3.母親
それから数日、私は最低限の自己主張だけで過ごした。
使用人には、病気のせいで人形のようになってしまったのだと伝えたらしい。
娘の死とその体に乗り移った謎の存在。数日程度で結論がでるものでもないのは分かるけれど、待たされる側としては結構辛い。
使用人にしてみれば、手は掛かるけれど基本放っておいて良い相手なので、ある程度決まった時間にしか来ないのは良かった。
大きな音は立てられないけれど、軽い運動くらいは出来る。
侯爵家の壁は、日本で私が住んでいた安アパートよりも厚いらしい。
今日もベッドの上で固まった体をほぐしていたら、いつもは誰も来ないタイミングでドアノブが動いた。あわてずにベッドに横になり、人形に徹する。こういう時に備えて、脳内シミュレーションだけは完ぺきなのだ。
私は人形ですよと自分に言い聞かせながら、ボーッと天井を見ていると「起きて構いません」と声がかかった。
どこかで聴いたことがある声だけれど、起きろと言われて起きて良いものか分からない。
かまを掛けられているかもしれない。やっぱり無事なのではないかといわれ、その後の話がどうなるのかは私にはわからない。
「貴女がリューディアではないのは分かっています。異なる世界の闖入者」
棘があるような鋭い女性の声で、確かにそういった。そこまで分かっているのであれば、人形のふりは不要だろう。
体を起こして相手を見れば、初めて目が覚めたときに見えた赤い髪の女性がいた。
彼女がリューディアの母、つまり侯爵夫人になるのか。
「お見苦しいところをお見せしました。初めましてリンドロース侯爵夫人」
「……本当にリューディアではないのね?」
「申し訳ありません」
貴族の表情の中にわずかに見えた縋るような何かに、謝らずには居られなかった。
一瞬の中に深い愛情をみた。私はその中に土足で踏み込んでしまった。シミュレーションでも何でもなく、ただ謝るしかできなかった。
まっすぐ見つめてくる目を、今の私は見ることすら難しい。
「そう……ね。リューディアはそんな表情はしないもの。
座り方も違う。わたくしを見る目も違う。貴女は本当にリューディアとそっくりなだけの他人なのね」
「申し訳……」
「いいえ、謝らないで。代わりに教えてちょうだい。貴女はなぜ死を望むの?」
リンドロース夫人から意外な言葉が漏れる。
死を望む? そんなことはない。死ぬのはいやだ。怖いのだ。
だけれど、確かに死ぬことは仕方がないことだとも思っている。どんなことをしても生きていきたいのだ、と言えるほどの人間ではない。
「お言葉ですが、私は死を望んではいません。死ぬことは怖いのです。とても、とても。
ですが、侯爵様が望むのであれば、死ぬ覚悟は出来ています」
「何故? 怖いのでしょう?」
「私はリンドロース家における異物です。きっとご家族の幸せを壊す存在になるでしょう。どれだけリューディア様に似ていても、私はお嬢様ではありません。
私がお嬢様に成り代わることができれば、穏便に済んだかもしれません。
ですがそれは叶いません。侯爵ご夫妻は私の稚拙な演技など見抜くでしょう。
仮にすぐにはバレずとも、どこかで歪みが生じてしまうかもしれません。そうなった場合、最悪全員が不幸になりますから」
私の演技など簡単に見抜いてしまうほどに、侯爵夫妻はリューディアを愛していた。
最初は病気のせいだと騙せても、どこかでぼろが出る。疑念が生まれ、幸せだった家庭にひびが入るかもしれない。
「万が一、私の演技がうまくいったとして、一生バレずに過ごせてもリューディア様の名誉は汚されてしまいます。
いえ……違いますね。誰かの人生を横から奪い取るような行為を意図せずではありますが、おこなってしまったことが耐えられないのです。
死をおそれる私が、誰かを殺して成り代わるなど、出来るはずがないのです。
それに私はもとより死んだ身です。ここで殺されたとしても、正しい状態に戻るだけなのです。
ですから、私のことは気にせずに、どうぞ侯爵ご夫妻が良いと思う選択をしてください」
まっすぐに侯爵夫人を見て、一気に話す。それくらいしないと話せないような気がしたから。時間をかけると、体が震えてしまうかもしれないから。
結局のところ、リューディアではない私を受け入れるか、なかったこととするのかをこの人たちに強要しているのだ。私の我儘だといっていい。でも私は自ら死ぬという選択肢はどうしても選べなかった。
リンドロース侯爵夫人は表情を変えることなく、口を開く。
「貴女の気持ちは分かりました。
貴女がどのように生きていたかは分かりません。ですがここはリンドロース侯爵家です。
リューディアはその第一子でした。その価値がいかほどのものか、少しは理解できますか?」
「想像の域はでませんが」
「今はそれで構いません。中身が変わってしまっても、貴女に流れる血はリンドロースのものです。
貴女にはリンドロースの子としての義務を負ってもらいます。
リンドロースの名に恥じぬ淑女になってもらう必要があります。貴女にその覚悟がありますか?」
「それを選択されるなら」
私は私を捨てて、新たな人として生きていくことは構わない。リューディアに成り代わるのでなければ、この家族のために人生を費やすことを躊躇わない。
だって既に私は死んだのだから。前世にこだわっても意味はない。
私はただ死を恐れているだけの存在。生かしてくれると言うのであれば、精一杯それに報いよう。
「侯爵夫人1つお願いしたいことがあります」
「貴女は今よりリンドロース家の子です。わたくしのことは母と呼びなさい」
「……わかりました。お母様。ですが、ここでの会話が終わるまでは闖入者とさせてください」
「聞きましょう」
「リューディア様には一つ違いの弟がいたと思います」
「……ええ、そうね」
「ではリューディア様に向けられるはずだった愛情は、その子に」
「……分かりました。侯爵にはわたくしから伝えることとします」
リンドロース侯爵夫人――お母様はそう言って、部屋を出ていった。
よかった。これで弟が不幸になることもないだろう。