1-2 意見の相違
俺は聖ブリュナーゲル城砦都市の東に1kmほどの場所にいた。そこは神祖の森と言われている。神の住まうと言われる場所。神域というのだろうか。
小さな時から修行をするときはいつもこの場所だった。鬱蒼と茂る木々の木漏れ日は実に気持ち良い。森の間を駆け抜けるそよ風が頬に当たって気持ちいい。
しかし、今そんな余裕はない。森の中にある滝の下で座禅を組んで水に打たれて精神を高める。異邦人はこれを“禅”と呼ぶが、俺にとってはそういうものではない。ただ精神を高めるだけの修行だ。
俺も少しくらいは魔法を使うことができる。【浮遊】の魔法を使ってミオから手に入れたリストブックを目の前に浮かべている。ぺらぺらと自動で捲られていくページたち。詳細な情報がぎっしりと詰っている。スリーサイズと顔のイラスト。見ているだけで下腹部が漲ってくる。
むらむらとした煩悩が俺を攻め立てる。つぅ、と鼻の穴から血液が流れ出る。だが、ここで気を失うわけにはいかない。この程度で気を失っていては俺が俺じゃなくなる。俺の夢が達成できなくなる。
だが、そんな俺でも限界が来る。イラストつきだと思ってはいたが、特に美人だと評価されている美女たちはヌードイラストがあったのだ。おそらく想像で書いているのだろうが、あまりに美しすぎる。生々しすぎる。このような肉感たっぷりの肢体を見るには俺は若すぎる。
「――ブハァッ!」
鼻血を迸らせながら俺は煩悩のせいで精神統一が解かれて滝の濁流に飲まれこむ。本日3回目の事故だ。
ごぶぶぶぶ、と半ば本気で溺れかけながらなんとか脱出する。周りの草の根が頑丈で助かった。思いっきり掴んでも引っこ抜けなかったからなんとか生き延びれた。煩悩に溺れて死ぬというのも本望ではあるが、まだ死ぬには早すぎる。
「よぉ、こんなところで何してるんだ。カシム」
パンツ一丁姿の俺を訝しむように話しかけてきたのは俺のパーティーメンバーの魔法使いデルブライトだ。今日も今日とて無駄にさらさらな金髪を太陽に反射させて輝かせている。瞳は空のように澄んだ鳶色。モテそうではあるが、俺と同じく彼女いない歴=年齢だ。俺の唯一の盟友と言っていいだろう。
普段着の漆黒のローブと簡易に作られた木の杖を持っていることから何かしらの仕事なのだろう。そして俺が滝に流されて溺れていたから声をかけたのだろう。
思いっきり水に濡れたせいで髪が鬱陶しいのでブルブルと身体を震わせて水気を飛ばす。「お前犬かよ」とデルブライトに突っ込まれる。犬よりは幾分か紳士だと思うが。
さっぱりとした髪をぐしゃぐしゃと掻き毟って気を整えてからデルブライトと対峙した。
「まぁ、修行にな。お前こそなんでこんなところに?」
精神修行をしていたのは間違いない。
「依頼だよ。神祖の森にいる精霊たちがざわついているらしくてな。それを鎮めにきた」
「確かに――言われてみれば騒がしいな。何かあったのか?」
耳を澄ましてみれば確かに精霊たちがざわついている。不穏な空気が満ちているわけではなく、とても好奇心旺盛そうに騒いでいる感じだ。言うなれば祭りの前日に楽しみで寝られなくて困っている子供のよう。
「俺たちの街もなんか騒がしいしな。それが原因だろ。妙にギルド内が殺気立ってるんだよな」
間違いなく俺のせいだ。
美女ハンターは結構多い。城砦都市は特に多くなる傾向がある。何故なら異種族の女の子とお付き合いするために来たという人たちだっているからだ。基本的に物好きが多い。
もう情報が流れきったのか、とミオの実力に感心する。あいつはやはり俺の見込んだとおりの女だ。手も柔らかかったし、可愛いし、小さいし、いつか俺の嫁になるべきだろう。脈はなさそうだが。からかわれたし。
とりあえずまた修行に戻らなければなるまい。【浮遊】していたリストブックはゆっくりとした速度で俺の手元に吸い込まれるかのように飛んでくる。
そして俺は一足飛びで滝の麓に戻るとまた座禅を組む。目の前にはリストブック。さぁ、4回目のチャレンジだ。
「なぁ、もう一回聞くのもあれなんだけどさ。一体何をしているんだ?」
「見てわかるだろ?」
俺は滝に打たれて座禅を組んでいる。目の前には女体広がるリストブック。容易に想像がつきそうなものだが……。
「あぁ、修行ってのはわかるぜ?滝に打たれてる時のお前はだいたい修行だしな。でもよ。そんな女のイラストばっかのリスト見て何を修行してるんだ?」
あぁ、だがデルブライトはわかってくれないようだ。それも仕方ない。あいつと俺では嗜好が違う。きっと俺の思考が理解できないのだろう。人とは必然的に解り合えない生き物なのだ。そのために言葉がある。少しでも解り合おうと歩み寄ることができる術がある。
だから俺は淡々と目的を言う。至極格好良く見えるよう意識して。
「無の境地に辿り着かなければならないんだ。俺の夢のためにな」
「伝説と言われる無の境地へか?明鏡止水だっけか」
明鏡止水――一点の曇りもない鏡や静止している水のように、よこしまな心がなく明るく澄みきる心を差す。これを会得すればどのような状況に陥ったとしても冷静に事を対処することができる。
つまり、これさえ会得すれば俺は女体を余すことなく見詰めることが可能だ。俺にとっての必須スキルと言えよう。何故未だに習得していなかったのかと過去の俺を口いっぱい罵りたい気持ちで満ち満ちている。
「あぁ、剣王ラキが生涯求めた伝説の精神状態のことだ。結局は習得できなかったようだけどな」
伝説の剣王ラキ――彼はこのスキルを会得するために生涯を懸けたらしい。だが、生涯を懸けるというのは実に便利な言葉だと思う。長々と時間を懸けたのだろう。俺なら一瞬で命を懸ける。そっちのほうが早い。無理なら死んだ方がマシだ。
俺が本気なのがわかるのだろう。デルブライトの纏う空気が変わる。
だが、同時に不思議なのだろう。リストブックをまざまざと睨みつけている。本気で理解不能のようだ。頭の上にはクエスチョンマークが浮かんで見える。
「なんでまたそんなものを会得しようとしてるんだ?というよりその女のイラストは関係あるのか?」
「あぁ、ある――クッ!」
答えてやろうと思ったが、俺の精神が限界に近い。またもや鼻血を噴出した。
ガクリと前のめりに倒れて濁流に飲み込まれる。慌ててデルブライトは俺に【浮遊】をかけてくれる。本当に優秀なパーティーメンバーだぜ。
「どうした?誰かからの精神攻撃か?!」
周囲を警戒しながら高等魔術である【絶唱】を唱えて次に唱える魔法を無詠唱にして臨機応変に対処できるようにしている。魔法使いデルブライトはとても優秀だ。何せコイツもSランク。俺と一緒に魔王を討伐した奴なのだから。
「あぁ、精神攻撃の類だろうな。これは効くぜ」
俺があまりにも冷静に川の上に浮遊しながら鼻の穴に指を突っ込んで鼻血のせいでできた瘡蓋を剥がしているのを見てデルブライトは混乱している。何故そこまで冷静なのだ?と。
「敵はどこだ?」
そもそも敵などいないのだ。
そう――あえて言うとすれば――
「敵は俺自身の中にいる」
リストブックをチラリと見ながら俺は言う。
デルブライトも察したのだろう。【絶唱】を解除して臨戦態勢を解くと胡乱気な視線を俺に向けてくる。
「お前――まさか勝手に妄想して勝手に鼻血吹いてるとかじゃないよな?」
「今更気づいたのか。馬鹿め」
そう言ってやるとまるで雷撃を受けたかのようにデルブライトは硬直する。
膝から崩れ落ちて地面に這い蹲ってか細い声で苦やし草に呻いていた。
「俺はかつてないほどショックを受けているよ。馬鹿に馬鹿だと罵られるのはこれほどに辛いものだったんだな」
俺が馬鹿だと?それはありえない。俺は自分に正直なだけだ。
「甘いな。甘いぞ、デル。俺はこの奥義を会得して更なる位階へと進むのだ」
そう――俺はまた一つ大人への階段を一歩進めるのだ。生まれ出でて十五年。ようやく自分の殻に閉じこもることをやめるのだ。俺は大人になる!
「どこに行こうってんだ?というより戻って来い」
いつのまにか立ち上がっていたデルブライトはそう言うが、聞くつもりなどない。浮遊のまま空を泳いで俺はデルブライトの横で着地する。
【武装装着】を唱えて装備を召喚して自動装着させる。ケルベロスの皮で出来た魔獣の胸当てと魔獣のパンツに魔獣の靴だ。武装は鋼の剣。いつもの装備に身を整えると俺は宣言した。
「ブルッシュリウムの森を踏破して――俺は女体の神秘を垣間見る」
空高く鋼の剣を掲げて俺は叫んだ。
必ずやり遂げてみせると居丈高と吼えた!
「な――命を捨てるようなものだぞ?!」
デルブライトは叫ぶが、そんなことは関係ない。
命を捨てる?何を今更と言った感じだ。死ぬような危機的状況は今までいくらでもあった。それでも俺は生きている。それに何より――今回は自らのために力を振るうのだ。
「夢を見るために命を払う。当然の代価だろ」
たとえ死んだとしても俺は笑って死ぬ自信がある。夢半ばに「チクショウ、クソッタレ!」と罵りながらわりと満足げに逝く確信がある。
デルブライトは俺のことを理解してくれないらしい。
「お前のことは馬鹿だと思ってはいたが、それほどまでに突き抜けた馬鹿だとは思っていなかったぞ」
「フン、お前に何がわかるって言うんだ」
これ以上の話し合いは無意味だろう。
時間の無駄でしかない。俺は明日の英気を養うためにすれ違うようにデルブライトの隣を通り抜ける。
「じゃあな。俺は明日発つ。お前と今生の別れになるやもしれん。だが、さよならとは言わないぞ。俺は必ず生きて帰るからな」
まぁ、死ぬつもりはないしな。死んだとしても後悔はしないだけだ。正直死にたくはない。俺は生きて帰ってみせる。
「今すぐ帰ってこい」
だが、デルブライトはそんなことを言う。まだ旅立ってすらいないのに、背中合わせにそんなことを言って来る。
「もう戻れるかどうかも危ういぞ。お前」
戻る?俺はまだ出発すらしていない。スタートラインにすら立っていない。俺の冒険はまだ始まってはいない。
話し合いはやはり無駄だ。相互理解が不可能だ。
「どうも話が噛み合わないな。まぁ、俺は明日旅に出る。またな」
これで話が終わりだという意味を込めて俺は言い放った。
言葉と同時に背後からとてつもない魔力が溢れ出す。禍々しい魔素が解き放たれる。神祖には決して似合わない邪悪な気配。それをデルブライトが放出していた。
「旅に出るというのなら俺を倒してから行け」
幾ばくかの怒気を込めた言葉が発せられる。何故だ?
「何故お前と戦う必要がある?」
俺たちは理解はできなくても友のはずだ。盟友のはずだ!
「お前の性根を叩き直す!」
俺の性根を叩き直すだと?
意味はわからないが激しくムカツク言葉だ。
格好よく喧嘩を買ってやろう、と思ったが足に力が入らない。いつもより装備が重く感じる。あぁ、間違いないな。
「ふん、いいだろう。だが、今日はダメだ」
「逃げるというのか?!」
「鼻血の出しすぎで力が入らん。お前に勝てる可能性が微塵もない」
逃げるつもりなどない。ただの貧血だ。明日になれば治っている。
「それはアンフェアだな。ならば明日――ブルッシュリウムの眼前にて待つ」
それでいいだろう。明日どちらが正しいか決着をつけるときがきたようだ。
「あぁ、思えばお前と戦うのは何年ぶりだ」
思い出すのは小さな頃、毎日のように修行と称して取っ組み合いをした日々。
目指す道が違えたときから俺とお前は戦わなくなったが、それでも共に歩んできただろう。たとえ進む先が異なるとしてもお前とだけはずっと仲間だと思っていた。だけど、そうじゃないんだな。
「さぁな。覚えてすらねぇよ。まぁ――行かせはしねぇぞ、相棒」
「ハッ、言ってろ。俺は俺の正義を全うする。またな、相棒」
俺はお前を倒して俺の正しさを証明する。
俺こそが正義だ!




