4 願い
ユリウスは部屋を出てすぐに、忌み子の石像前にいるニーナに声をかけようとして、その傍にもう一人の人間が立っていることに気がついた。
邪魔してはいけないという思いより先に、ユリウスは目の前の柱に隠れた。教室になっている小部屋に一番近い柱の陰は、気難しい礼拝者がいた時に隠れてやり過ごすことのできる数少ない死角ポイントだ。今まで礼拝者に気付かれたことはない。
ユリウスはじっくりと見慣れない人間を見つめた。
黒いコートで全身を覆い、コートについたフードを深く被っている。コートの丈は地面に届きそうなほど長い。かろうじて見える黒い爪先のほかに、細い杖の先が見えた。背丈は女性にしては高く、男性にしては低めだ。
「ありがとうございます、連れてきていただいて」
ニーナの声に先程までの震えはない。照れくさそうな微笑みが黒コートを見上げた。深く被られたフードの奥を覗き込むようだった。
黒コートの首の部分が僅かに傾き、ニーナの身体を陰らせる。
「君に、善き友人との縁がありますよう」
湖面に朝露が落ちたような声だった。低くも高くもない声で、聞こえた途端に波紋のように広がって消えていく。
未だかつてユリウスが聞いた事のない音だった。
「はい、頑張ります!」
振り絞ったニーナの声を受けて、黒コートの人物は彼女からゆっくりと距離を取った。ニーナに合わせて屈んでいたのか、背筋が伸びて裾からはっきりと足元が確認できる。傾いていた首が元の位置に戻り、まっすぐに教壇を見つめる。
その姿は大理石の像に似ている。
「忌み子様!」
踵を返そうとしていた黒コートが立ち止まった。
柱の陰から飛び出したユリウスはニーナの隣に駆けつけ、肩をいからせて黒いフードの奥を見つめた。何も見えないフードの奥から真意を汲み取らんとする視線を感じた気がした。
ユリウスはニーナの手を取った。
「今日、忌み子様を探すお祭りなんだってよ。さっきのこの人、大理石の忌み子様にそっくりだった」
「え、えっと、ユリウス……」
「最初に見つけたヤツの願いを聞いてくれるって言ってた。ニセモノでも忌み子様の名前を語るんなら、この教会で困ってるヤツの願いくらい叶えてくれるだろ」
黒コートは何も言わずに動かない。
ニーナの手が汗ばんできたところで、ようやく黒コートが微かに息を吐いた。
「子供に声を掛けられたのは久し振りだ」
くるりとコートをはためかせ、黒コートがユリウスとニーナに向き直った。静かな声音がところどころ弾む。
かつーん、と黒コートの杖が教会の床を軽快に鳴らした。天井がアーチ構造になっていることもあり、必要以上に無機質で硬質な音が響き渡る。
ユリウスとニーナの繋ぐ手に力が入る。震えているのはどちらの手だろうか。
背後に大理石の忌み子が見守っているはずなのに、目の前の黒コートの存在がもっと大きく見えた。この黒い塊に教会がまるごと呑まれてしまいそうな危機感すら覚える。
「忌み子役は自分を忌み子と呼んだ最初の者の名前を聞き、願い事を聞いてやらなければならない。私を忌み子と呼んだ君、名前は」
「……ユリウスだ」
「それでは願いを聞こう」
「教会の補修と人数分の新しい教本がほしい!」
黒コートが黙りこくった。
「なんだよ、聞けねーって言うのかよ」
「ああ、いや、そういうわけではないが」
かたん、と黒コートの首が左に傾く。
「それが君の願いなのか?」
「そうだ。講義受けてる間は隙間風で寒いし、教本はボロボロで情報も遅れてるし、前々から言ってんだよ!」
「……なるほど、そうか」
黒コートの首が今度は右に傾く。
「あまり子供らしい願いではないな」
「うるせー、何願ったって俺の自由だろーが」
「それはそうだな、失礼した」
黒コートの首がようやく元の位置に戻った。足元では杖がコツコツと軽く鳴っている。
「では確かに願いは聞いた」
再び黒コートが踵を返し、今度こそ教会から出ていった。