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冬の記憶

作者: 束子

白い、白い世界だった。


空も地面も、ただひたすらに白く、そして冷たかった。




窓から見える空はぼんやりと曇っている。今にも降り出しそうな気配だ。この冷え込みなら雪になるだろう。


いきつけのスパゲティ屋。月三回のデートのうち一回は顔を出す。理由は簡単、美味いからだ。


俺は満足のため息とともに煙草に手をのばして、ひっこめた。


礼儀にうるさい陶子のことだ。彼女が食べ終わらないうちに火をつけたら、怒るだろう。


陶子はまだボンゴレの浅蜊と格闘している。


手持ち無沙汰に、彼女の顔を眺めた。まっすぐな黒髪に黒瞳。東洋的な顔だちは美人の部類に入る。


俺の視線に、陶子は顔を皿に向けたまま上目づかいに俺を見た。


「なによ?」


「俺さ、子供のころ、雪山で遭難しかけたことあるんだ」


ふと口をついたのは子供の頃の記憶だった。


「遭難ん〜?」


陶子が形よく整えられた眉をひそめた。疑っているな。


「家の裏山にさ、抜け道があってそこ通るとばーちゃん家まで近いんだよ」


「そうなんだ」


「サムイな……」


「え?」


「いや、なんでもない」


陶子の無意識なオヤジギャグをさらっと流し、俺は続ける。


「ガキの頃ってバカだからさ、裏山通って帰ろうとしたんだ。冬の最中に。そこで道に迷ったちまったんだよ…」


上品に音をたてずに、陶子はつるりとパスタを吸い込んだ。




祖母の家から帰ろうとした俺は、新雪を踏むのが面白くて裏山に踏み込んだ。


それはいつも駆け回っている裏山だったので、近道をして帰ろうと、俺はそのまま山を登っていった。


樹冠を形成している杉林は根元に吹き込む雪は少なく、海沿いの道よりも歩きやすい。


だがいつしか、俺は道を見失っていたのだ。


沢にはまったのか、腰まですっぽりと雪に埋まってしまって、身動きがとれなかった。


もがいても、もがいても、手をついたあたりの雪も柔らかく、ずぶずぶと埋まってしまう。


雪から足を抜こうとひっぱったら、履いていた長靴が雪の中脱げてしまった。もう一度足をおろして長靴を履こうとしたら、長靴の中には雪がつまっていてこんどは足が入らない。


そで口やマフラーを巻いた襟首からも雪が入り込んできて冷たい。




心地よい倦怠感と陶子の体温を身近に感じながら、俺は深く煙を吸い込んだ。


「ふうん……そんな家の近くで?まぬけねぇ」


陶子は白い胸を羽布団で隠しながらくすくすと笑う。


「まぬけ呼ばわりすンなよ。死にかけたんだぞ」


俺は根元まで吸ったタバコを灰皿に押し付けた。


「でも、弘樹が今ここにこーしてるってことは助かったんでしょ?」


「まあそうなんだけど」


陶子はにっこりと笑った。俺を魅了してやまない笑顔だ。


「そんなことより、もっぺんしない?」


「マジ?」


「まじ」


俺は笑って、細い腰に手をのばした。




焦りと不安で半分べそをかきながらも、おかあさん、とよぶのはイヤだった。もう十歳になったから。


「大きくなったねぇ」と祖母に言われて「あったりまえじゃん!」と胸をはったばかりだったから。


じたばたともがいて、ようやく浅くて固い雪の上にたどり着いた時、片方の長靴は雪の中に埋もれていた。


汗と雪で背中がびっしょりと濡れ、そこからしんしんと冷気が襲ってきていた。


靴下に雪がくっついて固まってぼそぼそになった。


足の先が痛くて木の根元にしゃがみ込む。すでに日が落ちてあたりは薄暗い。


目印のネコ岩も、四本松も見失い、途方に暮れた。




「まじで、もう帰れないと思ったよ」


「もうその話はいいよ」


缶入りの烏龍茶を飲みながら、陶子が言った。


給料日直後でちょっと張り込んだ、湾岸エリアの小奇麗なホテル。窓の外には地平線まで夜景が広がっていた。


濃灰色の空を大粒の雪が舞っている。


故郷ではこんな雪は降らない。もっとさらさらと細かい雪だ。溶けずにどんどん降り積もる。


陶子は窓の外をぼんやりと眺めている。


「電車、止まってるね。きっと」


「陶子さ、俺が遭難したあの時の騒ぎ、覚えてねーの?」


「全然覚えてない。夢でも見たんじゃないの?」


確かに、あれは夢のような出来事だった。現実主義の陶子は信じないだろうか……。


「俺さ、あのとき雪女に会ったんだ」


陶子が無表情に振り返った。




木の根元に座り込んで、俺は寒さに震えていた。


手袋をした指先も、尻も足先も、じんじんと痛い。


「どうしよう……」


既に陽も落ち、西の空にかすかに青灰色の明るさを残して、薄闇が辺りを包んでいた。


雪は相変わらずしんしんと降っている。


途方に暮れたその時、目の前に現れたのだ。白い白い女が。


「迷うたのか?」


抑揚の少ない声と共に、すらりと背筋をのばして立った女が見下ろしていた。お化けだと思った。白い着物を着ていたからだ。


だが悲鳴を上げようにも、硬直したまま身動きができない。


「そう怯えることはない。とって喰いはせぬよ」


女と俺は凍り付いたようにしばし見合った。


まっすぐな黒い髪、黒い瞳、白い肌。雪の中、薄着のまま長い紙をなびかせて立つ女は、無表情だが綺麗だった。


立ち去ろうとするその着物の端を、俺はとっさに掴んだ。


「待って」


女は足を止め、黙ったまま振り向いた。見下ろすその顔は相変わらず無表情だった。


「いかないでよ!一緒にいてよ」


何故呼び止めたのか、よくは覚えていない。心細い雪の中で心細かったのだろう。


俺はその着物の端にすがりついた。女の顔にふっと、笑みが浮かぶ。


「他言無用じゃぞ」


意味が解らず首をかしげた俺の頭を、女は手を延ばしてなでた。


「誰にも言うてはならぬ。よいな?」


俺はうなづいた。


それからの記憶は定かではない。気がつくと病院で布団にくるまれ、両親と祖父母が覗き込んでいた。




「あの時あの雪女が助けてくれなかったら、やばかったと思うよ」


俺は言った。


陶子は素肌に備え付けのガウンをはおった格好のまま、ぎこちなく首をかしげた。


今日は陶子の白い肌がやけに白く感じる。まるで雪のように……透けて。白く。


「陶子?」


無表情に俺を見つめる彼女の名を、よぶ。


そして俺は唐突に気づいた。


彼女は……彼女は、誰だ?


俺のとなりに座る、陶子。俺は彼女の事を何も知らない。名字は?電話番号は?家族は?家は?


俺の隣に、幼馴染みとして、友だちとして、そして恋人として常に側にいた彼女の事を俺は何もしらない。


きしり、と陶子が笑った。


「また、会うたな」


陶子の、弾むように軽やかな声ではなかった。低く、抑揚の少ない、しっとりと馴染む声……。


「おまえは……」


きしり。


きしむような音が鳴る。新雪を踏み分ける時の小さな音。


笑みを浮かべたまま、彼女の体が倒れた。枯れ枝に乗る雪が落ちるように、それは砕けて花柄のベッドカバーの上に散った。


雪は暖かい部屋の中でゆっくりと解ける。後にはぽたぽたと滴り落ちる透明な水だけが、冷たく残っていた。


俺の手から滑り落ちた煙草の火が、音を立てて消えた。




裏山の、見覚えのある火の見櫓がぼんやりと雪の中に霞んで見える。


二月。もっとも雪深い季節に、俺は帰ってきた。


六年ぶりの実家は、変わっていない。田舎ののんびりとした雰囲気は昔のままだ。


そして、つねに俺のかたわらにいた少女は誰の記憶にも残っていなかった。


誰も陶子を覚えていない。


「とうこー!」


しんしんと舞い落ちる雪の中をざくざくと踏み分け、おれは彼女の名を呼んだ。


白い闇の中、返事はない。


やみくもに歩き回り、やがて俺は道を見失った。あの時のように。


「陶子!」


どれくらい歩いていたのか。足が重い。長靴ではなく雪山用の登山靴を履いていたが、指先はすでに感覚がない。


「とう……こ……」


何度めか、再び足がもつれ、雪の中に倒れこんだ。


雪は柔らかく、やさしく俺を包む。陶子の腕のように。


なんとか体勢を立て直そうともがく目の前に、白い着物の端が見えた。咄嗟に手を延ばすが、それはするりとすりぬける。


「待ってくれ!行かないでくれ!」


顔をあげることもできぬまま、俺は叫んだ。


「俺が側にいてやる。俺が……今度は俺が側にいてやる番だ。陶子!」


少し風が出始めたようだ。細やかな雪は風に舞い、さらさらと落ちてくる。


雪を踏み分ける小さな音が、きしり、きしりと鳴っていた。


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