090 影の襲来
馬車は進路を変え、街道から外れて山間部の方へと向かって進む。
俺は特にやることもなく、持ってきた本を読むくらいしか暇を潰す手段がなかった。
本は地下に置いてあったものは無事だったんだが、ゴゴル村の郷土史はすでに全部読み終わってしまっていた。読み直しても特に新しい発見もない。
ギアナードと違って、クルシァンなら小説とかあるだろうけど、それでも少し大きな街じゃないと本屋はないだろうな。
「⋯⋯どうやら難所は抜けたな」
デパタと交代で馬車に入ってきたライゲイスが言う。
「難所?」
「この先は道幅が広くなるからな。襲われるとしたら狭路だろうぜ」
ライゲイスが折りたたまれた地図を示す。確かに道中かなり道幅は狭く曲がりくねっていた。
デパタやリブがやたらとピリピリしていたのはそういうわけか。
まあ、そんなに心配しなくても俺は【集音】を使っているし、きっとフェルトマンも定期的に【害意検知】をセイラーを対象にして使っているだろう。
魔法使っているから安全だなんて、この男に話しても納得するわけないだろうけど。
それからしばらく無言の時が続く。長時間こんな密室にいればこういうことはしょっちゅうだ。
「⋯⋯なあ、聞いてもいいか?」
「なにをだい?」
「手前がクルシァンにいた頃の聖騎士団はどうだったンだ?」
「どうだとは?」
なんとも抽象的な質問だな。
「ババアが団長だった時代だよ。当時の聖騎士団は強かったのか?」
「俺は聖騎士団とは関わりを持ってなかったよ」
「アァン? 直接の関わりがなかったとしても、公爵だったンだろ? 皇帝の信頼は厚く、教皇派は何度も煮え湯を飲まさせられたって聞いたぜ」
一瞬、ライゲイスの顔がなんでも聞きたい年頃の少年のように見えた。
「⋯⋯結果、教皇が勝ったんだ。そして今のクルシァンがある。そういう意味じゃ聖騎士は強かったよ」
元カダベルの知識ではそうなっている。実感として話している気はしない。古い映画を観た感想みたいな感じだ。
「違げぇよ。そういうことを聞いているんじゃなくて⋯」
「ライゲイス」
「アァン?」
「敗者が語る歴史などないんだよ」
俺がそう答えると、ライゲイスは奇妙そうな顔を浮かべた。
そうだ。元カダベルの古く苦い記憶が出てくるのを嫌がっているのを感じる。
泣き顔、叫び声、血の臭い⋯⋯
思い出そうとした瞬間、意識が遠のく。
「オイ? 大丈夫か?」
「⋯ああ。問題ない」
「⋯⋯なンか聞いちゃまずかったか? 悪かったな」
「いや、そういうわけじゃないさ。ただな、俺が魔法研究に没頭するようになったのは⋯⋯ん?」
変な音がした気がして、俺は首を傾げた。
「なンだ?」
「車輪の音が変わった?」
「車輪の音?」
「シッ。静かに」
俺は聴覚に意識を集中させる。
やはりそうだ。さっきまでは固い地面を走る低音だったが、今は音が地面のさらに下の奥で響いている。
俺はカーテンと窓を開いて外を見やる。
風景に変化はない。寒々とした山並みばかりしか見えない。
顔を出して下を見るが、地面も変わった感じはない。
「この辺りは鉱山なのか?」
「鉱山? いいや、違う。そンな話は聞いたこともねぇぞ」
「なら道を間違えたんじゃないのか?」
「間違えようがねえ一本道だぞ」
俺はライゲイスから地図をひったくるようにして見やる。
彼の言う通り一本道だ。山が邪魔して、横にそれるようなこともできそうにない。
「オイ。ちゃんと説明しろ」
「ああ。そうだな」
なんだか嫌な予感がするぞ。
「とりあえず、これから魔法を使う。一旦、馬車を止め⋯!?」
俺がそう言った瞬間、馬の嘶き声と共に馬車が急停止する。
ライゲイスが前のめりに倒れそうになり、俺にぶつかる寸前で壁ドンした。
いや、これをシベリアンハスキーにやられても胸キュンにはならんな。
「ッ!! 何事だ!?」
「敵襲です!!」
外から、リブの悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。
──
俺たちは馬車を飛び降りる。
敵の姿⋯⋯らしきものはない?
一番車は急停止したせいで斜めに傾き、二番車や三番車も異変に気付いて少し離れて止まっている。
緊張の雰囲気が周囲に満ちている。
「リブ! 敵はどこだ!? なにを見た!?」
「わ、わかりません!」
馬車の手綱を握ったまま、リブは青褪めた顔で硬直してしまっていた。
「ハァ!? わかりませンじゃねぇーだろうが! 敵だと言ったのは手前だろうが!!」
「それが、大きな黒い影がいきなり眼の前を横切って⋯」
「黒い影だぁ?」
ライゲイスは周囲を見回す。やはりなにかがいる気配はない。
「手前、もしかして寝ぼけていやがったンじゃねぇのか?」
「違います! 見間違えじゃないです!! 確かに影が鼻先を掠めて⋯」
「チィッ! デパタ!! どこだ!? 警戒してた手前なら見てただろう!?」
デパタの姿は見えない。周囲を警戒するために離れてしまった可能性が高い。
俺は小声でゴライに警戒を促し、【集音・倍】を使うが⋯⋯
「ウッ!」
ひどいノイズ音のような響きがして、俺は飛び上がらんばかりに驚く。
「ひどい音だ、これは⋯⋯水? 水の音か?」
激流の流れ? いや、全然違う。まるで滝の裏側にいる時みたいな音だ。
どこから聴こえている?
わからん。音が反響していて突き止められん。
「しかも、魔力を帯びているのか? クソ。この音と流れに邪魔されて、周りの状況がわからないぞ」
俺はゴライの声を拾おうとしたが、【集音】はノイズ混じりの轟音で掻き消される。
「デパター! 野郎⋯⋯どこまで行きやがったンだ?」
「ライゲイス。まずいぞ⋯」
「アァン? 状況がわかんねぇのは確かに問題。だが、ここは進む以外に⋯⋯」
「違う! もう罠にハマってるんだ!」
俺がそう言うが早いか、山側から落石が来る!
「馬車を守れ!」
ライゲイスが大声を張り上げ、聖騎士たちが一斉に動き出した。
落石の罠ぐらいは想定して対処を⋯⋯
と、思いきや、俺たちの頭上が大きな影が後ろから通り過ぎる。
「あ、あれだ!! 見たのはあれだぁ!!」
リブが空を指さして大声で叫ぶ。
「ウソ⋯⋯だろ。ドラゴン、だと?」
ライゲイスは唖然とした表情でそう呟いた──