間章② とある男の追憶
既に零時はとっくに回っているのにも関わらず、街灯やビル群から発せられる灯りが都市全体を包み、煌々と輝く満月の光すら霞ませている。
そんな都市の灯りも殆ど届かない細い裏路地を影から影へと溶け込むように歩いているのは黒いコートを纏った背の高い男。
ひょろりとした男の顔は目深に被った中折れ帽が隠しており、夜闇と相まって表情は読めない。
「こちらウィンター。後10分ほどで帰投地点に到着する」
男が手にした端末に話しかける。
『こちら計画本部。No.2760 コードネームウィンターだな。了解した。回収チームを向かわせる。ミッションは完了したか?』
「ああ、目的の情報は奪取済だ」
『了解。では10分後に』
相手が短くそう言って通信が切れた。
男は引き続き夜闇に紛れながら帰投地点を目指す。
程なく指定されていたポイントであるボート乗り場に辿り着いたが誰もいない。予定ではここにクルーザーと回収チームが待っているはずだった。
「こちらウィンター。帰投地点に到達した。回収チームはまだか?」
歩道から乗り場へと続く階段を降りながら端末に問いかけるも返事はない。
訝しむ男だったが、端末の故障かと考え調べようとしたところで後方から声が掛かった。
「こんばんは、エージェント君。確か今は”ウィンター”だったかな?」
見上げると歩道沿いの手すりに手をついて、闇に紛れる黒ずくめの戦闘服を着た中年の男が立っている。男にはその顔に心当たりはなかった。
(こいつ、今”ウィンター”と呼んだか?)
"ウィンター"は今回の作戦におけるコードネームである。目標企業への潜入の際には別の名前を使っていた。計画本部しか把握していないはずの名前をこの武装した中年男が知っている。そして、その計画本部からの応答はなく、回収チームも来ていない。
「僕が邪魔になったということかな」
「君はこれまで十分過ぎるほど働いてくれた。そして、任務を終えた君を温かく迎えるのが私の仕事でね」
中年の男が片手を挙げると重武装をした兵士が十数名、闇から浮かび上がるように音もなく現れる。
全員が火器で武装しており、身のこなしからしても精鋭揃いだろう。
(やはり、こうなるのか)
組織は不要になったエージェントを切り捨てている。そういった噂は前からあった。退職したエージェントの足取りが全く追えなくなる、なんてのは良くある話だったからだ。
今回は潜入と工作がメインの仕事だった。武装はナイフと拳銃程度。この数相手では不利は否めないだろう。
しかし男は被った帽子を軽く抑え、ツバの縁から相手を睨め付け笑う。
「……舐められたもんだね。僕がこの程度の数でどうにかなるとでも?」
その様子を見て中年の男は冷ややかに笑った。
「何だ、抵抗するのか? 意外だな」
「なんだと?」
「抵抗して何の意味がある? 今を切り抜けたって結局組織からは逃げ切れん。何よりそうまでして生きる理由がお前のどこにあるんだ? ……ああ。シシーリアだったか? お前さんの恋人の名前は?」
男はその言葉に顔を顰める。
「貴様……」
「ああ、誤解するなって。別に何もしてやいないさ。しかし、本来エージェントには許されないの禁断の恋からの脱走劇。じつにロマンティックじゃないか。悲劇的な恋というのもなかなか良い」
男はその言葉に反応することなく視線を周囲に巡らし突破口はないかを探ろうとする。しかし、次に続いた中年の男の言葉に凍り付いた。
「ちなみにシシーリアというのは、本部でラリッてる君がブツブツうわ言みたいに呟いていた名前なんだけどね。どんな娘なんだい?」
「何を……言っている」
中年の男はとびきりのプレゼントを渡すように心底楽しそうに笑った。
「知らないのかい? 本部に帰投したら健康診断を受けるだろう。そして、彼女との束の間のバカンスを堪能してリフレッシュした君は任務に投入される。まぁヤバイ薬じゃない。ちょっと楽しい幻覚を見て気持ちよくなるだけ。ホスピタリティ溢れる組織からのサービスさ」
「な……にを……」
男が頭を抱える。確かにいつも健康診断を受けて、その後休暇用の隠れ家に移動して、いつも通っていたカフェに行く途中で引っ越してきたばかりの彼女の道案内をして……いや、カフェで何を飲んでいた? 彼女はどこから引っ越してきた? 隠れ家にはどうやって移動していた?
大事なことは覚えているつもりだった。しかし、記憶の細部が思いだせない。……忘れた? いや、そもそも存在しないのか?
「君らエージェントには家族も兄弟もいない。名前もなけりゃ戸籍もない。顔も何度も変えて記憶も嘘っぱち。物心ついた時には人殺しのお前がこのまま生き残って何になるんだ? 脱走に意味なんてあるのか? なぁ、教えてくれよ?」
畳みかける中年の男の言葉に頭が真っ白になっていく。
俺は……。
彼女に聞かれて咄嗟に名乗った名前。自分の名前……。
(……ルイス)
茫然とする男の耳に、嘲るような笑いと共に中年の男の声が聞こえてくる。
「お前はどこの誰なんだ?」
* * *
壁一面に大量の本が並んでいる室内はかなり広い。
部屋の中にはいくつかのデスクと大量の機材が並んでいた。
その機材の中でもとりわけ目立つのは部屋の中央に置かれた巨大な装置。
四方には柱が建てられ柱同士の間には淡い光の膜のようなものが覆っている。
装置の真ん中には黒い装丁の本が宙に浮かんでいた。
「〈光の王〉じきじきの認証が組み込まれているとは面倒なもんだね。ここで随分と勉強させてもらったから、ある程度知りたいことは知ったし後はこれを頂くだけなんだけど、なかなか厄介そうだ」
そうボヤいたのは机に腰かけて湾曲したナイフをクルクルと回す青年だ。ひょろりとした体格に白衣を纏い、青白くやや不健康そうな風貌はいかにも研究者といった風体である。
「ルイス君、考え直したまえ! これは貴重かつ危険な書物であり、導主が直々に管理しているものだぞ。そもそも奪ったところで〈光の王〉でない君には扱えん!!」
そう声を荒げるのは赤毛で禿頭の中年男性だ。青年の足元で両手を頭の上に組んで跪かされている。
青年は男性をみて薄く笑った。
「ルイス君ねぇ。残念ながら、去年入所してきた新人研究員のルイス君はとうに死んでるよ。入れ替わるときに名前を見たときは思わず笑っちゃったけどね」
そういって青年は顔をひと撫でする。青年の顔をツルリと光沢のある仮面が覆い、仮面の表面には〇と×と◡の三つの文字が顔を表すかのように表示されている。
「き、君は? ルイス君じゃないのかね!?」
「色々とご指導ありがとう所長。お陰様で何とかなりそうだ。後はこいつだけでね」
そういうと所長の襟をつかんで、装置の元へと引きずっていく。
「待ちたまえ。これは私一人のキーではなく〈光の王〉の認証が必要なんだ。それで初めてロックがひグエッ!」
所長を光の膜に押し付けて仮面の男は湾曲したナイフを首に当てる。
「黙っていろ。それはこちらで書き換える」
そして仮面に数字と文字の羅列が高速で流れ始めた。
(〈光の王〉の認証を別の”王”に書き換えているのか。そんなことができるというのは、つまり……)
光の膜が極光のように色を変え、少しずつ激しく輝き始める。そして……。
勢いに耐えかねるように膜が弾け飛んだ。
ドサリと支えになっていた膜が消えて床に倒れ込む所長。
「ようやくだ」
呻きながら所長が顔を上げると、そこには黒い装丁の本を手に取り、喜びを表すように仮面の表示を激しく明滅させる男がいた。
「その燦術の構築方式、君は〈叡智の方舟〉の人間か!? 悪魔を使って何を考えている?」
倒れたまま問いかける所長を見下ろし、仮面の男はナイフをクルリと回す。
「そうですよ所長。あなたがたに滅ぼされたね」
「そもそも〈箱舟〉が仕掛けた戦争だろう。何故あのような真似を……まてよ、〈箱舟〉ということは狙いは〈血の暴動〉を喚ぶつもりか!?」
「正解。〈箱舟〉じゃ〈血の暴動〉は有名でしたからね。検討くらいは付きますよね」
「な、何を企んでいる?」
「それは流石に所長殿でも分かりませんか。まぁ、是非見ていて下さい。地獄の底から、ね」
所長の問いかけには答えず、仮面の男はナイフを持った手をゆっくりと上げていく。
そして、逆手に構えたそれを躊躇うことなく振り下ろした。
* * *
「そういえば、君はいつもサングラスやらスカーフやらで顔を隠しているだろう。薄気味悪いと非常に評判が悪い」
隣に歩く男にそう話す女の顔は、窓から差し込む逆光でよく見えなかったが、ぼさついた黒髪とよれよれの白衣からは想像できないほどハキハキとした声をしている。
「そんなことでは私の側近として格好が付かないのでな。試しにこんなものを作ってみた」
そう言って女性が懐から取り出したのは一枚の仮面だった。表面はツルリとしていて液晶ディスプレイのような質感である。
「コイツは傑作だぞ。マジックミラーのように裏側から透過して見えるのはもちろん、表情筋の動きを察知してディスプレイに簡単な記号を使って表情を表示できる。ついでに燦術の術式を走らせることも可能だ。〈叡智の方舟〉の側近としてはふさわしい装備だろう」
「はぁ。それは便利ですが……表情ですか?」
自信あり気に話す女性に呆れ気味に男が返す。
「なんだ? 可愛いだろう。君は暗いし表情が読めないから何を考えているか分かりづらいと、何件も苦情がきているぞ」
そう言われては男には返せる言葉はなかった。
彼女は上司であり恩人だ。気にかけてもらえるのは素直に嬉しい。
「ありがとうございます。大切に使わせてもらいますよ。貴女にはこの鏡の国に来てただ死を待つだけだった僕を拾って頂いた恩があります。その恩はこの身を尽くして返すつもりですよ」
「はっはっは。暴れる君を叩き伏せて大見得を切った手前、約束は守らねばならないからな」
そう言って恭しく受け取る男に女は豪快に笑う。
鏡の国に来たとき、既に自暴自棄な状態となっていた男はこの国に災厄を振りまいた。
しかし、この国の主である彼女には手も足も出ずに打ち負かされ、その際に強引に勧誘されたのだ。
『何に苦しんでいるが知らないが君はこの世界に選ばれたんだ。これは神が意図した運命だ。〈箱舟〉に来い、私が君に居場所も意味も与えてやる』
当時を思い出し男が苦笑する。
「ん、どうした?」
「いえ、随分と強引だったと思いまして。……貴女は運命と言いましたが、何もない僕に自分自身の意味を見出せるのでしょうか?」
男の問いに女が苦笑しながら足を止める。
「そんなことを考えている内はどんな答えにも満足なんてできないだろう。迷いを晴らそうと思うなら今を地道に積み上げていくしかないさ。まぁ安心するといい、君を誘った者として存分にこき使ってやる。余計なことを考えている暇はないぞ」
女はそう言ってパンパンと手を叩いた。
「さぁ、話は終わりだ。会議に遅れるからな。ちゃんと仮面は付けろよ」
(今か。今の僕にあるのは工作員として鍛えられた能力だけだ。なら、まずはそれを生かして積み上げていくしかないな)
男はそうひとりごちて女から貰った仮面を顔に当てる。仮面は吸い付くように男の顔に装着され、同時に表面のディスプレイが起動して〇と×と◡の三つの文字が目と口を表すように表示される。
それを見た女はニヤリと笑った。
「似合うじゃないか。そうだな、君はこれから電子の仮面と名乗ると良い」




