041 天佑神助
俺は閑散とした王都内裏路地を進んで行く。
国からの命令を守るほど生真面目なのか、または俺が放った警告が効いたのか、びっくりするぐらい誰もいなかった。
巡回している憲兵ぐらいいるかと思ったが、裏通りにまで割く人員の余力もないようだ。
門番が愚痴っていたが、人手不足というのは本当だったんだろう。
元剣術教官ルッケズの話だと、まず指揮者となれるような人材がいないらしい。
王、将軍、防衛大臣…これらの考えがてんでバラバラで、統制がとれていないのにもかかわらず、無理に抑えつけようとしているもんだから、少しでも有能な人間は馬鹿らしくなって辞めてしまうそうだ。
それを聞くと、典型的な人材育成ができない会社だと思ってしまう。上司のパワハラ放置してるようなやつだ。
専業兵士5,000人というのも、表向きそう言っているだけで、実状は徴兵制度で集めた兵士込みの人数だったらしい。
頭数だけ揃えりゃいい…そんな平和ボケした防衛大臣はヤバすぎるだろう。ルッケズが怒るのもわかる。
徴兵した兵士なんて、アルバイターと同じでまず士気は高くない。いざという時に戦えるのは大した数じゃないはずだ。
「…この世界には勇者はいないのかね。絶好のチャンスだとは思うんだが」
悪役はどうみても俺の方だ。冒険者ギルドの扉から、「待てい! そこのアンデッド!」なんて出てきたらファンタジーなんだけどな。
だけれども、現実はこうだ。
3,000体程度のアンデッドが外門に集結しただけで、兵士たちは大混乱に陥り、街の中はスッカラカンになってしまう。
アニメやマンガの世界ならば戦っているシーンだけにハイライトが当てられて、王都全体で戦いが起きているようなイメージを抱いてしまうが、実際にはそんなことはない。
裏通りに入れば、こうやって誰もいない道を静かに散歩することができる。
太陽は高い。雲は白い。空は青い。なんとも平和じゃないか…。
死者が歩いている程度じゃ、世界はビクともしやしない。
すべて世は事もなし…なんてね。
「…ま、しかしあの白い男と戦いにならなかったのは良かった。
えーっと、魔法ランクは5かよ。しかも魔力値が7,000ね。ひゃー、こりゃ勝てんわな」
外門付近に魔法で会話している男がいたから、試しに完成したばかりの魔力測定機を使ってみたらとんでもない数値だった。
魔力測定機は試行錯誤の結果、なんとか昔のデカイ携帯電話ぐらいの大きさにすることができた。
ドラムカウンター式の燃料計みたいなデザインだ。それを腰ベルトに引っ掛けてある。
本人が持つ単純な魔力量を数値化し、なおかつ、そこから推定できる魔法ランクまでおおよそ特定できる。
個々の魔法の消費量はまだ計算できてないから、そこは今後細かく調べていく必要があるだろう。
ちなみに7,000という数値だが、魔法士ミューンが1,800程で、そこら辺の低級魔法が1個や2個使えますっていう一般人は250〜500ぐらいだ。
あのマクセラルで、たぶん3,000〜4,000程度だろう。それを考えても、あの白服はかなりヤバい数字だとわかる。
「まあ、魔力値が高いから強いとは限らないんだけど…近づかない方が無難だったよな」
ちなみに俺自身は…なぜか測定不能と出る。死んでいるからなのかも知れない。
いや、またはエンプティの0とか……それはランク1だけしか使えないとはいえ、無いとは思うんだが。
「…あれ? もしかしたら、あの白服は魔女の参謀か何かだったのかな? 眼鏡だったし、見た感じ頭は良さげだったしなぁ」
兵士に命じてなんかやらせてたみたいだけど…軍の関係者にあんな人物の情報あったっけ?
防衛大臣はあんなには若くないはずだ。
ルフェルニからは何も聞いてないな…たぶん。
「ま、そんなわけないか。もし参謀なら、本拠地から離れて最前線に来るなんて馬鹿なことはしないだろうし」
あの男が誰で何をしていたかは不明だ。
棺桶ん中とかもやたら調べていたけれど、あれには屍体と財宝しかない。
「…あーあ。しかし、参謀と言えばさぁ…撤退戦がないってとこ、俺の思考を読んでたんじゃなかったのかよ〜」
てっきり屍従王軍の最大の弱点である、攻める時には、前進しかできないのを見破られたのかと思っていた。
つまり、小回りが効かずに前進しかできないもんだから、横方向から攻撃されると非常に脆い。包囲網戦をされたらすぐに終わってしまうだろう。
俺なら【糸操・倍】を3つは同時に使えるから部隊を分けて動かせることもできるが、カナルには無理だ。
王国騎士団の籠城戦の構えそのものが囮で、引きつけて置いて一気に包囲し、プロトも投入した一挙殲滅…そんな作戦だと思っていたからこそ、後から出そうと思っていた棺桶をわざと先に持って行くことにしたのだ。
あの棺桶は包囲網戦を邪魔する障害物にできるし、いざとなれば棺桶から屍体が飛び出すという伏兵のような使い方もできる。
財宝に眼が眩んだ兵士たちによって中に運びこまれれば、さっきやったようにいきなり起き出して大暴れだ。
本当ならば、俺が城に侵入するまでの間は死者の軍を保たせるつもりだったが、敵がそこを読んでるなら長引かせるわけにはいかないと思って、門の破壊を急がせたのだ(敵が撤退させない勢いで攻める気だとしたら、カナルやゴライたちの身も危なかったこともある)。
でも、【遠隔視】で垣間見た感じでも、実際には包囲網戦なんてやってなかった。
本当に籠城戦を見据えた、単なるつまらない防衛をしてたに過ぎなかったのだ。
あれだったら、御輿の屍従王が偽物だってバラすのはもっと後で良かったかもしれない。
なにせ屍体は“死んだふり”がさせられる。【糸操・倍】は原型を留めないくらいにバラバラにされない限りは機能し続けるのだ。
一旦倒したと思わせといて、また起き上がらせて…“マジか! 死者だから死なないのかぁ!?”みたいな演出ができたのだ。
正面から戦ってくれている間は、不滅の屍従王軍はかなり長いこと演じられていただろう。
まあ、一度指示を出してしまったら、俺はカナルに作戦変更を伝える術がなかったしな…仕方ないことだ。
「なんで手を打たなかったのかな? それとも俺が深読みし過ぎただけなのか?
…まさか、俺自体が本命だとまで読んでいたとか?」
いやー。ないな。
屍従王自身の力だけでは、やはり魔女や聖騎士に勝てるわけがないと相手は考えるはずだ。
だとしたら、やはり数の力で制圧を目指しているんだろうと敵側は思うだろう。
仮に屍従王軍がブラフだったと気づいたとしても、俺本人が単独で侵入するだなんて思いもしないはずだ。
「…うーん。まあ、結果オーライだからいいか」
実のところ、わざわざ屍体の軍を用意したのも、魔女の溜飲を下げさせるためだけの単なるハリボテだ。
王国騎士団だろうが、プロトだろうが、聖騎士だろうが…正直、まともに相手する気はさらさらなかった。
要は、あそこに魔女たちの気をしばらく引きつけられてさえいれば、俺の目論見は半分成功と言える。
俺が倒すのは、魔女であって王国ではない。
もしこれを本当の戦争にするなら、もっとえげつないやり方だってある。
例えば、国民を人質にして、騎士団と魔女をぶつけるなんて最高の良い手だろう。
「悪としちゃ三流だがね」
ロリー、ルフェルニに「サイテーです」と軽蔑されるのを思い浮かべて笑ってしまう。
「俺、頭良くないからさ…死人が出ない手って、これぐらいしか思い浮かばなかったんだよ」
考察する余裕をかましつつ、難なく城の前にまで辿り着いてしまう。
門番は……いない、だと?
いやー、門は閉まってるけども、無用心すぎるだろ。この国は色々とさ。
まあ、守るべき王が不在だからこそ、城なんてどうでもいいのかね。
王の居る外壁の方に兵を回した方がいいと判断したんだろうけどさ。
俺はボルアムからもらった地図を開く。
御用聞きや納品のために、限られた一流店しか使えないという、微妙に隠された勝手口があるとの話だった。
警備上どうなのかと思うが、正直この城は見せかけだけで、実際の戦闘を考慮した造りをしていない。
弓兵のための小窓もなぜか石で塞がれてしまっているし、登っていけそうなところにわざわざ垂幕をかけてある。
上の回廊も半分通路を潰し、装飾品の像が並べてあるのがここからでも見えた。
ドンが言うには、利便性を追求した増改築のせいでこうなってしまったらしい。
何百年と戦争しないとこうなってしまうのも仕方ないかもしれない。
だって使わないんだし。いらんでしょ。
「お! あったあった。こりゃ知らんと見落とすな」
植込みで上手く隠されている道へと入って行く。
そして、石壁のタイルの貼られた扉が出てきた。よく見なきゃ、単なる壁にしか見えないし、当然ながら案内も何も書かれていない。
ドンドン、ドドン、ドンドンドンドン、ドン…
教わった通りにノックする。
ボルアムが現役だった頃の暗号のまんまだとありがたいんだがね。
「…誰だ?」
「ちゃーす。毎度。三河屋でごぜーます」
「…“ミカワヤ”?」
「へーい。酒屋でございまさぁー」
「酒屋だと? ……今日は誰もいれるなと」
「いやー、それが防衛大臣のキツィー様から、“例のモノ”が手に入ったら必ず連絡せよと言われてましてぇ〜」
「…キツィー様? “例のモノ”とはあの…“幻のアレ”か?」
「へい。そうでごぜーます」
なんだよ。幻のアレって…知らねぇよ。
だけど、酒呑みは酒呑みを知る…ということだな。
ガチャンと、扉の錠が開かれた音がした。
「…ん? 貴様、本当に商人か? そうは見えないが」
そう見えなくとも、お前は兵士として失格だよ。
「へえ。私は使い走りでして…」
「…それで例のものは?」
「兵士さんも酒はお好きで?」
「? ああ。もちろんだ」
「それは良かった。【酩酊】」
俺は兵士の額に指を当てて魔法を使う。
次の瞬間、兵士は赤い顔になってフニャフニャとその場に座り込む。
【酩酊】はその名の通り、相手を酔払わせて正常判断できなくさせるものだ。
いわゆる精神操作系ってやつなんだろうが、相手がアルコールを摂取して酔っ払った経験がないと発動しない。下戸や小さな子供とかには使えない。
ちなみに今の俺自身も【酩酊】が効くことから、実際にアルコールで酔わせているわけではなく、そういう精神状態を引き起こさせる魔法ということだ。
「何事だ!?」
「お。そちらもお酒は好きかなぁ?」
「は? 酒は好きだが…」
「はい。なら、プレゼント…【酩酊】」
うーん。いまいち使い勝手の悪い。
俺は中に入ると、内側から錠を掛ける。
酔っぱらいたちは、ヘラヘラとしてこちらを見ている。他には誰もいなさそうだな。
「よう。兄弟」
「おーう。兄弟」
「ヴァンパイアを捜しているんだ。ウサギ耳のマッチョだ。知らんかね?」
ロリーのことを先に聞かなかったのは、あのふたりの方が特徴が目立つからだ。
同じ捕虜なら、ロリーも彼らの近くにいる可能性が高いしね。
「知らんなぁー。見たことねぇー。オメェはどうだぃ?」
「俺もしらねー。見たことねぇー」
そうか。コイツら下っ端じゃわからないか。
「あ。でも、食料庫から出てきたヴァンパイアなら見たぜー」
「食料庫から?」
うーん?
何を言ってるんだ、コイツは?
まあ、酔っぱらいの言っていることだからなー。
「ああ。酒の箱に隠れて、城ん中に忍び込みやがったんだー、ふてぇやろうさ!」
「ヴァンパイアが? ふーん。この国もそんな物騒なことがあるんだな」
きっとルフェルニたちとは関係のないヴァンパイアなんだろう。この国に恨みを持っているとかかな。
「なにせ、屍従王ってのに恨みを持ってたらしいぜー」
「ええッ?」
俺に恨み??
なんでよ??
「それで“ロー”なんとかって女が弱点なんだってよぉ!」
「俺もそれ聞いたぞぉ〜。屍従王の弱点を知っているってなー!」
ロー?
…ロリーが?
俺の弱点を知っている?
どういうことだ? 人質という意味で俺の弱点だと言うならわかるが、今のはそういう風には聞こえなかった。
ああ。でも、そういやロリーを守るためになるかと思って、いくつか変な噂話を放置していたか。
なんかルフェルニが、俺のことを誤解しているヤツがいるからどうのこうのって…そんなの放っておけって言ったんだが。
「……ん? 待てよ。そういや…」
あ! いま思い出した!
そういや「ロリーは俺の命の秘密を知る重要人物だ」とかなんとか、誰かに言ったわ!
あれはルフェルニの使用人の誰かだっけ?
俺とロリーシェの関係を聞かれて、なんで助けるのかとか聞かれたような…
よく覚えてないけど、メイドが相手だと、なんでか恋話とかに発展することが多かったんで、面倒になって適当なこと言ったんだっけか。
大事だから助けるってのを、なんか色恋沙汰だとすぐに邪推するのはどうかと思う。
まあ、嘘は言ってない。
だって、俺がどうやって復活したのか彼女は知ってるんだし。まるっきり嘘なんかじゃない。
だけど、それを聞いたヤツがなんか勘違いして動いたってとこか?
んん? コレってもしかして…
それで、そいつが捕まったってことは……
「ああ! ロリーをこっそり救出しようとしてんの、敵にバレてんじゃん!」
おいおい! 外の屍従王軍が囮で、この混乱に乗じて侵入する所までは完全に読まれてんじゃん!
あー。なんてこった。こんなところで、こんな風に繋がるなんてことがあるのか!
「…でも、まあ、先に失敗してくれたヤツがいて良かったー」
敵が都合よく勘違いしてくれたお陰で、いま俺がこうやってすんなりと侵入できたわけね。
まさか、“最初から侵入してた”とは思わないだろうしな。
うーん。…ま、どうでもいっか。
ロリーが貴重な人質としても、または仮に俺の弱点を知る存在だとしても、要は彼女が保護され丁重に扱われているならば問題ない話だ。
「でも、侵入することがわかってるのならもっと警備を…いや、今ここには聖騎士が勢揃いしてる上に魔女がいるんだったな」
むしろ、屍従王を確実に倒すための最高の罠とも言える。
「まあ、これも勘違いだな。…どうせ聖騎士は戦えなくなるんだし。もうそろそろだろ」
敵がどう動こうとも、俺としてはやることは変わらない。
「…で、そのローなんちゃらはどこだい?」
「そりゃ…」
「なあ…」
ふたりは揃って上を指差す。
「……なるほどね。それもそうか」
──
ジョシュアは、臨時に設けられた団長室へと向かう。
「…失礼します」
彼らは屍従王と戦うために、ある程度の自由権限が与えられ、必要とされる装備や物資の供給も受けていた。
ジョシュアはゼロサムと一度手合わせをしていた。
そして見事に勝利したのだが、それをきっかけにして、とても王に気に入られることになる。
強さにこだわる王だからこそ、自分を打ち破るほどの強さを持つ男に心酔したのだ。
そんなわけで、単なる客人としてでなく、普通はありえない程の高待遇を受けられているというわけである。
「ジョシュア。来てもらったわけは…」
「団長!」
はやる気持ちを抑え切らず、ジョシュアは団長の言葉をつい遮ってしまった。
サトゥーザはピクリと眉を動かしたが、取り繕うかのように髪を払いのける。
「そうか。なにか不満があるようだな。…先に言っていいぞ。許可する」
「はい! 我々も屍従王を討つため、ゼロサム陛下と共に戦うべきではありませんか!」
いま聖騎士には待機命令が出ていた。しかし、ジョシュアにはそれが納得できない。
屍従王は生きていた。魔女と交戦する気だ。だから、この機会を活かして王国側に協力する…そんなアンワートの話があったからこそ、この王城で厄介になっているのだ。
それなのに、肝心な時に戦えないのは腹立たしくて仕方がなかった。
「…滅私」
サトゥーザの答えはいつもと同じだった。しかし、今回はいつものような一喝ではない。
彼女の眉間にシワが寄っている。彼女にしてみても今の状態は決して望ましいものではないのだ。
「…ここはギアナードだ。彼ら王国騎士に先んじて我らが戦えば、彼らの名誉はどうなる」
「しかし、相手は屍従王カダベル・ソリテールですッ」
「我々は我々に与えられた任務をこなすだけだ。それに……」
サトゥーザは顔をさらに歪める。
「…撤退せよとの命が下った」
「…え?」
「これが、私がお前を呼び出した理由だ。本国へと帰還する」
言葉の意味が理解できず、ジョシュアは呆然と立ち尽くす。
「…もう一度言うぞ。聖騎士団の介入は認められないとのことだ。我々、聖騎士はクルシァンに戻る。それも今すぐだ」
「…それはアンワート様の?」
「違う。あの男の指示ではない」
サトゥーザは、アンワートを毛嫌いしていた。
聖教会が遣わした上司だから従いこそするが、人を物のように扱う男だと、ここに来てからも日々、嫌悪感を募らせていたのだ。
「なら…」
「総団長と巫女様…双方合意による御聖断だ」
ジョシュアは眼を見開いて驚く。
「しかし、屍従王討伐は源神オーヴァスによる託宣と…」
「現時点をもって、この問題は“ギアナード自身の解決すべき案件”となった。屍従王は聖教示国に仇なす存在とは認められない…とのことだ」
建前だ…そうジョシュアは思う。
上は屍従王がカダベル・ソリテールであることを知ってはいたが、彼が朱羽老人として動き出した事から、今なおクルシァンに置いても強い影響力を持っていること気づいて、今更になって危機感を覚えたのだ。
「……倒せるならば倒してしまいたかった。だが、その時期を逸してしまったのだ」
まるで他人事のようにサトゥーザは続ける。
「そして、カダベル・ソリテールと魔女は繋がっていなかったことがハッキリした。
双方の力を削ぐために、アンワートは策を弄したようだが…」
失敗した。状況が悪化していると見た“誰か”が、総団長に連絡したに違いない…そうサトゥーザは見ているのだ。
だが、一体誰が? サトゥーザはもちろん、あのアンワートが自らの好ましくない状況を伝えるはずもない。
しかし、途中でサトゥーザは考えるのを止める。個人的な憶測など無意味だからだ。
「……よって、これより我々聖騎士は、王都に出た八翼神官アンワート・トキノウムを“回収”して、ギアナードより撤退を開始する」
「待って下さい! なら、ロリー…ロリーシェはどうなるんですか!?」
弱った姉を連れての撤退は難しい。また彼女を連れてクルシァンに戻るリスクは未だ高いままだろう。それでは何も問題が解決しないように思われた。
サトゥーザの眉間のシワがさらに深い物となる。それは彼女がするには珍しい懊悩の表れだった。
「…ロリーシェ・クシエはここで解放する」
ジョシュアの頭が真っ白になる。
「ここに置いて行く…まさか屍従王の手に渡す! そういうことですか!?」
「違う! ギアナード王国に保護してもらうのだ! それはゼロサム陛下も承知してくださっている!」
言い訳ばかりだ…そうジョシュアは思う。
ジョシュアはずっと耐えてきた。
父の死から始まり、カダベルを尊敬しろと言う姉やナドの声に、そしてカダベルの金で聖学校に行って力を付けるという屈辱にも、騎士団に入って向けられる羨望と嫉妬の視線、さらに救った姉に罵倒される仕打ちにも…それらすべてを歯を食いしばって耐えてきたのだ。
「ようやくカダベル・ソリテールを討てるチャンスだと…怨敵である魔女にまで頭を下げたというのにッ!!」
その一言で、サトゥーザの眼にカッと怒りの炎が宿る。
それはそうだとジョシュアは思う。団長も魔女との共闘には忸怩たる想いを抱いていた。
しかし、魔女を弱めるために屍従王をぶつける…そんな作戦だとアンワートから聞かされ、上からの命令というのもあり、サトゥーザもそれに我慢していたのだ。
「滅…」
「滅私なんてクソ喰らえだ!!!」
ジョシュアの獣じみた咆哮のような叫びに、一喝しようとしたサトゥーザの方が怯み仰け反る。
「俺は行きます!!」
「ジョシュア! ま…」
ジョシュアが踵を返して行ってしまうのに、サトゥーザは「待て」と言えなかった。
言わねばならぬのに、それを言っても彼にはまったく効果がないのが彼女にはわかってしまったからだ。
「…団長!」
カーテンの裏に隠れていたドロシィが飛び出して声を掛ける。
そして、サトゥーザの顔見てギョッとした。
「ふぇーん! ジョシュたんに怒鳴られちゃったよぉー! 嫌われちゃったよぉー!!」
泣き喚く彼女の拳は、執務机を一撃で大破させたのだった……。




