帰るか。水たまりを見ていた視線をふっと上げる。学校近く、アパートの階段下。屋根があるその場所に彼女はいた。
少しだけ走る。傘をしっかり持って。
「どうかした?」
困り顔で空を見る女の子。彼女のブレザーに輝く校章は同じ赤色。同じ学年のはず。
「あー、傘がね」
一瞬驚いた顔をして、恥ずかしそうに言う。
「壊れたとか?」
横に並んで傘を閉じる。
「いや、帰ろうと思ったらなかったの。誰かが間違えたんだろうね」
「あ、よくあるやつ。で、どうやって帰るつもり?」
「お母さん待ちかなー。さっき電話したら迎えに来てくれるって」
小さく笑う彼女から目が離せないのはどうしてだろう。
「それまで、来るまでしゃべらないか?」
絶対に声小さい。緊張する。これだけなのに。
「いいよ。暇だったから!」
「俺、水瀬総士。写真部」
「海野君花です。家庭部だよ」
二人で雨を見ながら、雨の当たらないこの場所で話す。ほとんど部活の話。俺の写真の話。彼女は、海野は静かに付き合ってくれた。ほんの十数分、笑い合った。
「あ、きた」
その言葉に、彼女の視線を追う。そこには一台の車。
「あ、向かいの道か。傘入っていくか?」
「えっ?」
顔を真っ赤にして、勢いよく俺の方を向く。
「雨、濡れたら大変だろ」
パン、と傘を開いて、入るように促す。
「うー、ごめんね。一緒に待っててもらったし、傘入れてもらっちゃって。お腹へったでしょ?」
ふっと腕の時計に目をやると昼の時間は過ぎ、一時をまわっていた。
「気にしなくていい。ずっと俺が写真の話してただけだし、学校終わるのも遅かったし。話、つまんなかっただろ?」
「全然、そんなことなかったよ!」
必死そうな顔で否定する彼女はとてもかわいく見えた。道路を渡り、車のドアを開けて。
「ほんとにありがとう、水瀬くん。おかげで楽しかった!」
「いや、俺こそ。それじゃ、またな」
手を振り、歩き出す。
「あの笑顔、かわいすぎだろ」
つい声になった言葉に苦笑し、彼女の名前と顔をもう一度思い出す。赤い頬を隠してくれる傘に感謝した。
また雨の日。写真のコンクールが近づいているのに、納得する写真を撮ることはできていない事実にイライラする。
「くっそ……」
昼休み、職員室の帰り。先生の言葉が頭から離れない。
「また風景だけかー。人を撮れ、人を」
ものに当たりそうになる衝動を抑えて、教室に帰る。
「あ、おかえりー」
教室で俺を迎えてくれたのは海野だった。彼女は俺の席に座っていた。
「なんでここにいるんだよ」
あ、と思った時には言葉が出てしまっていた。
「お茶会、しよ」
にっこり笑って水筒と保冷バッグを机の上に置く。会う度に話す海野とは、写真のおかげですっかり仲良くなっていた。
「あったかい紅茶と、今日はマカロンです!」
どやっと言わんばかりの顔。その顔にだんだん落ち着いていく。
「マカロンって作るの難しいって言ってなかった?」
「頑張ったの! 甘いもの好きって言ってたでしょ?」
「好きだけど、わざわざ申し訳ないなと思ってさ」
「この前の傘のお礼だから気にしないでいいよ」
彼女はしゃべりながらも、てきぱきと用意する。良い香りのする紅茶に色鮮やかなマカロン。他の奴らの声も気にならない、二人の空間みたい。
「さぁ、どうぞ!」
紅茶の入っている紙コップを手に取ると伝わる温かさ。さっきのことなんて、もうどうでも良くなってきた。
「うまっ。紅茶うまい!」
「マカロンも食べてー!」
綺麗な黄色のマカロン。ぱくっ、と一口。
「こっちもうまい!」
あまりにもうまくて、すぐ一つ目を食べきってしまう。
「水瀬くんって幸せそうに食べるね」
「ん?」
「ものすごく嬉しい。私の作ったもので幸せになってくれるの」
俺の食べる様子をじっと見つめていた海野は、小さくそう言った。
「俺さ、さっき先生に嫌なこと言われて、すごくイライラしてたんだけど、海野のおかげで吹っ飛んだ。ありがとな」
目を丸くして、驚いた顔。まばたきした次の瞬間には笑顔に戻っていた。
「それなら良かった! 残ったら持って帰ってね!」
そう言う彼女はかわいかった。とってもかわいかった。
その日、放課後には雨が止んでいた。雨上がりの空。海野と一緒に帰る約束をした、少しだけいつもとは違う日。
終わるのが早いうちのクラス、終わるのが遅いという噂の海野のクラス。待っている間、教室でカメラを眺める。
「ごめん! うちの先生、終わるの遅くて……」
「いいよ、部活ないし時間はある」
「あ、カメラだ。どこか撮りに行くつもりだった?」
「いや、先生にデータ提出だから持って来てただけ。ほら、帰るぞー」
カメラを鞄に入れて、自分の席から立つ。
「寄り道しない? 時間あるんだよね?」
「いいけど、どこ行くんだよ」
「いいからついてきて!」
俺の手を取って、どんどん進む海野に大人しくついて行った。ゆっくりと雲は動き、青空が顔を見せ始めた。
下駄箱で離れた手。海野の手、温かかったな、なんて思いながら靴を履き替える。
「ごめんね、急に手握っちゃって」
「ん? 全然いいよ」
申し訳なさそうに目線をそらす彼女。ちょっと恥ずかしかったけど、気にしてないふりをする。
「ほら、どこ行くんだー。連れて行けー」
ふざけて笑いながら言う。手には初めてしゃべった時と同じ黒い大きな傘。彼女は新しそうな水色のかわいい傘。
「よし、行くよー」
笑った顔、やっぱりかわいい。
着いたところは俺の知らない空間だった。学校の近く、田畑が広がっている。雨の雫が葉に残り、夕焼けが輝きを与える。
「なんだよ、ここ……」
「綺麗でしょ。たまたま見つけたの。ほら、何か得られる気がするでしょ?」
いたずらが成功した子供のように無邪気に笑う。
「写真、撮らなくていいの?」
まさか、分かって連れて来た……?
「あぁ、撮るよ。ごめん、先帰ってもいいから」
「待ってる。好きなだけどうぞ!」
何も考えずに撮った。雨の置き土産も、田畑の端にいたカエルも、空も。ピントが合っているように見えても合っていないことがあるから、同じ風景を何回も撮り続けた。
気付けば暗くなってきていて、きょろきょろと海野を探す。彼女は撮り始めた頃と変わらず微笑んでいた。
「ごめん、待たせて」
「いいよー。水瀬くんの撮ってる姿、観察するのも楽しかったし」
「帰るか」
カメラは首にかけたまま、歩き出す。久しぶりに良い写真が撮れたかもしれない。そんな嬉しさが心を占めていた。
「すごい嬉しそう」
「え?」
並んで歩いている彼女の表情をうかがう。
「昼休み、ほんと辛そうな顔してた。お茶会して、少しは楽しそうだったけど、まだなんか違和感あってね。ちょうど雨止んでたから、これは、と思って連れて来たの」
いつもと変わらない笑顔。俺のことを考えた言葉。頬が赤くなる。そこまで分かってたのかよ。
「そしたら真剣に写真撮りだして、良かったって思った」
一歩前に進んだ彼女が振り返る。
「ね、先生の言ってることなんて無視でいいんじゃないかな? 水瀬くんの写真、私は好きだよ」
顔を見て言われたことのなかったその言葉。
「空、影、花、木、日常。動きがないとか先生に言われたかもしれないけど、それでもいいと思う。賞とかに選ばれなくても、自分らしさ見失ったら終わりだよ?」
「そっか、そうだよな」
「うん」
その日の会話はそれで終わった。二人とも口を開かずに帰った。それでも沈黙は苦しくなかった。
終業式の日。また雨。今日は止みそうにない。
「失礼しました」
放課後、職員室の帰り。教室で待っている海野の元へ走り出しそうになる。早歩きだ、これは。走っていない。
「あ、おかえりー」
また俺の席に座っていた。
「ほらよ」
机に置いたのは一枚の紙切れ。そこに書かれているのは、
「おめでとう! すごいじゃん!」
「佳作だけどなー」
「それでも賞に変わりないよ!」
誰よりも喜んでくれると思った。実際に自分のことのように喜んでくれてる。そんな彼女を愛おしいと思った。
「なぁ、海野」
誰もいない教室に俺の声が響く。
「俺、やっぱりお前のこと好きだわ」
彼女の驚いた顔。感情出やすいな、なんて考える。
「私も、水瀬くんのこと、好き」
真っ赤な彼女の口からこぼれた小さな言葉。あ、これは俺の顔も赤いな。