前編
「リーナ……」
床に崩れ落ちた娘の体をしっかりと抱きとめた男が、その手を強く握り締め、すがるような声をあげた。少し離れた場所から、固唾を呑んでその光景を見ていた男達もまた、愕然とした面持ちを隠せないでいる。聡明なる大神官も、歴戦の勇猛な騎士も、偉大な魔法使いも、誰もが身動きひとつとれないでいた。
その時、まるで男の声が届いたかのように、閉じたままだった娘のまぶたがぴくりと震えた。
はっとした男の、娘の手を握る力が強くなる。
「リーナ!」
やがて緩慢に開かれた空色の瞳いっぱいに、目を見開いた金髪の男が映り込んだ。
娘の唇がたよりなく震え、ぎこちない声がそこから零れる。
「ダーヴェッティ殿下……」
男は更に大きく目を見開くと一瞬くしゃりと表情を崩し、それからそっと微笑んで、――娘の手を握る手から力が抜けた。
鏡の中に映るのは紛うことなき麗人だ。
少し目尻のあがった意思の強さを感じさせる瞳は、晴れ渡る空の色だ。その瞳を覆う銀色の睫毛は長く、同じ色の豊かな長い髪は、今は高く結われて星の髪飾りで華やかに飾られている。
ほんのりと青みがかった白いドレスは、裾にゆったりとしたひだを重ねたすっきりとしたものだ。後は細い腰帯を回し、青と銀の糸で飾り刺繍がされただけのドレスは、それだけを聞けば簡素だが、実際にははっとするほど目を引いた。上等な布地に丁寧な仕立て、施された刺繍は細緻を極め、それらすべてが、娘の華やかな、それでいて清らかな風貌をこの上もなく引き立てていた。
「お美しゅうございます」
背後に控えたメイドが、嬉しそうに賞賛する。彼女にも、他のメイドたちにも、美しい主人の最大の晴れ舞台を彩る手伝いが出来たことに対する誇らしさが、表情にありありと浮かんでいた。
「ありがとう」
「あっ、あのっ」
娘が微笑んだ時、一人のメイドが口を開いた。鏡越しに目を合わせると、緊張した顔できゅっと唇を噛んだ後、深々を頭を下げる。
「先程は、本当にもうしわけありませんでした」
すっと、困ったように娘の眉が下がった。
支度の最中、ひとつだけ小さな事件があった。櫛飾りを扱っていたメイドが手元を狂わせ、櫛歯で軽く娘の頭皮を引っ掻いてしまったのだ。更に悪いことに、焦ったメイドが急いで櫛を抜こうとした結果、髪の毛が二本も櫛に絡んで一緒に抜けてしまったのである。
場は騒然となり、髪飾り担当のその年若いメイドは顔の色をなくした。年長のメイドが慌てて謝罪し、そのメイドを退室させようとしたのだが、それを留めたのは他ならぬ娘自身だった。
「私が話していて身動いでしまったせいではありませんか。私のせいなのに、彼女が怒られるなんておかしいわ」
髪の毛など生えてくるものですし、たった一本なんてどうしたものでもありませんわ。――そう言って、そのまま同じメイドに髪飾りを扱わせたのである。
「むしろ私が大げさな声をあげてしまったせいだわ。もうちっとも痛くないのよ」
頭を上げたメイドに対し、それ以上の謝罪を押し留めながら娘はふんわりと笑う。
「聖女様……」
うっすらと涙ぐんだ侍女の瞳には、深い感銘と敬愛がある。それはまた、他の侍女達の目にもあるものだった。
その時丁度、扉の向こうから娘を呼ぶ声がかかり、彼女は椅子から立ち上がる。
貴族らしからぬ、しかし、何よりも聖女らしい慈愛を讃えた、月の女神が遣わした星の御子。
それこそが、聖女、エヴァリーナであった。
バルコニーに続く扉の前で、エヴァリーナはダーヴェッティと合流した。
「殿下」
エヴァリーナがドレスを摘み浅く腰を落とすと、ダーヴェッティも目礼で返す。
彼女が今日にふさわしい聖女としての完璧な装いであるように、彼もまたこの国の王太子としてふさわしい完璧な晴れ着をまとっていた。
「ラウリとマティアス大神官も」
ダーヴェッティと並んでいたのは、王国の第一騎士ラウリと、大神官マティアスである。彼らもまた式典用の衣装を纏い、それぞれの立場にのっとった貴人に対する完璧な礼をエヴァリーナに返す。
「お待たせしてしまい、もうしわけございませんわ」
「いや、よい。ラウリやマティアスと話をする時間を持っていただけだ」
「然様でございますか」
そう言って、エヴァリーナはラウリとマティアスに視線を合わせた。すると再びラウリは深々と頭を下げ、場を辞して職務に戻ることを短い言葉で詫びた後、二人に対して背を向けた。
「すまない」という声にエヴァリーナが目を戻すと、少し困ったようなダーヴェッティの顔がある。マティアスも元々下がり気味の眉を更に下げて、ラウリを見送っていた。
「愚直と、言うのでしょうがね……」
呟くように言ってから、エヴァリーナに向き直ったマティアスは穏やかに微笑む。
「大変お似合いでございます、エヴァリーナ様」
「どうもありがとう。先程メイド達にも散々褒められてきたところですが、神の美と讃えられるマティアス大神官にまで褒めていただけるのでしたら、少しは自信も持てそうですわ」
エヴァリーナがクスリと笑えば、マティアスも笑い返す。
「真なる美とは、心をこそ反映するもの。妙なる心を持つからこそ、今の貴方を誰もが羨むのですよ」
そうして眩いものを見る目でエヴァリーナをしばし見つめた後、マティアスは今日に対する祝辞を述べ、またの日を約束してその場を後にした。
エヴァリーナを姿勢を正し、ダーヴェッティを真っ直ぐ見上げる。目が合い、そして、一瞬の沈黙があった。
「……、エヴァリーナ」
「はい、ダーヴェッティ殿下」
「っ、――行こうか」
痛みの表情は幻のように消えた。
ダーヴェッティが差し出す手に、エヴァリーナが自らの手を重ねると、二人は歩を合わせてバルコニーへの扉をくぐる。
二人を出迎えたのは、莫大な歓声だ。国を、王を、王太子を、そして何より聖女を讃える声が、怒濤の震えとなって地上から立ち上る。
二人は微笑んで、大きく手を振った。歓声がますます大きさを増す。
ダーヴェッティは、エヴァリーナにだけ聞こえる声で語りかける。
「これが、俺達が成したことだ」
「ええ」
「俺達が、……いや、お前が成したことだ」
視線だけで、エヴァリーナはダーヴェッティを捉える。彼もまた、彼女を見ていた。眼差しを細め、慈しむような、愛しむような、懐かしみの顔をしている。
「私達が成したことですのね、ダーヴェッティ殿下」
虚を突かれた顔を、ダーヴェッティは一瞬で押し隠した。「ああ、そうだ」とだけ言って階下に目を戻すダーヴェッティを見て、エヴァリーナもまた再び民衆に笑顔を向ける。
――死ねばよろしいのに。
笑顔の下で、ただそうとだけ、エヴァリーナは思っている。
エヴァリーナが世間の言うところの、いわゆる「覚醒」をしたのは二年前のことだ。
伝承をひもとけば、元々聖女とは月の女神の娘であったと言う。闇の化身達の侵攻に対し、兄である太陽王の子孫たる人王の助けとするべく遣わした存在こそが、初代の聖女だ。以来代々、人の中に聖女の力は眠り続け、星の光を集めたような銀色の髪に、いずれ夜が明け晴れ空が広がることを予見するような澄んだ青い瞳こそが、聖女の力を受け継ぐ証であるとされている。
伯爵家に生まれたエヴァリーナは当代唯一の星の髪と空の瞳を揃え持つ娘であり、当時16歳にして既に聖術の才能は神殿にも認められていた。
またその頃、太古の封印が解け始めた結果、ほとんどお伽噺と化していた闇の脅威が人間の世界に押し寄せ始めていた。
しかし、エヴァリーナの聖術の才能は誰もが認めるところだったが、既に闇の侵攻が国の端を呑み込み始めていた当時でさえ、彼女はその聖なる力を闇に向けて振るったことは一度もなかった。なぜなら彼女は、聖女という名のアクセサリーを愉しむだけの貴族令嬢でしかなかったのだ。断固として王都から出ることを良しとせず、また悪しき意味で貴族らしい伯爵家もそれを容認した。
それが転じた日を、正しく知る者は少ない。ただ、エヴァリーナはある日聖女に覚醒したのではなかった。そうではなく真実は、彼女の身に聖女の魂が宿ったのである。
その身に宿る聖女の魂と体の主たるエヴァリーナを区別するために、真実を知る者達は彼女のことを「リーナ」と呼んだ。魂の主の本当の名前と偶然響きが似ていたことも幸いした。
聖女リーナは、はらはらと泣いた。泣いて、この世界を救うための尽力を誓った。原石でしかなかった才能はみるみる花開き、人嫌い貴族嫌いの大魔法使いパイヴィオにすら認められた。
エヴァリーナとリーナは全く違う人間だった。常識が違うのは文化だろう。しかしそもそも人間としての性質が全く違っていた。端的に言えば、優しかったのだ。思いやりと、慈愛が深かった。自己愛が強く、貴族以外を認めず、贅沢を愛する過去のエヴァリーナを、リーナは片っ端から変革していった。エヴァリーナに向けられる人々の目や思いが、徐々にではあるが変わっていくのは当然の経過だった。
まさに、リーナは聖女だったのだ。
当時まだ王子とだけ呼ばれていたダーヴェッティや、大神官を拝命したばかりのマティアス、ラウリ、パイヴィオ達と共に、リーナが闇を再び封じた時、太古の闇だけではなく、人の闇すら国からは払われていた。
闇のない長い太平の世は、人の中に闇を生んでいた。王国に根深く巣くう人の闇の根幹近くに存在していたものこそ、ヘルミネン伯爵家だった。エヴァリーナの生家である。
結果として、傍目にはエヴァリーナは自分の家を、両親を断罪する形となった。爵位は奪われ、ヘルミネン家は廃絶、その名は以後あらゆる書面から失われた。エヴァリーナと過去の記憶を共有したリーナによって内側から完全に、何一つ余すところなく暴かれた罪により当主たる父親は断首に処され、母親は全ての財産を没収された上で放逐されたが、その後ヘルミネンに怨恨を募らせていた人々に結局は命を奪われた。
家名を失ったエヴァリーナだったが、神殿が後ろ盾となり、聖女という実績ある地位は、むしろ彼女をかつてより高みに上らせた。
世界のために我が身を盾にして闇の化身と戦い、両親や家を失う辛苦を背負ってまでも人々のための平和を祈った聖女。
誰もが彼女を思って祈り、泣き、感謝し、そして、愛した。
聖女リーナが現れてから、二年が経った。
そしてようやく全てが終わったと誰もが思い始めたその頃に、聖女リーナの魂は彼女の世界に帰っていったのだ。
リーナが去った後、エヴァリーナの体には当然エヴァリーナの魂が現れた。
二年間の記憶が、エヴァリーナには全くなかった。ずっとぼんやりまどろんでいて、ただ普通に目が覚めたという気持ちでしかないと彼女は言った。
しかしエヴァリーナ自身に自覚は薄いようだったが、二年前の彼女と、二年後の彼女とでは明らかに変化していた。簡単に言えば、リーナに近くなっていたのである。
リーナではない。間違いなくエヴァリーナではあるのに、かつて彼女には微塵も見られなかった他者に対する思いやりや優しさというものが、確かに彼女の中には芽生えていたのだ。
マティアスやパイヴィオはこう言った。
「リーナの力が、エヴァリーナ様の魂の闇をもまた払っていったのですね」
「同じ肉体を共有してたわけだからね。リーナの聖女の力っていうか、性質かな、それがエヴァリーナの魂にも浸透したんだろーね」
それは説得力を持って、リーナを知る者達の心に落ち着いた。
空白の二年間を説明されたエヴァリーナは、周囲の者が恐れたほど取り乱しはしなかった。両親の顛末についても「それが罪に対する罰というわけですわね……」と沈んだ声で零したに留まった。闇が払われ明瞭さを増した魂には、正しさも真実も見えたのだろう。
聖女としての責務の継続を申し出たのはエヴァリーナだった。
「私がまがい物であることは、ここにいるどなたもが知ること。しかし、まがい物であることを、民達が知る必要はないのではないでしょうか?」
確かにエヴァリーナの意見は正しい。エヴァリーナの存在こそが、民の安心を保障し、彼らの心を束ね、国への信頼の根拠となるのだ。最終的な判断を下したのは、何れ国を継ぐことが確定した王太子のダーヴェッティだった。
だから今、こうしてエヴァリーナは、ダーヴェッティと共にこの場に立っている。平和式典の主役として、世界を救った聖女とそれを支えた国の代表として、民衆にその姿を見せている。
――誰も彼も、死ねばよろしいのに。
自らを讃え、敬愛をその表情いっぱいに浮かべる人々を見下ろして、エヴァリーナはただそれだけを思う。
二年間、エヴァリーナはずっと起きていた。
何の不思議か、リーナが眠れば彼女の意識も途切れ、リーナが起きれば彼女の意識も目覚めた。同じ目で見ていた。同じ耳で聞いていた。エヴァリーナの意思を他に伝えることは全くできなかったのに、リーナの心の声すら、エヴァリーナには聞こえていた。
エヴァリーナは嘘を吐いている。二年間眠っていたなんて嘘だ。リーナによって魂の闇が払われたなどというのも嘘だ。リーナに似て慈愛深いなど当然である。なぜならエヴァリーナは意図してリーナを真似ている。
二年間もっとも近くに居続けた存在を真似することは不可能ではなかった。リーナの存在を知らない者は、もともと頻繁な交流があった者ではない。リーナの存在を知る者は、ここにいるのはリーナに似てきたエヴァリーナだと知っている。多少ぎこちなくても、問題なかった。
エヴァリーナは自分の本質が大きく変わったとは思っていない。
贅沢を愛して何がいけない、自分を大切にして何がいけない、生まれついた家でその後の処遇が変わるのはこの世の定めではないか。だから、伯爵家に生まれ、聖女の外見を持ち、才能溢れるこの私が、誰よりも尊ばれ大切にされて、何がおかしい。
だが、人々は今、聖女エヴァリーナを讃えている。
彼女と王太子達の尽力によって、汚らわしい国の膿は出し尽くされた。これからもっと自分達は幸せになれるだろう。国は素晴らしい場所になるだろう。それもこれも聖女様の勇気ある行動のおかげ。我々のためを思う聖女様のおかげ。聖女様万歳。聖女様万歳。聖女様万歳。
死ねばいいのだ、こんな民衆ども。
――実の父を断頭台に送って、実の母をならず者に嬲り殺させて、きらきら着飾って、にこにこ他人に手を振っている娘を、すばらしいと、素敵だと、聖女だと、褒め称えている。
――そんな気狂いどもは、みんな、死ね。
盛大に開かれた平和式典は、大盛況のうちに幕を閉じた。
式典には、既に巷では救世の英雄などとも呼ばれている、第一騎士ラウリや、大神官マティアスなどの姿もあり、一層人々の歓声を買った。英雄の残る一人、大魔法使いパイヴィオの姿のみなかったが、彼の人間嫌いは誰しもが知るところである。
唯一人々が残念に思ったのは、ラウリが聖女付きの騎士を辞したことだった。貴人は専属の近衛騎士を持つことが多い。事前の噂では、何れラウリは聖女の近衛騎士になるだろうというのが大勢を占めていたため、人々の落胆も大きかった。
ただ、その際ラウリが言った「我が騎士の剣は、唯一国の守護にこそ捧げたものゆえ」という言葉は、流石護国の騎士だと彼の人気を更に不動のものとした。
「国の守護」という言葉が彼の信念を指すのではなく、ただ一人の存在を指していることに気づいていたのは、ごく一部の者だけだった。
もはやお飾りではない聖女だったが、その後エヴァリーナはよく聖女を務めた。彼女が聖女を辞したのは、この式典の日から一年後のことである。