29.喧嘩
「……お姉さまはぼくのことが嫌いなんですか?」
「ティアンは私のことが嫌いよね」
手元の計算をしていたティアンがつぶやくように言った言葉に、私はなんてことないように返す。
それに機嫌を悪くしたティアンが黙って頬を膨らませた。嫌な沈黙が流れるけれど、気にしないふりをして自分の作業を進める。今やっているのは私のアイデアで動き出した企画の進捗というか、報告書を読んで気づいたことがあれば意見を出すこと。上手くいっているところはそのままで良いけれど、上手くいきそうだけれど今一歩手詰まりのところがあれば、頭をひねって解決案を出してみるし、解決できそうな人を伝える。人と言っても私の人脈はほとんどないようなものなので、○○に詳しい人とか○○の学者とかそういった感じの指示の出し方になる。
実物を見て判断することもあるけれど、ティアンの前ではそんなことはしない。これはあくまでリンドロース家の手柄であり、私の痕跡はできるだけ消している……と思う。
姉の私にたくさんの実績があれば、それだけティアンのプレッシャーになるだろうし、私が有能だと思われてアルベルト王子の婚約者にと望まれてはかなわない。
いくら私が無能だと思われても、家格とか情勢とかその他の貴族的理由で婚約者になる可能性があるため、いくら私の存在を隠しても意味はないのかもしれないけれど。
私もティアンもしばらく無言で紙と向かい合っていたら、またティアンがぼそりとつぶやくように私に話しかけてきた。
「お姉さまはどうしていじわるするんですか?」
「いつ私が意地悪したかしら?」
「したじゃないですか! お姉さまはいつも違うって言います! 走ってもぼくをおいていきます! 遊んでといっても遊んでくれなくなりました! どれだけぼくががんばっても、お姉さまはほめてくれません!」
「そうかもしれないわね。でも意地悪はしていないわ」
毅然と返すと、怒っていたティアンがプルプルと震えだして、涙目になる。
大人げなかったかなと思うけれど、私は甘い顔をするわけにはいかないからほかに選択肢も思い浮かばない。
なんて平静を装ってみても、結構つらい。お腹の奥がズーンと重くなったかのようだ。
「お姉さまはかわってしまいました! ぼくは前のお姉さまのほうがよかったです!」
「そう……そうよね。でもそれは無理なのよ」
「もうお姉さまなんて知りません! もうここには来ません!!」
ティアンがそう大声で宣言して、律義に使っていた紙をもって部屋を出る。飛び出した、といったほうがいいだろうか。
ぱたんとドアが閉まったのを見て、ふーっと息を吐きだす。あのティアンがもう来ないといったのだから、何かのきっかけでもない限りもう来ないんだろうな。
いつか来るとは思っていたけれど、実際に突き付けられてみると雷に打たれたような衝撃があるものだ。何というか今日はもう何もしたくないし、考えたくない。
「お嬢様……よろしいのですか?」
「良いか悪いかで言えば、悪いわね」
うなだれる私にロニカが声をかけてくれるけれど、気持ちの整理がつかないのでいつもよりも雑に答えてしまう。
ロニカが気にした様子がなくてよかったけれど、今はちょっと一人にしてほしいかもしれない。
「ティアン様がお嬢様が変わってしまったとおっしゃっていましたが……」
あー、ロニカもそれが気になるのか。ロニカはリューディアがリーデアになった後でやってきた使用人だ。何を言っているのかはさっぱりだろう。
ロニカに話していいかはとても迷う。忠誠を誓い命を捨てるとまで言ってくれたロニカになら、話してもいい気はする。私がリューディアではないことはむやみに人に話していい内容ではないけれど、私が私として生きていく以上、真実を知っている味方を作っておいたほうがいいとも思う。
だけれどロニカに話すのは躊躇われる。私がロニカを信頼していないわけではなくて、きっと事実がロニカには重いから。
姉の殺害未遂は実は一回は成功――ほぼ成功――していて、貴方の目の前にいる私は別人なのだと。そんなことを言ってしまえば、ロニカは今以上に責任を感じて自害してしまいかねない。
しかも皮はリューディアには違いないために、説明しても理解してもらえるかがわからない。
でも全く話さないというのも、それはそれでロニカの忠義に背いているような気がして心地が悪い。
だから頑張って話せる範囲で話そうと思う。それこそ嘘を交えながら。
「ここで話すことは他言無用よ。他言すれば確実に貴女たち姉妹は処刑されるわ」
「承知いたしました」
「ありがとう。それじゃあ私について少しだけ話すわ。私はね、記憶がないのよ」
「それは姉の……」
ロニカが鋭いせいで気が付いてしまったようだけど、明言はしないで続きを話す。とはいっても、そんなに話すことはないと思うけど。
「私が変わったというのは、その日を境にということになるわ。記憶を失ったといってもお父様やお母様、ティアンのことなんかは覚えていたのだけれど、私という存在についてぽっかりと忘れてしまったのよ。
以来、いろいろな人に、避けられるようになってしまったわ。私が記憶を失ったということが外にバレるとどういった影響があるかはわからないのだけれど、付け込まれる可能性もある。
だから絶対に他言しては駄目よ? その時には私でもかばえなくなるわ。いえ私も一緒に捨てられるかもしれないわね」
自嘲気味にそう言った私に対して、ロニカが「旦那様と奥様はご存じなのでしょうか?」と冷静に返してくる。
もしかしてロニカも中身30歳くらいだったりするのだろうかと思うくらいの冷静さだ。なんてさすがに現実逃避が過ぎるので真面目に答える。
「今話したものよりももっと詳しい話を知っているわ。だけれど私の知る限り、この話を断片でも知っているのはお父様とお母様だけよ」
「お話しいただきありがとうございます。この上ない喜びです」
仰々しく言われてしまったけれど、臣下として信頼してもらえたから話してもらえたことに喜びを感じるとか、そんな感じなのだろうか。
まあ、ロニカと話して少し冷静になれた。ティアンのことはどうなるかわからないけれど、とりあえずお母様に任せるしかない。そしてティアンが私のところに来なくなっても、しっかりと勉強をしてリンドロースを継ぐ者として立派になってくれたらいいのだ。嫌われてもできることはあるし、嫌われたからこそできることもある。
でもそのためには、ティアンよりも優秀であり続けなければいけない。
劣等感で歪んでしまうかもしれないけれど、そこは両親にフォローを頼もう。何なら良いところで踏み台にでもなればいい。
だけれどそれまではティアンに負けられない。私よりも何倍も優秀であろうティアンに追いつかれないようにしなければ。





