014 ロリーシェ・クシエ(2)
5年という歳月が、本当にあっという間に過ぎ去る……
聖学校へと通い、私は神官になるために学び、弟も聖騎士となる目標に向かう忙しい日々を送っていた。
女子と男子では宿舎が異なるので、ジョシュとはほとんど会えなくなっていた。
それにどうやら、宿舎から戻る時の休みも、私とかぶらないように、意図的に日にちをずらしているらしかった。
なぜ私を避けるのか、思い当たる節がなかったので、その行動の意味がまったく理解できない。
その件について話したくて、たまに顔を合せたとしても、ジョシュは口を閉ざしたまま一切何も答えてくれないのだ。
ナドさんは男の子なんてそんなものだと言っていたが、私はそれとはなんだか違う気がしていた。
義父の自殺以後、ジョシュはよく物思いに耽るようになった。
窓辺から外を見やる彼の眼は冷たく、そんな事をしながら、いったい弟が何を考えているのか私にはわからなかった。
何度も手紙を送ったけれど、弟から返事がきた試しがない。
一度宿舎の方にまで行ったこともあるが、男子寮は女人禁制で立ち入ることが許されなかった。
そこで言伝をナドさんに頼んだりもしたのだが、ジョシュからは「大丈夫だから心配するな」と毎回お決まりの返事…それはきっと私を安心させるために、ナドさん自身が考えた言葉だったんだろう。
そして、弟のことも心配だったのだが、それとは別に、私はカダベル様にもう一度会いたい気持ちが日増しに強くなっていっていた。
御礼文を何度も送ったのだけれども、残念なことにカダベル様の返信は一度もない。
弟から手紙が返って来なかったよりもショックだったのは、私が弟に対して薄情だからなのかも…。
ナドさんは「たまに連絡があるわ。こっちからの発信には応えられないのよ」と言っていたけど、そんな私が知らないカダベル様の話を聞かされるのは、どうにも不快でならなかった。
「もう、聞き分けない娘ね」
「ナドさんこそ、連絡がなくて不安にならないんですか?」
「…年齢も年齢だからね。不安かと聞かれりゃ、そりゃ不安よ」
「なら!」
「でもね、何かあればすぐに連絡がくるわよ。向こうでも独居老人を気にかける神官はいるからね」
「…その神官さんに、安否の確認だけでもしてもらえばいいじゃないですか」
具合が悪くなったら神殿へ行く…そうナドさんは言うが、むしろ神官たちに様子を見に行ってもらうようにした方がいいと私は思って言った。
「アンタねぇー。そんなことカダベル様にバレたら、それこそ屋敷から本当に追い出されちゃうわ。アタクシだけじゃなく、アンタもね」
ナドさんはカダベル様に夜這いを何度もかけようとした責任を取らされ、側仕えを許されずに、この屋敷に半ば隔離されている状態らしかった。つまり、カダベル様本人から接触禁止令を出されているのだ。
こっそり様子を見ていただけにしても、ナドさんには厳しい罰が下る…そんな約束になっているらしい。
クビにしなかったのは、カダベル様が寛大だからなのだろうと思ったが、逆に下手に自由にさせると何をしでかすかわからないからなのだと、この5年間で私は知ることになる。ナドさんは職務には忠実なのだ。
「私は行きます! もう我慢できません!」
「5回も失敗してアンタも懲りないわねぇ〜」
そうだ。1度目と4度目、5度目は寄宿舎から、2度目と3度目はこの屋敷から出てカダベル様の所へと向かった。
その度、ナドさんの放った配下に捕まってしまった。
それはカダベル様が、私たちが成人するまで面倒を見るようにと厳命して下さったことによるものだ。
つまり、ナドさんは職務だけに関しては、本当に少しの融通も利かないくらい忠実なのだ。
「今度は追手を差し向けないで下さい!」
「何度も言うけれど、やめた方がいいわよ。カダベル様が怒ると、そりゃもう怖いったらないんだから…。
それに、いまのギアナード王国はなんかキナ臭くなってきてるしね」
ギアナードで何やら危険な動物が暴れ回っている…そんな噂がまことしやかに囁かれていた。
そして、このクルシァンも兵力を集めつつあり、近々どこかと戦争をするのではないかという不穏な話までが巷の間に広まっていたのだ。
「だからこそです! カダベル様の安否を確認するのが配下の勤めでしょう!」
ナドさんは口ヒゲを撫でていたけれど、「ふー」と息を長く吐き出して肩を落とす。
「ダメと言ったら?」
「それでも行きます!」
「縛り付けても?」
「縄を噛み千切ります!」
「…はぁー、なにがあっても止まる気はない、と?」
「はい!」
「……あー、もう! はいはい。負けたわ。アタクシの負け」
「なら!」
「…まあ、成人にはまだ程遠いけれど、口と図体だけは大人顔負けだわよ」
ナドさんは両手を開いて降参のポーズを取る。
「ありがとうございます!」
「ハン! アタクシが、これ以上のアンタとの不毛なやり取りに飽きたからってだけよ!」
そんなことを言って、きっとナドさんもカダベル様の事が心配なのだろう。
今までのカダベル様と2年以上連絡がつかなかったことなどなかったのだから、心配にならないはずがない。
「だけど…怒られてもアタシの名前ださないでよね。アンタが勝手にやったことなんだから」
「はい! もちろんわかっています!」
──
こうして、私は久しぶりにギアナード王国イルミナード街へと戻る。
私は3本杖の刺繍の入ったローブ姿だ。これが修道士の正装なのだ。
当然、まだ見習い扱いなので、腕には“研修”を意味する白い布を巻いておかなければならない。
私はこう見えても、ランク1の軽外傷の治癒魔法【手当】と【鎮痛】だけは使える。
これが【解毒】まで使えれば、ようやく一人前の修道士になれるのだが、残念ながら私には神官魔法の才能はないようだった。
街並みは幼い頃とまるで変わっていない。私たちが逃げ出した瞬間からそのまま時が止まったかのようだ。
なんとなしに義父がやっていた酒場に行くと、そこは大きく外観が変わり、小洒落たバーという風になっていた。
でも客層はそう変わらないようで、真っ昼間から外にまで響く喧騒が聞こえてくる。
懐かしい気持ちより、痛ましい記憶の方が強くて、私は足早にその場を立ち去った。
カダベル様の住所はナドさんから教えてもらっていた。
だが、使用人に居場所を知られないようにするために転々としているらしい。
気づいたらもぬけの殻で、慌てて住所を探し出す…そんなやり取りが何度もあったそうだ(もちろんカダベル様本人に気づかれないようにだから、細心の注意を払ってより大変なことだ)。
カダベル様はよほど人間嫌いなのだろう。
使用人を側に置きたがらない貴族なんて聞いたこともない。
それなのにもかかわらず、あの方は私たちを助けて下さった。
どうしても、皆が言う他人に無関心だって話と、私が実際に施しを受けた優しいイメージとのギャップが大きすぎて戸惑ってしまう。
様々な話を聞けば聞くほど、私を助けて下さった方と、それはまったく違う別人のよう思えてならない。
まあ、それもちゃんとお会いして、ゆっくりお話すれば疑問はすぐにでも解決するハズだ。
本当はお優しい方なのだと、ただちょっと誤解されやすいだけなのだと、そこで判明すると私は信じている。
ナドさんから渡された最新の住所も、実はだいぶ昔のもので、間違いなく転居しているはずだとのことだった。
ここで普通なら手詰まりになるところだが、ようやく私の修めてきた学業が役に立つというわけだ。
私は修道士見習いだ。だからこそ、関係者として聖神殿に立ち入ることができる。
そして、聖神殿に何があるのかといえば、それは治療を受けた人の情報だ。
聖神殿に治療に来た者は、すべて記録を取って診療録として残されることになっている。
一般人がその個人情報を得ることはできないが、聖職者の立場であれば往診治療を名目に閲覧することが可能だ。
私が聖学校に課外実習申請を出したのと、こんな格好でやって来たのには、そういう訳があったのである。
聖神殿は街の中心部にあった。こんな不埒な街イルミナードにも、ちゃんと存在しているのである。
どこの国の街にも聖神殿は最低ひとつはあり、各神殿同士で連絡を密にしている。
これらはクルシァンが大きくバックアップしているせいもあり、中にはそうやって他国のスパイ活動を行っているのではないかと疑う人もいたが、聖教会が独占している治療魔法の貢献は大きく、庶民の支持が高いせいで、クルシァンに敵意を持つ国であっても容易には排斥できないのが実状らしい。
聖神殿に入ると、1階部分がいわゆる治癒を受ける人々が待つロビーや診療所となっており、2階が礼拝所。3階が資料室兼神官たちが寝泊まりする部屋となっている。だいたいの神殿の造りはそう決まっていた。
3階は関係者以外立ち入り禁止となっているが、私の着ているローブと身分証のおかげですんなりと通される。
そして、この聖神殿の責任者である司祭長の部屋へと向かう。
「…ようこそ。イルミナード支部に。聖心余す所無く照らされますように」
「感謝します。聖心余す所無く照らされますように」
人差し指と中指と薬指の3本だけをくっつけ伸ばした状態で、相手に手の平を見せる。
やってみるとわかるが、最初は指の根本がかなり痛い。小指も伸ばしてしまいたくなる。
今ではだいぶ慣れたが、ベテランの神官ともなるとこの状態で何時間も説法する人もいるらしい。准修道士の私が言うのもなんだが、狂気の沙汰だと思う。
狂気だなんて言うのは不敬に聞こえるだろうが、私が聖学校に行ったのは魔法を覚えたかっただけであって、聖神殿が信じている“源神オーヴァス”なんて存在を私は少しも信じていない。
私が心から信じるのは、大魔法士カダベル・ソリテールただおひとりなのだから…
このポーズを取るたびに、実は心の中で舌を出していたりする。
「…ロリーシェ・クシエ准修道士」
司祭長が怪訝そうな顔で私を見やる。
まずい。もしかして、心の中の不信心を見抜かれたかも知れない。
神経質そうなやせ細った司祭長が、薄い唇をへの字にしている。
「…貴女は慎みが足りませんね」
何のことを言われているのかわからず、私は眼を瞬く。
「我らの聖心服は慎ましさと挺身、そして強い自制をもたらすためのもの。他者の欲求をかき乱すためのものではありません」
教示鞭という細長い棒で、私の胸と腰の辺りを示す。
「す、好きで大きくなったんではありません!」
そうだ。最近はやけに成長してきたんだった…ローブはゆったりしている方だけれど、それでもキツくなってきている。横からハミ出してしまいそうだった。
でも、胸もお尻も勝手に大きくなるんだから仕方がない。食べる量だって減らしている。それなのに成長期のこの身体は言うことをきかないのだ。
「聖心が足りないからです。私をご覧なさい。欲とは無縁の姿。真の聖職者とはこうあるべきなのです」
欲とは無縁というか、失礼だけれども、なんだか何の凹凸もない枯れ枝のようだ。不健康そうにしか見えない。
「それがなんですか。貴女のようにだらしない身体をして…。特にこの街は不道徳の街。余計な情欲を掻き立てるような…」
「申し訳ございません! 司祭長様! 私はさっそく奉仕に取り掛かりたいのですが!!」
このままだとずっと説法を聞かされる羽目になる。
態度が悪いとか言われるならともかく、身体のことをどうのこうの言われたくはない。
…あれ?
もしかして、カダベル様もこういう身体は好かなかったりして。
慎みある方が…いいのかな?
ナドさんの話だと、質素を好むとかなんとか…派手な感じはお嫌いらしい。
あの司祭長のような、枯れ枝みたいな身体がいいのかな?
「…枯れ枝になりたい」
「……か、枯れ枝」
思わず司祭長を見て呟いてしまった。
彼女の顔がピキピキと歪んで固まったのが見える。
「ま、まさかとは思いますが、私のことを…」
「あ。ち、違います! 司祭長様が枯れ木と言ったわけではなくて…」
困った。上手い言い訳が出てこない…。
私が何か言わないとと焦っているうちに、司祭長様はゴホンとひとつ咳払いをする。
「……勘違いしないで下さい。私は聖心の塊。もはや心は人の領域のものではありません」
ああ、良かった。さっきまでの能面のような顔に戻った。
「…奉仕に務めなさい。ロリーシェ・クシエ准修道士」
「はい! それでは失礼します!!」
私はそそくさと部屋を出る。
その際、司祭長の部屋から「おどりゃあああッ!!」という怒鳴り声とともに、何かが投げつけられるような音がしたのはまったく聞こえなかった。
──
資料室で“カダベル・ソリテール”の名前を探すがひとつも出てこない。
ナドさんから聞いた、カダベル様が使うであろう偽名でも検索するがそれでも見つからなかった。
「“朱羽老人”…さすがにこれでは出てこないわね」
「ご奉仕する候補は決まったの?」
「え? あ…」
あまりに真剣に探していたので、側に人が立っていることに気づかなかった。
それはプーカーと呼ばれる種族の修道士だ。
長い睫毛と全身がモフモフとした毛で覆われていて、柔らかく愛らしい見た目をしている。
「できれば、うーんと年輩の方のところへ行きたいんだけれども…」
個人名を出すのあまり良くないと思い、私はそう答えた。
「名前は?」
「え?」
「誰か探しているんでしょ?」
なぜわかったのだろうと不思議そうな顔をしていると、シャリシャリと左右に歯を擦り鳴らして笑う。それは何か咀嚼しているみたいに見えた。
「親戚の家とかの方が楽だからね。奉仕先でスケベジジイとかに当たったら最悪でしょ。見習いの子は上手くそうやって切り抜ける場合が多いのよ。身内とバレたら大変だけどね」
耳元でそう囁く。
奉仕先で襲われて…なんて話はたまに聞く。そんな眼に遭ったらたまったものではないが、信心深い彼らはそれもまた神の思し召しだとか言って受け入れるのだ。
平たく言えば、単なる泣き寝入りだ。そんな話を聞く度に、この奉仕とは時代錯誤な制度だと思う。
「…カダベル・ソリテール」
私がそう言うと、彼女は大きく耳を揺らして、軽く首を傾げてみせる。
「もしかして貴族? スゴイわね。知り合いにそんな金持ちがいるなら聖学校にだなんて入らずとも…」
「調べられる?」
あんまり詮索されたくなくて、私の言葉は冷たく突き放す感じになってしまった。
それでも彼女は微笑みを崩さず、棚から本を何冊か取り出す。
「既往歴はなくても、この『聖改巡回録』になら名前が載っているかも知れないわ」
「? えっと…」
「布教活動の際に、1軒1軒を回った時の記録よ。“名前だけでも教えてくれたら、聖改に来るのをもう止めるから”…っていう条件で、お話しする時もあるから」
「…教えたらやめるの?」
「やめるわ。でも、その代わりに【投函】による布教攻撃が始まるだけなんだけれどね」
「…聖心余す所無く照らされますように」
山程の手紙を送られたであろう人のことを思い、私が皮肉って祈ってみせると、彼女もそれを理解したようで苦笑いする。
その様子から、彼女もこういった強引な布教活動には何か思うところがあるのだろう。
「…えーっと、“か”、“か”、“か”…と。あ。意外とすんなり見つかった。あったわよ」
「本当に!?」
私は本をひったくるようにして、それを見やる。
確かにカダベル・ソリテールの名前があった。けれどその横の住所を見て脱力した。
「どうしたの?」
「…ううん。なんでもないです」
私が脱力した理由は、ナドさんから渡された元の住所そのままだったからだ。
最初からそこへ行けば、こんな回り道をしないですんだはずだ。
なにが、“間違いなく転居している!”…だかなぁ。
「でも、あれ。これ…」
彼女は顔を本に近づけて首を傾げる。
「なに?」
「……“死没”って書いてあるわ」
──
ウソだ。
ウソだ。
ウソだ。
もっと早く走れと、私は自分の足に言う。
道に迷うことはない。それは私の元いた家からそう離れていない近所だったからだ。
焦りと不安で押し潰されそうだった。
あの方が死んだ。
いや、そんなはずはない。
あの方はゴライを生き返らせた。
死すら克服する魔法をお持ちの方だ。
でも、ナドさんはそんな魔法存在しないと言っていた。
カダベル様にはそんな魔法を使えるはずないと…
……私の何かの見間違えじゃないか、と。
もし、そうだとしたら、私は……
泣くな。
泣くな。私。
まだ決まったわけじゃないんだから……
お屋敷の前に辿り着く。大きいお屋敷だ。
近所で遊ぶ時に、確か近くにまで来たことがあった。もしその頃、ここにカダベル様がいるとさえ知ってさえいたら……
色々な想いが湧き上がってくるが、庭には雑草が伸び放題になり、ひび割れた外壁にはツタが屋根にまで続いていて、このいかにも長年使われていない様子に、私の不安はより増していく。
大きな声で呼びかけてみる。
閑静な住宅地だ。家の中にいても聞こえるはずだ。
だけれども、誰かが出てくる気配はない。
「ああ、カダベル様。ゴメンナサイ…」
私は“中にいるであろうカダベル様”に謝罪する。
きっと訪問されるのがイヤなんだ。
そうに決まっている……
でも、ここで諦めて帰るわけにはいかない。
私はローブの裾をめくると、門の支柱のくぼみに足をかけて一気に柵を乗り越えた。
端が引っかかって破けたが、そんなことに構っていられない。
玄関の呼び鈴を祈るような気持ちで鳴らす。
1度……2度……3度……
やはり誰も出て来ない。誰かが中で反応したような気配はしない。
覚悟を決めてノブに手をかける。
…扉はすんなりと開いてしまった。
ホコリっぽいニオイが漂う。
これだけでわかる。
わかってしまった。
この屋敷がしばらくどころか、かなり長い年月使われていないことが。
中は暗い。カダベル様は明かりをつける魔法をお持ちだから、きっと照明は必要ないのだろう。
「…お独り身だから掃除する暇がないのよ。きっとそう」
天井に垂れ下がる沢山の蜘蛛の糸を見て、私は自分に言い聞かせるようにそう言う。
部屋の奥ではきっと魔法書を一心不乱に読んでいるカダベル様がいて、私が入ってきたら「…ああ。気づかなかった。研究に忙しくてね」なんて仰るに違いない。
そうだ。そうに決まっているじゃないか。
「…カダベル様。カダベル様。カダベル様」
ようやく会える喜び、そして拭いきれぬ不安。
私は自分の頭を撫でて慰める。
そうだ。あの時、カダベル様に撫でられたように…
あの優しい顔で、再び私の頭を撫でてもらうんだ。
奥の部屋の扉を開く。感覚できっとここがカダベル様の部屋なのだとわかった。
そして、その部屋に入った瞬間すべてを理解した。
膝を床に打ち付ける。ひどくホコリが舞った。
とめどなく涙が流れたのは、ホコリのせいなんかじゃない。
「…ああ、ああ! カダベル…さまぁ…」
私は立て掛けてあった杖を抱きしめる。
間違いない。これはあの偉大な大魔法使いが愛用されていた杖だ。私の記憶に焼き付いている物と寸分違わない。
そして、誰もいないベッド。これを見た瞬間、私はカダベル様がここで息を引き取られたのだと瞬時に察してしまったのだ。
「う…ウワァァァァン!!!」
まるで幼子のように、私はベッドに額をつけて、長い時間ただひたすらに泣いたのだった…………。
──
「へへへ。姉ちゃん。太腿んとこ丸見えになっちまってんぜ。どうせ見せてくれんならパンツんとこまで切っちまってくれよ。手伝うぜ」
あれからどれぐらい時間が経ったのか、何をどうして、今この酒場に来て座っているのかよく覚えていない。
ただカダベル様と最初に会った場所に…そう思ったら、杖を握りしめてここに来て、案内されるままに席についたのだった。
「なあ、無視すんなよ。誘ってんだろ?」
「おい。やめとけって」
ここでこうしていれば、そのうちカダベル様がやって来て……
「なんでだよ。こんなチャンスそうそうねぇだろ」
「修道士はマズイって」
カダベル様に会ったらまずなんて言おうかしら。
助けてもらったお礼はもちろんよね。
あとは…少しは魔法を使えることになったこともご報告しなきゃ。
「なにビビッてんだ。邪魔すんな。知ったことかよ。修道士が酒場なんか来てる方がおかしいだろうが」
「…だから、どう見ても頭がおかしいんだって。ヤベえって普通じゃねぇってんだよ」
そうだ。頭を撫でてもらおう。たくさんお願いして…
「ゲエッ! な、なにひとりでニヤニヤ笑ってんだ。不気味な女だな…」
「だから言っただろ! 頭おかしいんだって! 関わらない方がいいぜ。こりゃ呪われるぜ」
ああ。カダベル様…。
早く来られないかしら。
「あ、あのー、お客様。そろそろ、何か注文していただかない、と」
眼の前で手が振られる。
何気なくそちらを向くと、見知らぬ男が困った笑顔を浮かべていた。
なんだか義父に似ている。卑屈な笑みとでも言えばいいんだろうか。そんな顔はあまり好きではない。
「…タダ酒」
「……は? あ、あの、修道士様。ご冗談にしては…」
「…ゴライのようにタダ酒を飲めば、カダベル様が来てくださるから…」
卑屈な男の顔が、みるみるうちに赤くなる。
「ふ、ふざけるのも大概にしろ! 金がないなら出ていけ!!」
そうだ。そうやって怒るぐらいなら、最初から卑屈な態度なんてとらなければいい。
カダベル様は違った。主義一貫としていて、相手に媚びへつらうことなんてない。
言葉数は少ないけれども、それ以上に黙して行動なされる素晴らしい方だ。
「…そうだ。私は、私はこんなにもカダベル様のことを…」
「は? 何を言って…」
「会わずとも、胸の高鳴りはこんなにも……今ならハッキリとわかる」
年齢差がなんだ。たった数十年ちょっとの違いじゃないか。
どうして相手が老人だからって、恋しちゃいけない理由になるだろうか。
同級生は皆笑った。
自分より先に逝ってしまうだろう。
デートしたら恥ずかしい。きっと介護みたいになるわ。
シワシワの顔にキスなんてできるはずがない。
はッ! そんな低俗なことじゃないわ!
私とカダベル様はそんな関係じゃない!
もっと高貴で尊いものだ!!
「そうよ! 愛とは気高さなのよ!!」
「ぎゃあ! な、なんだぁ!?」
私は卑屈男の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
「教えなさい! カダベル様はどこに行かれたの!? ゴライを復活させた後、カダベル様はどこで何をされていたのか包み隠さず答えなさい!!」
「し、知るか! カダベル様って誰だよ!?」
「たった5年前のことよ!! あなたは近所にいたんでしょ! なら知らないはずはないわ! 知らなくても眼の端にくらいは入っていたはず! なぜなら、あのカダベル様の存在は太陽よりも遥かに輝いて見えるからよ!!!」
「な、何をわからんことを!!」
「お嬢さんや。そう荒ぶりなさんなって」
脇から、シワシワの顔をしたドワーフが私に声をかけてくる。
「さっきゴライって言ってたな。そりゃゴライ・アダムルのことかい?」
相手の背が低いので、だいぶ見上げるようにして首を伸ばしていた。対象的にこちらは見下すような形になってしまう。
「カダベル様のことは…」
「カダベルってのは知らんよ。だが、ゴライ・アダムルってのはずいぶんと懐かしい名だな」
私はハッと眼を見開く。
卑屈男から手を離して、そのドワーフに近づく。
「本当にゴライのことを知っているんで?」
「おっと、首は締めんでくれ。そんなことをせんでも話してやる」
「…お願いします」
「初めに言っとくが、お前さんにとって有益な情報かどうかは知らんぞい」
指先を弄ぶ様を見て、私は懐から硬貨袋を取り出す。
それを見て卑屈男が「なんだよ。金はあるんじゃねぇか」と言った。
卑屈男…ああ、そうか。店主だ。そんな格好をしている。
周囲の状況がようやく見えてくる。
この時には、私はだいぶ平静さを取り戻していた。
「大丈夫です。足りなければ後で支払わせて下さい」
金の大硬貨を10枚。ありったけの金を手に握らせると、ドワーフは眼を丸くした。
「おいおい。勘弁してくれ。酒代にしちゃ多すぎる」
ドワーフはそう言うと、8枚を私に付き返す。
「ドワーフは確かに商売にはウルサイさ。だが、詐欺を働く時も3割増しまで…って決まっとるんだ。だから2枚はもらっとく」
お金なんかどうでも良かった。
カダベル様の手がかりになるんだったら…
「オイ。酒だ! 皆の衆、今日はワシのおごりだ! 次回ちゃんと返せよ!」
ドワーフが店主に金貨を1枚渡すと、店中が歓声に包まれた。
「カカカ。上手い商売ってのはこうやってやるもんじゃ」
ドワーフはそう笑って、もう1枚を懐へ大事そうにしまいつつ、私の向かいの席に腰掛ける。
「ガウス・タンぢゃ。ヨロシクな。お嬢さん」
「…ロリーシェ・クシエです」
椅子を調整して高さを上げると、私の目線と合った。
様々な種族が来るので、だいたいの酒場はテーブルや椅子の高さが調整できるようになっているのだ。
「…それでゴライのことは?」
「ああ。ワシは見ての通り、旅の商人なんだがね…」
見ての通りと言われても、ガウスさんが商人なのか鉱夫なのか、他種族からはわからない。
その職業によって特徴があるらしいが、私には同じドワーフにしか見えなかった。
「そのゴライ・アダムルとは、この街に来る度によくケンカをしてな。ワシらが露店を開いてると、場所代だなんちゅーモンを支払えだなんて難癖をつけてきよる。それでよく覚えてたっちゅーわけだ」
「…まさか、情報ってそれだけ」
嫌な予感がして言うと、ガウスさんは鼻の穴をピクピクとさせた。ドワーフが不愉快な気持ちになった時にする仕草だ。
「金貨2枚分の情報じゃ。そんなわけないじゃろ。これなら銀貨でも多いわい」
「そ、そうですか…すみません」
「ロリーシェ嬢はせっかちだのぅ。ヒューマンは短命だから、そんなに早く早く…となるのか?」
「い、いえ、そういうわけでは。ヒューマンでも…。すみません。なんだか慌てちゃって」
「まあええわい。…それで、だ。しばらく前からじゃったかな。そのゴライのヤツが、とんと姿を見せんくなったのよ」
それには心当たりがあった。ちょうど私たちが当事者なんだけれども…これは別に話す必要もないだろう。
「商売の邪魔じゃったからな。まあ、いないならいないでエエわいと、せいせいしとったんじゃが…」
ガウスさんはちょうど運ばれてきたジョッキを受け取り、それで口を湿らせてから続ける。
「…まあ、嫌なヤツなんじゃがな。いなきゃいないで、後からどうしたか気になってのぅ。商売仲間うちに、もし姿を見かけたら教えてくれと話してあったのよ」
「それで見つけたと!?」
ガウスさんは大きく頷く。
「どこで!?」
「この街の近くじゃよ。ゴゴル村っていう麓の小さな村じゃ」
「行ってきます!」
「ちょっと待てーい!」
立ち上がろうとした私を、ガウスさんが身を乗り出して捕まえる。
鈍重そうな見た目の割に意外と素早い。
「ひとりじゃ危険じゃ。だいたい場所はわかるのか?」
「場所はわからないですけど…」
そうだ。私はゴゴル村とやらの場所は知らない。
「はぁー。どうしてもと言うのなら、地図を書いてやるよ。だが、ひとりじゃ決して行くな。本当に危険なんじゃ。ワシの情報で、命を落とされでもしたら寝覚めが悪いわい」
「危険とは?」
カダベル様に会えるならどんな危険が待ち構えていたっていい。
そんな気持ちで言うと、ガウスさんはそれを察したらしくやれやれと頷く。
「怪物が出よる。じゃから、最近は商売にも行かん場所なんじゃ。金になるところなら地の果にまで行くワシらですらな」
「怪物…」
私が即座にイメージしたのは猛獣だ。
山間なら熊か狼だろう。出くわしたら確かに危ない。
だけど爆竹か何か、大きな音で追い払えるはずだ。それで怪物とまで言われるのかは疑問だった。
「それに、そのゴライも…目撃した商人の話じゃ妙な様子だったと聞く」
「妙な様子?」
「うむ。あの男らしくないというか何と言うかな…」
「ゴライは村の中で何をしてたんですか?」
「いや、それが見たのが村の中じゃなくてな」
「なら村の外? ちゃんと教えて下さい!」
ガウスさんに詰め寄ると、「わかっとるわかっとる」と頷く。
「村の外でな、赤子のような物を大事そうに背負っていたと…そう聞いたんじゃよ」
「赤子って…赤ちゃん?」
ゴライが赤ちゃんを背負っていた…なんだかイメージができない。
私が首を傾げてると、ガウスさんは「ほらな。そうなるじゃろ」と笑う。
「まあ、悪いことは言わん。行くのはよした方が…」
「修道士。俺たちを雇ってくれよ」
いつの間にか若い男がふたりが側に来ていた。
どうやら今までの私たちの会話を盗み聞いていたらしい。
「お前さんら…」
「俺はジータってんだ。金さえ払ってもらえるなら、ゴゴル村に案内してやる」
「おい。怪物が出るんじゃぞ」
「うるせぇな。ドワーフ。俺はこの修道士と話してんだよ。それに俺らの腰のモン見て気付かねぇのかよ」
ふたりの腰には剣が下がっていた。
「…傭兵か」
「ハッ! 言い方が古いぜ。今時、傭兵なんかいるかよ。レンジャーだよ」
傭兵とレンジャー、何が違うのか私にはわからない。確かクルシァンにはいないはずだ。
「で、どうする? 修道士様よぉ。もし雇ってくれんなら、さっきの金貨の残り…俺とコイツ…ラペリーの2人分の雇い賃で、さっきの8枚だ。どうだい?」
ジータという彼は、ガウスさんが私に大金貨を返したのを見てたのだろう。
それで声を掛けてきたというわけだ。
「怪物と出くわしても大丈夫ですか?」
「ああ。どんな怪物が相手でも、俺の聖剣が火を吹けば瞬殺さ。大舟に乗った気でいな」
聖剣は本来、聖騎士しか持てないはずだ。きっと誇張して言っているんだろうけど、それだけ腕に覚えがあるということでもあるんだろう。
ガウスさんは「止めたほうがええ」と首を横に振るが、私にはとてもそんなことできなかった。
このチャンスを逃しちゃいけない……
「ぜひ、お願いします!」