8 闇より伸びる手
(♪〜〜♪〜〜〜)
ユーリはご機嫌な様子で日が暮れ始めた市内を歩いていた。
この世界に来てちょうど一週間になる。ユーリはこの世界に来たことを少しだけ受け入れ始めていた。
やはり帰らなければならないことには変わりはないが、何をするにしても今はこの世界で生きる地盤を固めないことにはどうしようもない。
今はまだ案内所の貸し部屋を使っているが、働きながらこの世界でのことを学んで、ある程度給金が貯まれば自分で家を探すことになる。元の世界から着てきた衣類などもここでは貴重品らしく、随分と高額で売れたのでそう遠くないうちに退所できるだろう。
案内所の食堂で働くリアからは一緒に部屋を借りて住まないかと提案されていた。リアとは毎日のように顔を合わせていて仲も良好だし、この世界にもかなり慣れている様子なのでゆっくりと聞いてみたいことも色々とある。いきなり一人暮らしというのも心細いし、それもありかなとユーリは考えていた。
結局、元の世界への帰り方はカイリや他のスタッフからははぐらかされてしまっている。
ユーリは手探りでもなんとか見つけるしかないと決心を固めていた。
そう考えながら歩くユーリだが、ふとすれ違った男性の様子がおかしかったことに気付く。ブツブツの何かを呟きながら目をギョロギョロと動かしていた。
(なんだろう)
そう思って振り返ると同時に、グルン! と男性の首がこちらを向き、口の端から泡状の涎を垂れ流しながら甲高い声で何度も叫び始める。
「ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ!」
「ひっ!!」
あまりの異様さにユーリの顔が恐怖に歪む。徐々に男がユーリに近づいて来た。
ユーリは恐怖に固まる足を必死に動かし、踵を返して駆け出した。
「はぁ! はぁ! ひっ!」
パニックで呼吸が引き攣る。
「ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ!」
ちらりと後ろを振り返ると男がゆっくりと、しかし大股でぐんぐん追ってきているのが見えた。
(来てる! でも、さっきの男の人と違う?)
焦りで正確には記憶していないが、最初に叫んでいた男性とは髪の色や背格好が違うような気がする。しかし、奇妙な叫び声は先ほどと同じだ。
逃げ回っているうちに大きな通りから細い路地へ入り込んでしまったことに気づいたが、引き返すわけにもいかずにそのまま進んでいるとスーツ姿の女性が向かい側から歩いてくるのが見えた。
「あっ、あの! おかしな人が! 逃げないと!!」
アレがユーリを狙っていることは察しがついてはいるが、アレが何なのかも分からないし、女性に害がないとは言い切れない。ユーリは女性に向けて必死に声を上げる。
女性は前から走ってくるユーリに気が付いたようで、ユーリの元へ駆け寄ってきた。
「どうしたの、大丈夫?」
近づいてくる女性の前でどうしたものかと立ち止まってしまったユーリ。後ろからはじわじわと気配が近寄ってくる。
「あの、お姉さ……」
女性に話しかけようとしてハッとする。女性はユーリに駆け寄ってきてからは一言も発していない。それどころかピクリとも動かずにユーリの後ろを眺めていた。そして……唇が三日月のように大きく吊り上がっていく。
「ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ!」
女性が見開いた眼で狂ったように叫び始めた。
「ひっ……」
思わず後ずさるユーリ。そして更なる叫びがどんどんと増えていく。
「ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ!」
「ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ!」
「ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ! ミツケタ!」
振り返ると4・5人の人物がユーリを凝視しながら目を見開きミツケタと何度も叫んでいる。
最後に遅れてやってきたのは最初にミツケタと叫んでいた男性だ。
(何これ?! 何なの!)
訳がわからなくなっているユーリに甘ったるい少女の声が聞こえてきた。
「〈伝染する狂気〉っていうのコレ。素敵でしょう」
突然背後から聞こえてきた声に振り向く。
通りの脇に並ぶ民家の門扉。その上にゆったりと腰掛け、露出の多い衣装を纏った少女がこっちを見てにっこりと笑みを浮かべていた。
腰まで伸びたゆるくウェーブした黒髪。顔立ちは整ってはいるが、肉食獣のような縦長の瞳孔がこちらを威圧するような雰囲気を放っている。
「だ、誰?」
アレらは相変わらず叫び続けている。そんな中での場違いな少女の存在に、ユーリは完全に混乱してしまっていた。
そこで少女の目の前の空間が突如として飛び出してきた巨大な獣の爪に引き裂かれた。
「ーーひっ」
小さく悲鳴を上げるユーリの耳にもう一つの声が聞こえてくる。
「イリーヤ、こんな愛らしいお嬢さんを困らせてはいけないな」
「あら、それは失礼」
爪に引き裂かれた空間からするりと黒いスーツとコートを身に纏った長身の人物が現れる。
それだけであればどこにでもいそうな恰好ではあるが、その顔には表面がツルリとした風変わりな仮面を付けている。
(この人は……)
ユーリがこの世界に来たばかりの時に出会ったあの男である。
液晶ディスプレイのようになった仮面には〇と×が目のように表示されて、喜びでも表すかのようにチカチカと点滅していた。
「さて、少々五月蠅いかな」
男はそう言ってとイリーヤと呼ばれた少女に目を見やる。
イリーヤがパチンッと指を鳴らすと、ミツケタの合唱が止まり、そのまま彼らはふらふらと路地の外へと歩いて行った。
「久しぶりだね、随分と探したよお嬢さん。僕は電子の仮面と呼ばれてる。以後、お見知りおきを」
「探したのはアタシだけどねぇ」
明るく挨拶する電子の仮面と名乗る男を非難するようにイリーヤがぼやく。
「あ、あなた達は……私に何か用なんですか?」
状況は分からないが、ユーリにとって望ましい展開ではない事は想像にかたくなかった。正直泣いてしまいそうではあったが、気力を振り絞ってユーリは電子の仮面に問いかける。
「うん。最もな疑問だね。用があるからこそ僕が君をこの世界に誘ったわけだが、そんなことはどうでもいい。君は何か力が使えるかい? この世界に来てから使えるようになった力だ」
問い掛けへの回答は拒絶して、電子の仮面はユーリに質問を返す。
しかし、ユーリは電子の仮面の別の発言に気を取られていた。
「誘ったって、私がこの世界に来たのはあなたのせいだってこと? なら、私が元の世界に戻る方法も知ってるの?」
ユーリは電子の仮面にまくしたてる。しかし、電子の仮面の反応は素っ気ないものだった。仮面の点滅が止まり、口のように”へ”の字が表示される。
「帰りたい……だって。つまり、失敗か……」
「……失敗?」
「そうみたいねぇ……じゃあ、処分でいいわよね」
イリーヤがユーリを見る目は興味を失った酷薄なものだった。
「サクッと食べちゃいましょうかしらぁ」
「この辺りに人払いの式は張ったが、跡は残さない様にね。ベルシュカ市の騎士は優秀だ。バレると面倒臭いからね」
(何、この人たち……)
ユーリを無視して目の前で行わる物騒な会話に寒気がする。
(に、逃げないと…)
「あら、逃げるのかしらぁ。大変」
逃げようと後ずさったユーリの気配を察し、こちら向いたイリーヤの目が嗜虐的に歪む。獲物をいたぶろうとする残虐な肉食獣。そんな雰囲気だ。
その時、電子の仮面がイリーヤを制した。
「待て。どうやら君の〈伝染する狂気〉は少々目立ちすぎだな。目を付けられてたみたいだね」
カツカツと背後からユーリの耳にブーツが石畳を叩く音が聞こえてきた。
「うぜぇ臭いを追ってきてみれば、よく見る顔だなユーリちゃん。そこの変な仮面野郎とくっせぇガキは知り合いか?」
ユーリが振り向くと、そこには鼻に掛けた丸縁眼鏡をギラつかせ、クロウが獰猛な笑みを浮かべて立っていた。




