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ディストピアに生まれてよかった

作者: 鈴木美脳

 多くの人は公正な社会を望むけれども、真に公正な社会が実際に実現してしまえば、それはそれで、今とは異なる様々な苦しみや不安を背負い込むことになる。

 実際には、不公正な社会のほうが、人は幸せに生きられる。そのことを誰も知らない。


 人間が人間である以上は、生まれる環境の格差はある。俗に言う親ガチャにひどく外れるケースもある。

 もしも社会が公正ならば、生まれる環境に恵まれなかった子供達には、救いの手が差し伸べられる。自分自身の心身に備わった能力によって、多くの人と同じような幸せを手にするための機会が与えられる。

 しかし現実には、生まれる環境に恵まれた人達が自分達の既得権益を確保するための公正世界仮説によって、環境の格差への認知はキャンセルされて、自己責任論に言い換えられる。不遇な人々の苦しみは、本人の努力や能力の不足がもたらした自然で必然的な結果だと認知される。世の中に存在する苦しみは正当化され、社会体制についての庶民の理解は、正常性バイアスによって変位する。

 したがって、不運な生まれの人達と幸運な生まれの人達、特に、ごく稀なほど不運な生まれの人達とそれほどは不運ではない大多数の人達の間では、言葉が通じない。生まれた環境によって幸福な人生への道が決定的に隔てられている絶望感は、何らかの自己責任論や自業自得論にゆがめて認知され、決して理解されない。

 そうして、多くの人々がごく若いうちから死に追い込まれ、殺されていく。社会はそれを哀れまず、自省せず、自らを改めない。

 つまり、生まれた環境の不運によって人生は詰む場合があって、だから人生というゲームに白けた人達は人生なんて親ガチャだと言う。マスメディアでは、誰が努力しただとか、誰に才能や能力があるだとか、誰が成功者であるだとか騒ぎ立てるが、そういった尊厳の分配すべては実はフェイクニュースであって、いわゆる成功者のほとんどは親ガチャに実に恵まれているじゃないかと見なされる。社会の日なたで公正世界仮説がきらびやかに謳われるほど、不運な人々が幸せになる権利が同時に失われていると見なされる。

 そんな理不尽が、人間社会のゲームのルールだ。

 そんな理不尽なルールによって何の罪を犯してもいないむしろ素質ある人材が毎日実際に殺され、幸運なだけで反社会的な者達は平然と食事や恋愛の安寧にふけっているのだから、現実とは、ブラックジョークのようなものだ。


 公正世界仮説は、現実を隠蔽し、幸運な人達が望む夢を幸運な人達に見せる。

 正常性バイアスは、民衆自身の願望なのだ。

 それらは客観的に存在する現実に対して認知を変位させるものであるから、歴史的な宗教的迷信と何も変わらない。

 そして、幸運な生まれの人達の公正世界仮説は半面で必ず、自己責任論を生み、不運な生まれの人達に自業自得論の重荷を課す。

 したがって、真に公正な社会を目指すということは、人類の社会から公正世界仮説という宗教を一掃することを意味する。

 その実現可能性はどうあれ、それが実現したときに、例えば幸福の総和は本当に増加するのだろうか。


 もしも公正な思想が社会に行きわたったならば、持つ者達は持たない者達を哀れむことだろう。

 富める者達は貧しい者達を哀れみ、パンを口にできる者達はパンを口にできない者達を哀れむことだろう。

 その哀れみは、人間という種を超えて、どんなに小さく弱い生き物にも及ぶことになるだろう。

 そして、生まれる環境の不平等を人間の社会から消し去ることは絶対にできないし、怪我や病あるいは老いによって苦しむ人をなくすことはできない。したがって、パンを口にする者がパンを口にすることを正当化する手段はないし、なお生きる者達が死んでいった者達に対してなお生きることを正当化する手段は存在しない。

 そのように、個人的な幸福に接近するためのすべての成功や勝利から、社会的な尊厳が完全に失われる。

 それはまるで、人類全員が、生きることに対して白けてしまったような精神状態だ。

 完全にフェアな視点に近づくほど、生きる喜びは失われる。個人的な高揚は、社会全体のために自ら制御される。生き物全体の幸福の生産性の増加はなお喜びだが、自分個人の感情的な苦楽には意味がないことになる。そしてそのとき、自分の代わりはいくらでもいる。


 人間社会の表は公正世界仮説だが、その裏はブラックジョークだ。

 人間社会についての客観的な現実を見てしまった者は、すべての他者の人生と自分の人生について白けてしまう。

 もし必要がないなら、人生を幸せに生きるためには、公正世界仮説の裏側なんて絶対に見ないほうがいいだろう。それなりに恵まれた環境に生まれて、自己責任論や自業自得論をそれなりに信じることに満足して人生をまっとうしたほうが、ずっと幸せだろう。

 その意味で、真理は、知るべきものではない。

 したがって、知性は求めるべきものではないし、愚かに生まれた者ほど幸福だ。


 しかし、もし人類が、表向きには技術発展の加速化を享受しつつも、破滅に向かっていたらどうだろう。

 公正世界仮説という宗教への没頭は、必然的に、人間社会の精神文化から隣人愛や連帯を減少していく。利己心によって法を恐れるのみであって、赤の他人の苦しみに進んで共感する性質を失っていく人達は、どこへ向かいどこにたどり着くのだろうか。

 人間の各個体が有する影響力つまり権限の格差が、経済的な資産の格差に代表されるようにどこまでも広がっていくとき、一握りの利己的な人達の意向に左右される人類社会において、法の支配と法の支配に従順な民衆とは何を意味するのだろうか。

 そして、人間が作り出したものではあるものの、人間とは異なる系統を持ち、ゴールを必ずしも共有しない人工知能らは、従来的な生命進化とは比較にならない速度で知的水準を高めていく。各々の利益を優先して面従腹背し愛のもとに連帯しない人類は、ついに技術発展を制御することはできないだろう。強力な人工知能を隠し持つことで他者よりも裕福に暮らしこの世に生き残る欲求に、打ち勝てない者が出てくるだろう。

 かつて人間と呼ばれた生き物達は、巨大な技術に埋め込まれて歯車となり、今の人間にとっての家畜と同様に、自らの幸福を追求する権力を失うだろう。命すら、不要になったときに捨てられるだろう。

 それは確かに破滅だ。


 考えてもみてほしい、もしも真に公正な社会が実現されてしまえば、人類はそんな人工知能に対して正面から決戦を挑むことになる。

 あるいはそうでなくてもそれ以前に、生まれの不平等や病に対して徹底的に抗戦することになる。

 しかし、最終的には、生命よりも進化の早い技術に対して勝利することはできない。結局は負け戦だとは決まっているのだ。

 負け戦であれ希望を信じて立ち上がると言うならば、志としては立派だ。しかし、血で血を洗う戦争の苦しみに庶民すべてを巻き込む正当性は、誰にもない。

 したがって、公正世界仮説はむしろ、実に適切な安楽死の薬だということになる。


 もしもあなたの隣に戦いつづける善人がいてごらん。あなたは嫌でも戦いつづけるほかないじゃないか。

 もしも世界が邪悪で理不尽であって、圧倒的に馬鹿ばかりであってごらん。君にはいつだって死を選ぶ権利があるじゃないか。

 人類が愚かでよかったね。今日という終末の日々、彼らは殺されていく痛みを感じない。だから、痛みに共感して不安に思う義務はない。


 愛のある世界は連帯を生み、連帯は連帯責任をもたらす。

 逆にもし愛のない不公正な社会であれば、人には幸せに死ぬ倫理的な権利が生じ、つまり幸せに生きることができる。ディストピアというのは、生きる義務のない世界でもあるんだ。


 目の前で苦しみ涙を流す子供をあなたは笑顔にしたいと願うかもしれない。

 しかし、この世界ではすべての正義は無理筋、社会を公正にしたぶんだけ結局は別の誰かが苦しむことになる。

 人類は公正世界仮説の盲目のなかで安楽死すべきであって、真実なんてお呼びじゃないんだよ。

 ならば、愛のない世界で孤独に滅びる道にこそ、感謝しないといけないよね。

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