013 ロリーシェ・クシエ(1)
記憶はひどく断片的だ。幼い頃ともなればそれは特にそうだろう。
まるでパズルのピースのように、それらが無造作にボードの上に散らばっている。
ひとつひとつは前後があり、関係はしているけれども、どれが何時で、どれが今の私に影響しているのかまではわからない。
そんな中にあって、私にはひときわ大きな記憶のピース。
何度も、それこそすり減ってしまうんじゃないかというぐらいに繰り返して再生させた、大きな記憶の断片があった。
「…良い子だ」
そう仰って、私の頭に手を置いて撫でられる。
私は頭の先から背骨にかけて電流でも走ったんじゃないか…そんな気がした。
そんなことをする大人は、私の周囲にはいなかった。
義父にすらしてもらったことはない。
顔は鼻の上にまでローブの影になっていてよく見えなかった。ただ暗闇の中に輝く蒼い瞳がとても優しそうに見えた。
心はざわついていた。不安と恐怖で一杯だった。
そんな中、たったこの行為だけが私からそれらを一瞬で拭い去ってくれたのだ。
──魔法士──
見た目からしてもそうなのだろう。
腰が曲がっていることからも、骨ばった手からも、かなりのおじいちゃんなのだとわかる。
でもそんなことは気にならなかった。
この世界ではほとんどの人間が絶望を眼を宿していた。
義父の経営している酒場では特にそういった客しかいない。
私も母が死んだときそれを幼いながらに実感した。
世界は理不尽に満ちている。
不幸に終わりはない。貧乏人はすべからく貧乏人であり、搾取される者は常に搾取される側に回る運命にある。
その運命を断ち切るために魔法というものがあった。
これを覚えれば生活は格段に楽になる。だけれども、この魔法ひとつ覚えるにも多額の金が必要だった。つまり貧乏人には無縁のものだ。
魔法図書館に行けば、有償ではあっても本は貸してくれるだろう。
貴族のような金持ちの中には、貧乏人は貧乏人なりに努力して学び、成功すればいいじゃないかと言う人もいる。
だけれど、日々の生活の糧を得るだけで精一杯の私たちにいつ勉強をする暇があるというのか。
そんなわけで、魔法士という職業の人は金持ちで高慢な人が多いと聞いた。
覚えている魔法を自慢や金儲けに使い、私たちのような魔法がひとつも使えないものを怠け者のように見下す。そういう風な、ひどく冷たく嫌な存在なのだと教えられてきた。
けれども、いま、私の眼の前にいる人は違った。
「シデラン。この男の死は俺が引き受けよう」
子供の私には意味がわからなかった。
でも、子供だからわからないわけじゃなかった。
なぜなら私の隣にいた義父が困惑している様子だったから、大人にしかわからないことを言ったわけでもないのだと知る。
ならば頭のいい智者、魔法士だからこそ、私たちのわからない言語で喋っているのではないかとそう思った。
死を引き受けるというのはどういうことなのだろうか?
この魔法士は何を言っているのか?
答えは、あの乱暴者のゴライの死体が起き上がったことでわかった。
──死者の復活──
こんな魔法は聞いたことがない。
治癒魔法を扱える神官の話は知っていたが、それでもちょっとした傷や病を治す程度のことだ。
皆が驚いている。義父も驚いている。そうだ。これは“普通の魔法”なんかじゃない。
──まさか大魔法士?──
そう。私が会ったのは単なる魔法士なんかじゃなかった。
魔法を沢山扱える人をそう呼ぶことだけは知っていた。
そして、義父に手を取られ走っている中、ずっと疑問に思っていた。
あの魔法士が、なんで私たち親子を助けてくれたのか。なんの得があるのか。
損得なしに何かをしてくれる人がいるだなんて考えもつかなかった。
特に魔法士についてはそうだ。遠目に見ることはあっても、貴族と同じで、自分たちとは違う世界に住む存在だ。普通に生きていて関わり合うことはない。
魔法士に会いたければ、彼らが開くショーか、占いの館に行かねばならない。それも金をパンパンに詰めた鞄を持ってだ。
魔法士が振り返る。
その眼と口元が笑っていた。私を見て…
トクン…
心臓が鳴った音がした。
弟をゴライに捕まえられた時、恐怖で足が震える時ですら、心臓の音は聴こえなかったはずだ。
今も走っているせいで心臓は早鐘を打っている。
でも、そうじゃない。
きっと物理的な心臓以外の心臓が私の中にあって、見えない血管が通っていて、初めてそこに見えない血液が流れ込んだんだ。
──カダベル・ソリテール──
一回しか聞かなかった魔法士の名前を心の中で繰り返す。
この名前だけは決して忘れてはならない。
そう自分に言い聞かせて、もっとも重要な記憶のひとつとして……
──
母が死んで、不幸のどん底の中にいた私とジョシュだったが、野たれ死にしなかったことだけは幸福だったと言えよう。
それは義父シデランが、私たちの面倒をみてくれたからだ。
義父は生真面目な男だった。そして母を心から愛していて、連れ子だった私たちふたりにもとても優しかった。
母がいなくなって赤の他人になった後でも、シデランが私たちを捨てることはなかった。
決して稼ぎがいいとは言えない義父が、子供をふたりも育てるのは決して楽な事ではない。
それでも私たちを捨てられなかったのは、母の生き写しだった私たちの見た目と、彼の根本からの生真面目さからくる義務感からだろう…幼い頃に私はそれに気づいていた。
だけれど、私を見る度に申し訳なさそうにする義父の顔だけは苦手だった。
愛情がなかったわけではない。けれど、互いに遠慮しあう姿は、まるで“家族ごっこ”をしているようだった。
それは母の死を受け容れられない、義父と私たちが今までの生き方を変えられないことの証明のようだった。
私はただ父のお荷物になるのは嫌だった。だから、酒場で少しは役に立とうと働いた。
まだ幼く働けないジョシュも、店の隅で大人しくひとりで遊んでいた。
あの齢の子供には珍しくワガママを言ったり不平不満を述べたりはしない聞き分けの良い子だった。
でも、きっと無理をしているんだろうと私は思っていた。
「…よく働くねぇ。おじょうちゃん」
酒臭い息が眼の前にかかる。その汗臭い体臭までもが混じり合い、強い吐き気を催す。
鼻から頬も赤ら顔で、そのヒゲや、開いた胸元の毛にまでこぼれた酒がかかっていた。
イボイボの舌がベロリと動いた。ゾッと背中に冷たいものが走る。
「…おう。店主。これはお前の子か?」
「え? ええ、そうです」
まるで羊を見つけた狼のような眼で私の全身を見やる。まるで舐め回されているようで落ち着かない。
「一晩いくらだ?」
「は?」
忙しそうに炒め物を作っていた義父がギョッとして振り返る。
「金なら言い値で払うぞ。いくらだ?」
「は、ハハハ。勘弁して下さいよ。その子は“男の子”ですよ」
義父は平静を装ってそう答えた。
私の長かった髪は短くしている。それはこういう時のためだ。
義父も私も強く緊張して強張っていた。
「…なんだよ。そうだったのか。紛らわしいな。もういい、行け」
男が私から興味をなくしたようだった。私は愛想笑いを浮かべて足早に立ち去る。
フッと力が抜けて安堵した。顔こそ見なかったが、義父もきっと同じ感じだろう。
中には“男の子でも別にいいや”と言う輩がいたからだ。そうなると次に断るのが難しい。
私の手を掴んで2階の宿場へ連れて行こうとしたのを、義父が必死に説得して諦めさせてくれたこともあったからだ。
その時には一番高い娼婦の金を立て替えたせいで、その日の売上がパーになってしまった。
「あ、おい。待て」
さっきの男に再び声をかけられ、私も義父もビクッと身構える。
「ビール追加だ。急いでな」
「は、はい」
酒場で良い思い出はない。たまに優しい客が飴玉をくれたが、弟は喜んでいたけれど私は嬉しくもなんともなかった。
今考えれば、義父からすればたいして役に立たない私が店で働くのは邪魔に思っていただろう。
だが、自分の眼の届くところにいた方が安全だという事もあって、店の中に置いてくれたのかも知れない。
ある日、珍しく、義父が声を少し荒らげて客と言い合っている姿があった。
それはゴライと呼ばれる常連だ。いつもツケで昼間から酒を呑んでいるチンピラだ。
「もう店が持たないんだ。借金はこれ以上できない。今日こそは金を払ってもらえないだろうか?」
「ああん? 誰に物言ってんだコラ!?」
「…頼む」
義父が深く頭を下げる。なんで悪いことをしていないのにそんなことをしなければならないんだろう。皿を洗いながら私は唇を噛みしめる。
「明日だ。明日払う」
「…そう言って、昨日も、払わず帰ったじゃないか」
父が青ざめた顔で、それでも怒りを眼に宿して言った。
その時、私は気づいた。義父の腰のベルトに包丁がかかっていることに。
(もしかして、お父さん。あれで脅す気なんじゃ…)
義父の指がカタカタと震えていた。後には引けない…そんな決意が義父の背中に見てとれた。
「ああん? 細けぇこと言ってんじゃ…」
「細かくなんてない! もう本当に無理なんだ。金を払わないならツケにもできない。今後は来ないでくれ…」
ゴライの顔が呆気にとられた後、みるみるうちに真っ赤になる。
「テメェ…。俺を誰か知って言っているんだろな?」
「…お前が誰であろうと関係ない。金を払わないなら、もう憲兵に引き渡すしか…」
「なんだと!?」
ゴライが椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。義父が驚いて後退った。
(ダメ。武器を見せたら…)
私は祈るような気持ちで義父を見やる。義父は包丁を握るかどうか迷っているようだった。
包丁を見せてゴライが怯むだろうか? 怯めばいい。余計に怒り出したら、それこそもうどうにもならなくなる。だから義父は迷ったのだ。
「調子に乗りやがって! …おーう」
怒り狂うゴライが何かに気づいて不敵に笑う。その視線は店の奥に向いていた。
「…この店が持たねぇったな?」
「あ、ああ…」
「その原因を俺様が取り除いてやんよ」
「は? な、何を…」
ゴライが義父の前を素通りして進み出す。
その狙いがわかった私は青ざめた。
「ジョシュ! 逃げて!!」
私の叫びを聞いて、義父にもようやく何をするかわかったらしく、血相をかえてゴライの腕を掴むが、簡単に弾き飛ばされる。
「う、うわん!」
「コラ。逃げんじゃねぇっ、と!」
クレヨンとお絵かき帳を放り投げて走りだしたジョシュを、ゴライの長い腕が簡単に捕まえてしまう。
「こーんなガキにタダ飯を食わせてたら、そりゃ店も赤字だよな!」
「な、なにを…」
「安心しな! 川にでも放り投げてきてやっからよ! これで俺様も安心して酒が飲めるってわけだ!」
世界はなんとも理不尽だ。
こんな横暴がまかり通るなら、弱者は弱者のまま虐げられ続けるのだとしたら、この世界には神も賢者も存在しない…そう私は確信した。
そう。この後に件の大魔法士に出会うことがなければ、私はこの世のすべてを諦めていただろう……
──
中央クルシァン国は、正式名称を“聖路中央クルシァン正統教示国”と言う。
屈強な聖騎士団がいることで有名な宗教国家だ。
義父は若い頃住んでいたことがあった様で、少しだけ土地勘があった。
慎ましい生活を信条に掲げてているその国民性から、商売をするには向かないとのことで、北方ギアナード王国にやってきた折に、母と出会い結婚したらしい。
カダベル様から頂いた鍵には、【筆記】という魔法で文字が書かれていた。それは詳細な住所だった。
あの渡す一瞬で魔法を使ったのだと思うと、やはりあの魔法士が只者ではなかったのだと改めて思い知らされる。
しかし着の身着のままだ。お金だって持っていない。移動の馬だって借りることができない。
血まみれの手と服を川で念入りに洗い、ほぼ半乾きの状態のまま、ひたすら私たちは必死に街道を歩いた。
ぐずるジョシュを義父と交互に代わる代わるにおんぶして、ようやくのことで国境へと辿り着く。
検問の兵士はボロボロの私たちを見て怪訝そうな顔をしたが、国境はよほどのことが無い限り自由に行き来ができる。
そして父が捕まらなかったことから、あのゴライの死は、本当にカダベル様が肩代わりしてくれたということなのだろうと思った。
ギアナードは貧しい国なので、入ってくる人材と物資を極力制限したくないとの考えから、国境を大きく開いていた。
クルシァンに入るにも、武器や危険物を持ってさえいなければ比較的容易に通過できる。
もちろん、首都となる聖都などへ入るにはもっと厳重な取り調べを受けるだろうが、幸いにして鍵に書かれていた場所はそこからかなり離れていた。
もっとも国境に近い街についた時には辺りは真っ暗で、足は棒のようになっており、お腹もペコペコだった。
ダメで元々と思いつつ、宿へ向かう。温情などは期待できないが、交渉次第では残飯を貰えたり、馬小屋ぐらいなら貸してくれる可能性もあるだろう。
…その時には、私が“女”であることが武器になるかも知れない。
ここまで歩きながら覚悟は決めていた。需要は…多分あるんだろう。
正直、こんな子供のなにが良いのかは自分じゃわからない。
けれど弟と義父が助かるなら、ここでそうすることもためらいはしない。
そんなことを考えて、私が胸元に大事にしまっていた鍵を服の上から握りしめた途端、それが強く光り出す。
その眩い光は上着からも漏れだすほどだった。
「なに?」
「…魔法だ」
義父が喉を鳴らして言った。義父に抱かれたジョシュが寝ぼけ眼をこする。
光り輝く鍵を取り出して手の平に乗せてみると、クルンと先端が回る。
手を左右に動かしてみるけれど、その度に鍵の先は一定の方角に向いた。
「こっちに行けってこと?」
私たちは顔を見合わせ、その先端が指し示す方に導かれるように歩き出す。
それは宿とはまったく逆方向の民家の方だった。そしてある小さな家の前で鍵の光が急に消える。
義父はゴクリと息を呑むと、その民家の戸を遠慮がちに叩く。
「…はい」
そこから出てきたのはふくよかな体格をした老人だった。
ボロボロの私たちを見ると、不安そうな顔を浮かべる。それはそうだろう。こんな夜更けに真っ黒な顔をした親子連れを見れば、誰でもそんな顔をするはずだ。
「なにか御用ですかな?」
「あ、いや、その…」
鍵に導かれました…そんなことを説明するわけにもいかず、義父は言葉に詰まる。
しかし、私の持つ鍵に視線を落とした老人の眼が大きく見開かれた。
「おお。それは…カダベル様の!」
老人は何か察したようで大きく頷き、さっきまでの不安がどこかへ吹っ飛んでしまったかのように破顔一笑する。
そして、私と義父を「どうぞどうぞ」と招き入れる。
「…あの、どうして?」
私が尋ねると、老人は嬉しそうに肩をすくめてみせた。
「【投函】という魔法です」
懐から便箋を取り出す。その差出人に“カダベル・ソリテール”の名があった。
私の見えない心臓が、またトクンと強く鳴った。
「私はもう年齢も年齢なので引退したのですが、ソリテール家には長く仕えていましてね。カダベル様にはとても良くして頂きました」
温かいコーンスープを差し出しつつ、老人はそう説明する。
ジョシュと義父は礼を述べるのもそこそこに、スープに顔ごと突っ込む勢いで飲みだした。それだけに空腹だったのだ。
その間でも、私は老人が胸元に差した手紙から眼が離せないでいた。
「…引退されたのに、カダベル様の依頼で私たちを助けて下さったのですか?」
「あの方が使用人に助けを求められたのはこれが初めてです。引退したとはいえ、応えないことができましょうか」
老人は「やっと少しは恩返しができた気分ですよ」と笑う。
私は胸が一杯になった。お腹が一杯になるよりもっと幸せだ。こんなに胸が一杯になって、熱くなって、涙が自然と溢れるなんて…。
「おやおや、食べ物はまだ沢山ありますから。泣かなくても大丈夫ですよ」
私がお腹が空いて泣いているのだと思った老人はそんなことを言う。
「お願いがあります!」
「はい?」
「その手紙、私にくださいませんか!!」
この日以来、助けられた時の記憶を思い返すことと、手紙にあるカダベル・ソリテールの文字を何度も綴ること…それが私の日課となったのだった。
──
そして、それから1週間後に私たちは無事にカダベル様の本邸へと辿り着く。
驚いたのは行く先々で協力者がいたことだ。もちろんカダベル様が手を前もって手を回してくれていたのだが、1日として食事がなかったり、野宿するようなことはなかった。
本邸は大きかった。それこそ城と同じくらいあるんじゃないかと思われるぐらいだ。森林の中にポツンとそんな白亜の豪邸が建つ。
親子揃ってポカンと口を開いて門前に立ち尽くしていると、板チョコのような扉…大きさは義父の身長よりも高いが、それが開いて誰かがやって来た。
門から玄関までがかなり長いので、最初は遠くてその様子がわからない。
しかしそれにしてもやけに来るまで時間がかかっているのを訝しく思っていると、南国風の木々の並木道を、まるで踊るようにしてこちらに向かっているのだとわかった。
いちいち木々の間でポーズを決めてるので時間が掛かっているのだ。
「ヘーイ!」
私たちの前で叫ぶ。私たちが何の反応も見せないと、眉を寄せて再び「ヘーイ!」と叫んだ。
どうやら、私たちの応答を待っているようだ。
「へ、へーい…」
かなりの時間を有してから私が答えると、男は満悦の笑みで両指をパチンと鳴らし、私たちに向かってウインクする。
「ようこそ、クシエ・ファミリー! フォウ!」
いちいち言葉尻を上げて、大げさなリアクションで腰を左右に動かす。そうしないと喋れないのかと思った。
見た目はチャラい。年齢は義父と同じくらいだろうが、地味な義父とは対象的にかなり派手だ。
パーマのかかった黒紫の髪、揃えたヒゲが頬骨から左右に飛び出している。
目の下には星マーク。着ている服はパツンパツンのレザーで、フリルが動く度にやかましく揺れていた。
「もしかして、あなたが…ナド…さん、で?」
「イエス! アタクシがナド! ナド・ベンチェーべ! よろピク!」
「…よ、よろピク」
ダメだ。義父はすっかり呑み込まれてしまっている。
「わ、私たちはカダベル・ソリテール様の…」
「そんなこと百も承知よ。愛するカダベル様からたーっぷり聞いてるわん♡」
ん? なんだか今聞き捨てならない言葉が…あったような…
「ここで、子供たちを保護して頂けると…」
義父が恐る恐る尋ねる。
突っぱねられでもしたらもう頼るところはないから不安に思うのは仕方がないが、ここで疑うのは今まで助けて下さったカダベル様に対して失礼だろうと私は思った。
「モチのロン!」
「…あ、ああ。良かった」
義父が心の底からホッとする。この1週間、ずっと生きた心地がしなかったのだろう。充分な食事と睡眠は得ていたのに、精神的な疲労で随分とやつれてしまっていた。
他の家々に厄介になり、食事や寝床を提供される度に義父は涙を流して「申し訳ない申し訳ない…」と繰り返していた。謝るくらいなら感謝すべきだと、私は思う。
私は今まで寝る前に神に祈っていた。でも今はカダベル様だけだ。
カダベル様に感謝を述べて祈ってから眠りにつく。この方だけが、私たちを実際に助けて下さったのだからして当然のことだ。
「あのカダベル様が! 超ツンで一切デレることのなかったあの御方が! このナド・ベンチェーべを初めて頼って下さったのだから!」
ナドさんは感涙にむせび泣く。
私はすごく不思議だった。今までカダベル様は使用人たちに何か用事を言いつけたことがなかったようなのだ。
だからこそ、初めての命令に引退した者ですら喜んで応えようとしている。
でも、なぜ今回初めて命令をされたのか?
…それは私たちを助けるため?
…私を助けるため?
……初めて使用人にお願いした?
…ああ。
…トクン、トクン。
また見えない心臓の音がした。なんだか日増しに音が大きくなっている気がする。
「ああ! 私の愛するカダベル様! できれば御前で直接に命令を下して頂きたかった!」
…ワタシノアイスルカダベルサマ?
「ギィギリッ!!!」
私以外の全員がギョッとした顔をする。
「お、お姉ちゃん…」
私の表情を見て、ジョシュがカタカタと慄える。
「なんの音かしら?」
「…鳥の鳴き声でしょう。ナドさん」
「そうかしら…。ふぅん。まあいいわ」
何かを察したのか、ナドさんは仕切り直しとばかりに咳払いをする。
「では、中へどうぞ。案内するわん」
──
ナドさんは見た目と挙動こそ怪しかったけれど、カダベル様が信用するという人なだけあって、優秀な人なんだとすぐにわかった。
義父に新たな偽名、そして屋敷の厨房で住み込みで働くという仕事を与えてくれ、私やジョシュには聖学校に行くか家庭教師をあてがうとのことだった。
正直、朝昼晩食べて寝るところが頂けるならばそれだけで充分だと思っていただけに、前の生活より高い水準のものを用意されたことに戸惑う。
私も屋敷で働かせてもらいたいと伝えたが、メイドは間に合っていると、そして子供の仕事は学ぶことだとナドさんにキッパリと断られてしまった。
「魔法に興味があれば魔法学校なんでしょうけれど、あいにくとこの周辺…ってか、この国にはまずないわ。お国柄としてね。
神官でも魔法は使えるから、聖学校にしたらどうかしら? まあ聖学校も寄宿舎だから、パパンと一緒にはいられなくなってしまうけども」
「いえ、私が学びたいのはカダベル様のような魔法です」
尊敬する人のことを知るには、尊敬する人の学んでいることを学ぶのが一番だ。
本当は私だけでもカダベル様の側仕えをしたいと申し出たのだけれど、「隠棲した今はアタクシですら側に置かない方よ。極度の人間嫌い。絶対に無理よ」とのことだった。
でも、もし魔法の知識がカダベル様に認められるくらいになれば助手にして頂けるとかも…そう考えたのだ。
「カダベル様の魔法?」
「ええ。死者復活のような…例えば、高位の神官だったら、そんな魔法を使える方がいるのでしょうか?」
ナドさんの口がパカンと開き、魚のようにパクパクと動く。
「死者復活? そんな魔法聞いたことがないわ。しかもカダベル様が?」
「ええ。私はちゃんと見ました。父も弟も」
「ないない」
ナドさんは小馬鹿にしたように手を横に振る。
「でも!」
「何かの見間違えでしょ。物体を操る魔法とかならあるから……それにしたって、死体をってのは、まったくもって聞いたことがないのだけれど」
「実際に、私はこの眼で…」
「…アタクシはね、カダベル様の扱う魔法100個をそらで言えるわ。使える魔法の数は多い方だけれど、残念なことにランクの高い魔法は習得できなかったのよ」
そう言うと、ナドさんは書棚から1冊の本を持って来る。
「そ、それは…」
表紙に『カダベル・ソリテールのすべて』と手書きで題され、しかもハートマークのシールが大量に貼られているお手製の冊子だった。
「ふふん。アタクシの数十年に及ぶ集大成。これにカダベル様の全てが書かれているわ。ご主人のことで識らないことはない! 少なくとも他の使用人どもに比べて、ことカダベル・ソリテールについての知識量では誰にも負けてないわ!」
「……ホシイ」
「え?」
つい心の声が漏れてしまった。
欲しい。
奪い取りたい。
…けれど、理性がそれを止める。
「ナドさんはカダベル様の事が本当にお、お、お、お、す、す、す、好、き、き…なんですね」
「アンタ、声が震えてるけど…。まあ、そうね。好きだなんて言葉じゃ足りないわ。そう。これは愛! 崇拝を通り越した愛!!」
ブチィ!
「で、で、で、で、も、お、お、男、男の人で、です、よねぇぇぇえ?! な、な、ナドさ、さ、さんは、、、!」
そうだ! 性別じゃ私が有利だ!
「あっらー? 愛に性別を問うなんてナンセンスよ。好きなものは好き。アタクシは自分に正直に生きてるわ。それを誰かに理屈で止められたりはしない。アタクシの無限ラヴ・パワーはム・テ・キ♡」
ブチブチィ!!
「だけどぉ! ね、ね、年齢的なぁ差もおおおオッ! がなりありまずよねぇぇぇえッッ!!」
「年齢? ちいさぁ〜い! ミニマム過ぎる問題だわ! イケジジ大好物! 数十年の側仕えナメんじゃないわよ! それにぃ…」
ナドさんは私を遠慮なしに見下ろす。そして「ははーん」とわざとらしく鼻を鳴らした。
しばしの沈黙。たっぷり間を取ってナドさんの眼が勝ち誇った笑みに細くなる。
「年の差なら、アンタの方がヤバいじゃないの〜」
「え?」
「アタクシはせいぜい倍ちょっとくらいだけど、アンタは悠に10倍差はあるじゃないのよぉ!」
ブチブチブチィッ!!!
ヨクモ! ヒトガキニシテイルコトヲ!!
「オーッホッホッホ!!」
「…ヨコセ」
「へ?」
「ソレヲヨコセ!!」
「アンタ! あ、悪魔にでも乗っ取られ…」
「ヨコゼェッ!!!」
「キィイヤァァッ!」
──
本邸宅に辿り着いた次の晩、あてがわれた部屋で義父は首を吊って自殺した。
ジョシュはひどく取り乱して泣いた。
弟にとっては物心つく前から、母よりも長い時間ずっと一緒にいた“父親”なのだから当然だろう。
弟ほど親しさを感じていたわけではないが、ずっと面倒をみてくれた人だ。私も悲しくないわけではなかったが、なぜか涙は出なかった。
最近の義父の様子から、こうなるのではないかと、私は心のどこかで予期していたからかも知れない。
そして私が真っ先に感じたのは、悲しみよりも憐れみの方が強かったからかも知れない。
こんなものは親に対して思う感情ではない。だが、私は義父の一生とは何だったのかと考えざるを得なかった。
「…遺書よ。アンタたち宛に。どうにも、そのゴライってのを刺した罪悪感が耐え難かったみたいね」
書かれている内容は予想していた通りの物だった。
人殺しになってしまった罪の意識に苛まれていたこと。
私たちの無事を見届けて役割は果たし終えたと思ったこと。
そして私にもジョシュにも幸せになって欲しいと本心から思ってること。
実に“父親”らしい文面だった。
そして最後に、心の底からの愛情が注げていなかったことを詫びる言葉が添えられていた。
本当の父親だったら、私たちの成長を見守れただろうとも。
シデラン・クシエはそれなりに善人であった。だが、良い親にはなれなかった。そういう後悔がそこには書かれていた。
それを読み終えた後、私は強い怒りを覚えた。
命を救われたのに、こうやって簡単にそれを投げ捨ててしまえる義父の身勝手さに腸が煮えくり返る。
「……私も良い娘じゃなかった」
思わず呟いた言葉に、ナドさんは少し考えたようだった。
「…そう。でも、そういうとこ、やっぱり似たもの親子だったんじゃないの」
それを聞いて、初めて私は義父シデラン・クシエの死を受け止めて泣いたのだった。