008 カダベルと道貞
真っ白な世界。
すべてが光り輝いている。
あまりにすべてが輝きすぎて、まぶしいぐらいだ。
身を起こすと、そこが何かの施設だと気づく。
床に触れてみる。見た目はタイルなのだが、感触がなんだか鈍い。
そして温かくも冷たくもない。近くにあるはずなのに遠くに感じられるのは、俺の感覚がおかしくなっているせいなのか?
荒い息づかいが背中側から聞こえて、俺は振り返る。
「よお」
そこにはランニングマシンを使っている小太りの若い男がいた。
タオル地バンダナを巻き、白タンクトップに赤ホットパンツだ。
走るたびに頬の肉も、二の腕も上下する。だらしなくはみ出した腹の肉も揺れ、太ももの肉が互いに打ち付け合っている。
第一印象はみっともない、見苦しい…だ。
「…え? あれ? って、俺!?」
その顔を見て、俺はひどく驚く。
不摂生な生活のせいで、ニキビ跡に覆われた顔面。鏡を見るたびにウンザリしていた見慣れた顔。
ド近眼のせいで、牛乳瓶の底かよっていうくらいの分厚いレンズの眼鏡。
男らしいというよりは汚らしいモジャモジャの眉毛。
どんな整髪料を使ってもペタンと寝てしまう、いつも皮脂でテカっている猫毛質の薄い髪。
…どこをどう見ても、これは俺。
まるで戦国武将のような、堅苦しく古臭い名前だと馬鹿にされてきた、あの森脇道貞だ。
「驚いているようだな」
“道貞”がニヤリと笑って言う。
俺はネットで相手を論破した時ですら、こんな不敵な笑い方をしない。中身は違う存在なのだ。
そうだ。そもそも俺はこんなランニングマシンなんて乗ったことはない。
気の迷いで通販で腹筋マシンを買ってしまったことはあるが、それすらも一度使って、あとは洋服掛けになってしまったぐらいにスポーツは大・大・大嫌いだ。
「しかし、それにしても久しぶりだな、”カダベル・ソリテール”」
名前を呼ばれたことで、俺はハッと自分自身を見やる。
手を、腕を見る…
あれ? あのガリガリの身体じゃない?
「そこに姿見がある。それで自分を見てみるがいい」
「姿見…? ああ、ウォールミラーのことか」
“道貞”に言われ、俺は壁の方へと歩いて行く。
心臓がバクバクといっている。緊張と不安と期待…そんなものが入り混じり合っていた。
「…これは!」
鏡に映ったのは、当然のことながら道貞ではない。かといって、あの年老いたガリガリ老人でもなかった。
そこにいたのはスラリと背が高く、絵画から飛び出してきたような眼鼻立ちの整った美男子だ。
眼は静寂をたたえつつも青く力に満ちていて、金色の豊かな髪は見事に揃って綺麗なウェーブを描いている。
わざわざパーマをあてたというわけではなく、自然とそうなるのだろう。
手足のバランスも完璧で、全体が測られたかのように整っている。
「…これが俺?」
「そうだとも。老人の姿だとわからんが、若い頃のカダベルはそこそこ良い男だったんだよ」
汗を拭いながら、道貞が…いや、違う。
「…カダベル本人、なのか?」
「気づいたようだね。君の記憶を持っている身としては妙だが、あえて言わせてもらおう。はじめまして。道貞くん」
道貞と俺は…いや、紛らわしいから、“身体の中に入っているもの”で呼ぶとしよう。
カダベルが手を差し出してきたので、俺こと道貞はつられて握手をしてしまう。
自分自身と握手するなんて変な気分だ。
「…ここはどこだ? なんで俺とあんたが会っている? いったいこれは何が起きているんだ?」
「人は死ぬ前に夢を見る。これは夢さ。だけれども、現実に限りなく近い夢だ」
「死ぬ前の夢? …そうだ。俺は寿命を迎えて…俺は死んだのか?」
「いや、死ぬ運命にないからこそ、我々は出会えた。君ならばやってくれる。そう私は信じていたのだよ」
「何を言っているんだ?」
「この世界に偶然は存在しない」
「はい?」
「カダベル・ソリテールと森脇道貞はこうして異動し合うことを人生で決定づけられていて、君は節目を迎え、アドバイスを必要としている…だからこそ、私と出会うことになった…」
「はい?」
「ハハ! なんら不思議なことはないという話さ!」
「???」
訳がわからぬままにカダベルに促され、俺は向かいのベンチプレスにと腰かける。
「君が見つけた源核は共鳴し合う性質があってね。それはどんなに遠く離れていたとしても、互いに影響し合う」
「源核…いや、カダベルはその存在を知らないはずじゃ…」
「夢だ。夢だから何でもありなんだよ」
「夢…」
「つまり魂は見えない糸で結びつき合い、複雑な螺旋を描いてこの宇宙、次元、世界同士を繋ぎ紡ぐ。その結びつきが強かったからこそ、私と君は異動し合うことができたわけなんだよ」
さっきから何を言ってるのかさっぱりだ。
「いや、俺は『シラキ・オール・ワールド・トランスファー・サービス』って会社に騙されてて…」
「ふむ。騙されて?」
「あれ? 待てよ。そっちだって、騙されて森脇道貞なんていう“不良物件”つかまされたんだろ?」
そうだ。俺がカダベルなら、こんなみっともない身体に異動したことを呪うだろう。
いくら若返っても、生きているだけで最悪なのだからして。
「不良物件? なんのことだい? 魔法がない世界だが、なかなか楽しませてもらっているよ」
「楽しい?」
道貞だった頃に、俺に楽しいことなんてひとつもなかったぞ。
「大学というのも面白い。私にはああやって教えてくれる師はいなかったからね」
「師?」
「教授のことだよ。先人の知恵を惜しげもなく授けてくれる社会の仕組み…これには感謝しかないな」
あ。そうか…。こいつ、ガリ勉だったわ。
「それに君はあまり学食を利用していなかったようだが、もったいない話だ。
しかし、あの“醬油ラーメン”というのは格別だな。メンマは、キノコより遥かに美味い。異動によってこのラーメンが食べられなくなったことを、君には申し訳なく思うくらいさ」
ハハハとカダベルは腰に手を当てて笑う。
「…太っているのに?」
「食べた分はこうやって運動すればいいだろう」
「…顔だってブサイクなのに?」
「そう思ったことはないが、自分の姿なんて自分じゃ見ることはほとんどないだろ。学業には影響ないしな」
見た目は森脇道貞だ。だけれど、なぜかその悠然とした態度からか、俺の知っている男よりも格好良く見えてならなかった。
「さっき君は会社に騙された…そう言ったが、そんなことはない。それは単なるキッカケにしか過ぎない。君がカダベル・ソリテールになることは予定されていたことだ」
「どういうことだ? 年老いて…死ぬのを待つことが?」
「随分と悲観的だな。悪い事だけに焦点を当てていては、悪い事にしか気づかないよ」
俺のよく読んでいた自己啓発書…
どこから取り出したんだ?
それを手に持ってカダベルは笑う。
「いや、ポジディブすぎるだろ!」
「君がネガティブすぎるだけだよ」
ああ、何から何まで対照的だ…
「……あんたは後悔していたんだろ? だから、異動を望んだんじゃないのか?」
「うん?」
「はっきり言って、魔法の研究は上手くいっていなかった。失望していた。そして年老いてしまい、時間を浪費させてしまったことを後悔したんだ!」
「ああー、なるほど。…そうか。君の“感情”はそう捉えたのか」
「え?」
「記憶が感情を左右させるのは事実だ。記憶によって人格の中にある感情が呼び覚まされる…だが、それは時として誤解を招く。
私はカダベル・ソリテールとして生きてきたことを後悔したことなどひとつもないよ」
「そんなの嘘だ…だって」
「そりゃ魔法研究が何の成果ももたらせないことに一時的に失望したことはあるさ。何か物事が上手くいかないときに残念に思うことは誰にだってあるだろう。それだけでその人生そのものに後悔していると思うのは、なんとも早計だと思わないかね?」
「それは…なら、後悔はしていなかった? 本当に?」
「後悔するならもっと早い時期にしてたさ。私は老人となってからも研究を続けていただろう。意味がなければやらないよ。そんな愚かな真似はしない」
確かにそうだ。俺が覚えているカダベル・ソリテールの記憶は断片的なものだ(そもそも記憶そのものが断片的なものの連続だとも言えるが)。
その時に感じていたものは確かに失望だったが、それがずっと続いていたかどうかは定かではない。
俺が知れるのはカダベル・ソリテールの記憶であって、感情ではない。
この記憶から想起される憶測は、道貞の観点による物だ。
「私も最初は上級魔法が覚えられないことに苛立ちや焦燥感を覚えたさ。でも、終わりが近づくにつれて気づいたんだ。そもそも高ランクの魔法なんて覚える必要もなかった…ってね」
「…それはどういう意味だ?」
「君ならば気づくはずだ。私ではここで終わっていた。
だが、君だからこそ、“カダベル・ソリテール”はまだ役割を果たせる。
…さあて、そろそろ目覚める時間のようだね」
「いや、待ってくれ。まだ聞きたいことが…」
「夢なんだよ。これは夢だ。だから重要なことはひとつもない。単なるアドバイスに過ぎない。重要なことにはいつも自分で気づかなければならないからだ」
「…夢だって…そんな…」
「…だがひとつだけ教えてあげよう。賢者のことだ」
「賢者?」
「自分を賢いと思っている者に限って知恵を試してみたくなる。それは賢いとは言い難い。…知識を独占して、意地悪したくなるのだよ。それは賢いとは実に言い難い」
「それは魔法について言ってるのか?」
「さあ、どうだろう。さて、そろそろ大学に行く時間だね。さよならだ」
カダベルは腕時計を見て手を横に振る。
「…待ってくれ。あれ!? それに俺が大学生だったのはだいぶ前じゃ…」
「だから夢なんだよ。これはね」
周囲が白くぼやけてくる。口を開いて言おうとするが、なぜか声が上手く発せられなかった。
「ただし、気を付けた方が…悪意は……どこ…」
そしてカダベルも口を開いて何かを言ったようだったが後半が途切れ途切れでノイズが混じる。
「…に……る!」
「聞き取れない?! なんだって …うあ、うわあああッ!!」
崩れ落ちる光の渦の中へと、俺は落ちて行ったのであった──