間章③ 恐怖の番人
とある森。少女が飼い犬と無邪気に鬼ごっこをして遊んでいる。
やがて遊びに疲れて家に帰った彼女を待っていたのは、食い散らかされ、どちらの”何”であるか判別つかなくなるほどにグチャグチャになった両親と、返り血に染まった首の長い異形の怪物だった。
声もなく立ち尽くす少女に気が付いた異形がのっそりと移動を始める。飼い犬が吠えて向かっていくが、異形の腕の一振りでくの字に曲がり血の泡を吹いて動かなくなった。
少女は恐怖に身じろぎ一つできず、異形の腹が大きく裂けて、内に黄ばんだ歯がずらりと並んでいるのをただ茫然と眺めるだけだった。
* * *
森を足早に進む青年。途中何度か立ち止まっては首を傾げつつ三十分近く森の中を彷徨っていた。
「チッ、さっきから近づいてる気がしねぇな」
青年がそうぼやく。
「イヤーな視線も感じるしな」
実際、青年はとある地点から同じルートをグルグルと周回していた。
当然だ。ここは”彼女”の領域なのだから。
『ア、ソ、ビ、マショ』
唐突に森の中に少女の声が響いた。
何の声だと思い青年が声がした方向を向くと十数メートル程先に奇妙な人影が立っていた。
それは形だけは人の姿をした異形だった。一切服は着ておらず、蝋のような質感をした体は爛れたように崩れており、腹には縦に大きく裂けた口がパクパクと動いている。ダラリと伸びた長い首の先には虚な目をした男の頭がぶら下がっていた。
『ア、ソ、ビ、マショ』
どうやらこの声はこの異形から聞こえるらしい。鈴の音の鳴るような可愛らしい声ではあるが、聞くたびに青年に怖気が走るのは決して首長の異形から少女の声がするというアンバラスさから来るものだけではない。
この世ならざる者が発する負の気配。耳にしたもの者の精神を闇へと引き摺り込む狂気を発している。
『アハ、アハハハハハ、遊ビマショ。遊ビマショ。アナタ、ガ、鬼ヨ』
「このうざってぇ臭い……悪魔か」
甲高く笑いながら首を揺らす異形。ベルシュカ市に蔓延っていた狂気ほどではないが、声を聴くたびに思考を奪おうとする不快な気配が青年を苛立たせた。
『ツ、カマエラレル、カシラ』
そう言って首長の悪魔はゆっくりと茂みの奥へと姿を消そうとする。
「待てよ」
青年は首長の悪魔へと一気に距離を詰め、無造作にその首を掴んで引き倒した。
「ほら、捕まえたぜ。さぁ死ねよ」
そのまま一息に頭部と腹を踏み潰す。そして見下ろした悪魔の死体の様に青年は首を傾げた。
踏み潰された悪魔はドロリと蝋のような皮膚が溶け、中から強烈な悪臭とともに黒い髪にまみれた死体が現れる。
かなり腐ってはいたが白髪と髭から男性の老人であろうと察せられた。
酷く損壊した死体だが、黒い髪を糸のように使って強引に繋ぎ合わされている。
『アハ、ハハハ。ハ、ズレ! ハズ、レ!』
青年の周囲から複数の少女の笑い声が上がる。
見渡すと十数体の首長の悪魔が青年を取り囲むようにユラユラと首を揺らしていた。
『ツ、カマエラレルカシラ』『ツカ、マエラレルカシラ』『ツカマ、エラレルカシラ』『ツカマエ、ラレルカシラ』
声が何重にも響き渡り、悪魔達が一斉に森の奥深くへと姿を消す。
「しゃーねー。コイツを倒さねーと進めそうにないしな。付き合ってやるよ」
そう言ってギラりと鼻に掛けた丸渕眼鏡を光らせた青年を見て、”彼女”はニヤリとほくそ笑んだ。
* * *
”彼女”が命じられたのは森の深部へと向かう侵入者を決して主人の元にたどり着かせないこと。
侵入者の扱いに関しては全て一任されていた。
悪魔を追う青年をじっと見つめながら口元を歪ませる。
青年の動きは並みの人間のものではない。だが、何体もの首長の悪魔を倒したとて、それは”彼女”の術中であった。
また一体、青年が悪魔を屠る。しかし、最初に倒した悪魔と同じように体表が溶けて死体が現れ、『ハズレ』の大合唱。それを何度も繰り返している。
「……どうなってんだコイツは」
徒労感を感じて思わずボヤいた青年が倒した悪魔を観察すると、溶けた体から出てきたのは最初に出てきた老人の死体だった。
「こりゃ双子ってわけじゃあねぇよな」
『ミンナ捕マエルノ下手ナノ』『ダカラ私ト一緒ニ逃ゲルノ』『アナタモズット一緒ニ遊ビマショウ』
少女の声が方々から森の中に響く。急いでいるのだろう、青年の顔には焦燥がみられた。
”彼女”は再びほくそ笑んだ。
逃げる悪魔。それを追う青年。響き渡る少女の声。
何度も何度も聞き続けている少女の声がゆるやかに青年の精神を蝕んでいく。
次第に青年の足取りが緩んできた。もう逃げる悪魔に追いつけていない。
「て、め、待ちやが、れ」
『アハハ、モウ疲レチャッタノ、カシラ』『疲レチャッタノカ、シラ』
『ユックリ休ムト、イイワ』『休ム、トイイワ』
ついに青年の足が止まる。不快感と焦りが少しずつ絶望に変わり。やがて絶望が諦観へと変化する。
「もう、やめて、くれ」
青年がドサリと膝を着き頭を抱えて蹲る。
『遊ビマショ。遊ビマショ。遊ビハ、モウ、終ワリ?』
青年がふと目線を上げると木の枝から垂れ下がった黒い縄が目に入った。太い枝から垂れた縄の先は頭を通すには丁度いい輪になっている。
「あ、れは……」
青年はゆっくりと立ち上がると縄に向かってよたよたと歩み始める。
これでようやくこの追いかけっこを終わらせることができると。
その縄は黒い髪で編まれているようだった。青年は輪を掴み首に通そうとする。
『イッ、ヒッ、キヒヒ』
”彼女”は興奮を抑えきれないように甲高い奇声を漏らす。
青年の最期を見届けようとするように、悪魔の一体が青年の前に立って腹の口を大きく広げる。口の奥では何かがウゾウゾと蠢いていた。
『終ワリ。終ワリ。今度ハアタシト一緒ニ、遊ベルネ』
「ああ」
命が一つ終わりゆく喜びと、また新しく仲間が加わる興奮に”彼女”が青年の澱んだ瞳を覗き込み、その瞬間を見逃すまいと目を見開く。
だが、小さく頷いた青年が縄を首に通したその時。ゆっくり縄を掴む手に力が籠められた。
同時に精気を失っていた青年の瞳がギラリと輝きを取り戻し、丁度青年の瞳を覗き込んでいた”彼女”と目が合った。
『ーーッ! ヒッ!!』
青年の眼光が放つ殺気に思わず”彼女”が声を漏らす。
「賭けだったが乗ってくれて助かったぜ」
そう言う青年の腕に力が籠められ髪の縄を引き千切る。
「テメーみてぇなひん曲がった野郎はノコノコ来てくれると思ったよ」
青年が目の前の異形の腹に開いた口に腕を突っ込んだ。
「ほーら、捕まえたぜ」
そうして異形の口内で蠢いていた”彼女”を引きずり出そうとする。
『アハ、アハ、ア、アハハハハハハハ』
けたたましい笑いが腹から響き、青年を呑み込むほどの黒髪が悪魔の腹から噴出した。
「うわっ、気持ちワル」
青年が髪に呑まれる前に飛び退き、髪の塊から距離を取る。
企みが上手くいかなかったこと、青年の殺気に怯んでしまったこと。”彼女”は苛立ちを感じていた。
上手くいかなかったのならば自身の手で仕留めるしかない。
『ツカ、マッチャッタ。捕マ、ッチャッタ……』
吐き出された髪を首長の悪魔が呑み込み直す。そして、腹に裂けた口の奥から四本の真っ黒な腕が飛び出て口を内から鷲掴みにした。その腕は縄と同じく髪が撚より集まって作られているようだ。
『次、ハ、私ガ、鬼ネ』
四本の腕が口を強引にこじ開け、そのまま引き裂く。首長の悪魔はガクガクと痙攣しながらのたうち回るが、やがて力尽きたように仰向けに倒れ動きを止めた。
ニョキリと腹の口から少女の頭が覗く。元は可愛らしい顔立ちをしていたのだろうか、しかし少女の顔は一度引き裂かれたものを継ぎ接ぎしたようにボロボロで片目は潰れている。しかし残った側の目は爛々と青年を睨め付けていた。
『サァ、ニ、ゲテ逃ゲテ。アハ、ハハハハ』
異形の少女がケタケタと笑って髪で出来た腕を使って四つん這いになり、青年に向かって猛スピードで這い寄って来る。そして……
『ペギュ!!』
顔面を踏み潰された。
「キモイよお前」
ゾワリと少女の髪が蠢きクロウと絡み取ろうとするが、すぐさま青年は少女の顔面を踏んづけていた足を退けて、そのまま蹴り飛ばす。
『グキュ!!』
バウンドしながら吹き飛ぶ少女。訳も分からず青年の方を見やり、ゆっくりと歩み寄ってくる青年の圧に体が竦んだ。
ギラギラと輝く丸渕眼鏡。悪魔である少女を前にしても一片の怯みもなく不敵に笑う口元。そして強烈な殺気が少女の抵抗の意思を根こそぎ奪う。
少女が取った選択肢は逃亡であった。少なくとも青年は少女の領域からは抜け出せないでいた。こちらからも手は出せないが、閉じ込めることはできるはず。
しかし、その判断を選択を取るには既に遅すぎた。
「今鬼って誰だっけ? 俺か? まぁ、どっちでもいいけどな」
逃げ出そうとする少女の気配を感じてか、一瞬で踏み込んできた青年が振るった手刀が逃げ出そうとする少女の髪の腕を切り飛ばし、悪魔が腕を再構成する間もなく青年は拳を構え終えていた。
「付き合ってやったんだ。感謝しろよ」
悪魔の少女はただの人間であるはずの男が発する気配にビクリと震え、その恐怖が彼女に少しの理性を取り戻させた。ぼんやりとしたまだ人間であった頃の彼女の記憶。
食われた両親。動かなくなった飼い犬。そして眼前に迫った黄ばんだ歯。
そして今、そのときよりもハッキリとした殺気が少女に向けられている。
『マタ、遊ンデクレル?』
少女が青年に問いかける。
「ああ、いいぜ。先に地獄で待ってな」
少女の顔に青年の拳がめり込み、そしてそのまま弾け飛んだ。
ドサリと少女の体が地に落ち、溶けるように消えてゆく。その光景をのんびり眺めている余裕は青年にはなかった。
(あ~あ、忙しいなぁ)




