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『絵を描く女』  作者: 水泡歌


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2/5

日咲〜中編〜

「にこちゃん」

 大学4年生の秋だった。

 今より短かかった髪をひとつにしばって、子犬のしっぽみたいと言われていた頃。

 黒のジャージ姿で歩いていた私は後ろから呼ばれてしかめっ面で振り返った。

 そこにはニコニコ笑顔の姫華が立っていた。

 154センチの小柄な身体。

 いたるところに絵の具がついたピンクのつなぎ姿。

 肩甲骨の下まである生まれつきのふわふわの茶色い髪はポニーテールにしていて、こちらを覗き込みながら揺れていた。

「その呼び方、やめろって言ったろ?」

「え~、なんで、にこちゃんはにこちゃんでしょ」

「何回、言わせんの。きらいなんだよ、下の名前。似合わないし読みにくい」

 悠木 日咲(にこ)。それが私の名前。親は何を思ってこんな名前を付けたのか。「なんて読むの?」と今までの人生で100万回は訊かれた気がする。

「そうかな、かわいくって私は好きだけどなあ……」

 納得できないようにほっぺたをふくらませながら姫華が私の左横に並ぶ。

 それを確認して歩き出す。

 姫華は素直に付いてくる。

 どの口が言ってるんだか……。

 大きな目。通った鼻筋。ふっくらとした唇。

 姫華はその名にふさわしく、美少女という言葉がぴったりの女の子だった。

 ただ本人にその自覚は全くなく。顔はすっぴん。服はほとんど作業着のつなぎ姿。手や服には常に絵の具が付いていた。

 自動販売機が並ぶ場所、喫煙所で立ち止まる。

 ブラックコーヒーを買いながら話を続ける。

「今日は何の作品?」

「ん? もちろん、卒業制作だよ。にこちゃんもでしょ?」

「そうだけど、姫華先生と違って全く進まないんですよね~」

「そんな言い方やめて。私、にこちゃんの卒業制作、楽しみにしてるんだから」

「恐れ入ります。先生、何か飲みますか?」

「買ってくれるの? 私、パックのいちごミルク!」

「はいはい、いつものね」

 小銭を入れてボタンを押す。姫華は「わ~い」と言いながら取り出す。

 私はふっと笑う。

 こうしてたら普通の女の子なんだけどな……。

 霧島 姫華は「天才」である。

 それは美術学科の常識だった。

 デッサンの入学試験をトップの成績で合格。学費は4年間全額免除の特待生。

 誰もが言った。

 あの子の隣に並びたくない。

 自分の作品が可哀想に思えるから。



 子どもの頃、じゆうちょうが好きだった。

 何を描いてもいいまっしろな空間をワクワクしながら埋めた。

 何を描いてもいい。

 それはなんて幸せなことなのだろう。

 頭の中は描きたいものでいっぱいだった。

 これは私が考えた子。これは私のすきなもの。

 たりない。たりない。

 1冊なんてすぐに終わってしまう。

 もっとちょうだい!

 キラキラした目で求めた女の子は大きくなって当たり前のように絵が描ける進路を選んだ。

 大学に入って思い知った。

 何を描いてもいい。

 それはなんて怖いことなのだろう。

 何度も何度も。

 まっしろに向かい合うたび思った。

 これで合っているか。

 技術を知識を学ぶたびに分からなくなった。

 これで合っているか。

 周りを見れば自分よりも上手い人間はたくさんいた。

 どうすればあんな風に描けるのか。

 あんなにも楽しかったお絵描きはいつしか楽しさよりも正しさを求めるようになった。

 その内に分からなくなった。

 私の描きたいものってなんだっけ?

 このまっしろな空間を何で埋めればいい?

 霧島 姫華は違った。

 そこには幼い頃の私がいた。

 まっしろに彼女はキラキラと目を輝かせる。

 小さな身体をいっぱい使って魔法のように彩っていく。

 たりない、たりない。

 もっとちょうだい!

 そうして出来た作品は人々を魅了する。

 同じものを描いているはずなのに彼女の描いた裸婦のデッサンは綺麗で艶かしく見たもの誰もが恋をした。

 全ての視線は彼女に奪われる。


 仲良くなったきっかけは空腹だった。

 1年生の秋のこと。

 昼ごはんの後。喫煙所の近くに行くとピンクのつなぎ姿の姫華が紙パックの自動販売機の前でいちごミルクをじ〜っと見つめていた。

 何してるんだ、天才……。

 作品の参考にでもするんだろうか。

 天才の頭の中ってよく分からないよなあ。

 そんなことを思いながら横の自動販売機でブラックコーヒーを買おうとお金を出した時。


 ぐ〜きゅるるるる〜


 一瞬、なんて愉快な音を奏でる自動販売機だろうと思った。

 だが、すぐに思い直した。

 そんな機能はこれにはない。

 ゆっくりと横を見る。

 そこにはまっ赤な顔をしてお腹を押さえる姫華の姿があった。

 姫華は「ごめんなさい……」と小さく言うと、しょんぼりしながら自動販売機から離れようとする。

 …………。

 私は少し考えると紙パックの自動販売機にお金を入れた。

 いちごミルクを押す。

「ワア、シマッタ、マチガエタ」

 姫華が驚いたようにこちらを見る。

 私は取り出すと超棒読みで続ける。

「ドウシヨウ、コンナニアマイノノメナイヤ」

 ちらりと姫華を見る。

「いる?」

 姫華の目がうるうると潤む。

「悠木さんは神様ですか?」

 そんな大げさなと思うが、それよりも気になったことがあった。

「私の名前、覚えてたんだ」

「え、もちろん」

 姫華は何を当たり前のことをと言うように小首を傾げた。

 こちらは当然覚えていたが、私のことなんて知らないと思っていた。

「あのね、この前の課題、すっごく素敵だったよ」

 この前の課題? ああ、学内の景色を描くやつか。あの教授にボロクソ言われた……。

「いや、そんなお世辞を言わなくてもあげるよ」

「ちが、本当に本当にそう思ったんだよ。あれってここの景色を描いたんだよね。自動販売機の前で語り合うひとたち。煙草の煙。景色だけじゃなく、色んな人の感情も透けて見えてすごく素敵だった!」

 力説されて今度は逆に照れてしまう。

 照れ隠しにいちごミルクを姫華に押し付けると、満面の笑顔で「ありがとう」と両手で受け取った。


 それから、私はブラックコーヒーを買って、横の階段に座って2人で話をした。

 どうやら姫華は画材に注ぎ込みすぎて、お金がなくなってしまったらしい。

「お昼ご飯代は残しておこうと思ったんだけど、描きたいと思ったら我慢できなくて……」

 いちごミルクをおいしそうに飲みながら姫華は言った。

「え、もしかして今日のお昼それだけ?」

「うん、悠木さんのおかげで満たされた〜」

「いやいや、満たされるか。ちょっと待って、何か買ってくるから。おにぎりとかでいい?」

「いやいやいやいや、そこまでしてもらう訳には!」

「午後からの授業どうすんの? 絵を描くのが好きなのは分かるけど、自分の身体も大切にしな?」

 姫華はびっくりした顔をしていた。

 私は立ち上がって手を伸ばす。

「じゃあ、いっしょに買いに行こ? 思えば、霧島さんの好きなおにぎり知らないや」

 姫華はなぜか泣きそうな顔をした後、私の手を取って立ち上がった。

 一緒に売店に向かって歩き出す。

「おにぎりはシャケが好きです……」

「そうなんだ。私はツナマヨが好き」

「悠木さん、お友達になりたいです……。苗字じゃなくて下の名前で呼んでもらってもいいですか?」

「姫華って? 別にいいけど」

「悠木さんの下の名前は……」

「……言わない」

「え、なんで」

「知らなくていい」

「知りたい」

「知らなくていい」

「なんで〜」


 そんな感じで私達は友達になった。

 下の名前を知った姫華は「やめろ」と言っているのに、にこちゃんにこちゃんとうれしそうに私を呼んだ。

 相変わらずすぐにお金を使い切る姫華に私たちは約束をした。

 お昼をいっしょに食べよう。だから、その分のお金は残しておいて。

「姫華、最近、ご飯ちゃんと食べてるか?」

「……タベテルヨ」

「ちゃんとお母さんの目を見て話してくれるかな?」

「だって、にこちゃんいないし」

「言い訳をしない。ゼミも別だし、教育実習で忙しかったんだから仕方ないだろ?」

「1人で食べるのおいしくないもん……」

「もうすぐ卒業なのにそんなことでどうするんだよ」

「そう言うさみしいこと言わないで〜」

 両手でいちごミルクを持ちながら姫華は涙ぐむ。

 私は笑うと姫華の髪をくしゃくしゃに撫でて、売店に向かって歩き出す。

「仕方ない。おにぎりでも買うか。シャケおにぎりでいいか?」

「あ、お金は持ってるよ、にこちゃん貯金」

 つなぎのポケットから「にこちゃん」と刺繍されたがま口財布が出てくる。

 私は吹き出す。

「それ、まだ持ってたのか」

 姫華はにこにこ笑った。

「にこちゃん貯金だよ。このお金は使わないって決めてるの」

 それは姫華が自分で作ったがま口財布だった。綺麗な青色の生地が使われていて姫華らしい美しさがあったが、黒い糸で縫われた「にこちゃん」の刺繍が全てを台無しにしていた。

「はいはい、そうですか」

「にこちゃんもツナマヨ食べる?」

「そうだな。いっしょに食べよう」

「うん!」

 姫華は顔いっぱいに笑って頷いた。

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