053 追憶の祖父
別に庇ったつもりもなかった。
あれは少しふざけてただけだ。
ランドセルを取られて、返してって言えなかった僕も悪かった。
そんなに、大事なんかじゃない…
「なんでこの子はいつも黙っているの!」
お母さんが怒鳴る。
知らず知らずのうちに、握った手に汗がたまる。足の先が内側に向く。
「そうやって…」
お母さんの眉がピクピクと震える。
僕はこれがたまらない。
イヤなんだ。とてもキライだ…。
「黙っているからイジメられるのよ! そうやってハッキリしないから!」
僕はイジメられてなんかいない。
それにお母さんは話したっていつも聞いてくれないじゃないか。
「誰にやられたの!? 言いなさい!!」
川に落ちて、ビショビショに濡れたランドセルを突きつけられる。
「言わないと家に入れないから!」
名前を言ったら、その子のところにお母さんは電話するだろう。
きっと先生にだって言うに決まっている。
そんなのダメだ。
なら僕が黙っているしかない…
「はあ。…ユウトちゃんに聞いた話だと、女の子と一緒だったって話よね」
「ノドカちゃんは関係ないよ!」
思わずそう言ってしまった。
お母さんは眼を細める。
「ノドカちゃんね。…橋下 乃都香ちゃん。この子ね」
お母さんは連絡網を見て言う。
「ノドカちゃんは違うって…」
「本人に聞けばわかることよ」
「だから違うって!」
「…なんだね、なんだね。何をそんなに大声だしとんだね。外にまで丸聞こえだよ」
ちょうど散歩から戻って来たらしい、じいちゃんが玄関から顔を出した。
「お義父さん…。これを見て下さいよ」
濡れたランドセルを見て、じいちゃんは「ふ〜む」と僕の顔を見やる。
なんだか僕は自分が悪い事をしてしまった様な気がして、じいちゃんから眼をそらしてしまった。
「この子ったら学校でイジメられているんですよ。ちゃんと嫌なものは嫌だってハッキリ言えない子なんだから…」
「そうなんかい? 道貞、イジメられとるんかね?」
「これを見ればどう見ても…」
「あー、恭子さん。俺は道貞に聞いとるんよ」
じいちゃんが杖を傘箱に放り入れて、お母さんにそう言う。お母さんは不満そうに腕を組んだ。
「ほれ。道貞。なんも言わんでもいいから、じいちゃんの眼ばぁ直ぐに見ろ」
じいちゃんは俺の横に屈む。僕は言われた通りにじいちゃんの眼を見る。
じいちゃんの顔はしわくちゃだけれど、なんでか眼だけはギラギラしている。
「……あー、大丈夫だ。恭子さん。イジメられとりゃなんかせんよ」
「はぁ? なんでそんな事がわかるんですか?」
「眼に力がある。道貞は大丈夫ださね」
「“リキ”? 眼から? なんです? なにを言って…」
じいちゃんは、お母さんから半ば奪い取るようにしてランドセルを手にした。
「さ、裏で乾かすぞ。はよせんとシワになるでな」
「ちょっと、まだ話は!」
お母さんはまだ怒っていたけれも、じいちゃんは知らん顔して、俺の手を引いて玄関を出て行く。
──
縁側に座って、じいちゃんが濡れた教科書の間に半紙を挟み込んでいく。そして最後に板と漬物石を持って来て上に乗せた。
ランドセルは逆さにして、2本の物干し竿の間に引っ掛ける。ポタポタと雫が落ちて、下を歩いてた蟻がびっくりして逃げて行った。
「…んで、道貞。本当にイジメられとりゃせんのだよな?」
「…え? だってさっき…」
眼を見てわかったんじゃないの?
そこまで言わないでも、じいちゃんは膝を叩いて「カカカ」と笑う。
「じいちゃんは天狗じゃねぇんだ。眼ぇ見ただけでわかりゃ苦労はせんよ。本当のところは、本人に聞かにゃあなぁ〜」
「…イジメられてはいないよ」
「ほーう。なら、なんでこうなった?」
じいちゃんはランドセルを指差す。
「…ただ、ふざけてたんだ。僕のランドセルを取って、投げて…ノドカちゃんたちもまさか川に落ちるとは思ってなかったんだ」
「ふざけていた? 道貞は嫌だったんじゃないのかい?」
「そりゃ…」
「やめてくれとは言わんかったのか?」
「僕が…ノドカちゃんに悪い事したから」
「悪い事?」
「……修学旅行の時、吐いてノドカちゃんの服…汚しちゃったから」
イヤな思い出だ。胸が苦しくなる…
「道貞。そりゃ本当の事か?」
「……うん」
「うーむ。母さんに正直にそう言えばええんじゃないか。ちゃんと理由を話せば…」
「……母さんはわかってくれないよ。言ったら、ノドカちゃんちに電話した」
「電話したら不味いのか?」
「……きっとノドカちゃんが、ノドカちゃんのお母さんに怒られる」
じいちゃんは眼を丸くする。
「なんだ。道貞、好きな女の子を庇ったか」
「え? じいちゃん、何言ってんだよ! そんなんじゃ…」
僕はそう言うが、じいちゃんは「ええから、ええから」と言って聞いてくれない。
「道貞。お前はあんま喋らん子だが、芯は強い子だ。じいちゃんはそれをようけ知っとる」
「…僕は…強くなんか…ない」
「そうか? 他人の為にそこまでするちゅうのはなかなかできんもんだぞ」
「……僕は…」
「道貞は長いドライブに行っても、車酔いなどせんこたぁは、じいちゃんはようけ知っとるしな」
僕が驚いた顔をすると、じいちゃんはニカッと笑う。
「だから、道貞。気弱でもええ、喋るのが苦手でもええでな」
じいちゃんは俺の胸に人差し指を当てる。
「だが、今のまま心だけは真っ直ぐいろ。腐れさすなよ。そうすりゃ、どんなことがあってもお前は大丈夫だ」
僕が俯いていると、じいちゃんは頭を撫でてくれる。
「道貞」
「…うん?」
「そんでも悩んだ時は、このじっちゃんの話ば思い出せ」
「…なに?」
「みんなに良くしてやれ。力の限り助けてやれ」
じいちゃんは歯の抜けた顔で笑う。
「みんな?」
「そうだ。お前の周りにいる誰でもいい。困ってる人に手を差しのべてやれ。悩みちゅうんは、だいたい“自分は…”から始まるんだ。だから、その時は自分の事は考えず、誰かのためにだけに動け」
「…誰かのために」
「そう難しく考えるな。その女の子にしたようにすりゃいいだけだ。道貞」
「ノドカちゃんを…僕は別に助けようと思ったわけでもないし…」
「お前がそう思うのは自由だ。だがな、それが巡り巡って、必ずお前を助けてくれる」
「……それ、教会で教わったの?」
「あん?」
「……ほら、あの胸の大きなシスター」
僕がそう言うと、じいちゃんは気まずそうに咳払いした。
「ちゃう。これは、じっちゃんの体験談だ。アメリアちゃんが言うように、神サマちゅーんはいるかもしれねぇが…じっちゃんはそこら辺はよおけわかんねぇな」
「なら、なんで教会に行くの? 信者でもないのに」
じいちゃんは「おっぱいが…」とそこまで言って、「恭子さんに叩かれるな」と首を横に振った。
「……大人には色々あんだ。まあ、神サマも人助けしろ言うとるだろうからその辺は間違ってねぇさ。たぶんな」
でも、僕にそんな事…
「……できるかな?」
「大丈夫だ。道貞はじいちゃんの孫だ。だから、お前は大丈夫だ」
ああ、確かにそう言ってくれたよね。
でも、ごめんよ。じいちゃん…。
俺は結局、誰かを助けようなんて考えることもなく、この世界から逃げ出すことを選んでしまったんだ──
──
「…ご主人サマ?」
「……ん?」
ゴライの声に、カダベルはわずかに顔を動かす。
「どうしたゴライよ?」
「時間になっても動かなかったんデッセ…」
ゴライが明るくなった窓辺を指差す。それで今になって朝を迎えたのだとカダベルは気付く。
「…ああ。うん。どうやら“夢”を見ていた様だね」
「夢デッセ?」
ゴライがキョトンとした顔をするのに、カダベルはその理由がわかって苦笑した。
死者は眠らないし、従って夢を見ることもないはずなのだ。
「眠らないのに不思議な話だろ。最近よく見るんだ。夢というより、追憶なのかな。夜になると記憶の中を彷徨う時が往々にしてあってね」
カダベルはテーブルの上にあったコーヒーを一口含む。もう冷たくなってしまっていたが、熱さや冷たさは彼の舌には特に影響を与えない。これは、ただ香りを愉しむためのものだ。
「俺になにか変化が起き始めているのかな。…ん?」
カダベルは指を握り開きして、違和感に首を傾げる。
「感覚がいつもより…薄いな」
「ご主人サマ?」
ゴライが心配そうにするのに、カダベルは鷹揚に頷く。
「大丈夫だ。気のせいだろう」
立ち上がり、カダベルは玄関の方を見やった。
「……どうやら客人だな。気弱で喋るのが苦手な男によくも会いに来るものだ」
カダベルがそう呟いたのに、ゴライは眼を瞬く。
「冗談さ。ゴライ。さあ、迎え出てやれ。朝っぱらからゾンビを見たら、ビックリして帰ってくれるかもしれないしな」
「……それも冗談デッセ?」
「よくわかったな。そうだ。それも冗談さ」




