Episode1:夢路
―――ひどく、とても長い嫌な夢を見てる。
銃声の中を人々が悲鳴をあげながら、逃げ惑う光景を。ある人は銃で蜂の巣にされ、ある人はサーベルで真っ二つにされる。中には母親が赤子を庇うも大砲の玉で親子揃って跡形もなく木っ端微塵にされた。地面には人の亡骸が至る所に倒れ、血も多く流れていた。
襲って来る連中は、敵国から市民を守り、助ける役割を全うする「憲兵」。
いくら助けを乞おうとも返事もなくただ従順に任務を実行する殺戮兵器のように、俺たち市民を無慈悲に殺し尽くす………。
反旗を翻そうとレジスタンスを立ち上げた市民も少なくは無かった。それでも、憲兵相手に敵う戦力を持ち合わせておらず、一週間も経たずに全員殺されてしまった。
こんな事が、なんで起きているんだろう。この国は何を考えているんだろう。この光景はまるで嘗て起きた❝暗黒の世界大戦❞と同じ。
人が人を殺し、空に怨嗟の声が響き渡る。
俺はただ黙って聞いている事しか出来なかった。
当時の俺は他の市民と同じ場所とは違う暗く、じめっとした空間に住んでいた。そこは日の当たらない地下牢である。所謂監禁扱いであった。
別に国家に反逆したとかそんな無謀な理由で閉じ込められているのではなく、ただ他の人とは❝違う体質❞であったから選ばれたらしい。生まれて外の景色を見る事もなければ、娯楽も嗜んだ事も勿論なかった。決まった時間に食べ、決まった時間に寝ての繰り返し。物心ついた頃からずっと。途方もない、永遠のような地獄の日々を過ごしていた。
他にも俺みたいな監禁扱いされている人間は少なくない。老若男女問わず、静かに暮らしていた。
でも、それもほんの僅か。理由は簡単。ある時間帯になると、❝それ❞によって犠牲が生まれるからだ。
囚われている人々は❝それ❞が自分に来ない事を痛切に祈り、恐怖に支配されている心を少しでも和らごうと肩を抱いて懸命に堪え忍んでいる。歯もガタガタと鳴らす人、死んだ魚の目を灯しては、ぼうっと遠くを見詰めている人と何れもまともで居られる強靭な精神力を持っている人は、この地下牢には存在していなかった。
コツコツと足音が反響する迫り来る藍色と白色の甲冑を纏う憲兵と白衣を着た怪しい男。この登場を引き金に地下牢内は恐怖と混乱の渦に包まれる。
そう、その時がやってきたからだ。
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地下牢の中でも悲鳴が響くようになった。途切れ途切れではあるが。憲兵と白衣着た男が一人ひとり呼びに来てはある部屋まで連れてかれる。そこは薬品のような独特の匂いを漂わせる広く暗い部屋。部屋の隅々にはボロい鉄製の診察台が並んでおり、俺たちはそこに仰向けになって健康診断という名目で身体の隅々まで舐めるように調べられる。
だが実際は、特殊な器具を使用した最新の手術を行い、検査するのだった。囚われた人を戦々恐々と怯えさせる❝それ❞とは要するに、「人体実験」である。
中には実験に耐え切れずに命を落としてしまう人もいる。死んだ被験体は破棄され、また別の実験体になるであろう人柱を探す。この非人道的行為をこの国は機密にしていたらしい。何故そこまでして、人体実験を行うのかは、当初はわからなかった。
俺だけ何回も施術された。もう痛みにも慣れてしまった。他の皆よりも明らかに多かったし、恐らく実験のし甲斐があったんだろうか、無事に終え、退室する際に見た白衣着た男の表情はいつも満足そうに微笑んでいた。
実験が終わってまた牢屋に放り込まれる。「次はおれだ」、「やだ死にたくない」、と嘆きの叫びを上げる地下牢の中で俺は何事もなかったかのように呆然と水漏れして垂れ落ちる水滴を眺めていた。
俺は、たぶん諦めていたんだ。この先ずっとこんな畜生みたいな人体実験に付き合わされ、死ぬまで地下牢で生きていく運命なんだと。
でも、そんな生活も終わりを迎えようとしていた。
ある日の夜。白衣の男に、次の実験で全部終わるからって言われ、実験室に呼び出された。当時の俺は突然の言い渡しで直ぐにその内容を理解は出来なかったが、一足遅れて解放される事実を飲み込むと次第に喜びへと変わった。
いよいよ実験が最終段階に入り、冷たく固い鉄製の診察台に寝転がると白衣着た男が早速実験に取り掛かった。
今までと同じように施されるのかと構えて待っていたが、その時は違った。横目で視界に入ったのは何か白いケース。蓋を開けると白いスモッグが沸き立ち、銀製の坩堝ばさみでその中から謎の黒い液体が含まれた試験管を取り出すと注射器で吸い取る。
見た事のないそれを見て恐怖で冷や汗が滲み出、背筋が凍る。白衣着た男は何も言わない。だが、これから何されるかは容易に想像出来る。動こうとするにも診察台に固定された足枷と壁に鎖で繋がれた手枷によって封じられている。
精一杯小さな体躯で振りほどこうとするも、そんな抵抗虚しく注射器の針が首筋に刺された。
黒い液体が俺の中に容赦なく注ぎ込まれると全身に血と共に回っていくのが内側を通して伝わってくるのが分かる。
そして、脈動する。
生まれて出した事もない音量の呻き声を上げ、熱いとも痛いとも呼べない感覚が震えとなって全身を伝播し、押さえようとも鎖で繋がれた枷が補助を許してくれない。
身体中の穴という穴から噴き出す血は若干黒も混濁した色の液体となって、服はおろか診察台や天井と至る所に血が飛散する。
五臓六腑が飛び出る程、内側が暴れ回る原因である黒い液体が何なのか、考える余裕もなかった。
俺の身体の異変に下卑た高笑いを上げる声が耳に響き渡る。
朦朧とした意識で笑い声の発生源を見渡す。気付けば周囲にも同じ白衣を着た人間が複数、喜びを分かち合っている。
気持ち悪い。そんな顔で笑うな。吐き気する。そう、強く願っても止む事のない濁った笑い声。
視界が明滅し、姿形を歪ませると赤と黒が交互に駆け抜ける。
それは長期間監禁された見慣れた地下の無機質で無色の空間を塗り潰すと同時に走馬灯のような見慣れない景色が脳裏を走り抜ける。
―――ああ、そうか。俺は❝死ぬ❞のか………?
己の短い人生に嘆き、沈む掛ける意識で最後に見たのは、
さっきまで笑い声を上げてた連中が何かに怯えた表情に染まっていくのを傍目に、そこから記憶が飛んでいった。
*** *** *** ***
『―――。―――ッ』
場面が変わる。それも夢だって事が分かるくらいにはっきりと。先程まで居た地下牢からだいぶ変化したから。
『―い、―――! いき―――?』
『………?』
声を掛けられ、起き上がる夢の俺。全身血塗れで千切れた鎖が付いた手枷を嵌めたままでいる。記憶が曖昧で頭を横に振りながら呼び覚まそうとするも痛みによって徒労で終わる。
手が地に着いているのは感じた事のない手触り。鉄製の診察台や牢屋の地面とは違う、凸凹としている。肌に感じる生暖かい空気も違和感を覚える。
状況が理解出来ず胡乱げに周囲を見渡すとそこは岩、岩、岩の塊。眼下に行き渡る深緑の木々。遠くを眺めれば見た事ある天にまで届きそうな程高く聳え立つ大きな巨城。
空を見上げれば鉛色とした曇り空。いつになく雨が降りそうな不穏な空から少女の声によって振り戻される。
『ねえ、大丈夫?こんな山道の途中で倒れてたから心配したのよ』
首を縦に振る俺。
『しかも全身血塗れじゃない?どこか酷い怪我でも………って、あれ、どこにもない?!』
ペタペタと身体中を触りまくる彼女は血で染まっている服が返り血のものだと気付き、驚きで目を見開いていた。
「いや。それはそうと」っと前置きし、
『どこから来たの?ここら辺の住民なのかしら―――いや、それにしては変ね。ここは国境付近の山岳地帯。どこにも集落は見当たらないし、そもそも原生生物が多いから人が住める程治安が良い場所じゃない。それなのに………私と同じ年齢の子が武器も持たずにたった一人で居るなんて………何かあったのかしら?』
『………』
身体を漆黒の双眸で下から上まで見る。俺の恰好に何かを察したような素振りを見せる彼女を傍らにゆっくりと立ち上がると歩を進め始める。
『え?ちょ、待って!どこ行くの?!』
彼女の制止の叫びも耳に届いていない。自分の身に突然何が起きたのかが分からずずっと頭の中が混乱していたから。
何故ここが地下牢じゃなく、遠く離れた場所なのか。全身を襲った身体の異変から、あの厳重な守りの中から、どうして生き延びる事が出来たのか。
そんな疑問の嵐に小さかった俺には荷が重かった。
だが、恐らく。この瞬間。俺は決めていたのかもしれない。
これから先、どう生きていくのかを。
全ての始まりと彼女との邂逅。
そんな夢とは思えない体験を味わった俺は次第に魂が抜ける感覚が訪れると遠のく意識に委ね、この世界から抜け出すのであった。