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「あの石鹸が改良・量産されるまでにはまだ数年単位の時間がかかるかと思います。リンドロース領で出回っていないこと、それからお父様が『西で開発された』と言っている以上、王都での知名度もそこまでではないでしょう。仮に王都での知名度が高いのであれば、お父様はそういって先の男性を煽っていたと思いますから」
「そうだな。事態の重さを伝えるには王都の名前を出すのが手っ取り早い。王都で売れるからこそ、方々に売ることができるという面は大きいからな」
「私もそう考えます。そのため量産はまだされていないはずです。量産できるだけの設備が作られていないのか、量産できるほど安易に作れるものではないのか、高級感を出すためにあえて量産しないのか。いずれにしても、すぐにリンドロースの石鹸がどうにかなるほどのことではないはずです」
決して無視できないけれど、だからと言って焦ってどうにかしないといけないものではない。むしろ焦って事を進めようとすれば反感を買う可能性が高いし、急いでもできることは限られている。幸い私はそうではなかったけれど、急げばやれるだろうと上から言われてその愚痴をネットに投稿している人をたくさん見てきた。いや顔は知らないし、幾分話を盛っている可能性はあるけれど、そういう人もいるのだろうと想像するのは難しいことではない。
それに無理をして急がせた方が効率が悪くなるなんて話も聞いたことがある。
「ですから、おそらくお父様が提案していたことと変わらないのですが、数年かけて新たな事業を打ち立て、そちらに移動してもらうというのが現実的ではあるでしょう。付き合いのある商人たちのことを考えると、仮に量産が始まっても少しの間は買っていってくれるはずですから、猶予はそれなりにあると考えられます」
話しながらふと思い至ったことを付け加えて話を終える。後ろ盾がリンドロースであるということはわかっているだろうから、白い石鹸が量産されてもすぐにそちらに乗り換えるということはないだろう。作っている元がほかの侯爵家や公爵家になってくるとすぐに乗り換える人もいるかもしれないけれど、リンドロースからの報復もあるかもしれないし、落ち目の石鹸を買い付けることでリンドロースに恩を売れると考える商人もいるはず。
だから売り上げは少なくなっても、すぐに生活できなくなるほどに困窮することはないと思う。
「こちらが手を出せるのが、そのあたりが限界だからな」
「確かに。特定の組織だけを過度に優遇するのは、あまりよく見られませんね」
例によって貴族であるから、自分の気に入ったモノだけ囲ってそれ以外は切り捨てるという判断を貴族ならできなくはない。だけれど誰かが優遇されているのを見ると、自分も優遇しないと不公平だと不満に思う人は少なからずいる。そうなったときに、その人たちをどうするのか……と考えていくときりがない。
要するに仕事は探しても選べるほどの数は準備できないし、収入がなくなったからといって経済的な支援をする気はないということだ。何なら次の仕事を用意するだけでも、好待遇だといえる。
今回に限って言えば 領主であるお父様の提案を一度蹴っているのだから、困窮してもやむなしではある。
「ともあれ何かこちらで用意できる仕事があるといいのですが、私が思いつくものとしてはどうしても植物紙のような安価な紙が必要になりそうです」
「確かティアンが何か考えているんだったな?」
「はい、そうですが……」
紙が量産……とまで行かなくても、ある程度安く購入できるようになれば、大衆小説の分野に手を広げることができるかもしれない。その場合前世の名著を思い出せる範囲で書き出し、曖昧な部分を補う。褒められたことではないかもしれないが、リンドロースのためなら止む無しと私はペンを手に取るだろう。というか、すでにいくつかは書き終えている。文字を使う練習として書き上げたいくつかの小説が王都の私の部屋に隠されている。私の記憶には限界があるけれど、ある程度認知され受け入れられれば、あとは新しい作家が生まれてくれることだろう。
それから紙を本にするのに付随して、印刷の技術にも手を出すことができる。今ある本は紙が高いというのもあるけれど、一つ一つが手書きだから高いという側面もある。安価な紙と印刷技術が合わされば、中流の民くらいまでは手を出せるようになると思う。その分、識字率も高くなりそうなので最終判断はお父様任せになるけれど、簡単な文章を読めるくらいにはなっておいたほうが全体の利益につながるとは思う。それに紙の需要を増やすのにも役立つことだろう。
問題は森林伐採が進んでしまうこと。それが問題視されて対策されるようになるのは、森林伐採の問題が深刻視されるようになってからになるだろうから、その時にはとっくに精霊に愛想つかされていそうだ。
だから本格化する前にルールを決めるようにお父様に伝えなければ。そうしなければ守れるのは私の山くらいじゃないだろうか? そこも勝手に切っていく人も現れかねない。リンドロース領は領主であるお父様のものだから、大規模な伐採には許可が必要だけれど、聞かない者は聞かないものだ。気が付いたら辺り一帯が伐採された後ということもある。
そのため近くの町や村に管理させたりするのだけれど、それはそれ。
植林のほうは精霊の力ありきとはいえ、形になってきているので、しっかりルールさえ決めることができれば、深刻な問題にはならないと思う。
「リディが持ってこないということは、まだまだということか?」
「ある程度は形になっていますが、より良いものを作ってお父様に褒めてほしいのだと思います」
「そうか――そうだな、満足いくまでやってみてから持ってくると良い。だがいつまでも状況が変わらないとも限らんから、悠長にばかりしてはいられんぞ?」
「わかりました。それとなく言っておきます」
「無理にせかす必要もないがな」
「今のティアンがやることではないですからね」
いずれは領主として新たな事業を始めることもあるかもしれないし、領主になるための勉強の一環として何かするかもしれない。だけれどそれは学園を卒業してからの話で、学園入学までまだまだ時間がある今の段階ではない。
私の影響だろうけれど、知ったうえで両親がやらせているのであれば、やはり私はティアンに付き合おうと思う。





