7 迷いの森
迷いの森とは、ムテ大陸の三分の一を占める広大な森のことだ。その名の通り、入った者は必ず迷ってしまうと言われている。子供たちは幼い頃から、あの森には近付くな、と耳にタコが出来るほど言い聞かされるのである。
かくいうユリウスもそう言い聞かされてきた一人だった。しかも彼に言い聞かせてきたのはシスターである。
「入るな、どころか、昼間でも近付くなって言ってたくせに、この陽も落ちた時間に単身で森に入って来いってどういうつもりなんだよ」
森は教会の裏にも広がっているが、侵入防止のために高い柵が張ってある。森に入るには管理のためにいくつか設けられている出入口を使う必要がある。
シスターに笑顔で威圧を受けたユリウスは迷いの森の入口に立っていた。
夜の森は昼間の森よりも恐ろしい。僅かに入る月明かりや数少ない街頭の光で、森の空気が青白く照らされる。葉擦れの陰が森の中で何かが動いたように見せ、刷り込まれた畏れが森の奥からの視線を感じさせる。
「これ、ほんとに大丈夫なのかよ……」
シスター曰く、ニーナの家は森を少し入ったところ。
大きく深呼吸をしたユリウスは意を決して、石畳から湿った土の道へ足を踏み出した。
「もし、そこの御方」
柔らかな土を踏みしめると共に、背中を刺すような声がした。
「うわあっ!?」
「きゃっ」
飛び退くように振り向くと、そこにいたのは着物姿の美しい女性だった。
灰色の着物に身を包み、薄い紫色をした長い髪を緩くひとつに束ねている。胸の前に縮こまった手には小さな風呂敷包みがあり、僅かに前へ出された右手は握りしめられて震えていた。
ユリウスは小さな声で、すみません、と謝ると、改めて女性を確認する。
「驚かせてすみませんでした」
「い、いいえ。こちらこそ、驚かせてしまってごめんなさい。こんなところに人がいるなんて珍しいから、何かあったのかと思って声をかけてしまったの」
でもいきなり後ろから声を掛けられたら驚くわよね。
そう言って女性は眉を下げて再度謝った。
つられてユリウスも軽く頭を下げる。その間もちらりと女性の様子を窺うことも忘れない。
女性の言うことはもっともだった。
本来なら各家庭は夕飯時である。むしろ早い家庭なら就寝しているところもある時間だ。こんな時間に森へ、しかも迷いの森などと呼ばれるところへ入ろうとする者は滅多にいない。
しかしそれはユリウスから見ても同じだった。
「お姉さんは、何を?」
すらりと背の高い女性だ。
ユリウスが成長期で、ようやく成人女性の平均値であるシスターの背に追いつきそうな具合であるというのに、それを優に超えている。シスターの頭ふたつは高いかもしれない。
じぃっとユリウスを見つめる、髪色とお揃いの瞳が柔らかく歪んだ。
「お姉さんは買い物帰り。お店の人と話し込んじゃってね、気付いたらこんな時間になってしまったのよ」
「帰りって……。お姉さん、森に入るつもり?」
「そうよ?」
恐ろしく整った顔がユリウスにずいと近付いた。
月明かりに照らされた肌は透けるように白く、むしろ青白く見せた。そこに彩る紫色が異常に存在感を示している。
ひたりとユリウスの手首にしっとりとした冷たいものが絡まった。
「それでは参りましょうか」
「えっ、あっ、ちょっと!?」
それが何かを確認するまでもなく、ユリウスはぐいぐいと力強く彼女に引っ張られていく。女性の力が弱いものとは言わないが、女性にしてはあまりにも強すぎる力だった。ユリウスがどれだけ踏ん張っても、何の関係もないように引きずられる。
迷いの森の奥に入るつもりのないユリウスは手近な木の幹に腕を絡めた。
「お、俺、もう帰りますからっ!」
「あら、いやよ」
ようやく女性の足が止まった。
だが振り向いた顔は変わらず微笑んでいて、ユリウスの瞳をじっと見つめている。
「おもてなししなければいけませんわ。せっかくのお客さまなのですから」
ユリウスの足元でみしりと木の軋む音がした。