間章① セイ少年の受難
「はーい、みなさん今日も頑張りましたね。後は気を付けて帰って下さいね」
女性教師の声で十数人の子供たちがそれぞれの荷物を持って立ち上がる。
ここは〈鏡の国〉に迷い込んだ子供や、この世界で生まれた子供達の為の学校であり、黒板には先ほどまで習っていた算数の問題が書き残されていた。
「明日テストだってよ。俺次赤点取ったら補習なんだよな……」
そうぼやいたのは小柄な金髪の少年。
「セイ、お前計算苦手だもんな。そんなんで親父さんの店継げんのかよ?」
「俺は騎士になるからいーんだよ」
「確かに体動かすのは得意だもんな」
セイが友達と談笑しながら帰ろうとすると、一人のクラスメイトが机に座ったままなのに気付く。
「お前は帰んねーの?」
セイがそう声をかけると、クラスメイトはセイの方をみて暗い顔でため息を付いた。
「なんかさぁ、親父と母さんが変なんだよ」
「変って?」
「今日の朝に学校行こうとしたらさ、夜番から帰って来た親父が母さんと話してたんだけど、急に二人とも黙っちまって、何かあったのかと見てみたら二人とも眼ぇ見開いて、唇吊り上げて笑っててさ。その後普通に話し始めたんだけど、何か気味が悪くて家を飛び出てきたんだよ」
クラスメイトはそこまで話して俯く。
セイも友人もそんなクラスメイトの話に何と声を掛けて良いのか分からなかった。
「な、なぁ。別になんて事はないかも知れないし、そんなに不安なら先生に相談してみたらどうだ?」
「……そうだな。そうしてみるよ」
クラスメイトはそう言い立ち上がるとフラフラと教室を出ていく。
「あいつ、大丈夫か?」
セイの友人が心配そうに呟いた。
「さぁな、よく分かんねー話だったし。とりあえず俺たちも帰ろうぜ」
セイは友達に声を掛け、家に帰るために教室を出た。
* * *
(あいつ、何だったんだろうな)
セイは友達とも別れて自宅近くの通りまで帰ってきていた。
「お、ミストの旦那。良い酒入ってるよ。見てかないか?」
通りがかった商店から客を引く声が聞こえてくる。
声を掛けていたのはセイの父親も贔屓にしている酒販店の店主。ミストの旦那と呼ばれていたのはこの辺りの町内会長をしている老人だ。セイも何度か挨拶をしたことがあるので何となく覚えている。
「お、何だ? 見せてくれよ」
そう言って店主に近づくミストだがそこで異変が起きた。
急に2人とも無表情になって見つめあっている。
セイも傍目に起きたこの異変が気になって立ち止まった。
(何だ? おっさん同士で何してんだ?)
次の瞬間セイの側から見える店主の口元が三日月のように吊り上がる。
そのまま口をパクパクと動かし始める。ほとんど声を出していないのかセイの耳には何と言っているかは聞こえないが、口の動きで何となく言っている事は分かった。
ただ単純に同じ言葉を呟いている。
(……ドコ?)
その光景見たセイはクラスメイトの言っていたことを思い出した。
(これって……ひっ!!)
そこで息が詰まる。店主の目がセイの方向を見つめていることに気づいたからだ。
(やばい……)
セイは本能的に危険を察知してすぐに駆け出した。
(何だあれ? 気持ち悪い)
少なくともセイの知る店主やミストは突然無表情になったり、気持ち悪い笑みを浮かべるような事はない。
足を緩めず駆け続けて家にたどり着いたセイは飛び込むように家に入ると扉をバタンと閉めた。
(何だってんだぁ、ありゃ)
学校で話を聞いていなかったら何も思わなかったかも知れない。
(明日あいつにもう少し詳しく聞いてみるか)
そう考えて、今の時間なら家にいるであろう母を探す。普段は勢いよく扉を閉めなんかすれば必ず怒声が飛んでくるはずだ。
そう考えながら台所に向かうセイ。
「かあさーん、どこにいんの……!?」
何かがおかしい。セイの母は確かに台所にいた。食事の用意をしているようだ。
しかし、セイが台所に入っても気づく様子もなく支度を続けている。
そしてセイから見えるその横顔、その口元はパクパクと動いていた――先ほど見た光景そのままに。
――ドコ? どこ? ドコォ?
セイの心臓は早鐘を打ち、体は金縛りにでも合ったように動かなくなるのを感じた。
ようやくこちらに気づいたのだろう、母が振り向く様がスローモーションのように感じられた。
「あら、おかえりセイ」
「あ、ああただいま」
声を掛けてきたいつもと変わらぬ母の様子にふっとセイは安堵する。
そう思ったのも束の間、ズイっと母が顔を近づけてきた。そしてセイの目を見つめる。
(あっ)
目と目が合った瞬間、何かがセイの中に入ってきた。
(嫌だ。嫌だ。嫌だ。やめて。動けっ――!!)
母親の口元が吊り上がっていくのを横目にセイは何とか体の操作を取り戻し、玄関目掛けて駆け出した。
「はぁ、はぁ、あぁ。あああ」
恐怖。戸惑い。焦り。何よりもセイの心を支配しているのはじわじわと何かが自身の思考を蝕んでくる気持ち悪さ。
家から転がるように出たセイは通りを駆け抜け、訳も分からぬままに家から離れようとする。
しかし、すぐにドンッと勢いよく、通りを歩く男にぶつかった。
「おいおい、焦りすぎだろガキンチョ。いじめっ子にでも鉢合わせたか?」
子供とは言え全力疾走のセイにぶつかってもよろめきもせずに男は声を掛けてくる。
セイが顔を上げる。ぶつかったのは丸眼鏡を掛けた若い男だった。
「す、すみま――」
とっさに謝ろうとするセイの言葉は続かない。
セイの中の何かが蠢くのを感じた。男の目をじっと覗き込む。
(に、逃げて……)
セイの母がしたことを自身が行おうとしている。そう感じ、自分の中の何かから男が逃げるように願う。
しかし男に逃げる気配はなく、むしろじっとこちらの目を覗いていた。
セイは自身の唇が三日月のように歪に吊り上がっていくのを感じる。
「――ドコ? どこ? ドコォ?」
セイの喉から勝手に声が溢れ、中の何かの一部が男へ溢れて出ていく。
「あん? 何だこりゃ」
男も違和感に気づいたのか声を上げるがもう遅い。
何かは男の中に入っていた。そして……。
「ハッ、俺を乗っ取ろうってか? 弁えろよ、ゴミが」
何かは男の中でより暗く邪な何かに触れ……そのまま何の抵抗も許されずにすり潰された。
「何かと思って探してみれば、くだらねぇな」
男は心底うんざりとした顔で、吐き捨てるように呟く。
「まぁ、せっかく見つけたんだ。俺に楯突いた落とし前はきっちり払わせねとなぁ」
そのままセイに中指を弾いて強烈なデコピンをかます。
「あだっ!! って、え、あ」
「憑かれてたなガキンチョ。もー大丈夫だよ」
男の言葉にセイは少し戸惑った後、ハッと思い出す。
「あの、俺の母さんが変で、それで、俺も――」
捲し立てるセイを男は制止する。
「うるせぇうるせぇ。お前のかーちゃんも見てやれば良いんだろ? 情報提供者だし無料でサービスしてやんよ」
男はそう言うと唇を吊り上げて禍々しく嗤う。
「さーて、お仕事しましょうかね」
こっちの方が怖いかも知れない。普段のセイなら正直ちびっている。男の凶悪な笑顔を見てセイはそう思った。
この後、セイ少年はこの怪現象解決の為、丸眼鏡の男に散々に連れ回される羽目になるのだった。




