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屍従王  作者: シギ
第一章 世界異動編
2/113

002 老人カダベルと幼子ロリーシェ

 結論から言おう。


 “カダベル・ソリテール”は優良な異動先では無かった──




 ああ、騙された…


 何が魔法の才能があるだ。



 ああ、騙された…


 何が貴族位があって社交的だ。



 ああ、騙された…


 何がイケメンの長身だ。




 ギシギシと鳴る粗末なベッドから、ようやくのことで左脚を降ろす。


 それは我ながら黒ずんだ枯れ木のようで、体重を預けるにはなんとも心許ない。

 だが、感覚的に問題ないとわかるのは、預ける体重もそんなにはないからだ。

 それはベニヤ板のように薄い胸板や、浮き出た肋骨、そして臓器なんて入ってないんじゃないかというほどにヘコんだ腹回りを見ればわかることだろう。


 全身に走る鈍い痛みのせいで、ゆっくりとしか動けない。


 数分ほどかけ、ようやくのことで立ち上がることができた。 

 背中を伸ばしたくとも、凝り固まった背骨や腰骨は、俺の意思に反して思うように動かない。

 痛みを我慢して伸ばしたとして、まるで威嚇するペンギンのような前傾姿勢で立つのが精一杯だ。


 汚れた鏡の前に立つと、そこにはこんな身体に相応しいシワだらけの老人の顔が映っていた。

 白くなった髪は薄く地肌まで見えている。異動する前の時の方が黒かったし、まだ量もだいぶ多かった気がする。

 目の下のシワに触れ、窪んだ眼の奥にある自分の眼を見やると、自分の顔ではないという違和感に、強い悔しさと共に涙があふれてくる。


「…ちきしょう。とんだ浦島太郎だ」


 ガラガラとしわがれた声にも違和感がある。


 もう1ヶ月が経つというのに、俺はこの身体に馴染めてないどころか、この部屋からろくに出ることもできていない。


 確かに、“元”はイケメンであったろう。


 …シワさえなければ!


 確かに、“元”は長身だっただろう。


 …腰さえ曲がっていなければ!


 確かに、都市部に大きな一軒家を構えていることから資産家の貴族であるのも間違いない。


 しかし、契約書には、“寿命間近の死にかけの老人”だなんて一言も書いてなかったぞ!


 うまい話すぎると思った。そんな好ましい候補者がいるはずはないとは思ったんだ!


 “嫌ならすぐに戻れる”…そんなつまらない嘘を見抜けなかった自分を心の底から呪った。



「…【照光】」


 曲がった丸眼鏡をかけ、“魔法”を唱えると部屋が仄かに明るくなった。


 魔法を100個使える…という点は嘘ではなかった。

 だが、そのほとんど全部が、子供でも使えるような“生活補助魔法”と呼ばれる類のものだ。

 その中には俺が望んでいたような、炎を撃ち出したり、瞬間移動したりの魔法なんて1つもなかった。効果は…便利は便利だが、派手さななく、全部微妙な効果のものだったのだ。


「【牽引】」


 続けて魔法を使うと、机に立て掛けてあった杖がゆっくりと飛んでくる。

 確かに便利な魔法ではある。だが、範囲は5メートルほど、引っ張れるのは5キロまでという何ともパッとしない魔法だ。5キロって米袋ひとつだよ。手で運べるじゃんって話だ。

 だが、今の老いたこの身体には便利な“介助”魔法ではあるな。


「とと、片付けんとな…」


 床に散らばった本につまづきそうになる。すでに読み終えた本を暇つぶしに読むのだが、つい片づけるのが億劫で床に重ねて置いてしまっていた。

 【牽引】でそれを拾うと、空いた書棚へと何冊かを戻す。あまりに本が入りすぎていて、はみ出てしまっている。掃除も満足にできていないのでホコリだらけだ。


 この狭い部屋の半分以上を占めているのはすべて魔法書だ。カダベルは魔法書蒐集家(コレクター)であった。

 それがなぜ全部が魔法書だとわかるのかと言えば、そういった知識だけは肉体の方に残っていたからだ。

 俺自身は読んだことがないはずなのに、その内容が記憶にあるというのは奇妙な感じだ。


 その知識によれば、魔法はこの世界の住人であれば誰でも使えるが、その中の魔法にも難易度があり、ランクで分けられている。

 例えば、【空中移動】という魔法がある。これは文字通り空中に浮かぶ移動系の魔法に類するが、7段評価のランクではランク4に相当する。

 最低ランクは生活魔法であるランク1で、この程度なら一般人でも使える者も多い。

 しかしランク2から難易度が急に高くなり、魔法書の理解や専門的な知識が必須となる。つまりランク2以降を使えて初めて一端の魔法士と名乗れるのだ。

 そして【空中移動】まで使えるならば、それこそ大魔法使いと言っても過言ではないくらいの存在となる。

 

 しかし、こんな本を沢山読んだ勉強家カダベルであれば、もっとランクの高い魔法が覚えていてもおかしくないと思うだろう。

 だが、魔法には先天的な能力、センスのようなものが必要のようで、なぜかカダベルはランク1以上の魔法が習得できなかったのだ。

 皮肉なことに、知識はあっても魔法の才能はからっきしだったのだ。


 彼の記憶によれば、若い頃は相当な努力をしたし、ランク1でも沢山習得していけばいつかは…そんな思いを抱いていたが、100個覚えたところでまったく進展は無かった。その時の絶望は、感情こそわからないが、記憶としては残っている。


 そして、カダベルは高ランク魔法を得るのを諦めてしまったのだ。

 それでも飽くなき魔法への好奇心から、魔法書を読み解く研究に…それも魔法を習得するためでなく、単なる知識欲を満たすだけの日々を送ることになる。 


 魔法士にはなれなかった、単なる魔法マニア…これが“魔法研究家”のカダベル・ソリテールという老人の実態だったわけだ。



「…さて、行くか」


 本当に困った身体だ。数歩進んだだけで目眩が生じる。しばらく杖によりかかって眼を閉じる。一度でも座ると立ち上がりたくなくなる。


 ああ、出掛けたくない。横になって、本でも読んでいたい欲求が湧くが…それはきっとカダベルの身体の記憶がそうさせようとするのだろう。彼の老後の生活スタイルはずっとそうだった。


 しかし、それでも今日はどうしても行かねばならないところがある。


 本当なら毎日でと行かねばならぬところだが、体力的な問題があるせいで難しい。


 それでも1週間に一度くらいは見に行かねば…そんな思いを自分の身体に言い聞かせる。


「…今日はやっていろよ」




──




 まったく本当に困る。


 たった数メートルを歩くだけでも息切れする。道貞の時でもこうはならなかったぞ。2駅区間くらいは平気で歩けていたはずだ。


 それにこの街、そんなに広くないはずだ。それなのに街の端が世界の果てのように見えて仕方がない。


 杖をつき、ヨロヨロと、それでもいつかは辿り着くはずだと心に鞭打ち懸命に前にと進む。


 足早に皆、俺の横を通り過ぎて行く。

 中には邪魔だとばかりに、わざと前を遮るように追い抜かして行く者もいる。

 少しでも触れようものなら、倒れて怪我をするのは間違いなく俺の方だ。


 俺が倒れても、助け起こしてくれるような人はいないだろう。

 東京も皆が無関心で冷たかった。だが、それでも街中で倒れている老人がいたら声くらいはかけてくれる人はいるはずだ。

 しかし、この世界の住人はそんなことはしない。ゴミでも見るかのような眼で見下ろし、中には金目のものでも持っていないか物色する者だっている。それぐらいに治安は良くなかった。

 

 この世界は大まかに6つの国に分かれているらしい。大昔には戦争し合っていたこともあったようだが、今では“とある理由”により、和平とまではいかないがずっと休戦状態にある。


 そして、俺が異動した北方ギアナード王国はその中でも最も貧しい国だ。

 領土こそ大きいが、山間に囲まれ作物が育ちにくい土地柄に加え、兵力も乏しく、住民も皆貧しい。


 そして、この街の名前はイルミナードといった。王都からやや東北の方に位置する麓の街だ。

 ギアナードの中ではまだ商業区などがあるだけ栄えている方ではあるが、それでも王都からすれば田舎も田舎だ。


 イルミナードに若者は少ないが、それでも今の俺に比べれば皆が若い。杖をついて歩いている者なんてまず見ない。

 あんまり考えたくないことだが、医療福祉が発達していないせいで、俺くらいの年代は早々にリタイアしてしまうのだろう。

 

 普通に歩けば30分も掛からない道のりを、およそ2時間近くかけて目的地に辿り着く。


 大きいだけで、なんの変哲もない屋敷だ。それでも異動前に聞いていた住所、目印となる3つ重なった赤い三角屋根からしても目的の建物に間違いない。


「…【発打】」

 

 魔法を続け様に3回放つと、俺の手の平から生じた衝撃が、玄関の呼び鈴を叩く。

 拳で殴るより弱い衝撃だが、それでもノックには充分で、ガラランと錆びついた鈴が鳴った。

 誰も出てこない。中に人がいる気配も感じられない。


「……はぁ」


 十数秒待って、再び同じことを繰り返す。

 しかし同じだ。誰かが出てくる気配はない。


「そこ留守だと思うよー」


 後ろから呼びかけられ、俺は驚いて振り返る。

 聞き慣れない言葉で戸惑ったが、それでも俺の脳はそれを理解できる言語なのだと認識する。


 そこにいたのは、ウサギのように白く長い耳をした人間だ。


 ここには俺のようなヒューマン以外の亜人も存在していた。

 前の世界の知識とは微妙に異なる部分もあるが、エルフやドワーフといった存在もいるようなのだ。

 そして、この目の前のウサギ…どう見ても長耳と三ツ口を見れば2本足で立っているウサギなんだが…これがこの世界ではエルフと呼ばれる存在らしい。


「…ここが何の店か知ってる…んですか?」


 亜人の見た目で年齢を判断するのは難しい。中には見た目が若いまま変わらない長命種族もいるからだ。…そうカダベルの知識が俺に教えてくれる。

 明らかに目の前のエルフは少女に見えたが、そんなわけもあって一応敬語で問いかける。

 

「んーと…」 


 どうやら失敗したようだ。見た目が老人である俺がそんな態度をとったのに、逆に相手の方が気まずそうにした。

 エルフは確か堅苦しい話し方とかを苦手にするんだったな。


「…ああ、コホン。すまんね。よければ教えてもらえるかな。お嬢さん」


 自分が年寄りだということを思い起こし、それらしい態度で言うと、ようやくエルフはニコッと笑った。


「知らなーい。でも、ずっと。ここ…1年は開いてるとこ見たことないよ」


「1年も? …まさか。俺は1ヶ月前に来たばかりだ。まだサポートを受けられるはずなんだ」


 規約には元の身体に戻る手続きは半年間は有効とあった。

 それにカダベルの記憶にも、ここで何かしらの手続きをした内容が残っている。異動に関する内容だ。たぶんだが、それは1年も昔ではないはずだ。

 だが、細かな部分はボンヤリと曖昧だ。カダベル自身が物覚えが悪くなっていたせいなのか、または異動に際する機密なので記憶を消されたとか…。異動する前後の記憶があやふやになっている。

 最後の記憶は真っ白な部屋に通され、ベッドに横になったところで終わってる。これは道貞の時とまったく同じだ。


「…一体、店員はどこにいるんだ」


 それ以外には手掛かりとなる記憶はない。カダベルの家にも、店舗と交した契約書らしき物はなかった。

 本当なら異動先にあるって話だったのに…。そこに緊急連絡先とかが書かれていると聞いていたのに…。

 

「ここ組合ギルドか何かだったの? ジーサンはその関係者とか?」


 会ったばかりのヤツにジーサンなんて呼ばれるのは不快だなぁ。いや、確かにジーサンなんだけどさ。


「…ああ。まあ、そんなところだ…な」


 地球から異動したなんて話をしても無駄だろうと思ってあえて言わなかった。 


 その世界に来てから何人かに聞いたが、日本…いや、地球のことを知る者は誰もいなかった。

 100人近くは異動してるとの話だったが、この広い世界で探すのは至難だろう。ましてや、この小さな街すら充分に見て回れてないんだ。

 この弱った足腰で街の外に出るなんて自殺行為だ。隣町に着く前にあの世行きだ。


「ここの会社…『シラキ・オール・ワールド・トランスファー・サービス』って言うんだが、それが他に移転したとか…知らないか?」


「知らなーい。始めて聞いた。そんなギルドあんの?」


 物は試しと思って聞いたが、やはり知るわけないよな…。


「…知らないならいいんだ」


「あ!」


 エルフの頭頂部についた長い耳が動く。いまさらだが、本物なんだな。


「ケンカだ!」


「ケンカ?」


「うん! あっち!」


 俺には聞こえない。魔法を使えば…いや、そんなことまでする必要はないか。

 エルフは嬉しそうに大きく頷く。頬から飛び出たヒゲが上下に揺れていた。


「見に行こーっと!」


 そう言うと、エルフはまるで跳ねるかのようにして路地裏へと走って行った。

 好奇心旺盛なことだ。俺もそれぐらいの気持ちはあるんだが、この動かない身体じゃままならん。

 ウサギは危険なものからは文字通り脱兎の如く逃げ出すのだろうが、この世界では違うらしい。

 いや、見た目がウサギなだけであって中身が同じだと考えること自体が間違いかも知れないが…。


「…俺には関係ないことか。帰るか」


 失意だけが残り、行く時よりも大変になるだろう帰りのことを考えると気が重くなる。

 行きはよいよい…帰りはなんちゃらだ。まあ、行きも決して楽ではなかったんだけどね。

 生活魔法ってんなら、せめて移動が楽になる魔法とかあってもいいと思うんだが。それは無いものねだりなのかな。


 

 来た道を戻る最中、喧騒が聞こえてきた。きっとさっきのエルフが言っていたヤツだろう。思ったより近場だったようだ。


 どこからやって来たのだというくらいに、野次馬が集まって人だかりができている。

 この世界には娯楽が少ないせいか、こんなつまらないことでも盛り上がるのだ。


「またゴライかよ」


「昼間から酒飲むといつもこうだよな」


 そんな半ば呆れた話し声が耳に入る。

 腰が曲がった俺には、人々の壁に遮られた先を見ることができないが、どうもゴライという男が暴れているらしい。


「今回のケンカの相手は? 何があったんだ?」


「酒場の店主がツケを支払うよう言ったのが原因だと」


「…なんだそれ。ケンカじゃねぇじゃん」


「しかも子供を…」



「どけどけ! 見せもんじゃねぇぞ! どきやがれ!」



 一際大きな声が上がったかと思うと、集まっていた人だかりがサーッと引く。

 そのおかげで、蹴破られた店の入口と、その前に立つ大柄な男の姿が見えてきた。

 まさに絵に描いたようなチンピラだ。知性の欠片もない顔をしていて、どこの世紀末からやってきたんだと聞きたくなるぐらいに見事なテンプレ容姿だ。



「やめろ! 子供を離せ!」


「うるせぇ! テメェがくだらねぇことをグダグダ言いやがるからだろうが! とっととコイツらを追い払え!」


「わーん! 父さーん!」



 毛むくじゃらの太い腕に、小さな男の子を抱えている。状況から察するに、あれは店主の子供なんだろう。

 その気になればゴライは簡単に子供を傷つけられる。だから、父親である店主は為す術がないという風であった。



「うちは金を払って欲しいだけだ! 子供を人質に取るなんて卑怯だぞ!」


「金なんてねぇ! なぁにが卑怯だ! 俺様が飲んでる時につまらねぇこと言いやがって!!」


 ゴライは唾を吐き捨てて、店の立て看板を蹴り飛ばす。

 どうやら話は平行線のようだ。まあ、相手は最初から理不尽なことを言ってるんだから無理もないだろう。

 店主が折れるのが一番手っ取り早い解決手段に思われるが、子供を人質にされてもそこだけは譲れないという決意をもっているように見える。

 ゴライの方も勢いに乗って人質をとったまではいいが、その先のことまでは考えていなかった様だな。ここまで大騒ぎをやってしまったら、後には引けないだろう。店主を屈服させる他ない。



「…止めないのかね?」


「はあ? 馬鹿なこと言うんじゃねぇよ」


 側にいた屈強そうな若者に言うが、にべもなく拒否した。

 周囲には人は多く集まっているが、助けに入ろうとする者はひとりもいない。どこの世界も似たようなもんだ。

 俺は……こんな老人では…いや、それ以前に、道貞にそんな勇気があるわけもない。

 俺も皆と同じだ。面倒ごとに関わり合いたくはない。

 そもそも自分の問題すら解決できてないんだ。他人の問題を解決する余裕なんてあるわけがない。



「ねえ。憲兵を呼んだ方がいいんじゃない?」


 そんな野次馬の余計な一言にゴライがピクリと反応した。子供の首をさらに強く締める。


 憲兵を呼ぶなら黙って呼びにいけばいいものを…。無駄に相手を刺激するだけだろうに。



「さあ! 謝れ! いま謝るんなら子供を離して…グギャ!」


 ゴライが声を荒らげた時、その頭に小石が投げ当てられた。


「イデぇぇッ! 誰だ! こんなフザケた真似しやがるヤツは!?」


 額を切ったようで、血が流れ出ている。

 あんな男でも赤い血が流れているのかなどと、そんなことを俺は悠長に思った。


「ジョシュを離せ!」


 泣きながら怒鳴ったのは、どうやら捕まっている子供の兄のようだった。

 どうやらこの子が石を投げたみたいだな。


「やめろ! ローリシェ! お前は手を出すんじゃない!」


 父親が悲痛の声を上げる。


「いつもウチの店で暴れやがって! こんなヤツ! こんなヤツに!!」


 まだ幼いが、その勇気は大したものだ。大人だって、強面のゴライを前にしては震え上がることだろう。

 俺が同じ立場だったら…きっと、年寄りの姿でなかったとしても、助けに入るなんてとてもできなかった。

 


「…や、やめ…」


 “やめろ!”…そう怒鳴りたくとも、声にできない自分自身の腑抜けさを情けなく思う。


 しかし、このままじゃ、あの少年は…



「ブッ殺してやる! このクソガキ!」


「待て! わかった! わかったから!!」


 店主がローリシェの前に割って入り、すかさず地面に額を擦り当てて土下座する。


「あーん!?」


「こっちが謝る! ゆるしてくれ! 悪かった! 酒も好きなだけ飲むがいい! だから、子供だけは…子供たちだけは!」


 店主としては最悪だが、父親としての行動としては最善と言える。相手に暴力を使う口実ができてしまった以上、この先は交渉にはならない。

 だが、間違ったことをしてない方が謝らねばならないという理不尽さに俺は不快感を覚えた。


「あー? この傷、見てみろ! 血が出ちまったじゃねぇか! もう謝ってゆるされるか!」


 ゴライが店主を蹴り飛ばし、手に持った子供を投げ飛ばして地面へ叩きつける。


「ジョシュ!」「ジョシュア!」


 野次馬からも悲鳴が上がるが、それでも身を挺して助けようとする者はいない。

 ようやく憲兵を呼びに行った者がいたようだが、遅すぎるだろう。そんな国なのだ。


「よくも!」


 飛びかかるローリシェをゴライは片手で振り払う。


「この傷の礼はたっぷりと100倍返しだ!」


 本当に陳腐な台詞だ。だがあの怒り様だと、きっとローリシェを半殺しにするまで気が収まることはないだろう。

 ジョシュアは…肩から落ちたな。頭を打ってないなら大丈夫だと思うが。

 残念だが、なにもしてやれん。あとは憲兵が早く駆けつけてくれることを祈るしか……

 


「ウッギャアアアッ!!」



 俺が凄惨な暴力から眼をそらそうとした時、今までとは異質な悲鳴を耳にする。

 そして、さっきまで「可哀想に」だなどと言っていた者たちが息を呑んで押し黙ったことからも、何か非常にマズイことが起きたのだと嫌でもわかる。


「マジかよ…。刺したのか」


 その言葉に、ゴライが刺したものと一瞬そう思ってしまった。


 しかし、刺したのはゴライじゃなかった。


 あの店主が包丁を両手で握って、ゴライの腹に突き刺しているのが見えた。


 なぜ包丁を…と思ったが、よく考えればゴライのような男を相手に丸腰で挑むわけがない。きっと護身用にとでも思って忍ばせていたのだろう。

 そして、子供たちに危害を加えられるのを見て、とっさに…恐らくはそういうことだ。



「お、お…て、テメェ!」


「う、うおああああッ!!」


 それから何度も店主は包丁を突き刺す。

 そしてゴライが膝を付き、包丁を何とか奪い取った。

 たが、反撃する余裕はなく、血塗れになった腹を抑えるので精一杯だ。


「うおああああッッ!!」


 店主が再び獣じみた叫び声を上げる。

 子供たちは眼を見開いて父親のやってることを啞然と見やっていた。


「や、やめッ!」


 店主にあったのは怒りではなく、たぶん恐怖だろう。死に物狂いという言葉が一番しっくりくる。

 包丁を奪われた彼は、手近にあった石(立て看板のウェイトに使っていた物だ)を拾うとゴライの頭を滅多打ちにした。


 その間、野次馬はその光景を呆然と見やる他なかった。

 今までで目に見えてわかりやすい恐怖を振りまいていたゴライの威圧感とは別のものが、周囲を支配し始めていた。


 ほんの数秒とも、いや何十分とも感じられる奇妙なひと時が過ぎ去り、ようやく時間が戻っきたのは、倒れたゴライの前に、血塗れの手を震わせた店主が膝をついてからだ。



「ひ、人殺し!!」


 誰かがそう叫んだ。


 そしてようやく気づく。これは単なる暴力ではなく、公然とした場で起こった殺人…“事件”なのだと。


 野次馬たちの陰鬱な熱があっという間に拡がる。

 そこにあったのは今までの傍観者としての立場のものではない。

 いわゆる義憤だ。小市民の小さな正義感が一斉に店主へと向けられていた。


 憐れまれていた被害者から一転、蛇蝎の如き犯罪者へ。


 ゴライに向けられていたものより強い感情が、放心している店主や、泣いて父親にしがみついている幼子たちを逃がすまいという意思に変わったのを感じた。

 その中には、親子への同情や擁護も少しはあったことだろう。しかし、いま目の前にした人を刺す瞬間のインパクトが強すぎて、かき消されてしまっている。



──ああ、そういうのはキライなんだよなぁ。



 その人々の感情の渦のただ中にあって、俺が感じたのは苛立ちだった。 


 こんな正義感がわずかでもあったのなら、あのローリシェのように、ゴライに立ち向かっても良かったのではなかっただろうか。


 今まで無関係を装っていた野次馬が、ここにきて正義感を振りかざすのが不快に思われてならない。


 そして、ゴライに対しても、この現状に対しても何もできない俺自身に対しても、強い怒りを感じる。


 こんな身体で何ができる…そんな言い訳をして、何もしなかった自分自身がひどく惨めに思われた。



「……もう、何を惜しむものがあるってんだ。森脇道貞」


 そうだ。


 そして、俺はもうすぐ死ぬ。


 寿命が尽きて、見知らない異世界で独り死んでいく。


 元の世界に戻る? そんなの無理に決まってるだろう。


 この世界で店が開いてなかった時点でそんなことわかっていた。


 もとには戻れない。それを認めたくなかったから、毎週あんなところへ老体に鞭打って行っていたんだ。


 認めろ。俺はもうどうせ死ぬだけの身なんだ…。

 

 何も成し遂げることもなく、あの狭い部屋の中で、いつか目覚めぬ朝を迎えることになるだけなのだ……。


 そのことを考えれば、あの勇気ある少年…ローリシェの方が何と未来に可能性があることだろうか。


 誰に聞いても、この死にかけの老人に比べれば、あの少年の方こそ価値があると言うだろう。 


 人の命は平等ではない。だからこそ、不断の努力によって価値を高める意味がある。


 そして理不尽によって未来を奪い取られるのがどんなに悔しいことか…騙されてこの世界に送られた経験があるからこそ共感できた。


 なら、無意味な俺の人生。最後の最後に無駄にしないためにやることはひとつだろう──


 ゴライに立ち向かったロリーシェの勇気の一欠片でもいい。そんな小さな勇気を拳に握りしめる。


 そして俺は杖をしっかり地面に突いて、全身に力を入れて歩き出した。



「…他に家族はいるのか?」


 打ちのめされている父親に後ろから話しかける。


「え?」


 自分のしでかしたことの大きさに、そしていきなり見知らぬ老人が話かけてきたことに、戸惑うのも理解できなくはない。


「…ゆっくり話している時間はない。憲兵が来たらもう話せなくなる」


 わざと冷たい言い方をする。地球の俺より、きっとこの父親の方が年上だろうが…今の見た目ならば問題はないだろう。

 ローリシェとジョシュアを指差すと、自分が置かれた境遇を思い出した父親の眼に光が戻った。

 そして絶望の中、俺にすがるような眼を向けてくる。


「…ご老人。見知らぬ方にいきなりこんなことを言うのは気が引けるのですが、頼みが…」


 頼み…子供たちのことを頼むとかそんなところだろう。俺は手を横に振ってそれを遮る。


「その前に確認しておきたい。子供たちの未来のために全力を尽くす気はあるか?」


「え?」


 子供を預かれるくらいならしてやりたいがね。残念ながら、俺に面倒を見る余力はないんだよ。


「名前は?」


「え?」


「言っただろ。時間がない」


「…シデランです。シデラン・クシエ」


「なるほど。シデラン。…最初に言っておくが、機会は与えたいとは思うが、それを活かすも殺すもお前次第だ」

 

 周囲の好奇の視線に耐えつつ、声を潜めて慎重に言葉を選んで伝える。

 この間にも俺は頭をフル回転させていた。道貞とカダベルの知識から何か有効な手立てを考え続ける。


「…どうすればいいので?」


「最初に聞いた質問だ。この2人以外に家族は?」


 ロリーシェが俺をじっと見やっている。

 近くで見れば実に賢そうな子だ。ただ単に容姿が整っているだけでない。

 年齢は10歳くらいだろうか。俺が同じ歳の頃は、テレビにかじりついてた病弱なハナタレだったなぁ。


「いえ、この子たちだけです。妻とは死別…」


 俺は片手を上げて途中で話を遮る。シデランもすぐに理解して頷いた。


「ならいい。その子供たちを抱え、民集の間を何とか切り抜けて南に逃げろ。

 街から…いや、国から離れるのだ。国境を越えれば追っ手は来るまい」


 それを聞いてシデランはあからさまに失望を顔に浮かべた。ありありと顔に“そんなことできるわけがない!”と出ている。

 俺はそんなことには構わず、懐から鍵をひとつ取り出す。周囲に何かわからないように上手く隠しつつ、シデランと兄弟にだけ見せた。


「…中央クルシァン国に俺の本邸がある。使用人の“ナド”という男が管理している。“カダベル・ソリテール”の名を言えば、お前たちの面倒を見てくれるはずだ」


 これはもちろん身体の持ち主の記憶だ。カダベルが貴族の資産家というのは確かに本当のことだ。

 ただ本人は財産を持たず、使用人も側におかず、老後は別の国で孤独に暮らしていた。

 ナドは義理堅く忠実な下僕のはずだ。家屋の管理を任せっきりにしているのを、老いたカダベルも気にはなっていた様だが、ついに故郷に帰ることはなかった。

 そう。いかに沢山の財産があろうが、老いに対しては何の役にも立たないというわけだ。


「しかし…」


 鍵を受け取るのをためらい、シデランは目を伏せる。そして、倒れているゴライの死体を見やる。どうやってもこの事実からは逃げられないとでも考えているのだろう。


「今のままなら可能性は0だ。子供たちのためにもやる価値はあると思うが…」


 俺はゴライを見やる。この男さえいなければ、この親子がここまで追い詰められることもなかっただろう。

 死んでからも人に迷惑をかけるとは救いようもない。同情する余地もないと思うけどな。


「…父さん。やってみよう。このまま父さんが逮捕されるなんて間違ってる」


 ロリーシェがそう言って俺の手を包み込むようにして鍵を受け取る。

 この枯れ木のような節くれだった指が、ふっくらとした柔らかな小さな手に触れたことがなんとも気恥ずかしい。


「…良い子だ」


 ローリシェの頭に手を置く。綿毛のようなフワフワの金髪が揺れた。

 彼の大きな碧眼が、より大きく拡がる。陽光に照らされて、まるで輝く宝石のように見えた。

 その様子からして、なんだか強いショックを受けたかのようだ。

 そりゃ、こんなジジイに頭をなでられたらビックリ…するかなぁ? 小さな子供にはよくやることだろ?


「シデラン。この男の死は俺が引き受けよう」


「…それはどういう?」


「説明している暇はない。ほんの一瞬だけ、民集の注意を引きつける。その間にお前が一緒になって驚いたり、罪悪感から足を止めたり、または捕まられたりしたらそこでお終いだ」


 重要なことなので、俺はシデランの眼を真っ直ぐに見て言った。

 気まぐれとはいえ、俺の与えたチャンスを無駄にはしてほしくない…そんな気持ちからだ。


 もしこの親子が無事に逃げられ、ローリシェが大きくなったら、俺のことを思い出して感謝のひとつくらいはしてくれるかもしれない。


 それだけでも俺の人生に意味はあったんだと思える。

 それが欺瞞に満ちた単なる自己満足だったとしても…


「さあ、始めようか…」

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[良い点] はじめまして! ツイッターからやって来ました。 別世界に別人として異動できるという設定が面白いですね! しかし開幕から詐欺に近い形での異動サービス。 これは酷い、しかもこの新しい世界、結構…
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