1話 探偵、尾行される
20○○年、春。
並木花奈は今年入学した大学の側にある、気になっていたコーヒーショップでドリップコーヒーを眺めていた。
豆から挽く程のこだわりは無いが、家でドリップコーヒーを淹れたとき部屋に漂うあの香りが堪らない。 あれはインスタントでは味わえない香りだ。
友達と飲む用と自分用で何種類か買い、店を出て道を曲がると中肉中背の男が物陰に隠れしゃがみ込んでいる姿が目に飛び込んで来た。
寝癖頭のその男は上下ちぐはぐなスーツを着ており、スニーカーを履いている。 スーツにスニーカーという組み合わせは街中でたまに見かけるためそこまで気にならないが、上に着ているヨレヨレなブレザーには見合わない仕立ての良いスラックスを履いていた。
全体的にモサッとした雰囲気の中で、仕立ての良いスラックスだけが浮いて見える。
そのちぐはぐさを不審に思った花奈は下ろしていた黒髪をポニーテールに纏め、電柱や建物の陰に隠れながら男に近付いた。
花奈は大財閥“並木商事”の社長、並木雅の1人娘だ。 自分の立場を理解している花奈は普通だったらそのようないかにも怪しい人物に近付いたりしないが、その時はなぜか好奇心が勝った。
近付いてみると男が見つめる先で猫が餌を食べている姿が見えた。
『わあ猫ちゃんだ〜。 でも首輪を付けているって事は飼い猫だよね?』
男がソワソワとする様子も見て取れる。 あの男が掛けている丸メガネ、あれもかなり質の良い物だ。 ますます怪しい。
物陰に隠れて猫を見つめるあの男の目的は何だろうか。 恐らく猫が夢中で食べている餌を用意したのはあの男だろう。 猫と触れ合いたいのか、飼い主から捕まえる事を頼まれたのか、はたまた捕らえて……。
『ま、まさか動物虐待……?』
花奈がそんな事を考えているとスッと男が立ち上がり猫に忍び寄ってゆく。
「つーかまえたっ!」
男は嬉しそうに猫を抱き上げると喉の下を指で撫で、そっとペットを運ぶときに使うカゴに入れる。
『て、手慣れてる……!』
花奈の中での疑念が深まる。
『あの子をどうするつもりなんだろう?』
花奈は疑いの眼差しを男に向けていたが、慌てて建物の陰にかくれた。 男がこちらに歩いて来るのが見えたからだ。
鼻歌混じりで歩く男はそこに花奈が隠れているなど全く気付いていないが、花奈はその横顔に見覚えがある気がした。
『あれっ、あの人何処かで見たことがある気がする。 えーっとどこだっけ?』
必死に思考を巡らせるが思い出せない。
『だけど見てしまった以上、動物虐待じゃないかきちんと確認しないとね。 この後の予定は特に無いし、誰だったか思い出せないのはムズムズするし気持ち悪いし』
そんな事を建前に好奇心と正義感に突き動かされた花奈は男を尾行する事にした。
♢♦︎♢
時は花奈がコーヒーショップを出た頃に遡る──。
男は物陰から餌を夢中で食べる猫の様子を伺い、丸メガネの奥にある目を細めた。
彼の名は鈴音小太郎、猫探しを中心に依頼を請け負う探偵だ。
苗字の“音”と名前の“小”から取って、親しい者からは“猫”だったり“猫さん”と呼ばれている。
猫さんは餌に夢中になる猫に忍び寄った。
この餌は猫さんが特別にブレンドした猫を引き寄せ、夢中にする特別製だ。 猫にとっては抗い難い良い香りがしている事だろう。
「つーかまえたっ!」
依頼達成だ。 これから手に入る収入の事を考えると自然と頬が緩む。
『今日のお昼はちょっと贅沢して天丼でも頼んじゃおうかな〜』
猫を抱き上げ喉の下を指で撫でると、猫は嬉しそうに喉をゴロゴロ鳴らす。
猫さんは猫をカゴに入れると、餌皿を持って鼻歌混じりに探偵事務所へ歩みを進める。 だかちょっぴり浮かれていたためか、自分が尾行されているとは考えもしなかった。
♢♦︎♢
花奈はそれから15分くらい尾行しただろうか、男は商店が立ち並ぶエリアにある小さな雑居ビルの一階の部屋へ入って行った。
そこには“猫探偵事務所”と書かれた看板が掛かっている。
『なぁんだ、探偵か』
花奈は安心したが疑問はもうひとつ残っている。 あの男を何処で見たのかだ。
『この顔にピンときたら110番……? いやいやいや、そんな感じでは無いしなぁ』
大財閥のご令嬢として立派な行為だとは言えないが気になるものは気になる。 だが流石に建物の中へついて行く訳にはいかない。
花奈はどうしたものかと男が入って行った扉を見つめていると勢いよく扉が開いた。
慌てて仰け反り避けたが扉が鼻先を掠める。 花奈が驚きのあまり口をパクパクさせているとその様子を見た男、猫さんは目を丸くした。
「ああっ、ごめんなさい。 人が居るとは思わなくって、お怪我はありませんか?」
猫さんは慌てて頭を下げたが、コクコクと頷く花奈の顔を見てやや硬い表情になる。
『驚かせちゃったから気を悪くしたかな? でもお互い様だよね』
花奈がそう思ったのも束の間、猫さんは素っ気なく尋ねた。
「ええっと、僕に何かご用ですか?」
花奈は猫さんの素っ気無い、できれば関わり合いたく無いと言わんばかりの態度にややムッとしながら聞き返す。
「あなた本当に探偵ですか? 一体その猫ちゃんをどうするつもりなんです?」
花奈がそう尋ねると猫さんは自分が疑われているのに何故か明らかにホッとした表情をして答えた。
「ああこの子ですか? この子は僕の天丼になるんです」
花奈がポカンとした表情をしている事に猫さんは気付くと慌てて付け足した。
「さっきのは収入が入るって意味でして……。 申し遅れました、僕は猫探し専門の探偵をやってまして、ここは僕の事務所なんです。 その子の情報などを詳しく教えてもらえればかなりの確率で見つけることができますよ。 この子はこれから飼い主さんのところに帰すところなんです。 急いで見つけたから報酬を少し上乗せしてもらえるんですよ」
少し得意気な猫さんを見て花奈はハッとした。
「先ほどの非礼をお詫びします。 その上でお願いなのですが、猫も人間も同じ動物ですよね? お願いします、探偵さんに探して欲しい人が居るんです」
花奈は気が強い訳では無いが、芯の通った瞳で猫さんをじっと見つめている。 猫さんは個人的な理由で出来れば花奈とは関わり合いたくない。 花奈のお願いに猫さんは困り顔で目を泳がせる。
「ま、まぁ僕はこれからこの子の飼い主さんの所へ行かなくてはならないのでまた今度、日を改めてという事で〜」
そそくさと事務所に鍵を掛け、車に猫が入ったカゴを乗せる猫さんに花奈は食い下がった。
「あっ待ってください、今度とお化けは出た試しが無いって言うじゃないですか! 良いです探偵さんが帰って来るまで私ここで待ちます」
「……分かりました。 ここで待たせる訳にもいかないので中で待っててください」
猫さんは猫の飼い主に少し遅れる旨を電話すると、探偵事務所の鍵を開けた。
こじんまりとした事務所だが猫さんのお気に入りを集めた城だ。 柔らかすぎない絶妙な硬さのソファと木で出来た無骨なローテーブルの横には、猫さんお気に入りの推理小説が沢山並べられた本棚がある。
花奈にソファを手で示し、自分はコーヒーの用意をしようとミニキッチンに立ったがコーヒーを切らしている事に気付いた。
「あいにくコーヒーを切らしていまして、すぐそこの自販機で何か買ってこようと思うのですが何が良いですか?」
「あっ、コーヒーなら私持ってますよ、ほら。 家で飲もうと思って買っておいたんです」
花奈はバックからドリップコーヒーを取り出し猫さんに献上した。
『私の我儘で待たせてもらうんだから、これくらいはしないとね』
そう思える性格の花奈が無理を押し通して猫さんに人探しの依頼をするには、切羽詰まった理由があった。
【次回、ちょっとした事件が起こる?】